見上げれば、頭上に広がる枝葉の間から見える鉛色の空。
「…あー、とうとう降ってきたか。…肘笠雨といったところかね…」
その名の通り肘を笠にすればしのげるにわか雨の別称を呟いた白髪の男、ギンコは足を止めると、手を引かれるまま自分の後ろをついてくる灰色髪の娘に振り向き小さく笑んだ。
娘は雨に気づいたのか、たまたまか、枝葉をすり抜け降り注ぐ雨の出所を見上げていた。
「帝江、雨宿りするぞ」
そしてギンコは帝江と呼んだ娘の躰を片手に抱き上げ、再び足元に目を向けて、地を這う根っこに気をつけながら歩き出し、ギンコは適当に雨をしのげる場所を探した。
足早に進んだが、案外すぐに探し物は見つかった。
森の奥、木の根に抱えられた大地を屋根にぽっかりと口を開けた岩陰の窪み。
「お…」
ギンコは足を方向転換させた。
「もうちょい待てよ?」
その窪みに駆ける。
やはり帝江は反応しない。
拒絶されることは無いが、特別懐かれたとも思えない。手を引かなければついて来ないのがその証拠。
ギンコは嫌な方向へと思考が行きかけたことを掻き消すように足を速め、岩の窪みに入り帝江を座らせると、荷物を下ろし、やっと自分も地べたに腰を下ろして新しい蟲煙草に火をつけた。
「…このまま五月雨に突入するのかね…」
時期的にはそろそろ梅雨が来てもおかしくない季節。
梅雨、五月雨、
しかしいくら自然の摂理の付き合いに慣れたとしても、旅をするこちらとしては長雨はやっぱり辛い。
訪れる霖雨の時期、空を見上げていたギンコはあることに気付いて荷物の整理を始めた。
弱い雨だからにわか雨かと思ったが、ギンコの予感はやはり的中。
俄雨から黒雨となった空模様にギンコはこれからどうするかと頭を掻く。
(…しかし雨宿りを選んだのは正解だったな…)
それから視線を横にやり、隣で大人しく座り、雨空をただただ見上げている頭に手を伸ばし、そっと撫でた。帝江はゆっくりとギンコに顔を向ける。少しばかり濡れたその髪と躰。労わるように撫でおろす。髪を伝い、頬に触れた。そのまま親指で目元を撫でる。
その喉をツゥ、と雫が流れ、服に染み込まれていった。白い肌の上を透明の雫が流れる様を見て、ギンコはゴクリと咽喉を鳴らした。
「……!!」
ハッと我に返ったギンコは伸ばしていた手を引っ込めて、やがて唸り始めた。
(今のはなんだ…!?ゴクリって…おいおい!)
胡坐をかいた膝に肘を乗せ、片手で顔を覆い背を丸めた。ちらっと指の隙間から帝江を見上げると、また空を見上げていた。
気を落ち着かせながらギンコは姿勢を戻して荷物の中から手拭いを出して帝江の濡れた頬に押し当てた。そして、問いかける。
「……夜空が見たいのか?それとも、雨空が好きなのか?」
しかし、返答がある訳も無い。
「…止まないかね、この分じゃ」
しばらくぼんやりと、自分より高い場所で蔓延る根から滴る雨を見ていたが、夜になるまで寝るかとギンコは地面の上に横になり小さく欠伸をして雨の音を聞きながら眠りについた。
──……──…
音が聞こえる。雨音の中、唸り声のような…
「…!!」
寝ぼけた頭で、森の中で聞く唸り声の危険性を理解した時、跳び起きた。
躰を起こした処で動きを止める。緑の目を見開いて。
帝江の前に居たのは、大きな黒い塊。一瞬、最悪の結果が脳裏を過ぎった。
ギンコは雨の音が心地よい子守唄となったのか、久し振りに熟睡してしまったらしい。
空はすっかり晴れて、淡い光を放ちながら漂う蟲達と満天に光る星が木々の間から窺えた。
そして偶然か、この場所を通りかかった一頭の熊が二人の前で足を止めたのだ。生憎ギンコは眠っている。それを弱っていると思ったのか、チャンスと捉えた熊は目をギラつかせて近寄ってきた。
しかし熊の目に、帝江の姿が映る。
すると熊は帝江の方へ足を向けた。
熊は帝江に近付いた。そしてギンコが目を覚まし、その場面を目の当たりにしたのだからギンコの焦燥もわかるだろう。
跳び起きたギンコに気づいた熊が振り返る。鋭い瞳に睨まれギンコの額に汗が浮かぶ。
しかし…
| 「───♪〜」 | |
| 「───♪〜」 | |
森に響き始めた歌声に、ギンコも熊も、目を大きく開いていた。
高く、透明で、綺麗な、子守唄。
──ズズ…
「!」
(熊が…っ帝江に向かって頭を下げた…!?)
