INCLUSION
私の人生は暗い穴ぐらの中から始まった。当時の私は今よりずっと小さくて、汚れた体を縮こませて、いつも空腹に震えていた。
親からも周囲からも無視される爪弾き者。言葉を持たず、残飯を漁り、排泄を繰り返すだけの惨めな生き物。それが私だった。私を異物と見なすあの人達の冷ややかな目を思えば、よく殺されなかったものだと思う。あの人達の中にも、超えてはいけない一線、あるいは無関心という慈悲があったのだろうか。
ある暗い日、不意にあの人達が姿を消した。手元に食い繋ぐものが何もなく、空腹に突き動かされた私は穴ぐらの外へ這い出した。その時、空から水が降るのを初めて見た。肌を打つ冷たい衝撃を雨と呼ぶことさえ、私は知らなかった。なんせ、誰も教えてくれなかったものだから。無知が罪だというのなら、私は生まれながらの罪人だったに違いない。
その後、私は黒い服の男達に捕まった。首筋に焼印を押され、奴隷として競り落とされた。あの痩せっぽっちの子供にいくらの値段が付いたのか、今となっては知る由もない。けれど、少なくとも売買は成立した。捨て置かれた私にも、彼らの審美眼にかなうだけの価値はあったらしい。
売られた先の娼館で、私は「エヴィキン人とカティカ人の混血」という商品名を与えられた。世の中には風変わりな商品を好む好事家が多い。私はその手の客の相手をさせられ、呆気なく処女を失った。
体を売ることに特別な忌避感も嫌悪感もない。欲しがる客に言われるがまま、身を任せるだけだ。その引き換えに、私は自分がここにいていいという許しと、価値ある商品だという保証を得られる。セックスなんて簡単な遊びだ。私の苦痛は、もっと別の場所にある。
狡猾な詐欺師。強欲な野蛮人。血筋に張り付いた風評が、影のように付きまとった。一人の人間として貶められるのは、透明な存在として無視されるよりも耐え難い。私はどうしようもなく自分という存在を恥じた。
娼館の商品になって数年が経ち、私は新しい所有者の手に渡った。希少価値がある私には決して低くない値段が付けられている。相応の対価を支払ってまで手に入れる価値を、私に見出してくれた。それは商品としての私にとって、この上ない称賛だった。
私はその人を旦那様と呼ぶことになった。権威ある裕福な男性。大勢の使用人がかしずく屋敷には、奥様も、ご子息様もいた。わざわざ資産を投じてまで奴隷を買う必要などないように思えた。
「なまえ」
旦那様は、私をそう名付けた。お前の緑色の瞳によく似合う、と。私には名前がなかった。故郷では誰にも気に留められず、娼館で与えられたのは客を釣るための肩書きだけ。だから誰かに名前を呼ばれるのは、私の人生で初めてのことだった。
温かい食事、綺麗な服、安らかな寝所。それらを与える代わりに、旦那様は私自身を求めた。私は彼に身体を、心を、持てる全てを差し出した。旦那様は私をまるで娘のように慈しみ、愛してくれた。たとえそれが父親が娘を抱くような歪な愛欲だったとしても、私には生まれて初めて与えられた愛だったのだ。忠実な奴隷として、娘として、そして一人の女として。私は旦那様に応えたかった。
彼の足元に伏し、分け与えられる慈悲と安寧を享受して。彼を愛し、愛を乞いながら、その腕の中で生涯を終えるのだと。そうありたいと、どれほど願ったことか。
ああ、旦那様。
「どうして私を置いていってしまったの……?」
✧
「単刀直入に言おうか。彼女を、僕に譲ってほしいんだ」
豪奢な応接室に、不遜な提案が響く。事もなげに言い放つアベンチュリンの視線は、目の前で息を呑む男を一瞥もせず、その傍らに控える女を射抜くように捉えていた。女の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
褐色の肌に映える、腰下まで届くプラチナブロンド。髪の隙間から覗く首筋は、チョーカーで覆い隠されていた。鮮やかな緑色の瞳に浮かぶのは純粋な恐怖と、避けられぬ運命を悟ったような諦念。さながら死刑執行を待つ罪人のそれだ。無理もない、とアベンチュリンは内心でほくそ笑む。
ある権力者の遺産について、彼はかねてより強い関心を抱いていた。権力者が終生執着したという、ツガンニヤの奴隷。名はなまえ。彼と同じ故郷、同じ境遇を持つ女性。
だが何より彼を惹きつけたのは、その特異な出自だった。彼女は荒涼の地で長きにわたり確執を抱き続けた、決して交わらない筈の二つの氏族の血を引く。世にも珍しいエヴィキン人とカティカ人の混血だという。
初めて耳にした時、アベンチュリンは悪趣味な冗談だと切り捨てた。捕食者と獲物の間に生まれた子供が、あの砂漠を生き延びたなどと。ホラ吹きだってもっとマシな嘘を吐く。けれど、いざ実物を目の当たりにしてしまえば、手を伸ばさずにはいられなかった。
「……断る」
「もちろん、タダでとは言わないさ。言い値で構わない。君の望むだけの額を用意しよう」
「断る、と言ったんだ。なまえは父の大切な形見……家族同然の存在だ。いくら金を積まれたとしても売るわけにはいかない」
