惜しげも無い罠
毎日がただ右から左へ通り過ぎていく。そんな日々を送っていた。結構厳しい環境で生きてきたはずなのに、努力するのは苦手で、やり方も分からなくて。先のことを考えるのは嫌いだし、周囲に甘えて生活してきた。やらなきゃいけない事を締め切りの前日に思い出して、間に合わないからその場しのぎで適当にやって。その度にちゃんとやろうって思うけど、すぐに薄れて忘れちゃう。きっとその程度の意識で、何も変わらないってことだ。
「はあ…………」
疲労と自己嫌悪に苛まれて吐き出したため息は、酷く長くて重かった。余韻を残して空気に溶けたそれは、その分だけ辺りを淀ませた気がする。気がするだけだ。肩にかかっていたかばんを下ろして、制服をぞんざいに脱ぎ捨てる。結び方を最近になってやっと覚えたネクタイは、投げた先のベッドに転がり、ホックを外してチャックを下げたスカートは、そのまま私の足元で円形を作った。頭の隅で、制服をきちんとかけられない私を叱りながら、少しの微笑みを携えてそれをハンガーにかけなおす、兄のような、そうでないような存在の彼の顔が浮かんだ。やらなきゃだめって分かってるのに、その場の気持ちに身を任せてやらないところ。自分を律する心がないところ。私が直さなきゃいけない部分の一つだ。
せめてなにか変えられたらと思って、荷物の詰まったかばんを持ち上げる。机の上に音を立てて置かれたそれの中身、沢山の教科書達を引っ張り出して、定位置に綺麗に戻した。こういうのも本当はいくつか学校に置いておいていいもののはずだが、いつ必要になるか分からない。忘れるのは嫌だ、失敗は怖い。友達の少ない私にとって、忘れ物は致命傷だ。それだけの理由で脳を殺して、日々足に負担をかけながら、重い教科書を持ち帰ってきていた。
残っていた汗の染み込んだワイシャツも脱いで、ゆるい部屋着に着替える。うなじに張り付く髪の毛がうざったくて、早く夏が終わって、秋にでもなればいいと思った。秋は好きだ。涼しいし、あと彼の誕生日がある。職員さんも嬉しそうだし、彼も珍しく人並みにみんなの前で笑顔を見せる。誕生日に思い入れなんてなさそうな姿かたちをしてるくせに、初めて見た時は少し意外に思った。
このまま課題をやるか、彼の部屋に遊びに行くか、少し悩む。今となっては、あまりサイズのあっていない学習椅子の背に手をついて、前髪を払って、決めた。つま先の向きを緩やかに変更して、扉のノブをひねる。廊下の方が、空気がひんやりとしていて心地よかった。歩き慣れた道を進みながら、やることがないので脳みそが勝手にまた、暗いことを考え始める。たった数十秒前、あの時に自分を律してきちんと課題をやり始めていたら?きっとその時は苦しいだろうけど、そのあとの時間は有効に使えていたに違いない。私はあまりにも刹那的に生きすぎなのだ。中途半端に脳を持って生まれたくせに、後先考えないせいでそれを有効活用していない。直さなきゃいけない部分を分かってるくせに思考を放棄するところ。私の改善しなきゃいけないところのもう一つ。
そうしてうだうだ考えているうちに、目の前には見慣れた扉が鎮座していた。私の部屋の入口と同じ素材のそれを、手の甲でノックする。こんこんこん。三回。担任が、面接の時はマナーとしてノックは三回だと言っていた。でも国語のはげだぬきは、そんなもんくだらないと一蹴していた。大人はそれぞれころころと言うことが変わる。そりゃあ人間なんだからそれはいいんだけど、その正反対の意見を私たちに押し付けてくるから困っちゃうのだ。せめて統一してほしい。正解があるのか知らないけど、扉の向こうの彼に聞けばなにか有益な答えは返ってくるだろうか。
でも、扉の向こうから返事はなかった。いつもならノックしてすぐに、耳馴染みの良い低い声で返事がもらえるはずなのに。でかけてるのかな。いやでも、そんなはずない。今日はそこそこ暑いし、まだ外ではお日様が猛威を奮っている。そんな中彼が出かけるなんて、先程引き合いに出した国語のはげだぬきの頭が、ふさふさになっちゃうのと同じくらいありえないことである。
しょうがないから、そのままノブをひねった。鍵なんてないから開くのは分かっていたけれど、勝手に入るのはなんとなく罪悪感がある。今までも、何回か彼のいないこの部屋に一人でいた事はあったけど、大抵ちゃんと許可をとっていた。だからか分かんないけど、いつも通りきっちり冷房のかけられたこの部屋が、少しだけ寒く感じた。彼の体温が冷ややかな空気を暖かくしてくれないと、肌に合わない。この部屋も、この大きすぎる世界だってそうだ。
