お酒の味を覚えたのは娼館にいた頃だ。客に唆されて口にしたのが最初で、たくさん飲まされて、次の日、割れるような頭痛と吐き気に苛まれたのを覚えている。
お酒は好きだ。飲んでいる間は余計なことを考えないでいられる。運が悪いと胃の中身をぶちまける羽目になるけれど、酔えるのなら銘柄も品質も大した問題じゃない。飲酒は私に残された数少ない現実逃避の手段だ。そのためなら、今この手の中にある分不相応な贅沢品を、喉に流し込むのだって躊躇わない。
静まり返った夜更けのリビング。私はソファに深く体を沈めてグラスを傾けた。ゆらゆらと揺れる琥珀色に自分の浮かない顔が映り込む。
最後にお酒を飲んだのは旦那様が亡くなる何ヶ月も前だった。旦那様は最期の時まで私をそばに置いてくれた。なのに私は、枯れ木のように痩せ衰えていくあの人を、ただ見守ることしかできなかった。もっと何かして差し上げられたのではないか。旦那様が亡くなってからというもの、そんな寄る辺ない後悔ばかりが募る。
ふと、小さな笑い声がして我に返った。顔を上げて見れば、いつの間にやら傍らに立っていたアベンチュリンがひどく穏やかに微笑んでいる。
「……奴隷がお酒を飲むのはそんなに珍しい? ずいぶん熱心に見ているようだけれど、よほど暇を持て余しているのかしら。ご主人様?」
「美しい女性は何をするにしても絵になるものだからね。つい見惚れてしまったんだ。気に障ったなら謝るよ」
白々しいお世辞にお酒の味が不味くなる気がした。こうも口が回るのは彼がエヴィキン人だからだろうか。口に蜜を持つ蜂は尾に針を持つ。この男はまるで、エヴィキン人への偏見や羨望を煮詰めて形にした見本品のようだ。
アベンチュリンは私から一定の距離を保ち、ソファの端に浅く腰を下ろした。
「それと、その呼び方はよしてくれ。僕らはもう、奴隷と主人なんて関係じゃない。君は自由だ。名実ともにね」
「奴隷じゃないなら何だっていうの?」
「何だって構わない。強いて言うなら……そう、僕の同居人、といったところかな」
「面白い冗談だわ」
私は鼻で笑う。彼は執拗なまでに、私を所有する意志はないと、私は奴隷の身分から解放されたのだと、何度も言い聞かせてくる。
ああ、なんと気高い博愛の精神か。慈悲深い救済者は一族を根絶やしにした野蛮人の末裔にすら救いの手を差し伸べるらしい。そんな施し、誰も頼んでもいないというのに。
「顔が赤いよ。少し飲み過ぎなんじゃないかい?」
酔いが回って狭まる視界の中、アベンチュリンが私を覗き込む。心配しているとでも言いたげなその眼差しが、声が、存在そのものが私をこの上なく惨めにさせる。
アベンチュリン。私はこの男が嫌いだ。血統、立場、性別、才覚。その全てにおいて私は彼に劣っている。同じツガンニヤの奴隷でありながら、カンパニーの重役へと上り詰めた輝かしい純血の成功者。対して私は何だ。今日まで生きてきて私は一体何を成した?