家族。その響きが、アベンチュリンの胸を不快にざわつかせた。男は権力者の息子、いわば所有物を正当に引き継いだ相続人に過ぎない。彼女を自由の身にする権限を持ちながら、未だに物として繋ぎ止めているのは男自身だ。家族同然などと甘言を弄しながら、希少な愛玩物を手放すのが惜しいだけなのだ。
「お兄様」
なまえが、か細い声で男を呼ぶ。その歪な呼称を耳にした瞬間、彼の胸の奥でどろりとした嫌悪が渦を巻いた。
「これ以上話すことはない。お引き取り願おう」
「……そうかい。それは、残念だ」
男の頑なさに、アベンチュリンは潔く引き下がる。しかし不敵な笑みが剥がれ落ちることはない。
正攻法が通じないのなら、テーブルごとひっくり返せばいいだけの話だ。
事業、財産、地位──口先ばかりの青二才を揺さぶる材料などいくらでもある。やがて破滅の淵に立たされた男は、再び持ちかけられた取引に、今度はあっさりと譲渡契約書へサインをした。
「お疲れ様。君の今後の再起を願っているよ」
社交辞令もそこそこに、アベンチュリンはなまえの手を引くと、絶望に染まったその顔を覗き込んだ。涙の膜が張った瞳の虹彩は色こそ違えど、彼にとって馴染み深い輝きを宿している。鏡と向き合うたびに見つめ返してくる、それと同じ。
アベンチュリンは計りかねていた。果たして自分はこの女を仇の末裔として呪いたいのか、それとも同じ地獄を這いずってきた同胞として抱き締めたいのか。答えは出ない。ただ一つ確かなのは、この選択を決して後悔しないだろうということ。
「ようこそ、なまえ。今日から僕が君の主人だ。……そして、おめでとう。君は晴れて自由の身になる」
✧
あれ以来、なまえは与えられた部屋に籠りきりだ。
用意した食事にも一切手を付けない。部屋まで運んで食べるよう言い含めても、次に見る時には決まって廊下の床の上に皿が放置されている。ハンガーストライキのつもりかと、アベンチュリンは苦笑混じりに肩を竦めた。
彼女の名前を呼び、扉をノックする。案の定、中からの応答はない。
「入るよ」
短く断り、彼は部屋の中へ足を踏み入れた。厚手のカーテンに閉ざされた室内は薄暗く、殺風景だ。しつらえた家具は、ベッドを除いて他に何もない。凶器になり得るものは全て排除してある。それは彼の身の安全を保証するためでもあり、同時に彼女が自ら命を絶つという最悪の選択を阻むためでもあった。
部屋の隅で、なまえは膝を抱えて蹲っていた。暴れて部屋を荒らす気力さえ枯れ果てているのだろう。まるで檻の中で飼い慣らされた獣だ。新しい主人にどう抗えばいいかも分からず、ただ呆然と戸惑っている。
アベンチュリンは歩み寄り、冷たい床に縮こまる華奢な肩を見下ろした。その肢体を包むのは、彼の選んだナイトドレスだ。以前の所有者が着せていた衣類は、買い取った日に一つ残らず処分した。
「今日もご機嫌斜めかな」
片膝をつき、視線を合わせるように屈み込む。なまえは手入れの行き届いた長い髪を守るように、いっそう強く身を縮めた。その卑屈な仕草が、アベンチュリンの神経をわずかに逆撫でする。
権力者──彼女が「旦那様」と慕う男が愛したという、呪わしいほどに美しいプラチナブロンド。鋏を入れるのは容易い。鋭利な刃を一度滑らせるだけで、彼女を縛り付ける枷を断ち切り、過去と決別させることができる。しかし、そうしないのは、それがなまえにとって唯一の心の拠り所であることを理解しているからだ。不快感を飲み下してまで残すと決めたのは、彼なりの慈悲だった。
「そんなに怯えなくていい。僕は君を殺さないし、無意味に痛めつけたりもしない」
生憎、衰弱した女を折檻して悦に浸る趣味は持ち合わせていない。たとえ相手が、忌むべき仇の血を引く存在だったとしてもだ。
「……少しは何か食べなよ。君に自由を与えたのは、なにも自ら死を選ばせるためじゃないんだ」
労りの言葉さえ、なまえは沈黙で拒絶する。お前の言うことなど何一つ信用に値しないと、その背中が雄弁に語っていた。
手荒な真似は本意ではないが、これ以上不毛な抗議を続けるのであれば、強硬手段に出る他なくなる。流動食を胃に流し込むか、栄養剤を投与するか。みすみす死なせるわけにはいかないのだ。今やエヴィキン人は彼一人を除いて絶滅している。彼女のような同胞の残滓を掴む機会も、もう二度と訪れないだろう。
恨まれようが構わない。尊厳を踏みにじる結果になったとしても、なまえには生きていてもらう。
「君は死なない。僕が許さないからね」
数時間後、再び部屋の扉の前に立ったアベンチュリンの足元には、いつも通り皿が置かれていた。だが、今日は一つだけ決定的な違いがある。皿の上に何も残っていないことだ。空腹に耐えかねたのか、あるいは。
「素直じゃないなあ」
彼は空の皿を拾い上げると、勝利を確信したように満足げに目を細めた。
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