魔法の解けた灰被り


太陽が沈んでしばらく経った二十時頃。南東の空に光り輝いているあの星は、乙女座の一等星だろうか。
不破くんと二人並んで駅までの道を歩く。繋がれた左手の確かな温もりは私を酷く安心させたけれど、一歩、また一歩と縮まっていく駅までの距離に反比例するように私の気分は沈んでいった。デートの後に私を置いて、他の女性の元へと行ってしまう不破くんを見るのはやっぱり辛い。それが仕事だと頭ではもちろん分かっている。でも私の心は余計なことまで感じ取って考えて、勝手に地の底に落ちていってしまうのだ。今日は、まだなんとなく不破くんと一緒にいたくて無理を言って駅まで見送ると着いてきたけど、やっぱり止めておけばよかった。これならまだ、不破くんの息遣いの残る我が家でじっと我慢している方がマシだったかもしれない。
横で楽しそうに喋ってくれている不破くんに、微笑みながら相槌を返す。ちゃんと上手く笑えているだろうか。不破くんは気遣い上手で人の心の機微にやたら敏感だから、私が落ち込んでいることなんてもう気づいているかもしれない。それでも気付かないふりをして笑ってくれてるんだったら、私もそれに気付かないふりをして笑わなきゃ。絡めた指先を、ほんの少しだけ強く握った。
こつ、と不破くんのブーツの足音が止む。最寄り駅の前に着いてしまった。どちらともなく手を離して、片手の温もりがふと消える。小さな駅なので人はいない。入口の上に取り付けられた蛍光灯が、ちかちかと不規則に光を放っている

「わざわざ送ってくれてありがとう。今日も楽しかった!」
「うん、私も。また行こうね」

お仕事頑張って、の一言がどうしても出なかった。喉が張り付いてしまったようだ。酷く喉が渇いた。それでも出来る限りいつも通りに見えるように、不破くんに向かってゆるゆると手を振った。これはなんか、意地というか、プライドというか。どっちも変わらないか。そんな私に曖昧に笑った不破くんは、突然距離を詰めてきた。思わずつんのめった私に構わず、不破くんは片手を腰に回してくる。ふらりとさまよったもう片方の手は、私の小指だけを遠慮がちに絡めとった。

「ふ、不破くん……?」

返事はない。至近距離で向けられる熱っぽい視線が熱い。一体どうしちゃったんだろうか。拘束を振り解けない訳では無いが、振り解かなくていいと思っていた。人はいないし、密着されるのも嫌じゃない。ただ、いきなりだったから。
することもなくて、ほんの少し細められた不破くんの瞳を眺める。虚ろに見えたそれは、私の目を見つめているようではなかった。月明かりに照らされて、てらてらと輝く生きる宝石。アメジスト、タンザナイト、アメトリン、スピネル。紫の色彩を宿した宝石の名前が次々と頭に浮かんだけど、不破くんの瞳はいつだってそれを優に超える輝きを持っているように思える。大きくなった瞳孔を見て、ただそう感じた。
どのくらいそうしていただろうか。一分だったかもしれないし、たった三秒だったかもしれない。夢か現か分からないくらいに、ふわふわとした感覚だった。ふと、不破くんの瞳がくいと動く。確かにこちらを見つめるそれは、さっきとは少し違っていた、気がする。
こつん、と額と額がぶつかった。くっついている面積が突然増えて、否応なしに体温が上がる。そのままどうするのかと少し慌てていたら不破くんがふふ、と息を零すように笑った。見透かされているようでちょっと不服だ。そのまま流れるように重ねられた唇。正直されるかなとは思っていたからそんなに驚かなかったけど、分かっていてもやっぱりちょっと恥ずかしい。キス自体もそんなに恥ずかしいものじゃなかったのに。本当に唇の皮膚と皮膚を触れさせるだけの、中学生もかくやと言ったような淡いキス。それでも不破くんは満足だったようで、へにゃりと破顔した。そのまま背中を丸めて私の首元に顔を埋める。

「ずっと、一緒にいたいなぁ」

くぐもった呟きは確かに私の鼓膜を揺らした。聞き返す暇もなく、身体中を包んでいた温もりが離れていく。外気が冷たいことを思い出した。距離を取った不破くんは、いつも通りの話し口調だった。

「いきなりごめんねぇ。じゃあ、俺頑張ってくるから!」
「あ、うん。いってらっしゃい……」

こつこつ、と少し早足で不破くんの足音が遠ざかっていく。くるくると事が進み状況を理解しきっていない私の脳みそは、呆然と見送ることしか出来なかった。
ずるいなあ、と心底思った。私だって不破くんとずっと一緒にいれたらいいなと思っている。でもいつだって、デートが終わって私を置いていくのは不破くんだ。夜帰ってきた私を置いていくのは不破くんだ。冷たい布団の中で自分を抱きしめて眠ることもしょっちゅうある。……でも、私をふやふやの笑顔で送り出してくれるのだって不破くんなんだもんなあ。
そう思うと責められなかった。むしろ嬉しい、の感情が心の中に多く幅を取って胸の辺りがぽかぽかした。そうしたら、不破くんの帰りを待つのが少し、辛くなくなった気がした。
不破くんが抜けていった改札を眺めるのを止めて踵を返す。言われている通り街灯の多い方の道に歩を進めながら、まだ温かい気がする小指を月明かりにかざす。今日は一人で眠るのもいつもより寂しくないかもしれないな。そうやって緩んだ口元を、宵闇に隠した。

別れ際のはなし。
2020.5.30