残りのお酒を煽ろうとした瞬間、身を乗り出したアベンチュリンにグラスを取り上げられた。
「ちょっと、返して」
「ダメだよ。今日はこれでおしまい」
手を伸ばすも、高く掲げられたグラスには指先さえ届かない。体格差がそのまま抗いようのない力関係の差として突き付けられる。それが堪らなく腹立たしかった。
「気晴らしになればと思っていたけど、このまま放っておいたら君は朝まで飲み続けるだろう? 深酒は体に毒だ」
「私の勝手でしょ! いいから返しなさいよ!」
「同居人としてのささやかな気遣いだよ。素直に受け取ってくれ」
吐き出した溜め息とともに、空を切った片手が力なくソファへ落ちる。もともとお酒には強くない。アベンチュリンの用意したこのお酒は度数が高く、もはや座っているのも億劫だった。
「あっそう、もういいわ。勝手にしたら?」
付き合っていられない。この男の見え透いた偽善には心底うんざりさせられる。
「はぁ、お兄様は好きにさせてくれたのに」
「……はは。またそんなことを」
口をついて出た言葉に、アベンチュリンはあからさまな不快感を滲ませる。彼は私が旦那様やお兄様の話題を出すことを極端に嫌う。以前は平静を取り繕っていたのに、最近はそれを隠そうともしなくなった。
「いいかい、エスメラルダ。思い出に浸るのは君の自由だ。それを咎める権利は誰にもない。……だけど、僕の前で、あの連中の名前を出すのはやめてくれないか」
「どうして? 何が気に入らないのかしら」
「単純な話さ。不愉快なんだ、心底ね」
「気まぐれに買った雌犬でも、他の飼い主に尻尾を振るのは許せないってわけ? 支配欲だけは一人前ね」
わざと棘のある言葉を選んで挑発する。その端正な顔が僅かに引き攣ったのを、私は見逃さない。
「あの人達と貴方の何が違うっていうの」
実際、客観的に見れば大差ない筈だ。主人と奴隷。買い手と売り物。男と女。そこまで考えて、私は決定的な違いを見落としているのに気付く。
「……ああ。そういえば、貴方は私を抱かないんだったわね」
そう、この男は私を抱かない。商品として求められ、所有物として愛されてきた私に指一本触れようとしないのだ。私の価値はこの忌まわしい血と、女の体の他に何もないというのに。アベンチュリンはそのどちらも否定し、私を無価値な存在へと貶める。
「カティカ人の血を引くアバズレなんて、触れるのも汚らわしい? あはは! 当然だわ、貴方のお仲間を皆殺しにした血だもの!」
「エスメラルダ」
「だから私から何もかも奪って、惨めな役立たずにして……なのに死ぬことさえ許さないだなんて、一体何が望みなのよ!?」
ソファから立ち上がり、腹の底から呪詛を吐き出すように声を張り上げた。
「どうして私を買ったの!? 憎いんでしょう? 復讐したいんでしょう!? じゃあ、ほら! さっさと殺せばいいじゃない!」
アベンチュリンに買い取られた時、私は死を覚悟した。ツガンニヤの虐殺を唯一生き延びたエヴィキン人が、カティカ人の血を引く女を前にして望むことなんて、復讐以外にありえない。なのに私はこうして五体満足で生かされている。
この男は私を殺さない。手を上げることもなければ、辱めることもない。それどころか住む場所を、食事を、服を、望まない恩恵を与え続け、この贅沢な箱庭に私を繋ぎ止めている。その理解不能な献身が私の輪郭を曖昧にし、底なしの不安へと突き落とす。
胸の内の澱みを吐き出し、肩で息をする。顔を拝んでやろうと、八つ当たりじみた視線でアベンチュリンを睨み上げる。私は彼が激昂して冷酷な本性を露わにするのを期待していた。
けれど、そこにあったのは今までに見たことのない哀愁を帯びた表情だった。あまりに予想外で、そして残酷なまでに期待外れ。茹るようだった頭の芯が冷めていく心地がした。
「……なに、その顔。……笑いなさいよ。いつもみたいに、余裕たっぷりな顔で」
結局、私は望んでいるのだろう。アベンチュリンが復讐を遂げ、この身に流れる血の因縁が清算される瞬間を。そうしてやっと、私はただの人間になれる気がするから。
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リビングに戻ってきたアベンチュリンを待っていたのは、ソファで眠りこける同居人の姿だった。テーブルの上には空の酒瓶と、横倒しになったグラスが放置されている。頭を冷やす時間が必要だろうと彼が席を外した隙に煽ったらしい。
「エスメラルダ?」
名前を呼んでも返事はなく、微かな寝息が返ってくるだけだった。エスメラルダの寝顔は穏やかで、あれだけ喚き散らしていたのが嘘だったように思えた。酒に強くないのだろう。そうでなければ、警戒心の強い彼女が無防備に寝顔を晒すわけがない。
────何が望みなの!?
