同じ苦しみ、
ほどいて楽しみ
「ねぇ、次の日曜日って空いてる?」
夜が少し更けた頃、妙に汗ばんだ君が俺のところに現れて、そう言ったのを思い出していた。何故か上手く言葉を話せなかった俺に向かって、君があまりにも必死な瞳で「その日だけでいいの、おねがい」って頼んでくるから、変に軋む体で一度だけ頷いた。
それから何日か過ごして、今日がその''次の日曜日''。君は朝早くから俺の手を引いて、どこかへと向かう電車に乗った。行き先を聞いても答えてくれなくて、ただ時間だけが進んでいく。窓の外を流れる景色はどんどん変化していって、無機質な人工物で始まって段々と自然が増えていった。君がここで降りるね、と言った駅のホームからは青く輝く海が見えていた。
もう九月に入ったというのに蝉の声が聞こえる。太陽光は全盛期よりいくらか柔らかいが、出不精の俺にとってそれでさえも辛いことには変わりなかった。駅から出ていかにも、といった山道を進む君が疲弊した様子を隠せない俺に、申し訳なさそうに微笑む。
「ごめん、疲れたよね」
「いや……大丈夫。暑いだけ」
「……もうすぐ、もうすぐだから」
やけに思い詰めた表情でそう言う君は、ここではないどこかを見つめているような気がした。不安になって手を取ると、不思議そうに様子を伺ってくる。疲れたから手引いてもらおうと思って、と咄嗟に言い訳をしたら、君が真っ直ぐな笑い方をしたから少し安心した。
一言も言葉を交わさず、ただ土を踏みしめ木々の間を進む。なだらかな坂道を登り続ける間、何故だか数度、嫌な予感がした。俺の前を歩くなにか強い意志を持った君の背中が、遠く離れているような気がして。それでも気の所為だと頭を振った俺は、ただ君についていくことしか出来なかった。
数十分、数時間にも感じられた時間は唐突に終わりを告げる。視界が開けて、なにか広い場所に出た。青々とした芝生のようなものが生い茂り、前方には駅のホームから見た時の数倍広く見える海が広がっている。崖のような場所らしい。少し遠くに石の塊のようなものが二つ並んでいるのが見えた。あれは……お墓?
「黛くん、着いたよ」
山道を抜けた辺りで足を止めて黙りこくっていた君が、唐突に言葉を発した。やはりここが目的地らしい。現代日本にこんな場所があったのか、とか君はどうしてこんな所を知っていてよもや俺を連れてきたのか、とか色々言いたいことはあった。だけど、君が一歩一歩噛み締めるように、思案するように、恐れるように歩を進めるので、俺は黙って着いていった。こんなにも君の意図が掴めないことなんて初めてだ。
君は俺の手を引いて、先程見たお墓のようなものに近寄っていく。段々と鮮明になっていくそれは、日本の墓地によくあるようなものではなく、なんならゲームの中でよく見るような西洋のお墓によく似ていた。
遠くから、波のさざめきが聞こえる。お墓に近づくにつれて、暑いはずなのに冷や汗が止まらなかった。意識的に視界から外してしまう。なんとなく、それを見たらもう後には戻れないような気がした。
「黛くん、ねえ、みて」
遂に墓石の前までやってきてしまった。君が緊張した声音で、無情にもそれを見ることを促す。ごくりと生唾を飲み込み、ゆっくりと、視線を動かした。視界の真ん中に鎮座する墓石。ローマ字で、この墓で眠っている人の名前が書かれていた。その名前を認識した瞬間、おれは。
「なんで……なんで……?」
喉が震えて情けない声しか出せない。足の力が抜けて、へたりこんでしまった。地面についた手のひらには柔らかい芝生の感覚。でも、そんなことどうだっていい。この、この墓に刻まれた名前は。
「どうして、父さんと母さんの名前が……」
墓石にローマ字で刻まれた名前は、紛れもなく、施設の所長から教えられた俺の両親の名前だった。両親の墓があるなんて聞いていない。これが俺の家族だって言うんだろうか。幼い頃に、物心が付く前に失って、心のどこかで切望していた、もの。
「なんで君が知ってるの、」
「……あのね、黛くん」
地面に蹲った俺とは対照的に、見上げた君はただじっと白い墓石を見つめていた。俺の声に反応してこちらを向いた君は、泣きそうな顔をしていた。俺が話しかけたのに、君が言おうとしていることを聞きたくなくて、後戻りができない状況にしたくなくて、耳を塞ぎかけたけど、君がしゃがみこんで俺の手を掴んだから出来なかった。押し潰されそうな表情をした君が、躊躇いながら口を開く。
「ねぇ、黛くん。……そのお墓の名前、読める?私の名前、おぼえてる?」
泣きそうな君の声を聞いて、ばっと墓石の方を振り返った。読めないはずない、だって俺はさっき、この墓石をきちんと俺の両親だって''認識''したはずじゃないか。
俺の期待を裏切って、墓石に刻まれた名前は読めなかった。苗字までは分かるけど、その先に書かれているはずの、下の名前が分からない。どうして、なんでだ。そういえば君の名前は?君の名前は、あ?
