紅を与える



※もしものお話
※ヴィルとアイスちゃんが恋仲です
※原作5章読破後推奨



「……ねぇ、ソレどうしたの?」



 目の前の美丈夫にそう問われ、アイスはチョコレートに伸ばした手をピタリと止めた。
 交際を始めて半年は経とうとしている2人であったが、こうしてゆっくりと出掛けるのは数カ月振りの事だった。片やツイステッドワンダーランド内で知らない者は居ないであろう圧倒的美貌を持つ世界的スーパーモデル、片や才色兼備を具現化したと言われる「美しすぎる社長」として名高い若き敏腕企業家。普通の学生カップルであれば、休日は並んでウィンドウショッピングを楽しみ、SNSで話題のカフェで談笑し、時には水族館や遊園地で1日を過ごす……なんて事も出来るのだろうが、残念ながらこの2人にとっては年度末の試験で満点を取るよりも難しい所業である。ヴィルはモデル・俳優という仕事柄、ゴシップ系のスキャンダルが自身のネームバリューにどれだけの損害を与えるかよく理解していたし、公に顔を晒して大手トイメーカーを経営するアイスもまた、協力会社との信頼関係に傷を付ける可能性のある所業は何としてでも避けなければならない。結局出来る事と言えば、個人情報の守られるVIPサロンやVIP個室のあるショップ、カフェで時間を共有する事くらいであった。



「……ソレ=H」



 長いまつ毛に覆われた臙脂色えんじいろを数回瞬きして、アイスはようやく真っ白なお皿に並べられた1粒を摘まみ上げた。一口ひとくちで食べるには若干大きいが人差し指でぐいっと押し込みもぐもぐと咀嚼すると、はしたないと言わんばかりにヴィルは顔を顰めた。ビターチョコレートの中にはラズベリーペーストが入っていて、バニラ香る紅茶との相性はピッタリだ。しかし、それにしてもこの1粒でツナ缶9個分とは少し高すぎでは無いだろうか。途端に脳内で灰色の獣が騒ぎ始める。アイスは少しだけ口元を緩め、オンボロ寮で待っている可愛い後輩達に何粒かお土産として持ち帰ってやろうと心に決めた。



「人が質問しているのに別の事考えてるんじゃないわよ」

「んっ……嗚呼、すみません」



 ヴィルは呆れ顔でアイスの口元に残ったチョコレートを親指で拭った。入学当初と比べると幾分もマシな淑女に仕上がったが、今でも気を抜くと素が出てしまうのはどうしたものだろうか。気を許しているから、と捉えれば悪い気はしないがプロデュースしている身のヴィルとしてはとても複雑な気持ちになる。



「それで、ヴィル先輩の言うソレ≠チて何です?」

「アンタの今日付けてるリップよ。そんな色、持ってなかったじゃない」



 アイスの唇を飾るのは存在感のある華やかな赤。普段はピンクベージュ系の落ち着いた色を好む彼女にしては、確かに少々派手な色味である。とは言え、決して似合っていないわけでは無い。パキッとした赤は透明感のある白い肌に映えているし、小さなラメの効果で形の良い唇はいつも以上に愛らしく見えた。



「……本当、ヴィル先輩良く気が付きますね」

「アンタの持ち物がワンパターンなお陰でね。無理に色々と試せとは言わないけど、もう少し視野を広げて新作や他のブランドを見るようにしなさい」

「そうは言っても、慣れないブランドや色味ってどう使って良いのか分からないんですよ。今日勧められたアイシャドウやチークも、僕1人で買い物に行ったら絶対に選ばない物でしたし」



 うんざりしたように目を座らせ、アイスはソファに並んでいる様々なコスメブランドのショップバッグに目を向けた。アイスとて女子として生を持った故にキラキラと光るハイブランドのコスメ用品にときめかないわけは無いが、日常的に使う消耗品であればドラッグストアで売っているようなプチプライスの物でも十分に思えてしまう。第一、様々な色のコスメ用品を購入したところで使いこなせる自信も無い。普段使わない色のアイシャドウを購入すれば、それに合わせて他の道具も買い揃える必要があるし、何よりメイク方法を変えるのが面倒臭い。そんなアイスの姿に、ヴィルは盛大に溜息を吐いた。しかし、だからこそ疑問を持ったのだ。コスメに疎い彼女が、どうしてつい先月発売したばかりのリップを持っていたのか。アメジストの双眼がギラリと光り、アイスは手早く2つ目のチョコレートを頬張ってショルダーバッグから綺麗な装飾が施されたリップを取り出した。



