夏のこげ色
見上げた窓の向こうには、鬱陶しい程の青空がどこまでも広がっていた。日付はまだ春寄りだって言うのに、どうしてこう空も気温も夏真っ盛りみたいになっているのだろうか。
うざったい日差しを遮るように薄いレースカーテンを閉める。窓の上に設置されたクーラーからは絶えず涼やかな風が吹き出していて、室内の気温はちょうどよく保たれていた。やっぱり夏の青空は体感するんじゃなくて見るくらいで満足だよなあ。暑いの嫌だし。
ふわ、と小さくあくびが出た。これから何しようかな。お休みの日にまあまあ早めに起きてしまったせいでやることがない。とりあえずテレビでも、と思った瞬間リビングの扉が開いた。
「……はよ」
「あ、おはよ。なんか今日起きるの早くない?」
「お〜……」
葛葉が起きてきたようだ。いかにもまだ眠いといった様子で目をこすっている。かっすかすの声で私に唸り声のような返事を返しながらソファに沈んだ葛葉は今にももう一度寝てしまいそうだ。あと寝ぼけ眼で腹かくな。
「また寝んの?」
「んや、腹減ったわ……」
「じゃあ昼ごはん作ってあげるから起きてて」
しぱしぱと目を瞬かせた葛葉は、顎が外れるんじゃないかって程の大あくびを披露してからのろのろと立ち上がった。喉が渇いたから何か飲もうとしているらしい。そんな葛葉を後目に私はソファに座る。今日のお昼何にしよっかな〜……。
すいすいとスマホの画面をスライドしている時に事件は起こった。台所の方から何かがぶつかったような鈍い音。不審に思って見に行くと、シンクに向かってげほげほと咳き込んでいる葛葉がいた。一体どうしたって言うんだ……。
「おま、お前なんだ、罠か?!」
「は?」
「この麦茶超しょっぺえんだけど!!」
葛葉が濡れた口元を拭いながら開け放たれたままの冷蔵庫の一角を指差す。扉の部分に取り付けられた収納には、同じデザインの麦茶ポットが二つ。そして中身の液体も、両方似たような焦げ茶色。そこで私が葛葉が何をしでかしたかを悟った。で、正直ばかだなと思った。
「くーちゃん……」
「ばかにしてんの?」
「してる、それめんつゆだよ」
「……ハァ?!」
真っ赤な瞳がこぼれ落ちそうなくらい大きく目を見開いた葛葉。どうやらこの寝坊助は麦茶とめんつゆを間違えて飲んでしまったらしい。そろそろそうめんとかうどんとかいっぱい食べたいなと思って麦茶ポットに沢山作り置きしておいたのが運の尽きだったな葛葉。でもだからってさすがに麦茶とめんつゆを飲み間違えるのはなくないか?
「匂いとかで分からんかったの?」
「お前は起きて三秒で飲み物の匂いを嗅ぐのか」
「嗅がんけども」
「だろ?」
「いやだからってなあ……」
にやにやとした視線を葛葉に送ると、居心地悪そうにめんつゆを注いでしまったであろうコップをシンクに置いた。言い訳を探しているみたいだ。いつもだいたい口で負けるからこうやって葛葉が隙を出した時におちょくってやるのは心底楽しい。そのうち怒られそうだな。
「てかさっきなんかぶつけたみたいな音したけどなんだったの?」
「……動揺のあまり膝をぶつけた」
「くーちゃん……」
「お前それ憲兵来るからな」
「日本で見たことないけど」
「魔界から連れてくるわ」
「意味わからん」
ふと思い出して聞いてみたら、さっきの鈍い音は葛葉が膝をぶつけた音だったみたいだ。間違えてめんつゆ飲んじゃったくらいでそんな動揺する?めちゃめちゃ面白いじゃん。今年一番面白いわ。
毎秒更新されそうな今年一番の面白いことランキングを更新しながら今度こそ麦茶を飲んでいる葛葉を眺める。その背中は些か情けなくて、ちょっと、いやだいぶ可愛かった。視線に気づいた葛葉がこちらを振り返る。ぶすくれた顔してるなあ。
「……昼飯作るんじゃねえの」
「作るよ、そうめんにしようかな」
「あっそ」
「葛葉くんの分のつゆだけ麦茶にしていい?」
「ふざけんなお前」
苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらを見る葛葉。確かにそうめんと麦茶は合わないもんなあ。気づかなかったら最高に面白かっただろうに、残念だ。
絶対変なことすんなよ、と再三私に念を押してくる葛葉を台所から追い出して早速お昼ご飯を作ることにした。薬味のネギをちょっとだけ切っておいて、そうめんだけじゃ味気ないからおかずも足さなくちゃなあ。冷蔵庫から出てきた昨日の残り物をレンジにかける。さて、主役のそうめんを茹でよう。クーラーが効いてるからいいもの、暑い中でそうめんを茹でるのってだいぶきつい。夏の風物詩だからよく食べてたけど作るの割と大変なんだよなあ。大きめの鍋に水を汲んで熱される様を見守っていると、何故か葛葉が覗いていた。
「どうしたの?」
「……変なことされてねえかと思って」
「子供か、しないっての」
どうやら先程の麦茶とめんつゆ間違え事件がよほどトラウマになっているようだ。葛葉はのしのしと台所の中に入ってきて、置いてある小さな丸椅子に座った。スマホを弄りながらもちらちらとこちらを伺う様子はなんだか微笑ましい。彼の心中は全く穏やかじゃないと思うが。
「暑くなるよ」
「別にいい」
「なんもしないのになあ」
葛葉に見守られながらぐつぐつと湯掻いたそうめんは、なんだかいつもより美味しそうに出来た気がする。気がするだけだ。それからはささっと準備。そうめんを適当に大きな皿にどばっと盛って、二人用のお箸とつゆと麦茶を用意して。
「葛葉運ぶの手伝ってよ」
「……これまじで麦茶だよな?」
「麦茶だよ、見てたでしょ」
「見た目似すぎだろこいつら……」
ゆらゆらと揺れるつゆの水面を眺める葛葉。子供みたいな仕草をする彼になんだかちょっと面白くなりながら、お昼ご飯をすませた。いつもより恐る恐る食事してる葛葉面白かったなあ……。何に怖がっているんだ……。
あくる朝私が冷蔵庫を開いたら、二つの麦茶ポットにマジックででかでかと「めんつゆ」、「むぎちゃ」と書かれていて吹き出してしまったのは、まあ別の話である。
なんでもない夏の日のはなし。
2020.6.6