後ろ手に扉を閉めて、掛け布団が少し乱れたままのベッドに背を預ける。主に私が使い古したクッションを抱きしめると、私の匂いと彼の匂いが柔らかに混じりあっていて、ほんのちょっぴり安心できた。そうして顔を埋めて少し経った頃。蝶番がきいと鳴ったので、私は目線を上げた。
「……なんだ、名前か」
「あ、勝手に入ってごめん。ただいま」
「おかえりなさい。別にへーきだよ、ドアちょっと開いてたからびっくりしただけ」
「あれ、閉めたと思ったんだけどなぁ……」
少しだけ表情の硬かった彼、かいくんがそうであった原因は、扉が少し開いていたことであるらしかった。そりゃ閉めた扉が帰ってきて開いてたら、びっくりしちゃうよなあ。かいくん怖いの苦手だし。ホラーゲームとかでもよくある手法だ。こころなしか安堵のため息を吐いているかいくんが、今度こそかちゃり、と音を立てて扉を閉めたのを確認する。かいくんは御手洗に行っていたみたいで、ある意味ちょうどいいタイミングで来たね、なんて笑われた。確かにそうかも。
「暑そうだね」
「お外に出ないかいくんはご存知ないかもだけど、今日めちゃくちゃ暑かったんだよ」
「へぇ」
「自分から聞いたくせに興味無さそう」
「そんなことないよ」
「うそつき〜」
けらけらと笑って返すと、かいくんも少し笑ってくれた。ふんわりと花が咲くようで、ほわりと温かさが広がるようで、嫌なことばかり考えていた自分の心が、ちょっとだけ軽くなったような気がした。そのまま世間話を続ける。かいくんの部屋に遊びに来るのはいつもの事だけど、何をするとかは特に決まってない。今日みたいにおしゃべりしたり、ゲームしたり、あとお昼寝させてもらったり。私とかいくんはむっつかいつつは年が離れてるけど、居心地は良すぎるくらいで、向こうがどうかは知らないが、私はずっとここにいたいとよく心中で願っていた。
そのまま心地よく時間が流れて、世間話の話題もだんだん尽きてくる。私がここに来た時から一緒にいたお陰で、沈黙が辛いとかはない。でも、静かになると、また暗い思考が頭を占める。だらしない自分のこと。中途半端な点数の小テストのこと。一人で食べたお昼ご飯のこと。嬉しい思い出が浮かぶことはほとんどなくて、ずぶずぶと思考の深みにはまっていった。それに比例するように下を向き始める私は、かいくんから見ると随分おかしな様子に見えたらしくて。いつの間にか目の前にいて、私の肩を優しく撫でたかいくんは、私と同じように床にぺたんと座り込んでいた。
「顔色悪いよ、どうかした?」
「ううん、なんでも……なくはないけど」
「……それって、俺に言えること?」
「うーん……うん、いえる、こと」
かいくんが心配そうに私の瞳を覗き込むので、私も必然的にかいくんの瞳を覗くことになる。大部分を占めるトルマリンみたいな青色と、少しだけの優しい朝焼けみたいな薄桃色。まとめて朝露に濡れるみたいに湿ったそれには、かいくんに話すことをぐちゃぐちゃの頭の中で整理する私しか写っていなかった。焦んなくていいから、と私の髪の毛を梳くかいくんには、酷く安心感があった。
「いや……最近なんか、うまくいかないんだよね。周りにばっか甘えてちゃいけないし、自分の悪いとこ直さなきゃって思うんだけど」
「……ふぅん」
「……かいくんも、そう思うでしょ?」
なんとなくまとめた思考を口に出す。外で上手くいかないのなんて昔からだけど、少し見栄を張って最近なんて付け加えてしまった。でもそのことを気にする以上に気にかかったのは、かいくんの相槌。なにか相談事をすると、口では素っ気なく聞こえても、確かな温かさを持って、親身になってくれるかいくんとは思えないぞんざいな返事。なんだか面白くなさそうで、ほんの少しだけかいくんのまとう温度が下がった気がした。そんなだったから、ついよく分からない同調を求めてしまう。かいくんに叱ってもらえたら、自分を変えれる気がしたから。でも、世界はどこまでもうまくいかないものだ。
「いや、俺はそうは思わないかな」
「…………え?」
「せっかく小さい頃から俺の手がなくちゃ歩けないようにしてきたのに、今更一人で進み始めたら困るよね」
ふふ、なんてわざとらしく笑いながら肩を竦めてみせるかいくん。おちゃらけたその動作は面白いものであるはずなのに、かいくんの瞳が冷えきっているせいで笑えなかった。なんで、なんで、そんなの見た事ない。そんな冷たいかいくん、知らない。
「なんで……!かいくんはそんな事言わない!」
「かいくんは俺だよ。ごめんね、裏切っちゃったみたいで」