「コレですよ。何でしたっけ……確か、有名なブランドの新色だとか言ってました。ヴィル先輩ならご存知ですよね?ネージュ・リュバンシェがイメージモデルで起用されている……」

「……ネージュ?」



 耳障りの悪い名前にヴィルはたちまち美しい顔を歪めた。アイスのクチから飛び出したその名は、ヴィルの同業者にして様々なドラマ、映画で主演の座を欲しいままにしている人気俳優のものである。アイスにとってのジャイロがそうであるように、ヴィルにとってのネージュは完璧主義の彼にとって唯一嫉視する相手でもあった。



「この前の休日に、このリップのブランドが新作販売の記念イベントをしたらしいんですよ」

「……今回の新作のパッケージにはこの前個展を開いた有名デザイナーを起用したって、発売前からSNS上でかなり話題になっていたもの。新作画集の予約も開始した実力派のデザイナーみたいだし、宣伝にも相当チカラを入れたんでしょうね」

「みたいですね。相乗効果で、前にそのデザイナーの画集を出していた出版社の株が暴騰しているくらいですから。前の画集で一度上放れした会社だったからあえて買い足さなかったのに、このタイミングで新しい画集の予約を開始するなんて……」



 そう言ってアイスはがっくりと肩を落とした。本人は甚く否定するが、こういう金銭に妥協しない点は本当にオクタヴィネル寮の寮長と瓜二つである。



「話が逸れてる。そんな事より、ネージュがイメージモデルしている事とアンタがリップ持っている事とどういう関係があるのよ」

「……僕にとってはリップを持っている事より大事な事なんですけどね。頂いたんですよ、ルーク先輩に」

「は?ルーク?……嗚呼、そういう事…」



 ヴィルは額に手を当てて「やれやれ」と首を振った。今や学園内で幅広く知られている事だが、ポムフィオーレ寮の副寮長であルーク・ハントはネージュ・リュバンシェの熱心なファンである。この事はVDCの時に明らかとなったのだが、その際に彼が自ら名乗ったネージュのファンクラブ会員のナンバーにより、かなりの古参者である事も周知されたのだった。
 マジカメ等の告知でネージュのイベント参加を知ったルークは、彼に会う為、イベントに参加する為に使いもしないリップを購入したのだろう。いや、もしかしたら最初からアイスにプレゼントする事を想定していたのかもしれない。本来であれば彼が敬愛するヴィルにプレゼントをする事が自然だが、購入するリップはヴィルが毛嫌いするネージュが広告塔をしているブランドの物だ。勿論ヴィルもネージュがそのブランドのイメージモデルに起用された事は知っていたし、例え使い勝手の良さそうな色であったとしても、プレゼントされたところで間違いなく突き返していただろう。



『やぁ、麗しの勝負の女神デエエス・ドゥ・ジュー!ご機嫌いかがかな?今日は君に贈りたい物があってね。なに、変なものでは無いよ?私には使い道の無い物だし、君が貰ってくれるととても助かるんだ。是非とも今度ヴィルと出掛ける時にでも使ってくれ』



 そう言って半ば無理矢理に小さなショップバッグをアイスに押し付け、ルークは彼女が呼び止めるのも聞かずに颯爽と去って行ってしまった。何故、彼がアイスとヴィルがデートに行く事を知っていたのか、それは深く考えない事としよう。
 アイスから一連の出来事を聞き、ヴィルは改めて彼女の口元に睨みを利かせた。ルークの目は何よりも信頼しているが、悔しいが今回もそれを認めざるを得ない。ファッション誌で取り上げられていた記事によると、今回の新色の中で赤リップは朱色、ブラウン系、オレンジ系の3種類が発表されており、他にもピンク、コーラル、ボルドーと幅広い色が揃えられていた。しかし、それら全部の中で最も彼女に合う色はと問われるとヴィルもルークと同じ真っ赤なリップを挙げただろう。



「……やっぱり変ですか?付けた事無い色なのでどうも良く分からなくて」

「いいえ、良く似合っている。アンタね、いい加減に自分に似合う色くらいちゃんと覚えておきなさい。リップだけじゃなくてアイシャドウを選ぶ時の基本よ」

「そうですけど……学校と仕事以外でメイクする機会なんて殆ど無いし、さっきも言った通り普段使いしない色って手を出しづらいんですよ」



 アイスは幼子のように唇を尖らせた。そのせいでふっくらとした赤が際立ち、ヴィルは益々顔を強張らせる。そうして無言で席を立ったかと思うと、適当に放っていたショップバッグから小さな箱を拾い上げ、再びアイスの前に腰を降ろした。不思議そうに首を傾げるアイスを無視してその顎に手を添えると、テーブルに備え付けられたペーパーナプキンで乱暴にその唇を擦り始める。



