平和な一日、
或いは世界の片隅
「お待たせ、待った?」
「ううん、俺も今来たところだよ」
「そっか」
目の前でにこにこと笑う名前。大層ご満悦な様子で、弾んだ口調は今にも空へ浮かんでいきそうだった。こんなに喜んでくれるんだったら、ただのポーズでもあんな渋らなければ良かったかも。ちょっと悪いことしちゃったな。
来る日も来る日も降り続ける雨のせいで、名前と最後に会った日を、よく考えなきゃ思い出せなくなりそうになった頃。通話の向こうでテレビでも見ているであろう名前は、小さなため息を吐いてからぶつぶつと話し始めた。
「ねえ黛くん、デートしたい」
「いきなりどうしたの?してるじゃん、今とか」
「黛くんこれデートだと思ってんの?嘘でしょ?」
「さすがに嘘。……で、なんでいきなり」
「最近会えてないし、あと前買った黛くんの服、着たとこ見れてない!」
「あ〜……」
以前二人で出かけた時に見繕ってもらった、何着かの洋服。確かにそれらは未だに、洋服だんすの上のほうで眠りこけていることだろう。そこまで考えてから、試着の時見たじゃないかとも思ったが、名前はそれで満足するような性格じゃなかったね。
「まあ、黛くんが渋るのは想定内です」
「別にまだ渋ってないでしょ」
「まだって言った!」
「気のせいじゃない?」
ぶーぶーと不満の声を露わにする名前と軽口を交わしながらキーボードを叩く。口ではまだ行きたくないなどと言えているが、俺は自分のことをよく理解していた。こうなった時点で俺の負けだ。名前の願いを聞き入れないなんてことは、よっぽどの事じゃない限り多分、出来ない。現に俺は今、名前が気に入りそうなデートスポットを検索してしまっている。それを伝えてはしゃぎ声をあげる名前を想像していたら、少し声音が柔らかくなったと指摘された。気のせいだよ、それも。
そんなことがあって迎えた当日。二人で決めた待ち合わせの場所に立って、ポケットからスマホを取り出した。時刻を確認すると、約束のきっかり十分前。時間に余裕はあるはずなのに、なんだかどうも落ち着かない。きっと、すごく久しぶりに袖の短い服を外で着たせいだ。手首をくすぐる湿気の籠った風がさらにそわそわとした気持ちを煽る。俺らしくないなあ。
手持ち無沙汰に待っているうちに、俺のためにいつもの数倍可愛くなった名前が駆け寄ってきて、娯楽媒体の中でしか見たことがなかったくすぐったいやり取りを交わして、上記に戻るという訳である。
「やっぱり黛くんその服すごい似合ってる、スタイルいいねえ」
「そう?ありがとう」
「うんうん、一番かっこいい」
「……何を指標にして一番なの、それは」
「あはは、照れてる」
やはりどうにも調子が狂う。けらけらと朗らかに笑う名前にこれ以上おちょくられてもたまらないと思い、自分の手で彼女のそれを柔く包んで歩き出した。何を言うでもなく、俺のぴったり隣を歩く名前。
これから行くカフェの看板メニューについて話している名前に合わせて、俺の歩みはまあまあゆっくりだ。本日は快晴。六月だと言うのに高すぎる気温は、連日の雨で溜まった湿気と混じり合い、実に不快で日本らしい気候を生み出していた。ただ歩いているだけなのに、額に滲み出る汗が気持ち悪い。隣を歩く名前を見ると、俺と同じように、細い首や額に玉のような汗が浮かんでいた。それでも気にせず歩き続けている名前と俺との差は、普段から外出しているか否かにある気がする。
そうして、そこそこな距離を歩いて、目的のカフェに到着した。順番待ちの列がちゃんと日陰にあって死ぬほど安心した。繋いでいた手を名残惜しく離して、壁際に並んだ椅子に座る。俺たちの前にいるのは四人程度。この分ならすぐに店内に入れそうだ。はぁ、と軽く息を吐きながら椅子に腰掛けた名前。やっぱり暑い中歩いたから疲れてるよね。
何気ない動作で名前は、鞄からハンカチを取り出して汗を拭っていた。俯きながら額の汗を拭き取る、そのときに。揺れる前髪の隙間から覗いた、伏せられた長い睫毛に雫が垂れて、朝露か宝石みたいだと思った。少し驚きながらもそれに対処している名前はやっぱり、こう、愛おしい。胸の奥の方で何かがきしむ感覚がして、思わず短い袖を指先で軽く握り込む。そのまま特に不自然じゃないように、ゆっくりと目を逸らしてしまうことにした。一息ついて椅子の背に体重をかける。
「ねえ、黛くん聞いてます?」
「え?……いやごめん、何も聞いてなかった」
「やっぱり」
黛くん、暑くてちょっとぼーっとしてる?熱中症じゃないよね、もうちょっとでお店の中入れるからあとちょっとだけ耐えてね。
そんな事を心配そうに言いながら名前が俺のおでこに手を当てようとするもんだから、やんわり断らせてもらった。ちょっと今、これ以上近くに寄らないでほしい。
それでもなお気遣いの眼差しを向けてくる名前の意識を何とか逸らせたのは、順番が回ってきたことを告げに店員さんが話しかけてくれたからだった。慌てて店員さんに対応する名前。そのまま二人並んで入店した。席について一緒にメニューを眺めていたら、名前もすっかり楽しそうな様子だ。よかった。俺もなんか冷たいものでも食べて、頭を冷やそうと思う。彼女に一言二言と言葉を返しながら、ちょっと自戒する。デートはまだ、始まったばかりなんだから。
何度だって見つけたいはなし。
2020.7.2