分からせる


異変とは、私たちの思わぬところで突如として訪れるものである。
いつだったかな、酔っ払った友人が訳知り顔でそんなことを言っていた時があった。そして私は、今自分が置かれている状況を冷静に整理して、あの言葉は本当だったんだな、とマジで思った。

「ね、似合います?」

似合わない訳がありませんが‎?!
……こほん。少し落ち着こう。一回、一回ね。もう一回だけ状況を整理してみようじゃないか。今日も仕事だった私、仕事終わらせて帰宅、叶くんがお出迎えしてくれた、そしたらなんかいきなり「似合います?」とか言いながらおしゃれな眼鏡かけて小首傾げて微笑んできた、と……。う〜ん落ち着けないねえ!顔が良すぎて落ち着けないねえ!

「ちょっと〜、聞いてます?」
「あ、ごめん……考え事してた……」

不服そうにこちらを見やる叶くん。レンズの向こうで煌めく、目尻の垂れた灰色の瞳。どうやら叶くんは、どうしてこの眼鏡を買うに至ったかを話してくれていたらしい。もう一回言いますからね、と耳障りの良い声で説明してくれているが、全く耳に入ってこない。完璧に右から左に抜けている。だって、顔が良すぎる。というか、眼鏡が似合いすぎている。私としっかり目を合わせながらにこにこ笑顔で喋っている様子はとても可愛い。けど、今正直倒れそう。可愛すぎない?いやいつもだけど。
垂れた目尻が可愛い。泣きぼくろが色っぽくて可愛い。お肌真っ白で、つるつるのもちもちで可愛い。ふわふわ揺れる茶色のくせっ毛が可愛い。楽しそうに弧を描く、薄く色付いた唇が可愛い。
探せば探すほど、叶くんが可愛くて可愛くてしょうがない。さらに今日付け足されたその眼鏡。今の叶くんは、いつにも増して最強だ。可愛い。でもかっこいい時もあるんだよなあ。いやいつもだけど。そう例えば、あの時も……。

「ねえちょっと!僕の話聞いてないですよね?!」
「あっ……」
「ず〜っと口開けて僕の顔ばっか見てましたよ。そんなに気に入りました?眼鏡かけてる僕のこと」
「……気に入ったというか、どストライクというか……」
「今日も惚れ直しました?」
「惚れ直しました……」

どうやら私は、ずっとあほ面を晒していたみたいだ。にやにやとした笑いを零しながら、俯いてしまった私の顔を覗き込む叶くん。目を細めて怪しげな表情を浮かべている叶くんが視界に入った瞬間、私は思わず手で顔を覆ってしまった。何度も同じことを言ってしまって申し訳ないが、顔面がいつにも増して最強すぎる。

「可愛いお顔が見えないな〜?」
「今ちょっとだめ……」
「だめなんですか?余計見たくなっちゃいます」

語尾に音符でも飛んでるのかってくらい楽しそうな声音の叶くん。そうですかそうですか、そんなに私をいじめるのが楽しいですか。そんな卑屈なことを思ってみても、状況は何も変わらない。むしろなんか悪くなってきている。楽しそうな叶くんの笑い声が耳元で聞こえて思わず身を引く。そんなことを何回か繰り返していたら、背中に硬い感触。追い詰められている。とても壁際に追い詰められている。

「ほらほら、もう逃げ場はないみたいですよ?観念しちゃったらどうですか〜?」
「叶くんずるいんだって……」
「いつものことじゃないですかぁ」

私が弱々しく言葉を発した瞬間、すぐ近くでとん、という軽い音がした。そう、まるで壁に手でもついたみたいな。驚いて肩が跳ねてしまった。と同時に、顔を覆っていた両手がするりと叶くんの片手にまとめてからめとられる。

「ふふ、かおまっか」

なんだこの状況、俗に言う壁ドンか?
脳内でそんなことを呟いても異常にうるさい心臓の音は静かになってくれないし、目の前で妖艶に微笑む叶くんが退いてくれることもない。私が今できることと言えば、ただ黙って顔を真っ赤にすることくらいである。

「恥ずかしいですか?」
「……」
「なにか喋ってくれないとかなかなさみしいな〜」

絶対そんなこと思ってないような声音で、寂しそうな顔をした叶くん。たまらず顔を背けると、ずっと握られていた両手が離されて、空いた叶くんの片手が、きゅう、と私の腰を抱き寄せた。

「ね、こっち向いて」
「……ん、ぇ、……?!」
「んふふ、か〜わい♡」

条件反射で叶くんの方を向いてしまった。その瞬間、唇に触れる生暖かい体温。ちゅ、ちゅ、と小鳥のさえずりのような音が響く。何度か角度を変えて軽くキスをしただけで満足したらしく、最後にちろりと私の下唇を舐めて顔を離した叶くん。腰に回っていた手も離されて、思わずへたり込んでしまった。

「これに懲りたら、もう僕の話聞き逃さないでくださいね?」

満足気に笑いながら何故かかけていた眼鏡を私にかけ直した叶くん。お口空きっぱなしですよ、と言いながら細い人差し指がちょん、と私の唇に触れてようやっとほうけていた意識が元に戻った。

「さ、ご飯作ったので食べましょ〜!ほらほら立って」
「ま、まって……あとなんでめがね、」
「そんなに気に入ったんだったらプレゼントしちゃおうかなと思って」

それ伊達眼鏡なんで僕じゃなくても使えますし、と楽しそうに笑う叶くん。これ叶くんが使うために買ったんじゃないの?そんな軽くあげちゃっていいの?私の手を引っ張ってリビングへと連れて行ってくれる叶くんの背中を呆然と眺めても、疑問の答えは出るはずもなく。視界の端に映るフレームのせいで先程の光景がフラッシュバックして、赤くなった頬をどうにか落ち着かせようと息を吐いた。……叶くんには、多分一生勝てない気がする。

眼鏡を買ったはなし。
2020.4.21