未知なる世界へ

瞼を開くと、煙を纏った白い世界が広がっていた。



吹きつける強風に詩子は右腕で風避けをつくり、聴覚を頼りに現状把握を行う。
幸いにも平行な地に立っているようで、頭から落下するような事態はまぬがれたらしい。

「カゲロウ」

彼を、呼ぶ。
しかし反応はない。

意を決して足を一歩踏み出せば、再び右耳に襲い来る高音。
金属同士を打ちつけたような遠くまで響き渡る音だった。
その音を聞いて、詩子は確信する。

これはただの耳鳴りではない、と。

理由は詩子自身も解らない。
根拠の無い確信を持ったまま、勢いが弱くなった風を感じてゆっくりと右腕を下ろした。

「カゲロウ」

再び彼を呼ぶ。
今度は力強く、凛とした声で。

すると目の前に何者かが白い煙と共に、しゅるりと姿を現した。
詩子は目の前のそれを見て、目を細めて呆れ混じりに溜息を吐いた。

「あなた、姿は全く違うけれど…カゲロウね」

何者かは「おや」と小さく声を上げて驚いた。

「バレてしまいましたか」

くすくすと楽しそうに笑う、随分と大人びた姿のカゲロウ。

白いパーカーは着用しておらず、重さのある和服を重ね着している。
流した艶のある髪は、白い煙が立ち込めているこの場でさえきらきらと輝いていた。
すらりと伸びた長身は姿勢も良く、垣間見える美しさと儚さは見る者を虜にして離さない。

詩子も一瞬、目を奪われたうちの一人だった。

小さく息を吸って詩子はカゲロウに問う。

「此処はどこ?」
「『カクリヨ』の入り口です。詩子の国の言葉で書くと…こういう文字でしょうか」

そう言ってカゲロウは指を動かして宙に文字を書いた。
ご丁寧にも詩子から見やすいよう、左右反対に。

「隔離世…『外界から隔離された世界』という認識でいいのかしら」

宙に浮かぶ筆文字を、互いに見つめる。

「ええ。呼び名はいくつもあるのでどれが正式名称かは言えませんが、共通認識としてはそれで合っています。他にも『天國』と書いて『てんごく』と読む者もいれば、『転国』と書いて『ごくらく』と読む者も居ます。簡単に言えば、異世界ですね」
「そう」

詩子は小さく頷いて、カゲロウの言葉を飲み込んだ。

「やけに理解と飲み込みが早すぎませんか?もっと驚いてくださって構わないのですが」
「あら。驚いてほしかったの?ごめんなさいね。気が利かなくて」
「…詩子はやはり変人ですね」
「安心して。あなたも相当だから」

表面上の笑い合いをして、詩子はかすかに漂う匂いに気付きカゲロウに声を掛ける。

「お香の匂いがするわ」
「今日は丁度、お祭り初日ですからね」
「お祭り?」
「ええ。詩子は運が良いですね。さあ、行きましょう」

何やら上機嫌で歩き出したカゲロウの横顔を見て、詩子は無言でその後をついて歩き始めた。






「お祭りって、どういう宗教のもの?」

詩子が歩きながら、カゲロウの背に問い掛けた。

「宗教どころか種族も何も関係の無い、全員が主役のお祭りですよ」
「知っているかしら。相手が理解できるように言葉を噛み砕いて伝え、相手の理解を得て初めて『説明した』と言えるのよ」
「手厳しいですね」

少々考え込んだカゲロウは、閃いた!とばかりにくるりと振り向き笑みを浮かべ、

「辿り着けば嫌でもわかります」

と説明を放棄し、前に向き直り歩みを進める。
詩子はカゲロウを『不審者』から『面倒くさがりで残念な不審者』へ認識を改めることにした。






白い煙だらけの世界を暫く歩き、途中でカゲロウにそっと手を取られた詩子は、何用かと尋ねる為に視線を上げる。
しかし、思い直して言うのを止めた。
カゲロウが己の口元に人差し指をあてて、『お静かに』の合図を送って来たからである。

「足元にお気をつけて」

轟々と鳴る風の音に紛れて、耳元で囁かれたような優しくか細い声が耳に届く。
その声を聞いて静かに一度頷いた詩子は、前を真っ直ぐ見つめて前進する。

祭囃子のような軽い音、腹に響く太鼓の音や楽しそうな笑い声。

詩子の耳が、意識が、それらを捉えたと同時。
まだ何も見えていないはずの光景が脳内で鮮やかに描かれた。

「待って」

詩子は咄嗟にカゲロウの手を強く握った。
カゲロウはその場で立ち止まり、小首を傾げる。

「今更、怖じ気づきましたか?」
「バカ言わないで。もっと脚の長さを考慮して歩きなさい」
「ふふ。これは失礼」

歩幅を合わせ歩くカゲロウを詩子は横目で見る。
そしてすぐに視線を戻し、しっかりと前を見据えた。

拓ける視界、色付く世界。

「ようこそ、私たちの世界へ」

詩子はその言葉を聞いて、ようやく思考が鮮明になった気がした。


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