悲鳴にも似た問いが鼓膜の奥で反響する。罵声を浴びせられるのには慣れていた。彼はいつだって反感を買う立場にあり、幾度となく剥き出しの敵意や身勝手な悪意に晒されてきた。いまさら女一人の癇癪に動揺する道理はなかった。だというのに、あの時彼女を前にして、言葉を失ったのは何故か。
「望み、か」
自嘲気味に呟く。アベンチュリンは逡巡の末、眠るエスメラルダを抱き上げた。決して落とさないように、肌に触れないように。数秒前まで無様に震えていた手で、脱力した肢体を支える。手袋を外して彼女に触れるのはこれが初めてだった。長い髪が肩から流れ落ちていき、見えた首筋をチョーカーが締め付けていた。
布一枚を隔てて伝わる体温を思考の隅に追いやり彼女の部屋へと向かう。両手は塞がっていたが、閉め忘れたのか扉が半開きになっていたため、難なく中に入ることができた。
明かりの消えた室内は、廊下から漏れる光で辛うじて輪郭を繋ぎ止めている。相変わらず殺風景な部屋だった。生活の痕跡といえば、ベッドの上に投げ出されたブランケットと波打つシーツのしわくらいだ。アベンチュリンは彼女をベッドに横たえると、その縁へ静かに腰を下ろした。
持て余している自覚はあった。彼女を買い取る際に告げた「自由の身になる」という言葉に嘘偽りはない。事実、彼女は然るべき手続きを経て、人間として生きる権利を取り戻したはずだった。しかし自由を享受するには、エスメラルダはあまりにも飼い慣らされていた。
権力者に購入されるより以前、エスメラルダはある娼館で客をとっていたという。年端もいかない頃から搾取され続けてきた彼女にとって、消費されることは存在を容認されることと同義なのだろう。そう教育され、歪んだ理を生存戦略として内面化してしまった。だからこそ、危害を加えるかもしれないと恐れる相手にさえ、自らその身を差し出そうとするのだ。
アベンチュリンの抱く感情は一言では表せないほど歪に、複雑に絡み合っていた。エヴィキン人とカティカ人──相容れない血の混ざり合ったエスメラルダという存在は、彼に拭いきれない忌避感と底知れない憐憫を抱かせる。加えて奴隷としての共感と同族嫌悪。その血と体にしか価値を見出せない彼女の在り方が厭わしく、同時に痛ましく思えてならなかった。
関係を持たないのは、ひとえに彼の矜持がそれを許さないからだ。エスメラルダは暴力であれ性行為であれ、アベンチュリンに消費されることを求めている。受け入れたが最後、この愚かな女は慣れ親しんだ支配に安堵するのだろう。そして彼女を買い取った得体の知れない男は、かつての所有者達の同類へと成り下がる。そんな歪んだ期待には、決して応えてやるわけにはいかなかった。
「…………」
首筋を覆うチョーカーの留め具を外すと、硬質な音を立ててマットレスの上へ滑り落ちた。隠されていた商品コードが暗がりに露呈する。アベンチュリンは震える指先で焼印に触れた。酒で熱を帯びた肌が触れた指先を腐らせることはない。なぞってみると、何の変哲もない皮膚の凹凸が指先に伝わった。強いて言えば、自分のものと比べて柔らかいという程度の違いだ。
触れるたび、ここにいるのはただの人間なのだと思い知らされた。同じ傷跡を持った一人の女性。首に手をかけ、力を込めるだけで簡単に殺せるほどにか弱い。今まで指一本触れてこなかったのは、カティカ人の血以上に、彼自身が彼女を殺してしまう可能性を恐れたからかもしれない。
焼印を押された時、彼女も自分と同じ絶望を感じただろうか。アベンチュリンは商品コードを慈しむように撫でながら、彼には似合わない感傷に浸った。
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