本番は二ヶ月後
かゆい。かゆいかゆいかゆい!
左手の右から四番目。その指のちょうど付け根辺りをなんと蚊に刺された。この季節だから百歩譲って蚊に刺されるのはいいとする。でもさ、だからってこんな所刺してくる必要ある?かゆいって思っても絶妙にかきにくい位置だし、何よりちょっと腫れてる所が横の指に擦れる度にくすぐったい。あ〜もうほんと最悪……なんで蚊なんて世界に存在するんだ……私が死滅させてやる……。
絶対に無理だろうな、と思いながら蚊に恨み節を送っていると、明那が怖々とした顔で近寄ってきた。今の私は確かに蚊に対する殺意で凶悪な顔してると思うけど、そんな怯えなくても……。
「な、なんかあったん?」
「見て明那!これ!」
左手をぱっと開いて明那の方へ突き出す。びっくりして一回身を引いた明那は、私の左手をじっくり眺めて「……ごめん、なんも分からん」なんて言った。
「見てほら、ここ!蚊に刺された!」
「あ、ここね?!うわ〜……めっちゃ腫れとるやん」
明那が私の手を取って、刺された部分をじっくりと観察している。自分の事のように眉をしかめた彼は、戸棚を漁り出した。多分虫刺されの薬とか探してくれてるんだと思う。
「なんかあったかな〜……」
「今年まだ買ってない気がする」
「……なんもない!」
ムヒとかそういうものを買った記憶は一ミリもない。かと言って今は夜だ。買いに行くのもめんどくさい。お風呂入っちゃったし。頑張ってちまちまと刺された部分をかいている私を見て、明那がちょっと笑った。
「蚊に刺された時ってなんかすることあるっけ」
「蚊をたたきつぶす」
「それはあとでこの明那くんが直々に手を下しておくので!」
「頼んだ」
自分の胸を握り拳で叩いた明那。薄いくせにそんな勢いで叩いちゃって苦しくないんだろうか。明那は特になんでもない顔ですいすいとスマホをいじりだした。
「へいしり、蚊に刺された時の対処法!」
「うるさ〜い」
「ごめんやん」
いつもの感じで軽口を叩きあっているとかゆみも忘れられる……気がすると思ったけどそんなことはなかった。やっぱかゆい!
なんかいい方法あった、と明那のスマホを後ろから覗き込んでも思わしくない返事が帰ってくるだけで。爪の先でかりかりと患部をかき続けていたら、突然ちくりとした痛みが。指を見てみる。……あっ。
「あきな」
「な〜に」
「血出た!」
「えっ……えっ、まじやん?!うわっ、痛い痛い痛い!めっちゃ血出てない?!」
「明那は痛くないよ」
「いや俺も痛い!」
「えぇ……」
え〜っと、ばんそこだばんそこ!と言いながらまたしても戸棚を漁り出した明那。あ〜あ〜あ〜、急いでるから色んなもの落としてる。戸棚から転がり落ちた冷えピタやら体温計やらを雑に元に戻して、発見したらしい絆創膏を持って明那が戻ってきた。
「見てこれ、うさちゃん」
「……そんなん買ったっけ?」
明那が持ってきた絆創膏のパッケージを見ると、小さな女の子が喜びそうなピンクのうさぎが踊っていた。どうしてこんな小児科にありそうなものがうちに……?
不思議に思いながらも、貼ってくれるという明那に甘えて左手を差し出す。さっき患部を観察された時より数倍丁寧に私の手を取った明那は、うわ〜俺これ絶対綺麗に貼れん!無理!とかなんとか騒ぎながら絆創膏を包装紙から出した。
下を向いて私の指先に全神経を集中させている明那はちょっと面白い。本当に気を使っているらしく、一言も喋らなくなってしまった。黙ってるとかっこいいんだけどな……。……一応彼女だし、黙ってる時も、にしてあげよう。
明那の手によって私の指をくるりと一周したうさぎ柄の絆創膏。は〜……と息を吐いた明那にお礼を言う。結構綺麗に貼れてるじゃん。よかったよかった。
「きつかったりしやん?へーき?」
「うん、大丈夫だよ。ありがと」
もう俺ここ一週間で一番緊張したわ、なんて言いながら握ったままだった私の左手を弄ぶ明那。最近緊張するようなこと無かっただろうから、そりゃ必然的に一番になるわな。口に出ていたらしく、比喩だって!そのくらい頑張ったってこと〜!とやかましい明那。はいはい、ありがとうね。嬉しかった嬉しかった!
「もう痛くない?」
「いやちょっと痛いけど、かゆくはなくなったかも」
明那が絆創膏を見ながら心配そうに言った。痛みよりかゆみの方が辛かったからこの状況になってよかったな。出血は良くないけど。
そんなことを考えていたら、一人で色々と喋っていた明那がふと口を噤んだ。私の左手を見つめて、何かを考え込んでいるようだ。一体どうしたんだろうと思って、声をかけようと思った瞬間。
ちゅ、と可愛らしいリップ音がして、明那の唇が絆創膏に触れた。触れられた場所が、ほの暖かく熱を持つ。
「……あ、明那?」
「あ、っと……なんか、早く治るようにおまじない〜……的な……あ゙〜〜!!やっぱ今のなし!!」
自分でやったくせに首まで真っ赤にした明那はどたばたと立ち上がり、私の顔も見ずに絆創膏を戸棚に戻しに行った。ちゃんと言うからそれまで待ってて、という謎の台詞を残して。本当になんだったんだ……?
明那にキスされた絆創膏を天井の照明にかざしてみる。広げた指の隙間から、零れる光を眺めた。
「……あ」
一つ、気づいた。広げた左手を親指から数える。いち、にい、さん、し。紛れもない四番目。
……左手の薬指だ、ここ。
絆創膏を貼ってくれるはなし。
2020.5.24