邂逅

彼女は幼い頃の記憶が一部、欠落している。

そこに何があったのか、記憶がない理由とは何なのか。彼女にしてみれば、『どうでもいい』の一言に尽きる。
それは何故なのか。
単純明快。

彼女は”満足してしまった”のである。

どっぷりと浸るような趣味もなければ、誰かを好いているわけでもない。
淡々と過ぎる日常に飽き、今この瞬間に死んだとしても未練はないとはっきり言えるほど、今の人生に満足してしまっていたのだ。

満足したからと言えど、自死を考えていることはさらさら無く。
生きながらにして何か刺激が訪れるなら幸運であると考え、彼女は毎日退屈で虚しい人生を送っている。
そんな彼女にとって、過去の記憶が欠落しているなどもはや『どうでもいい』のである。




―――遡ること、10分ほど前。

”黒い影”を視界に捉えた彼女は、黙ったままそれを見続けていた。

彼女には霊感がある。
そこに居ると感じる程度の能力なので姿が見えることはないが、今回のようなケースでも役に立つ部分はあり、彼女は黒い影を見て『問題ない』と判断した。

そこに甲高い耳鳴りが右耳を支配した。
響く、響く、耳触りな音。

それが止み、彼女は安堵の息を吐いて、

「何、見てるの?」

耳元で聴こえたその声に一瞬、息が止まる。
勢いよく飛び退き、転がっていたアスファルトの欠片を靴が踏んでジャリッと小さな音を鳴らした。

そこに居たのは、高校生にも見える程の小柄な男の子だった。
白色のパーカーのフードを被ったまま、不思議そうに彼女を見ている。
ちらちらと見える色素の薄い髪は滑らかさがあり、街灯に照らされて動く度にきらりと光った。

「そんなに警戒しなくても…ってのは無理だろうね。こんな時間に外を出歩くなんて、社畜か変人か変態って相場は決まってるんだから。おねーさんは、変人さんかな?」

彼女は何も答えない。
じっと睨み続けるばかりである。

「もう一度訊くよ。何を見てたの?」

静かな田舎道に名も知らぬ鳥の声と、虫の音が響き混ざり合う。

彼女はゆっくりと振り返る。
そこにはまだ黒い影が存在していた。

「猫の死体?そんなの見てて楽しい?」
「別に。ただ、」

黙り込んでいた彼女は、自ら言葉を発する。

「死んでるな、って思って」

冷静で淡々とした言葉に、それを聞いていたパーカーの男はにんまりと口角を上げた。

「ああ、やっぱり。おねーさん、僕たちと同じ匂いがする」

その言葉を聞いて、彼女は眉根を寄せて酷く嫌そうな表情を浮かべた。

「ねえ、おねーさん。この世界に飽きてない?いや、断言しよう。もう飽きてるよね。だって、心底つまらないって顔してるよ」
「……あなたには関係ない」
「そうでもないよ。端的に言うなら…刺激に飢えてるなら提供してあげようってこと」

彼女がその言葉にぴくりと反応する。

それを少年は見逃さなかった。
餌に食らいついた魚を見るかのように、勝ちを確信したような瞳で告げる。



雲は流れ、赤紫の空を覆っていく。

暗くなり始めた空は何処か不気味であり、神秘的で、何とも言えぬ感覚に陥りそうになる。

雲の隙間から見える三日月は、まるで少年の心を映し出しているかのようで。



「おねーさん、名前は?僕はカゲロウ」
「…鮫島、詩子」
「うたこ…詩子おねーさん。どうぞ末永くよろしく」

カゲロウと名乗った少年は口角を上げて、楽しそうに笑った。


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