「なんで……わかんないの……?」
「わかんないの、当然だよ。それであってるの。この世界でわかる人は誰もいないの。……設定、されてないから」
設定?設定されてないってなんだ。ゲームじゃないんだから。訳の分からないことを言う君は、ぎゅうと俺の手を強く握った。ちゃんと痛い。俺はここにいるはずなのに、俺の現実はここなのに。
「黛くんは、黛くんであって黛くんじゃないの。本当の''黛灰''は、別のところにいるの」
「は、」
「私たちは、作られた思考の中でいきてるの」
作られた、思考の中で生きている。ぼろぼろと涙を流しながらもしっかりとした声でそう告げた君が酷く残酷な人間に見えた。少ない情報なのに、何かをはっきりと理解した気がした。
「黛くんは''黛灰''から派生した別の生きもの。それでわたしは、」
「まって、」
「誰かの器でなくちゃいけない、空っぽの生きもの」
がん、と強く頭を殴られたような感覚がした。頭が痛い。割れるような頭痛がする。まって、まってくれよ。これ以上君の言葉を聞くなと、この世界を知るなと、ストップをかけられているような気がした。だけど君は続ける。俺はそれを聞くしかない。
「この世界はね、物語の中なの。私たちはその物語の登場人物で、本当はいない存在なの」
「きみと俺は、ここにいるのに」
「だってさ、都合がよすぎると思わない?どうしてわたしが黛くんの両親のお墓の場所を知ってるかとか、こんな場所にあるのかとか」
「……」
「私が黛くんの両親のお墓の場所を知ってるのは、きっと次の物語がそういう話だから。こんな場所にあるのは、綺麗な場所じゃないとロマンチックなお話にならないでしょ?」
この場所だってきっと数週間前にはこの世界になかったはずだよ、思考の主が考えてから初めて出来て、次のお話で私が黛くんをここに連れてこなきゃいけなかったから、私がここを認識したんだと思う、と淡々と告げる君。確かに、言われてみれば全てがお膳立てされすぎている。まるで都合よく進むお話の中みたいな。
君の言葉を噛み砕いてそう自分で思った時、すとんと全てが腑に落ちた気がした。俺は俺であって俺じゃない。俺が両親を失ったんじゃなくて、両親を失ったのが俺なのだと。そう決められていたからそうなったんだ。
「君は、なんで知ってるの?いつそれに気付いたの……?」
「なんで気付けたのかはわかんない、でも多分、私が一番この世界を作った人に近いから気付けたんだと思う。この前、酷い風邪引いた時、いきなり……」
君が言うには、君は俺という相手に充てられた主人公らしい。そしてこの世界で起きる物語は、俺を相手にした恋愛小説。読者が自分を当てはめて物語を読めるように、君には設定が少ない。名前でさえも不定形。さっき俺がこの子の名前が分からなかった理由は、それであるらしかった。
「あのね、黛くん」
「うん」
「わたしはこうやって自分が登場人物である自覚が芽生えちゃったわけだけど、その後もね、ちゃんと黛くんのこと好きだったの」
「……うん」
「この話が黛くんを相手にした恋愛小説だから、私が黛くんを好きな気持ちもこの世界にそうであるように決められたのかなあって思ったんだけど、分かった後も好きってことは、きっと、そうじゃないんじゃないかなって、思ったの」
私が黛くんにこの世界のことを伝えようとしたのはね、と続ける君。ぽろぽろと流れる涙が太陽光に反射してとても綺麗だった。どうしてこんなにも美しくて暖かい君が、虚構の存在だなんて残酷な事実があるんだろう。どうして気付いてしまったのだろう。
「縛られないで、二人で生きていけるかなあって思ったの」
「この世界は設定されてないことは''ない''ことになってるけど、果てがあるかもしれないけど、どこかで壊れちゃうかもしれないけど、それでも」
