そんざいかち、
いきるすべて
便器に顔をかざして細い息を吐く名前の背中をさする。かひゅ、はふ、という苦しげな吐息に混じる彼女がえづいている声を聞いていると、なんだか俺まで苦しくなってくるようだった。俺が振舞った料理を次々とどろどろの液体にして戻す名前。少し残念だなとも思ったけど、それ以上にえも言われぬ背徳感が込み上げてきた。
一頻り吐き出すものも吐き出して、口の中に残った胃酸らしき液体を衰弱しきった表情で忌々しそうに吐き出す名前。彼女に慎重に手を貸して、足取りの覚束無い彼女をなんとか支えながら洗面所へ向かった。
手近なコップで水を汲み、口に含ませてやると緩慢な動きで口の中をすすぎ、ゆっくりと吐き出した名前。こちらに向かって微笑むので、気丈に振舞おうとする彼女がとても健気で愛おしく感じられて、肩を抱く力をほんの少しだけ強くした。
リビングへ戻り、ゆっくりとソファに座らせてやる。今度はきちんとペットボトルのミネラルウォーターをコップについで、名前の元へ持っていった。
「また吐いちゃうかもしれないから、ちょっとだけ飲んでね」
「うん……」
少し意識して小さい子たちに接するように優しい声を出しながら、コップを支えて彼女が水を飲むのを手伝ってやる。血の気を失っていつもより白くなった細い首が二度上下したのを見守って、コップをローテーブルの上に置いた。
「こっち倒れていいよ。横になった方が楽でしょ」
「ごめん、ありがとう……」
彼女の肩を軽く引き寄せると、簡単に膝の上に落ちてくる。丸い頭は俺の細めの太ももにも容易に収まって、彼女はそのまま浅い呼吸を繰り返していた。
「落ち着いて、もう大丈夫だから。深呼吸しよう」
俺の指示に従って縮小を繰り返す小さな体。ソファに埋もれたそれは、今すぐにでも消えてしまいそうだった。不安定だった呼吸が落ち着いて、彼女が俺の手を緩く握った。それに応えるように指を絡めて強く握り返しながら、俺は安堵のため息を吐いた。
上手くいってよかった。ちゃんと薬は彼女に効いてくれたみたいだ。一応俺も試したけど、一回吐いて落ち着いたらもう何もなかった。だから彼女の体に悪影響を及ぼすこともないだろうけど、経過観察は怠れない。このまま名前がうちに泊まっていってくれるといいんだけど。
頭の中で考え事を並べながら、彼女の柔らかい髪の毛を撫でる。数日前に切ってあげた前髪はきちんと揃えられていて、彼女の中にまだ俺がいることに安心した。その時、繋いでいた手に彼女がそっと力を込めた。
「いつも迷惑かけて、本当にごめんね……」
「なにいってんの、迷惑なんて思ってないよ」
「ごめん、本当に、ありがとう……」
「謝らなくていいよ」
彼女は気丈に笑っていた。見下ろした彼女の口角は少し震えていて、酷く痛々しかった。そんな名前の様子を見て、背筋にぞくぞくとした快感が走った。小さくて、震えていて、か弱くて、俺に頼るしかない名前が心の底から愛おしくてたまらない。
「黛くんがいなきゃなんにもできなくなっちゃいそうだなあ」
小さく呟いた彼女の声に、本当にそうなればいいと切に思った。いつか彼女が俺なしじゃ何も出来なくなって、俺は彼女の頭のてっぺんから足のつま先までお世話してあげる。彼女が俺の生きる理由で、俺が彼女の生きる術。そうなれたらどんなに素敵だろうか。
無防備に眠る彼女はきっと、何も気づいていないんだろうな。俺が彼女の食事に催吐剤を仕込んでいることとか。本当に可哀想だけど、その他にも色々彼女にはこういうことをやってきている。
彼女は強いひとだから俺が居なくても生きていけるけど、俺は彼女が居なきゃ、必要とされなきゃ生きていけないんだ。だから、彼女を引き止めるために仕方ないことだ、と割り切っている。もちろん、これは歪んだ感情だって言うのは重々承知している。でも、だめなんだ。いくら彼女を追跡しても、生活音を聞いても、俺たちの距離は遠い。彼女が俺以外のやつになにか頼み事をしていたら、と考えると気が狂いそうになる。だから彼女が、名前が、俺しか見えないようにしなくちゃいけない。
「今度は迷惑かけないようにするね」
「大丈夫だよ、ゆっくりで」
そう、ゆっくり、ゆっくりでいい。ゆっくりゆっくり、君が気付かないくらいのスピードで、俺から逃げられないようにすればそれでいい。君は自由で美しいけど、すぐにどこかへ行こうとする。だからきちんと籠に鍵をかけて 、風切羽を切っておかないと。
「優しいなあ」
「優しくなんかないよ」
優しくなんかない。これは無償の愛じゃなくて、君を手に入れるための打算的な愛だ。俺は図々しいから、君から見返りをもらおうとしている。俺が君を愛したら、その分かえしてくれると盲信している。
「わたし頑張るよ」
「頑張らなくていいよ、そのままの君で」
彼女は俺の言葉を冗談だと思って小さく笑ったけれど、残念ながら冗談などではない。最初こそ自分が抱いたこの歪んだ感情に嫌悪感を持ったけれど、今はもう受け入れている。だって、綺麗な愛情を注いでくれるお手本がいなかったのだから、俺の愛情が歪むのだって当たり前なんじゃないか、と思ったから。俺が俺としてこの世に生まれ落ちて、ゆりに惚れてしまった以上、この感情を抱えて生きていくしかないのだ。日に日に肥大していくものだから、いつか溢れだしそうで気が気ではない。
「そろそろおしゃべりも終わりね。もう寝な」
「ん……」
瞼を閉じさせて、微睡み始めた彼女を見守る。今この瞬間だけは、彼女は俺のところから離れない。でもまだ足りないんだ。朝になったら行ってしまうから。いつか、いつか俺の目標を達成させるその日まで、君は無防備に俺の手のひらの中で眠っていてくれるとうれしいな。
手中に収めたいはなし。
2020.6.3