「ん゛んっ!ちょ……い゛っ、ヴィ、ヴィル…先輩!?」

「……ウォータープルーフなだけあって落ちが悪いわね」

「痛い!唇、切れちゃいますって!!」

「失礼ね、そんなにチカラ入れてないわよ」



 先程まで熟れたリンゴのように艶々としていた唇から鮮やかさが失せたのを確認して、持ってきた箱の封を切った。



「ほら、ぼさっとしないで。クチ開きなさい」

「……やっぱり似合ってないんじゃないですか」



 むすっと不貞腐れながらも、アイスはヴィルに言われるがままに小さくクチを開けた。ヴィルが手にしたのは本日購入したばかりの彼が見立てたリップである。高級感のある黒のパッケージに、金色で装飾されたブランドロゴがキラリと光り、中からはワインレッドのルージュが顔を出した。



「アタシがお世辞で褒めるとでも?あの色がアンタに似合っていたのは本当よ。……悔しいけどね」



 アイスの形の良い唇が、再びアカ≠ノ染められていく。パキッと白い肌に映える赤なのは一緒だが、先程までの華やかな色味に比べて今ヴィルが唇に置いているのはもっと深い紅≠セ。中央から両端へ、紅は優しく指で塗り広げられ、淡く唇が縁取られたのを確認してヴィルは彼女の拘束を解いた。



「オレンジ系の赤も綺麗だけど、アンタが付けるとせっかくの白い肌がくすんで見えて台無し。少し主張が激しいくらいの紅が丁度良いの」

「へぇ……赤って浮いて見えるからあまり好きでは無いんですけどねぇ…」

「それはアンタの塗り方が悪い。リップの色味によって塗り方を変える勉強なさい」

「僕の専門分野外ですよ……」



 相も変わらず、アイスはやや不服そうだ。



「……それと、男が女に口紅を贈る意味もきちんと調べておく事」

「贈る意味?プレゼントにするのに理由があるんですか?」

「少なくとも今回は無いだろうけど、今後の為よ。いい?金輪際、他の男から口紅を貰うんじゃないわよ。分かった?」

「は、はい……」



 詰め寄られたアイスは訳も分からず、ヴィルの凄味に負けて首を縦に振った。流石に少々横暴すぎるとも思ったが、しっかりしているようでどこか詰めの甘いこの少女には必要な知識なのだから仕方が無い。アメジストの視線に耐えられなくなったアイスは、控えめにキョロキョロと辺りを見回し、お目当ての物にそっと手を伸ばす。



「……ちょっと、ペーパーナプキンなんてどうするつもり?まさか落とすとか言うんじゃないわよね?」

「ち、違いますよ。リップは少し置いて馴染んだらティッシュオフして塗り重ねろって教えてくれたのは先輩だったじゃないですか」

「あら、ちゃんと実践しているのね。アイスにしては良く覚えてたじゃない」

「……僕の事、馬鹿にしすぎ―――……」



 随分と近い、そう気づいた時には遅かった。流石は人気俳優と言うべきか、美しい顔が降って来たかと思えば自然とアイスの言葉は遮られ、瞬く間も無く唇が熱を帯びる。綺麗な紫色のアイシャドウと、女でも羨む程の長いまつ毛に目を奪われていると、軽いリップ音を鳴らして熱は離れていく。突然の出来事にアイスが呆気に取られていると、ヴィルは「プッ」と笑いを吹き出して少しよれてしまった彼女の紅を拭った。



「相変わらずヘタクソね。ちゃんと目は瞑りなさい」

「ヘタクソも何も、突然すぎるんです。いつもいつも」

「突然?人聞きの悪い事言わないで頂戴。アタシはちゃんと宣言していたでしょ」



 何のことやら、とアイスは小首を捻るが、後日きちんと「男が女に口紅を贈る」意味を調べたら分かる事なので野暮な事は言うまい。



「嗚呼……ティッシュオフ前にキスなんかするから、ヴィル先輩にも色移りしちゃったじゃないですか」



 ヴィルの薄い唇から紅がはみ出ている事に気付き、アイスは自分の為に使おうと思っていたペーパーナプキンを彼の口元に近付けた。



「色移り?馬鹿を言わないで」



 ペーパーナプキンがヴィルの肌に触れる前に、彼はナプキンの持ち主の手首を掴んだ。再びゆっくりと顔を近付けると、たちまちアイスは頬を赤らめて身体を仰け反る。しかし、それを許さずに掴んだ手首を引き寄せて、そっと小さな耳にクチを寄せた。



「アイスの色がアタシに移ったんじゃないわ。アタシの色をアンタに移したのよ」


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