未知の恐怖に背筋がひやりとした。恐怖。私は今、かいくんを怖いと思っているのか。少なくとも十数年は一緒にいて、ただの優しくて面白いおにいちゃんみたいな人だと思っていた。でも、何かが違った。さっきの私の一言で、かいくんの中の何かが外れて、温かさがなりを潜めてしまった。わたしのせいなのかな。ごめんね、なんて言いながら、私の肩を優しく撫でるかいくんの暖かい手は、まとう冷ややかな雰囲気と合っていなくて、やっぱり怖いと思ってしまった。
「なんで、なんで……?私が根性なしだったの、かいくんのせいだったとか言うの……?」
「そこまではいかないけど、少し手を引いたりはしたかな。名前がどっか行っちゃったらいやだし」
私がどこかに行ったらかいくんは嫌なのかと、一番にそう思ってしまった。じゃあどういうことだ、かいくんは私が立派に一人で歩くのが嫌だったから、小さい頃から必要以上に手を引いて、手塩にかけて、私をいわゆる『だめな子』に育て上げたってこと?変だ、そんなのおかしい。かいくんがそんなことする理由も分からないし、それをするメリットも分からない。かいくんは合理的で頭もいいから、自分に不利益で必要のないことはしないはずなのだ。これが、かいくんの世界に必要なものだったってこと?いや、ありえない。
「変だよ……なんでそんなことするの?」
「ん〜……名前のこと、好きだから。初めて会った時から、ずっと」
思わず口に出したその疑問の答えは、いまいちちゃんと納得できなかった。ずっと、ずっとっていつから?私がここに来たのは八歳の時。そのときかいくんは、確か十四歳。私は今十七歳。かいくんは二十三歳。九年間、ずっとその、好きっていう気持ちだけで私を甘やかしてきたの?本当に?にわかには信じがたかった。そんな事実にも、かいくんが誰かを好きになるってことも。ましてやそれが私なことにも。
「なんでよ……なんで、なんにもできないわたしのこと好きなの……?かいくんがそうだから、努力の仕方がわかんないんじゃん……」
「……俺だけのせいかな、それ」
一気にいろんなことが頭の中に入ってきて、もう爆発してしまいそうだ。そのせいで、少し感情的になってしまう言葉尻には涙ものっていて、意図せず語尾が震えた。気持ちが昂って、自分のせいなのに、かいくんを責めるみたいな安っぽい言葉も口をついて出た。そしてそれに正論を投げつけるかいくん。涙は止まらなかった。正論が痛いわけじゃない、こんな自分が嫌なんだ。
「それは名前の性質、元々の性格もあるでしょ。しようと思えば俺の手を振り払うことだって出来たのに、名前はそれをしなかった。……名前の落ち度だよ」
「ちがう……ちがうよ……」
頭の中では自分がかいくんの言葉にしきりに頷いている。でも現実の私はそうじゃなかった。なんでか分かんないけど、その言葉を否定していた。思考がこんがらがってぐちゃぐちゃのしわしわで、それなのに考えなくちゃいけないことは多い。私もう無理だよ、考えたくない、私にはできないよ。
「……ね、もう分かったでしょ?俺知ってるよ、名前に友達が少なくて、学校も毎日もつまんないこと。だから、そんな名前を愛してあげられるのは、世界に俺だけなんだよ」
かいくんの言葉が 、じんわりと脳みそに溶けて沈んでいく。少しずつ、少しずつその意味を紐解いていく過程で、私の涙は枯れてしまった。違うと言い返す気力も、体力も尽きてしまった。もう限界、もう耐えられない。いつの間にか握りしめていた両方の掌に、かいくんの指先が暖かく絡みつく。血が止まって冷えていたそこに分け与えられた体温は、確かにいつものかいくんのものであった。
「ね、あいしてるよ」
ぷつ、と何かがちぎれる音がした。それは私が保っていた意識の糸かもしれないし、私が頑張って繋ぎ止めようとしていた、きちんと人間として生きるための、頼りない命綱だったかもしれない。でも、ちぎれてしまった。もうどうでもいいのだ。だって、今までもかいくんの手のひらの上で転がされていたんだから、今更それをやめたところで何が変わるという訳でもない。むしろ身を任せていた方が、ずっと楽だし、きっと幸せだ。
「ずっと、ずっと、最初から、僕だけのものだからね」
薄れていく意識の中で、全身を温もりに包まれる感覚を心地よいと思った。かいくんの温度は、心地の良い陽だまりのようでもあるし、全部を低温やけどでぐちゅぐちゅにしてしまいそうな感じでもある。私に与えられるのはどっちだろう。きっと、どっちもだ。全身ぐちゃぐちゃにされて動けなくなったと思ったら、優しい陽だまりでまた動けるようになる。そうしてずっとかいくんの側で、手を引かれて生きるのだ。握られた小指を無意識で握り返して、そんなことを思って、暗闇に意識は蕩けた。きっともう、戻れないんだ。
踊らされるはなし。
2020.7.19