非日常は突然に
こと、と木目のテーブルに置かれた真っ白なお皿。その上でほこほこと湯気をたてる煮物は、自分が美味しい食べ物であることを全身で表現していた。いやでも実際に口に含んだら、きっとじゅわっとお出汁が広がって、ほろっとじゃがいもが蕩けていくに違いない。絶対そうだ。
「よだれ出てるよ」
「うそ?!」
「うそだよ」
付けていたエプロンを外してそれを椅子の背に掛けた黛くんは、可笑しそうにくすくすと笑っていた。どうやら私が簡単な嘘をすぐに信じてしまったことが面白かったらしい。だって、黛くんってばいっつも真剣な顔と口調で色々言うから、何が嘘で何が本当かよく分からないのだ。でも確かに、今のは私が馬鹿だったかもしれない。
恥ずかしさにほんの少し蒸気した頬をぱたぱたと冷やす。黛くんは既に向かいの席に腰を落ち着けていて、いつでも食べ始めることができそうだった。
「じゃあ食べよっか」
「うん!いただきま〜す」
「はい、召し上がれ」
黛くんの視線を感じながら、目の前のお皿に綺麗に盛り付けられた煮物を口に含んだ。程よく煮込まれたじゃがいもは噛む度にほろほろと身が崩れて、喉の奥にするすると引っ込んでいってしまう。染み込んだつゆがじゅわっと溢れ出てきて、口いっぱいに広がった。相変わらず黛くんはお料理上手みたいだ。すごく美味しいし、優しい味がする。
「おいしい!」
「口に合ったみたいで良かった」
微かに雰囲気を緩ませた黛くんは、私が煮物を嚥下したのを見送ってやっと自分も箸を手に取った。普段は隠されている手元が今は惜しげも無く露出されていて、細い指先が蛍光灯の光に柔らかく照らされている。箸を繰る爪先は綺麗に整っていて、その五つの指は丁寧に箸を支えていた。
姿勢の良さと食べ方の綺麗さに、思わず少し見惚れる。普段はそんなに姿勢がいい方でもない黛くんだけど、こうしてきちんと食事を摂る場になると背筋がしゃんと伸びて、まるでいいところのお坊っちゃんみたいになる。きっと施設の職員さんに言われてたんだろうな。けじめはつける彼らしくて、とても素敵だと思った。
「……どうかした?」
「あ、いや、なんでもない」
「そう、ならいいけど」
私は思ったよりも長い間動きを止めてしまっていたようで、黛くんが訝しげにこちらに視線をやった。まさか黛くんに見惚れていたなんて言えず、さっと視線を食卓の方へ戻す。それ以上何も言及しなかった黛くんは、そのまま脂の乗ったほっけを箸の先で器用にほぐしていた。
それから、時々会話を挟みながら食事は進んだ。黛くんが作ってくれたご飯はどれもとっても美味しくて、優しくて、幸せな味がした。
二人とも自分の分の料理を全てお腹に収めて、一緒に手を合わせる。ふ、と目が合って、思わず口元を緩めてしまった。
「ありがとう、全部すごい美味しかった!黛くんどんどん料理スキル上がってくねえ」
「この日のために練習したからね」
「そうなの?」
少し驚いてしまった。まさか黛くんが、私に振る舞うためだけにわざわざ料理を練習してくれてたなんて、思ってもいなかったのだ。目を見開いた私を見て、黛くんは少し不満げな面立ちだ。君を招くんだから俺も練習くらいするよ、なんて言っている。びっくりしたけど、それ以上に嬉しかった。なんか、ちゃんと大事にしてもらえてるのかなって思って。
「これなら毎日でも黛くんのご飯でいいなあ」
会話を広げようと、何気なく呟いた一言。しかし、軽く返事を返してくれると思っていた黛くんは微動だにせず、空になった底の深いお皿を見つめていた。恐る恐る声を掛けると、ゆるりと顔を上げた黛くん。
「……あ〜、のさ。ずっと、考えてたんだけど」
「え、あ、はい」
思っていた数倍固かった黛くんの声音に驚いて、思わず敬語で返す。なんとなく椅子の上で姿勢を正すと、意を決したよう黛くんが声をあげた。
「結婚、してくれないかな」
「へ、え?……え?!」
意図せず大きな声をあげてしまい、ばっと口を塞ぐ。何度見ても黛くんの真剣な眼差しは変わらなくて、握られた両の拳にはほんの少し力が込められているようだった。いきなりの出来事に動揺して固まってしまっている私を他所に、黛くんは更に続ける。
「俺物心ついた時には家族がいなかったから、そんな俺が君と結婚して、ちゃんと正しい家族になれるのかなって、思ってて」
「う、うん」
「情けない話だけど、ずっと不安だったんだよね。でも、やっぱり名前とずっと一緒にいたいって気持ちが大きくなってきて、名前がどこかに行っちゃう時に、ちゃんと引き止められる立場が、欲しくて」
「……うん」
「俺、こんなだけど、ちゃんと名前を幸せにする覚悟はつけてきたから、」
だから、と言葉を続ける黛くん。静かな空間はほの暖かい温度を持っていて、私たちの周りをふわりと優しく包み込んでいた。椅子の背に掛けてあったエプロンから、藍色の小さな箱を取り出した黛くん。
「結婚して、くれますか」
開かれた箱を私に向かって差し出す黛くん。蛍光灯の光を反射してきらりと輝くシルバーの円環には、黛くんによく似た青色を宿した宝石が飾られている。
大きな感情に揺さぶられる心を抑えて、何度も何度も頷いた。溢れる涙で震える声をあげて、黛くんに必死に返事をした。いつの間にか黛くんは私のことを抱きしめていて、大事そうに一回だけお礼を言ってくれた。
黛くんの手が私の左の手のひらに添えられて、大切に、確かめるように、右から数えて四番目、薬指に約束を通した。
「明日さあ、結婚届け出しに行こうね」
「……ネットでも出来るって言ってたのに?」
「なんか、ちゃんと役所行った方がそれっぽくない?」
「なにそれ」
涙混じりの声で笑った私を見て、黛くんも幸せそうに、少しだけ笑っていた。でも確かに、その方がきちんと実感が湧きそうだ。だって私たち、夫婦になるんだもの。
確かめ合ったはなし。
2020.6.14