三十七度の誘惑
「あ、流れ星」
深い藍色に染まる星空に流れた、一筋の光。つうっと滑ってあっという間に消えていってしまったそれは、ひどく儚くて、不安定な存在だと思った。今頃きっと、空の狭間で燃え尽きたその体躯を、塵のように溶かしているのだろう。なにかお願いごとでもすれば良かったかなあ。
目的もなく、コンクリートにひとつずつ足を踏み出す。その隣に並ぶ、ゆったりとした歩調。私よりも黛くんの方が圧倒的に足が長いから、いつもよりさらにのんたりとした歩みだ。申し訳ないと共に、嬉しくも感じた。
「案外悪くないね」
「なにが?」
「散歩。名前に誘われた時は本気でどう断ろうか考えたけど、来てよかったかも」
「恐悦至極に存じます」
「なんのキャラなの、それ」
冷静に黛くんにつっこみを入れられて、おかしくなってちょっと笑った。出不精の黛くんに悪くないと思ってもらえたんなら、それって多分合格点だ。
時計の短針が二を少し過ぎた頃。ベッドに潜り込んでも何故だかざわざわする心に駆り立てられて、掛け布団を跳ね除けた。部屋中うろうろして、ほんの少しだけ迷って、黛くんを夜の散歩に誘ってみたのだ。眠れないからちょっと散歩しない、今なら日も出てないし人もいないし、どう。そう伝えたら黛くんは、作業の手を止めて伸びをした。それからこれきりだよ、って言って私の背中を優しく押したのだ。
夜中の住宅街を二人で歩く時間は、存外穏やかで心地よかった。間にもたれる沈黙も嫌なものじゃなくて、隣から聞こえる息遣いに、ひとりじゃないんだって気持ちになれた。黛くんがちゃんと隣にいる。それだけで、何よりも心強かった。
ちかちかと光る星々を眺める。あの子たちは今、想像もできないくらいの遥か遠くで自分の体を燃やしながら、ほんの一時の興奮と感動を私たちに与えてくれているのだ。そうして生命源を使い果たしたら、弱り果てて死んでいく。とても悲しいことだと思う。人間よりも力強く、美しく生きているのに、最期はみな同じ。呆気ない。星でああなら、人間なんて一体どうなってしまうんだ。ぴゅう、と吹き抜けていった冷たい風に肩を震わせながら、そう思った。
「寒い?」
「ちょっとだけ。さすがに舐めすぎてたかも」
「だからちゃんと上着着てきなって言ったのに」
「ごめんて」
黛くんに軽く叱られながら笑みを返す。半袖なせいでさらけ出された二の腕をさすっていると、隣から浅いため息が聞こえて、それから衣擦れの音。
「……今日だけだからね。こうすれば、ちょっとはましでしょ」
黛くんがこちらに手を差し出してきて、ふわりと余った袖が揺れる。わざとらしく斜めに夜空を見上げるその顔は無表情だけど、確かに彼の照れの感情を読み取って、ほんのちょっとだけ笑ってしまった。そうしたら黛くんが手を引っ込めようとするので、慌てて止める。そのまま袖口からするりと手を差し込んで、布の中で黛くんの手を捕まえた。手元が見えないまま探り探り指を一本ずつ絡ませて、いつも通りに収まった頃には、私の手元はぽっかぽかだった。ましって言うか、かなり良い。
指先で黛くんの手の甲をさすりながら歩き出す。私の手を包み込む三十七度は、今確かにここに存在していて、浮き出た血管に指を添わせても、血が流れてる。生きてる。大丈夫。
でもそれと同時に、この温かさが消えてしまうかもしれない日のことを考えて、ほんの少しだけ背筋が冷えた。かもしれない、なんて考え出したらきりがないけど、それでも今のうちに考えて心の準備とかしておきたい。失ってから気づくなんてことは、あってはならないのだ。
「ねえ黛くん」
「なあに」
「前世、前世って信じる?輪廻転生とか」
「なんかいきなりスピリチュアルな話きたね」
「本気なんだってば」
何気ない世間話ではあったけど、黛くんが茶化すからつい繋いでいた手を揺らした。見上げたその顔は私の質問について考え込んでいるようで、足取りが少しだけ遅くなっている。
「私はねえ、あったらいいなって思うし信じてるよ」
「へえ。どうして?」
「だってそういうのがもしあったら、何回だって再会できるじゃん」
そうでしょ?
同意を求めるように黛くんの方を見上げると、彼は少し面食らったような顔をしていた。前世があるんだったら、遠い昔に私と黛くんが一緒にいたかもしれない。輪廻転生があるんだったら、遥か未来でも隣に立てるのかもしれない。私が私でなくて、黛くんが黛くんじゃなくても、覚えてなくても、そういう事実があるかもしれない。そう考えると、毎日から少し肩の力を抜いて過ごすことが出来た。
「……随分とポエミーだね」
「そうかな」
「それに、生まれ変わったって名前も俺も、お互いを見つけられるとは限らないかもよ?」
「う〜ん……」
黛くんってネガティブ思考だ。普段は見栄張ってるくせして、夜になったり落ち込んだりすると割と簡単に崩れる。元々沢山考えて、物事をこねくり回すのが好きな人だからしょうがないと言えばしょうがないけど。でも私がちょっと考えて出した答えは、至って簡単なものだった。無責任かもしれないけど、無理して黛くんに難しい言葉で伝えたって伝わらないし。
「生まれ変わっても私はきっと、黛くんのこと好きだよ。もし黛くんがいなくなっても、私が見つけるから大丈夫!」
夜空に解けていきそうな片手を強く握って、黛くんに宣言した。言葉の呪縛って簡単に取れないものだけど、黛くんになら本望だ。一生縛られて生きていくのも、二人ならきっと悪くないはず。
そっぽを向いた黛くんのほっぺが今度こそ赤くなっているのを確認して、手を引いた。見つける自信はあるけど、今はまだ居なくなってほしくないから、早く帰ろう。黛くんの頼もしいね、なんて照れ隠しの言葉を背に歩き続ける。
今にも消えて無くなりそうな、儚い夢のような、そんな不確かな夜の話であった。
約束するはなし。
2020.7.11