再び帝江の方を振り返った熊がそのまま頭を垂れたのだ。
そして歌が終われば、熊は静かに去って行った。
(な、なんだったんだ…)
いったいどうなっているのやら。
「帝江っ」
とにかく帝江の無事を確認するためにギンコは帝江の躰に慌てて手を伸ばした。
「怪我はないか!?」
帝江の肩を掴みながら熊は大丈夫だろうかと熊の行った方を見るが、熊はこちらを振り返ることなく森の中を進んで行き、時期に見えなくなった。
「おまえ…今のは…」
「…………」
問いかけてみるが、首を傾げるばかりで答えない。やはり、言葉が通じていないのか。なら、熊の行動の理由も、聞いた所で答えてはくれないか。
「……帝江、」
ただ、帝江がいなければギンコは食われていたかもしれない。
「…ありがとな」
問うことのできないギンコはその片目を優しく細めてそう言った。
それに、声を出せるとわかっただけでもう充分…
帝江の口が僅かに開いた…
──グゴゴゴゴ…
その時ギンコから響いた音に帝江はピクリと反応し、口を閉ざす。
「…あー、そんな驚くない。…腹の虫だよ」
だが説明が悪かったのだろう、帝江は視線を下げた。ふとその視線の先を見れば、草葉の陰に潜む小さな蟲たちがいた。
「?…あぁ、違う違う、そっちの【蟲】じゃないか…ら…」
腹の中にあの蟲たちが入っているとでも思ったのだろうか。帝江の勘違いに思わず笑う。しかし、ちょっと待てよと止まる。
「蟲…」
「?」
「蟲は、わかるのか?いや、覚えた…?」
ギンコは嬉しくなった。初めて、らしく反応を示した。そのうえあの歌で帝江が声を出せることがわかった。言葉を教えて行けば、いつか必ず話ができるようになる。
「帝江…!」
──グゴゴゴゴ…
「あ…」
しかし腹はへった。なんか食べるものでもないかとギンコは立ち上がり、伸びをしながら辺りを見回した。
「山菜はもう固いからな、野草でもあれば…」
見つけたのはハコベにシオデ、ミツバ、運よく実っていたスグリの実にシメジ。
「意外と集まったな」
今日の夕食は野草とシメジの粥になった。
「帝江、帝江」
名を呼びながらその手を引き、帝江の意識をこちらに向けさせる。
「これはハコベだ。ハコベ」
ギンコは粥を作る過程で入れる具の名前を告げていった。
「シオデ、ミツバ…シメジ…」
辺りにいい香りが漂い、野草の粥を啜るギンコの隣で帝江が空を眺めている。
帝江は食事を必要としない。旅をしている身としては有り難いが…不安は拭えない。このまま食べさせずに居ていいのかと。
もちろんギンコが何もしなかったわけではない。彼が試みた結果、帝江が口にする物は何も無かったということだ。
「…美味いぞ。食わないか?」
木の匙に粥を掬ってフゥッと冷ましてやる様子を見ていた帝江だが、初めに蟲下しの薬を与えたことを覚えているのだろうか、自分の口元に寄せられた匙に唇を噤み嫌がるそぶりに、…諦めた。
「…あ、そ…」
ギンコはげんなりしながら仕方なくそれを自分の口に入れた。
元々一人分しか作ってないが。
帝江から目を離さないようにしながらギンコは残りの粥をかきこんだ。