死せるアンナ
※自傷行為の描写あり
わたしの自傷癖は幼い頃からあった。
そりゃあ今と比べれば程度の低い、自分の腕を噛んだり、皮膚を抓ったりなんて可愛いものだったけれど、それは物心つく前から確かにわたしの中に備わっていた。
年月を経て自分を傷つけるのに慣れていくと、以前の方法では満足できなくなる。繰り返す度に刺激が足りなくなり、行為はエスカレートしていった。結果、慢性的に流血を伴う自傷を繰り返す個体が出来上がるのは、当然の帰結だった。
そんな人間が、他所様の家だからといって衝動を抑えられるわけもなくて。つまりは、そういうことなのだった。
「こら、またやっていたのか」
「……あー…………」
一番面倒な男に見つかった。冷静さを取り戻した脳内に、そんな失礼極まりない言葉が浮かぶ。まあ、事実なのだが。
洗面台の前に立つわたしに、ルーサーが歩み寄ってくる。左手の甲に穿たれた穴から血が溢れ、指先から絶え間なく滴っていた。これがある所為で逃げようにも逃げられない。床を汚せば掃除が面倒だ、などと冷めた思考が巡る。こんなことなら悠長に傷口を眺めていないで、さっさと部屋に戻っておけばよかった。後悔先に立たず。
「刃物はすべて取り上げた筈だが……私の記憶違いかな?」
彼は窘めるように言う。その姿が、かつてわたしを叱った母さんの姿と重なって、喉の奥が詰まった。視線が宙を泳ぐ。何も食べていないのに口の中が苦い。
ルーサーは隣まで来ると、腫れ物に触るような手つきでわたしの右手をゆっくりと開き、握りしめていた万年筆を取り上げた。皮膚に触れた長い指には人間らしい温度が欠落している。まるで作り物のような、現実味のない冷たさだった。
「……これの他には?」
「持ってない……」
「そうか。また後で君の部屋を確認するが、構わないね」
「はーい……」
彼はわたしがこうしているのを見つける度、毎回わたしに与えた部屋をくまなく検閲する。自傷を未然に防ぐため、他に体を傷つけられるものがないか確認しているのだ。今までに没収されたのは、カッターや鋏、ガラス製品など。今回の件で筆記具も全滅だろう。よくやるもんだと、つくづく思う。
「よし、それじゃあ手当てをしなくてはね。まずは傷口を洗おうか」
先程とは打って変わって声色を明るくしたルーサーに内心安堵する。叱られている時のあの重苦しい空気は苦手だ。彼が切り替えの早い人で助かった。……こういうところまで、母さんと似ている。嫌なデジャヴだ。
袖を捲るルーサーを横目で見ながら、左手の指を動かそうとした。けれど、手全体が痺れて上手く力が入らない。頭に血が上った時の感覚に近いだろうか。皮膚の内側で、ざわざわと砂嵐が蠢いているようだった。
「傷が痛むかい」
「いや、別に。……えっ、というか何で袖捲ってるの。これくらい自分でできるけど」
「以前そう言って怪我を放置し、挙げ句に膿ませたのは誰だ?私は、君を蔑ろにするような人間に、君を任せるほど愚かではないよ」
「……すみません、今度こそちゃんとするので勘弁してください」
◆
この奇妙奇天烈な連中の住む家に居候し始めて、どれくらいになるだろう。記憶の殆どが、ひどく曖昧だ。局所的には覚えているのに、昨日何をしていたかすら思い出せない。母さんが死んでから、わたしの世界はずっとこんな風に霧がかかっている。
……それで、ええと、何の話だったか。ああ、この家のことだ。
前述の通り、ここの住人は変な奴しかいない。仮面みたいに表情の動かない家主に、表情こそ動くが輪をかけて問題児なその弟。そして彼らのペット(?)が複数。個性豊かで大変よろしいですね。
ちなみに、この中でまともに意思疎通ができるのは家主の弟のペット君(人間)ただ一人だけだ。他は言葉こそ通じるものの、根本的な対話が成立しない。
「……アンタはここから逃げないのかよ」
「追い出されるまで居座った方が得じゃない?どうせなら、タダ飯を食えるだけ食ってやろうと思ってるんだよね」
「図太いな。……でもそれで死んでちゃ世話ないだろ」