「黛くんと一緒に、自由な場所に行ってみたいって、思っちゃったの……」
震える声で、嗚咽混じりにそう告げた君。俯いてしまって顔は見えないけど、涙で濡れてぐしゃぐしゃになっていることは簡単に想像できた。そばに寄って抱きしめる。あったかい。
「ごめん、辛いこと一緒に背負わせちゃって、気付かない方がきっと幸せだったのに、」
「俺は、」
「黛くん……?」
「君の名前も呼べないし、まだ色々とわかんない事もあるし、気持ちの整理もあんまり、というか全然ついてない。けど」
「……」
「自覚が芽生えた今でも、君のことはすき。君と一緒」
「……!」
「理由がそれだけで充分って思ってもらえるなら、俺は君に着いていきたい」
「……私が頼んでたのに」
「だめ?」
「だめじゃないよ、なんでそうなるの、いいに決まってるでしょ……」
俺の肩口に顔を埋めた君は、先程よりもずっと強い力で俺を抱きしめて、泣きながら鼻を啜っていた。以前まではこんなことしなかったなと思ったけど、これが彼女の自我なのかもしれない。物語に強制されない、彼女自身の性格から出る行動。むしろ以前よりずっと愛おしい。
彼女の背中を優しく叩きながら、長い時間そうしていた。君が泣き止んで顔を上げた時には、夕方とまではいかなくてもほんの少し太陽が傾いていた。ごめん、と一言謝った君の頭を撫でて、二人で一緒に立ち上がる。
「このお墓も、本当のものじゃないのかな」
「……でも黛くんのご両親はここにいるはずだよ。お話で、そうなってるから」
「残酷だなあ」
残酷だと、軽く口に出した俺におろおろとした様子を見せる君。大丈夫だよ、となだめすかして落ち着かせる。俺は自分で思っていたより色々と気にしていないらしい。これだけいきなり大変なことが起こったから、現実味がないだけかもしれないけど。現実味なんて、物語の中で言うのも変な話かもね。
近くに咲いていた野花を二輪摘んで、それぞれの墓石の前に添える。しゃがみこんで手のひらを合わせると、君が俺に習って横に並んだ気配がした。いくらかして、立ち上がる。
「帰ろうか」
「どこに……?」
「一旦施設。出ていくって説明して、君の行きたいところに行こう」
「……!うん」
「あとさ、君を呼ぶ名前が欲しい」
「私の名前、」
「情けないことに俺は君の名前がわかんない。けどいつまでも君って呼ぶ訳にもいかないでしょ」
「情けないって……決まってないからしょうがないよ」
「それでも、俺は自分が情けないと思うよ」
「……今まで私に色んな人が名前を当てはめてきたと思うんだけど、その名前がいくつか思い出せるの。それで気に入ってるのがある」
「どんな名前?」
どちらからともなく指先を絡ませる。彼女の手のひらがくっついて暖かい。ざあ、と一陣の風が吹き抜けた。間が良すぎると思ってしまうのは、少しひねくれすぎだろうか。
「……名前」
そう呟いた君は、名前は、何故か少し恥ずかしそうだった。自分の名前を名乗ることは初めてなのだからしょうがないのかもしれない。
「名前かあ」
「うわなんかはずかしい」
「苗字は?」
「苗字は……わかんない。多分ない」
「ないのかあ」
「黛くんつけていいよ」
「そう言われると……俺は黛でいいんじゃないとしか言えないんだけど」
「えっ」
こ、今度自分で考える!と焦ったような声を出した名前は、明後日の方向を向いてしまった。それでも繋いだ手は離されなくて、思わず少し笑ってしまった。
この世界は残酷で、まだ俺にも君にも分からないことも、不自由なことだっていっぱいある。それでも、ここが俺の、俺たちの現実だから。生きていくしかないんだと、手のひら越しに伝わる君の体温を感じて、強くそう思った。
進むはなし。
2020.9.19