俺だけの魔法使い


褒め言葉とか、過度な期待とか、持て囃されたりだとか。そういうのってあんまり好きじゃない。自分の身の丈にあってないと思うし、ただひたすらに重荷に感じちゃう性分だから。
俺のこの面倒臭い性質は、今までもこれからもずっと俺の心に張り付いているもので、別に改善されるものでもないかなとか、そのくらいの心持ちでいた。
でも、そうじゃなかった。最近の俺は少し前と変わった。昔ほど自分に対する褒め言葉に劣等感を感じてない。足元がふらつくような、手持ち無沙汰な感覚に襲われない。それを自分に対する正当な評価として、ほんの少しだけ受け取れるようになった気がする。多分、考えられる原因は一つ。

「おはよう、黛くん」
「……うん、おはよ」

扉を二回ノックする音が聞こえて、薄暗い俺の部屋にぼんやりとした光が廊下から差し込む。きい、と鳴った蝶番の音と共に顔を出した名前は、如何にも寝起きっぽい、ぽやぽやとした出で立ちであった。
今は、朝の六時をほんの少し過ぎたくらい。名前は早起きで、俺は遅寝。交わらない二人の生活リズムが重なるこの瞬間が、ちょっと好きだったりする。ちょっとだけね。

「朝ごはん食べる?」
「あ〜……うん、食べる。ちょうど仕事も一段落ついたから」
「遅くまでお疲れ様、すぐ準備するから!」
「……うん」

さっき言った考えられる一つの原因っていうのは、名前のこと。名前と一緒にいるようになってからだ、俺が変わったのは。
そのまま俺の部屋を出ていった名前を追いかけるようにして、リビングに向かう。キッチンでエプロンを付けてくるくると動く名前がよく見える位置のソファに陣取って、肘掛けに軽く肘をついた。
思い返せば、それは割と最初から行われていた気がする。ちなみにそれっていうのは、名前が俺をしょっちゅう褒めること。俺と名前が出会った時、紆余曲折を経て付き合い始めた時、同じ家に住まい始めた時。いつでも名前は笑ってて、俺の事をふわりと褒めていた。本当になんでもない風に、絹を滑るように。それだけ自然だったせいで、俺は気づけなかったのだ。名前が気づいていたのか、それとも無意識でやっていたのかは分からない。だけど俺はきっと、誰でも心に持っている他人と相容れない硬い部分を、長い時間をかけて、名前に柔らかく解されたんだと思う。それは多分、悪いことじゃない。むしろ、いいこと。
この事実に辿り着いた時、俺は少しはっとした。それから、ぽかぽかとして、なんというかむず痒い気持ちになった。初めて味わうこの悪くない感覚も、名前がいなきゃ一生知ることはなかったと思う。他にも色々。新しい刺激とか、気持ちとか、体験とか。俺の世界になかったものを沢山持ってて、それを他人に分け与えることに気兼ねがない。そういうとこを、好きになった気もする。

「ご飯できたよ〜」
「……ありがと、今行く」

名前の声が鼓膜を響かせると、思考の渦が波を引いたように消えていった。呼ばれるままに椅子を引いて、名前の向かい側に座る。こうして朝ごはんを一緒に食べることもそんなに多くはないから、まだ少し新鮮味を感じた。いただきます、と手を合わせると、どーぞ、と返ってきたのは君の低い作り声。俺の真似だろうけど、つっこむのはやめておいた。それでも名前は気にせずグラスに飲み物を注いでいるから、彼女の中で自己完結されているのだろう。変な子だ。……俺が言えたことでもないか。
並べられた彩りのいい朝ごはんをゆっくりと咀嚼しながら、一言二言と会話を交わす。時間の流れが遅くなっているような感覚がして、でもそれはこれが早く過ぎればいいとか思っている訳ではなくて、それだけゆったりとした良い時間ってことだ。と言っても名前と過ごす時間の大半はこうだけど。
改めて、良い影響しか与えられていないなと思った。俺の感じ方を変えてくれたのもそうだし、名前と出会って俺の世界は広がった。魔法使いみたいだなんて小さい子供のように思うけど、名前はきっと魔法使いなんかじゃない。ただの、俺をよく知ってくれてる女の子だ。それが俺にとっての魔法使いにならないかは置いておいてね。
最近気づいたこの事実を名前に伝えてお礼を言いたい気もしたけど、なんだか野暮な気もした。だって名前は俺に気づかせてくれなかったのに、俺だけ名前に気づかせるのも変だ。だから、ただ言葉にすることにした。支離滅裂に。
君がトーストをかじって、会話が一旦止む。緩む口角を抑えられなくて、穏やかな弧を描いた唇が空気を震わせた。

「……ありがとうね」
「え、なにが?」
「なんでもない」

一人やけにすっきりとした顔で笑う俺を、目を瞬かせて見やる名前。しばらくはどういうことかを聞き出そうとしてきたけど、頑なに話をすり替え続けていたら諦めてしまった。恨めしそうな視線を感じるけど、微塵も怖くない。むしろ愛おしいくらいだ。
いつもは鬱陶しくてしょうがない朝の光が、今日はなんだか綺麗に見えた。カーテンを揺らす爽やかな風も、窓から聞こえる何ともしれない鳥のさえずりも。空気の全てが輝いて見えて、この大切な時間を逃したくないと思った。何より、君を。
いつかは俺も、名前に良い影響を与えることはできるんだろうか。今はもらってばかりだけど、きっといつかは出来ると願う。だって、先は長い。これから数えきれないくらいの月日を名前と重ねるんだから、そのうちにきっとくるはずだ。風に揺れる名前の髪を眺めて、緩やかな思考を繰り返す。幸せな時間が、ずっと続けばいいと思った。

変えるはなし。
2020.8.3