「うん……まあ、その時はその時かな。潔く道連れにする」
「それを潔くとは言わねえよ……」
ただでは転ばないからね、と笑うと、重たいため息だけが返ってきた。無理もない。ペットであるということは、人権がないも同然なのだから。
彼はわたし以上に過酷な目にあっているらしく、聞くところによれば、すでに随分と体を改造されているのだとか。おかげでナメクジなんかを口にしても平気らしい。恐ろしいね。それでもなお、諦めずに脱出を試みる彼の生命力には脱帽せざるを得ない。
「逃走経路が確保できたら教えてね。わたしも出られるなら出たいんだ」
「あー、うん。良いよ。まだ全然だけど……一応聞いておきたいんだが、アンタ、本当に逃げる気はあるんだよな?」
「居心地がいいわけでもないからね。それに、ここはわたしの家じゃないし」
「……それもそうか」
わたしの言葉に、彼はどこか安心したような顔をした。
「お互い頑張ろうね。……あ、もしもの時は一緒に死ぬ?」
「え、遠慮しとく……」
「冗談だからそんなに怖がんないでよ」
◆
「猫騙し効くって本当に猫じゃん!」
目の前の女──なまえはそう言い放ち、ニェンを指差して大声で笑った。その憎たらしい笑みは、彼が彼女の胸ぐらに掴み掛かろうとも揺らがない。
「調子に乗るなよ、クソ女……!」
「はははは!怖ぁーっ!あははは!」
むしろ勢いがついただけだった。ニェンは苛立ちが沸点に達するを感じながら、不用意にちょっかいを出したことを激しく後悔した。
なまえは、アイボリー家に居候している人間の女だ。ある晩、ニェンの敬愛するご主人様に連れられ、外からやって来た。聞くところによれば、雨の中で蹲っていたのを哀れに思い、放って置けずに連れ帰ったのだという。
来たばかりの頃のなまえは、文字通り動かない女だった。一日中同じ場所に座り込んで、喋りもせず瞬きもせず、ただ呼吸を繰り返すだけ。ぶつかっても蹴飛ばしても無反応で、まるで置物のようだと当時のニェンは鼻で笑ったものだ。
そんな彼女が少しずつ動くようになると、今度は人知れず自傷に耽るようになった。身近なありとあらゆるものを凶器に変え、体の至る場所を傷付ける。さらに傷を放置して膿ませ、服や家具を汚して回る。ニェンからすれば、なまえは百害あって一利なしを具現化したような存在であり、さっさと放逐したくてたまらなかった。だが、彼のご主人様が甲斐甲斐しく世話を焼くためそうもいかない。
やがて会話も可能になると、彼女には部屋が与えられ、夜間はベッドに拘束される運びとなった。深夜徘徊を防ぎ、同時に自傷行為の防止もできる。これにはニェンもほんの少しだけにっこり(居候のくせに高待遇なのが気に入らない)。
とはいえ、日中は彼女も自由の身だ。もとより反りの合わない二人は、顔を合わせるたびに一触即発の険悪なムードを漂わせていた。
今日も廊下で偶然居合わせたニェンは、不機嫌を隠さず舌打ちをしてなまえを睨み付ける。すると、いつもなら眉を顰めて立ち去る筈のなまえが、平然とした顔で距離を詰めてきた。不審に思い気を取られた次の瞬間、ニェンの目と鼻の先でぱん、と乾いた音が炸裂した。
「引っかかった!」
心底嬉しそうな声に、ニェンは自分が猫騙しを食らって怯んだのだと理解する。喚き散らす口を黙らせようと掴みかかるが、完全に逆効果だった。額に青筋を立てるニェンを余所に、彼女の笑いは止まらない。
「ああ、もう!そんなに怒るなよ!あんまりストレス溜めてるとハゲるよ!」
「黙れ。そんで死ね」
「いった!?短気過ぎるだろこいつ!?クソがハゲろボケ!」
「ハッ!馬鹿の一つ覚えしかできねえようだな。脳漿まで腐ってやがるのか、この間抜け」
売り言葉に買い言葉。そこに取っ組み合いの乱闘まで加われば、もはや制御不能だ。家中に響き渡る二人の騒音は、彼のご主人様が仲裁に現れるまで止むことはなかった。
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