東堂庵で過ごす1日目の夕方。
今日も今日とて巻島へ電話を掛ける東堂の姿があった。
『…もしもし』
「やあ巻ちゃん!最近電話に出るのが早いな、良い事だ!嬉しいぞ!」
『用が無ぇなら掛けてくんな』
「つれないぞ巻ちゃーん」
そこに扉をノックする音が聞こえ、双葉が扉の隙間から顔を覗かせる。
「尽ちゃん、夕飯の支度が…、電話中か」
「構わんよ姉上。すぐに向かおう」
その言葉に巻島は、そうか、双葉さん今居るのか、と呟いた。
「む、姉上に用があったのか?」
『いや、用っつーか…』
歯切れの悪い巻島の言葉に東堂は疑問符を浮かべる。
ややあって、巻島が口を開いた。
『オレ、イギリスに行くっショ』
暫し間があり、は?と東堂が声を上げた。
「巻ちゃん?何を言っておるのだ?」
『いきなりで悪ィな、もう決まったことなんだよ』
「え、イギリスって…離島?」
『現実逃避してんじゃねぇショ』
電話の向こうで、ハァー、と深い溜息を吐いたのが聞こえる。
「渡米するということか!?」
『最初からそう言ってるショ』
「何故だ!何故なのだ巻ちゃん!オレは認めんぞ!」
『何でお前の許可が要るんだよ』
「ならん、ならんよ…何故だ巻ちゃん…っ」
『あ、悪ィ、キャッチ入った。また掛ける』
言い逃げをした巻島は東堂の声も聞かずに通話を切ってしまった。
「尽ちゃん、夕飯が冷めてしまうぞ」
一部始終を見ていた双葉は再び声を掛けた。
「……ああ、すぐに向かおう」
ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く東堂。
偶に、ゴツン、と柱に頭をぶつけながら離れの座敷へ向かった。
双葉はその背を見て、これは重症だな、と呟くのであった。
東堂はバランスの良い和食も喉を通らなかった。
「尽八、きちんと食べなさい」
女将である母親がぴしゃりと言いつけ、東堂は短く返事をし、もそもそと魚を口に運んだ。
その様子を正面から見ていた双葉は、どうするべきか、と長考する。
「ご馳走様でした」
双葉は何かを思い立ったのか、食器を片付けて自室に戻る。
東堂が夕飯を食べ終わったのはそれから20分後のことだった。
食器を片付けた東堂は双葉の部屋へ向かうことにした。
巻島へ電話を掛けたが、話し中で繋がらない。
気分を晴らそうと双葉に話し相手になってもらいたかったからである。
部屋のドアノブに手を掛け、そこで気付く。
「姉上も電話中か…」
仕方がない、出直そう。
そう考えて踵を返した東堂。
しかし双葉の口から耳を疑いたくなる単語が聞こえ、足は止まった。
「それも本人に言うべきだと思うぞ、巻ちゃん」
「ままま巻ちゃん!?」
勢いよく開け放った扉は、跳ね返って閉まりそうになる。
ズカズカと双葉に近付いて、
「何故、姉上と巻ちゃんが話しているのだ?キャッチが入ったというのは嘘だったのか?なぁ巻ちゃん、答えろよ!」
「…巻ちゃん、尽ちゃんに替わるぞ」
双葉は東堂の掌に携帯を握らせた。
そして東堂をクッションの上に座らせる。
「…巻ちゃん」
『あー、さっきの嘘はついてねぇショ。キャッチは兄貴からだったし』
「渡米するということが、どういう意味か分かっているのか?」
『ああ、勿論だ』
「実業団に入ってプロを目指すのか?」
『夢だったからな』
「もうオレと競い合うことが出来ないのだぞ」
『分かってるショ』
「姉上と何を話していたのだ」
『それは言えねぇ』
「何故だ…ずびっ、巻ちゃん…」
『泣くなよ尽八』
クハッ、情けねぇな、と巻島は笑った。
「盆暮れ正月には帰って来るのだろう?」
『そのつもりショ』
「日本との時差はいくつだ?」
『9時間くらいじゃねぇか?』
「そうか」
ふ、と東堂が笑った。
「今迄、競い合ってくれてありがとう」
『いや、オレの方こそ…ありがとショ、尽八』
双葉は東堂をじっと見つめる。
ああ、こんな顔も出来るのか。
この表情は巻島にしか見せないのだろう。
きっと双葉でさえ見ることの出来ない力強さ。
その瞳は煌びやかに輝いていた。
尽ちゃんも強くなったのだな。
双葉は東堂の成長振りに甚く感心し、それが誇らしく思えたのだった。
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