chapel
彼女の結婚式の日は、見計らったかのように雨だった。傘を差された花嫁の頬に伝う暖かい雨粒は、俺の胸を引き締めて、どうしようもなさを身體中に充満させて、離れなかった。
病室のベッドで横たわる彼女。つやつやとした黒髪が、白すぎる肌とは対照的で、なんだかとても浮いてみえた。この世のものではなくなるような。
「やっぱりさ」
風に吹かれて揺れるカーテン。ちらりと外を見た彼女は、自らを嘲笑うように唇をもたげた。
「口約束なんて、すぐに消えてなくなっちゃうものだよね」
彼女が握りしめた布団のシーツに皺が寄る。力強い動きは、彼女がまだ生きていることを証明していた。何処から入ってきたのか、黒い蛾がベッドサイドに置いてあった白い薔薇の上で、ゆるりと羽を休めていた。俺が持ってきたものだった。
「儚いものほど美しいって言うし、私もいつかは綺麗に消えてなくなりたいな」
たった今気づいたが、彼女の目元はうっすらと黒ずんでいた。眠れていないのだろうか、そういえば薬の量が増えたと聞いた。
ちく、ちく、と秒針の音が白い病室に鳴り響いている。山奥の病院だから、周りの音はそれ以外ない。まるで世界から二人、切り離されたかのような。
「消えてなくなりたいって、不安とか」
この空気を破るのは怖かった。俺の声は彼女の鼓膜にきちんと届いたようで、おもむろに彼女がこちらを向いた。
「ここに来てからずっと、そういうことばっかり考えてるんでしょ」
静かに、静かに。ゆっくりと彼女を問いただす。昔から分かりやすい彼女は、もう一度窓の外を眺めた。
「それでさ、眠れなくなって夢も視られないんだったらさ」
薄い肩が小さく小さく震えている。救いたいんだ。昔から隣で見ていた、いきなり奪われた、そんな君を。俺だったら、俺だったら君のどんな不安も狭い心も、どんな教えだってルールだって、
「俺が全部、受け入れるから」
彼女はこちらに振り向いた。俺は、丸椅子から立ち上がってそんな彼女に手のひらを差し出した。体温がそっと混じりあって、ベッドが軋む。羽休めしていた黒い蛾が、自由を呼ぶようにふわりと舞い立った。
窓のすぐ外には青々と茂る雑草たち。彼女を縛る監獄から脱するのは、意外と簡単なことであった。
彼女と手を繋いで、できる限りの速度で走る。弱っている彼女のぎりぎり、俺の体力のぎりぎり。短い間だけでも、夢に見ていた永遠の愛を誓えるように。後ろは振り向かない。憂鬱なんて振り切って、二人で遠くへ逃げてしまおう。
山道の途中にあるバス停の前で足を止めた。ぜいぜいと肩で息をする彼女は苦しそうで、楽しそうで。白すぎる笑顔は、生の証だった。
誰も乗っていないバスが来る。運転手は入院着の彼女を一瞬訝しそうに見たけれど、さほど気に止めているようではなかった。隠れるように、二人で身を寄せて一番後ろの席に座る。バスが発進した揺れで、ふと指先が触れた。
「きっとさ、間違いなんだろうね」
少し下を向いて呟いた彼女。俺も君も、そんなことは分かっていた。彼女は、笑っていた。
くるくると変わる景色に、子供みたいにはしゃいでいる彼女。バスはどんどんと坂道を登っていく。差し込む夕焼けが彼女を鮮やかに照らして、まるで、映画のような。
「終点だよ」
彼女の手を引いた。バス停から少し歩いて、申し訳程度に舗装された道を登る。彼女はやっぱり苦しそうだったけど、何よりも幸せそうだった。
たどり着いた、真っ白なチャペル。何十年か前に命を終えたこの場所は、きっと俺以外誰も知らない。
「ねぇ、見てみて」
彼女の手を引っ張って、山の麓を見下ろせる場所に立たせた。いつの間にか太陽は沈んで、辺りは静寂に満ちていた。街が一望できるその場所は、なによりもなによりも綺麗だろう。まるで、世界中の宝石を、ひとつに溶かしてきらめかせたような。幸せを、その身に宿したような。
目を輝かせた彼女を眺めて、もう一度手を引っ張る。入口に生い茂っている草に足を取られないように、彼女としっかりと手を繋いだ。チャペルの中は、ぼろぼろに崩れていた。
真ん中にかろうじて残っている道を歩く。両脇にある長椅子を追い越して、繋いだ手は離さないで。
ささくれだった誓いの場所。どんなに劣悪な環境だって、俺と彼女は二人でここに立つことを心の底から願っていたのだ。
彼女がこちらを向いて、笑った。目の縁がきらきらと輝いていた。空気を震わせた、彼女の声。
「忘れちゃってたあの頃の願いが、いつか、」
震えて、裏返った彼女の声。喋ることは大好きだ、と嬉しそうに教えてくれたのは、一体いつの事だっただろうか。
「いつか、どんな壁も超えて、叶いますように」
彼女の額に唇を寄せる。頬を伝った暖かい涙。俺たちだけの誓いの言葉、俺たちだけの誓いのキス。俺たちだけの、再開のしるし。
ひゅう、ひゅう、とか細くなった彼女の呼吸が静かな空気に酷く反響していた。膝をついた彼女。時間が無い。彼女を、タイルを突き破って生えている柔らかい草の上に横たえた。滲んだ汗を拭い取る。
「私が死んで、生まれ変わって、また、また」
彼女は振り絞るように片方の腕を動かした。ゆらゆらと方向を見失いながら、その細すぎる指が、俺の手のひらをしっかりと掴んだ。
「また、黛くんの掌上に、触れるようになるまで」
握り返すと折れてしまいそうで、ゆっくりと撫でた。これを聞くのは一回目。二回目は、出来れば来ないといい。
「ずっと待ってる、から」
色のない唇がゆるりと上がって、それから、力なく下がった。彼女の指を五つ綺麗に揃えて、体の横に添える。冷たい瞼に手をかざして、そっと世界を閉じた。
俺は、ここで祈ってる。また君に会えるまで。また君に触れるまで。また、君と幸せになれるまで。
それだけ。
かあん、と聞こえた鐘は、彼女を燃やし尽くす非情な鐘は、俺たちが鳴らせなかった、ウェディングベルみたいだった。
やり直すはなし。
2020.5.16