がんばれ


こんこんこん。
ノックの音が聞こえて、必死に動かしていたシャーペンを止めた。はあい、と大きめの声で返事を返す。扉の方に顔を向けると、少し渋い顔をした灰くんの姿が見えた。

「晩ごはんの時間過ぎてるから呼びに来たけど。大丈夫?職員さんも心配してたよ」
「えっ、もうそんな時間?!」

時計を見ると、確かに施設内で決まっている晩ごはんの時間から三十分ほど時間が経っていた。施設でも年齢が結構上の方な私は、有難いことに一人部屋をもらっているが、弊害はこういう所にある。それにしても、私そんなに熱中してたかな……。

「で、何してたの。……これ、課題?」
「あ、そう……。春休みの課題」

灰くんが私の机の上を見た。と同時に、多すぎる量のプリント、積み重なったテキスト、真っ白の学習記録表なんかを見て、眉を寄せた。……正確に言うと、期限三日前まで貯めに貯めたせいで一生終わらないんじゃないかって量になっちゃった春休みの課題、かな。

「これは……まあまあさぼったね」
「おっしゃる通りでございます……」
「まあでも確かに、名前が計画的に宿題やってるのとか見たことないかも」

うっ。灰くんの言葉が胸に刺さる。私が施設に入った頃から偶に宿題手伝ってもらったりしてたのが裏目に出てしまった。計画性のなさとサボり癖が把握されている。胸に手を当ててオーバーリアクションを取った私に、灰くんがちょっと笑った。面白かったみたい。

「中学生の頃とかもさ、夏休み終わる一日前とかに徹夜してたよね」
「ああ……その節はお世話になりました……」
「うん、俺名前の一ヶ月の生活捏造して書いてあげたのすごい覚えてる」

優等生みたいな生活させてたなあ、朝とか六時に起きたことにしちゃったし、なんて昔を懐かしんでいる灰くん。もう時間ないから適当に書いてお願い!って灰くんに頼んだらそうされたんだっけなあ。先生に出したらすっごい疑いの目を向けられたけど。あの頃の灰くんは、今よりもなんというか……茶目っ気があった。いや今も割とおもしろお兄さんだけど。

「それで、今も課題に追われてるって訳だね」
「はい」
「自分の首締めるのが上手だなあ」

皮肉たっぷりにそう言った灰くん。今更言われなくても分かってるよーだ……。でも口で灰くんに勝てる訳ないから、黙って机に突っ伏する。あ〜!気づかないうちにすごい疲れた!お腹も空いた……。

「今どのくらい終わってるの?」
「う〜ん……三割?」
「……終わってるね、別の意味で」

灰くんの真顔が再度胸に刺さった。やめて……現実を突きつけないで……。
視界の隅に、どうしても解けなくて数十分くらい放っておいた数学の難問が目に入る。こういう感じで、一個難しい問題が解けなかったりするとすぐ手が止まっちゃうんだよなあ。根気強くなりたい……。
ちらりと横目で、ぺらぺらと真っ白のテキストをめくってこれ覚えてないな、とか何とか言っている灰くんを見た。……灰くん結構頭いいし、昔も勉強とか教えてもらってたし、聞けば教えてくれるかな……。

「灰くん」
「なに?」
「ここの、この問題どうやってやるか分かりますか」

ノートの一ページに並べて書かれた問題のうちの一つを、シャーペンのペン先で示す。えーっと……と言いながら灰くんがノートを覗き込んだ。垂れた髪の毛を耳に掛ける動作なんかも前はよく見てたけど、今はなんとなく久しぶりな気分。
ノートの文字列を追う灰くんの瞳。右に左にくるくると動いているそれは、私が書いたぐちゃぐちゃの途中式を読んでいるようだ。

「……ここ、展開の仕方違くない?」
「えっ……あ〜……めっちゃ凡ミスだ……」

灰くんが袖を捲って指先でここ、と式の一部を指す。言われてみれば、違う。こんな……こんな聞くまでもなかったミスで数十分を無駄にしていたのか……!何度も見直したのに……。

「凡ミス癖直んないね」
「おっしゃる……通りです……」
「えっ、そんな落ち込む?」

俯いた私に少し焦った声を出す灰くん。思ったより私のリアクションが大きくてびっくりしてしまったようだ。いやでもこれを指摘されるまで気づけなかったのか私は……。

「まあ、さ」
「はい?」
「課題もちゃんと本気で頑張れば終わるだろうし、」

凡ミス癖もいつかは直るよ、頑張ってんだから、と続ける灰くん。こうして慰めてくれるのは今も昔も変わらない。テストの点数が悪かった時も、高校がなかなか決まらなくて進路担当の先生に怒られた時も。いつも優しいお兄ちゃんだった。

「もっと気軽に俺のところにも聞きに来ていいからね」

ぎこちなく私の頭を撫でる灰くん。布越しに伝わる手の温度は今日も暖かい。よくちっちゃい子たちにかいくんあったかーい!ってくっつかれてるだけあるな……。

「あとはまあ……なんだろ。頑張って終わらせたら、俺が褒めてあげるよ」

ついでみたいにそう言った灰くん。……それが一番嬉しいかもしれない。ほんと?と聞き返したら、ほんとほんと、とぞんざいに返事を返された。自分で言って自分で恥ずかしくなってるやつだこれ。

「灰くんが褒めてくれるなら頑張ろっかな〜!」
「最初から頑張りなよ、あととりあえずご飯食べちゃいな」
「あ、そっか、呼びに来てくれたんだっけ」

今日の献立なんだった?という質問の答えは最高だった。灰くんの口から並べられた料理の名前は、間違いなく私が一番好きなメニュー。喜び勇んでシャーペンを置き扉を開けた私に灰くんが、変わらないなあ、と呟いたのは聞こえなかったことにした。
……灰くんだって昔からコーヒー飲めないの変わんないじゃん!

応援してくれるはなし。
2020.5.24