夜は冒険
マウスから手を離してイヤホンを取って、軽く伸びをする。ぎい、と軋んだ馴染みのゲーミングチェアと共にぱきりと音を立てた自分の腰が、少し心配になった。
壁にかかった時計を見上げる。現在の時刻は、午前一時を少し過ぎたくらい。たった今配信を終えた身ではあるが、本日二回目となる配信をしようか少し悩んだ。
くるりと椅子を回して、足先に力を込めて立ち上がる。とりあえず少し休憩でも、と思って談話室に顔を出そうと思い扉に手をかけた瞬間、丁度よくノックの音が三回響いた。少しの驚きの後、数歩下がって返事をする。蝶番が控えめに鳴いて開かれた扉の向こうには、今まさに寝ようとしていました、みたいな格好の名前が立っていた。
「こんばんは、ごめんねこんな時間に」
「いや、別に大丈夫だけど……。どうかした?」
この子とは結構気心の知れた仲だ。別に今更変な時間に尋ねてこられても非常識だなんて思いはしないけど、それにしたってこんな時間にここに来るなんて珍しい。一体どう言う風の吹き回しだろうか。それだけが少し気にかかった。
「なにかあったの?」
「いやまあ、あったといえばあった」
「……煮え切らないね」
言いにくそうに斜め下の方を向いて、両手の指先を擦り合わせる名前。恥ずかしそうというよりかは、単純に言い出しにくそうな感じだ。これは個人的に感じたことだけど、なんとなく、悪いことをしちゃって、そのことを中々言い出せない小さな子供みたいな感じだなと思った。
「黛くん今暇?」
「まあ、暇といえば暇かな」
「……一緒にコンビニ行きません?」
「コンビニ?」
怪訝そうに聞き返した俺に向かって、饒舌に言い訳を始めた名前。どうしてもお腹が空いちゃったの、いつもはこんな事ないんだけどさあ、夜ご飯少なめだったからかな、とかその他いろいろ。別にそんなに気にしなくてもいいと思うけどな。
「ひとつ聞いていい?」
「うん」
「なんでわざわざ俺を誘いに来たの」
これは別に卑屈になってるとかそんなんじゃなくて、ただの純粋な疑問だ。女性の職員で起きてる人だってまだいるはずだし、名前が頼れる人だって他にも沢山いる。それに俺の部屋って施設のみんなの生活圏とは少し離れてるし、こんな夜遅くにわざわざ俺の所まで来た訳が知りたかったのだ。
「え〜……言わなきゃだめ?」
「別に強要はしないよ、ちょっと気になっただけだし」
「その言い方ずるいよなあ……。う〜んとね、えっと……。こう、気軽に、遅い時間に言いに行ける人でぱっと思いついたのが黛くんだったから、ですね」
ちゃんと言いましたけど、みたいな顔でこちらを見上げる名前を見つめ返す。平常時より少しぶすくれた顔をしているのがなんとなく、可愛くて、わざとらしく頬をふくらませていたから、お望み通り人差し指で潰してあげた。
「ここまでしたんだから流石に一緒に行くよね?」
「別に、俺は最初から着いてってもいいと思ってたけどね」
「ひきょうもの……」
投げられる抗議の視線を遮るように、そんな格好じゃ行けないでしょ、早く着替えておいで、と彼女を送り出す。玄関で待ち合わせね、と言った名前はぱたぱたと廊下の奥に消えていった。
とりあえず、また自分の部屋に引っ込んで扉を閉める。俺は別に服装を改める必要はないよな、と思いながら、なぜだか少し満ち足りた気分になっていることに気が付いて、ちょっと恥ずかしくなった。多分、名前に頼られることを嬉しがっているんだと思う、俺は。この施設の中で名前が一番気安く接せる相手が俺だということに確かな優越感を感じながら、柄にもなく心臓を高鳴らせているのだ。全くもってイメージ違い。名前に知られたらどうにかなってしまいそうだが、まあ、いつの日か伝えてみるのも一興かもな。
はあ、と意味の無い溜め息を押し出して、自分の部屋を出る。寝ている子達を起こさないように気を遣って、俗に言う抜き足差し足忍び足で玄関まで向かった。
俺の背丈と同じくらいの靴箱が鎮座する玄関に辿り着き、ぱちりと明かりを付ける。薄ぼんやりとしたオレンジががった光に包まれるその場所を見て、名前のことを思い出す。どこにも行けないから、早くここまで来て欲しい。
そう思った数十秒後。暗がりの向こうから足音がして、次第に光に包まり輪郭が君になっていく。数分前に別れた名前の姿を認めた俺であるが、正直目を疑った。
「ねえちょっと」
「ん〜?」
「……それで行くの?」
「え、だめ?」
首を傾げる名前を全身鏡の前に立たせてあげれば気づくのだろうか。それとももう既に気づいているけれど、それを問題と思っていないのだろうか。不思議そうな顔をする名前の服装は、先程とほとんど変わっていなかったのだ。
薄い生地の半袖シャツに、丈の短いこれまた薄手のズボン。外に行く気があるのかこの子は。それなのに意気揚々と突っかけを引っ掛けて玄関から出ていこうとするから、思わず手首を引っ付かんでしまった。
「わ、なに?」
「……流石に、薄着すぎる。これ着て」
「わぶっ」
半ば強引に、自分がいつも着ているオーバーサイズのシャツを被せる。名前が渋々袖を通すのを認めた後、俺が着る上では余り出番のなかった前ボタンをひとつずつ閉めてやった。俺が着てる時でさえ袖も丈も余っているのだから、彼女が着た時はさながらワンピースだ。
「はい、行こう」
「……黛くんこういう事するからみんなにお母さんって言われるんだよ」
「なんか言った?俺聞こえなかったな〜」
「なんでもないです〜」
今度こそ玄関を押し開けて、真っ暗闇が広がる外へ飛び出していく名前。早く、なんて言うみたいに手招きされたから、続いて俺も外へ出た。二人で肩を並べて歩きながら、他愛もない話を重ねる。ほんの少し蒸し暑い深夜の空気に、二人の影はゆうるりと溶けていった。
コンビニに誘うはなし。
2020.9.9