お兄ちゃんに疲れたら


「はあ……」
「あ、黛くん。おかえり」
「うん、ただいま。……待たせてごめんね」

私は今日もいつも通り、黛くんのお部屋に遊びに来ている。黛くんが施設の前で出迎えてくれて、少しずつ見慣れてきた子供達に、おねーちゃんやっほー!なんて言われながら黛くんのお部屋まで向かっていた。いつも通りじゃないのはここからだった。
小学校低学年くらいの女の子がばっと黛くんの前に躍り出てきて「かいくん!」と大きな声で黛くんを呼んで。こちらに来て欲しい、と涙目になって駄々をこね始めた。黛くんは私の方をちらりと見た後その子を諌めようとしたけど、泣きそうになっている女の子を無下にするほど私は子供ではない。「大丈夫、先に行ってるから」と黛くんに告げた。黛くんのお部屋までの道はもうとっくに覚えてしまっている。申し訳なさそうな顔をした黛くんの謝罪と「……すぐ行くから」という言葉を聞き、歩き出す。最後に見た女の子の顔は、小さな瞳に涙をいっぱい貯めて、私のことを睨んでいるような気がした。
少し経って、部屋に入ってきた黛くん。女の子の相手に相当手を焼いたらしく、大きめのため息をついていた。

「大丈夫だった?」
「うん、どうにか」

私が座っていたソファの隣に腰を下ろす黛くん。どうやらかなりお疲れのようだ。

「黛くん、あの子にすっごい好かれてるでしょ」
「……なんで分かったの?」
「別れるときにちょっと睨まれた」

少しだけ重い空気を和ませようと茶化すように笑ってみたのに、黛くんは罰が悪そうに眉間に皺を寄せた。気づくか気づかないか程度の些細な変化だったけど。

「ほんとにごめん。よく言って聞かせておくから……」
「別に平気だよ。ここの子ってことは、悪い子じゃないんでしょ?それに、黛くんを好きって事はいい趣味してるし。私と気が合いそう」

これは結構本心である。幼いながらに黛くんを好きになるなんて男性を見る目はあるみたいだ。

「……ありがとう」
「照れてる」
「いや……間接的に俺も褒められてるなって、思って」

隣同士で座っていたのに、さらに距離を詰めてくる黛くん。珍しい。さらさらの髪がすぐそこで揺れていたので、そっと撫でてみる。何回か髪を梳くように優しく撫でていたら、もっと、とでも言うように擦り寄られた。あれ、ほんとに珍しい。

「黛くん、やっぱり疲れてる?」
「いや……うん、なんていうのかな……」

言いずらそうにもごもごと動く口元。さらに距離を詰められて、肩と肩が触れ合った。なんだか今日の黛くんは甘えん坊な気がする。普段は私が甘やかしてもらってばかりだから、今日は私が彼を甘やかしてあげるチャンスなのかもしれない。

「施設の子達の面倒を見るのも嫌いじゃないし、っていうか結構好きだし、今の生活にも満足してるんだけど……」

もう一度口を噤む黛くん。黛くんはどちらかというと甘やかす立場の人だったから、久しぶりに誰かに甘えて、甘え方を忘れちゃってるのかもしれない。ゆっくりで大丈夫だよ、という気持ちを込めて黛くんの手をそっと握った。

「今はちょっと、年上であり続けることに疲れちゃってる節もあるかも。……あと、名前に会いたいって思ってもすぐに抜け出せないのが不便、って思う、時もある」

途切れ途切れに告げてくる黛くん。いつも澱みなく話し続ける彼にしては珍しくて、ほんちょっと、いやかなり、可愛く見えてしまった。

「……ごめん、名前にこんなこと言って迷惑だよね」
「ううん、全然!」

俯いてしまった黛くん。長めの髪が顔にかかって表情が見えなくなる。目が合わないのが嫌で、こっち向いて、と言いながら彼の手を引いて、目線を合わせる。

「私は黛くんの気持ちが聞けて嬉しいよ。あと、私の前では年上でいなくていいから。……いつも甘やかしてもらってるくせに、って思うかもだけど。今日は私が黛くんを甘やかそうと思います!」

なんだか沢山喋ってしまった。恥ずかしくなってきて誤魔化すように笑ってみる。目の前にいる黛くんは驚いたように少しだけ目を見開いていて、今なら私以外の人でも黛くんの表情の変化に気がつくかもしれない、なんて思った。

「……じゃあ、今日は名前に甘やかしてもらうことにする」

そう言った途端に、こちらにもたれかかってきた黛くん。私の腰に両腕を回して、肩口に顔を埋められる。

「俺ほんとはね、小さい子の相手をするような性分じゃないし、できるような立場でもないんだ。ずるずるずるずる施設に残り続けて、ひとつの居場所に縋りついてる。ほんとだめだよね」

ぽつぽつと弱音を吐き出していく黛くん。何も言わずにそっと頭を撫でてあげると、両腕の力が強まった。

「あと、時々思う。いつか名前も、何処かに行っちゃうんじゃないかって……」
「行かないよ。絶対。ずっと黛くんと一緒にいる」

それだけは否定させてもらった。私は黛くんから離れる気はさらさら無い。黛くんが別れてって言うまで、ずっと一緒にいるって決めている。

「ありがとう……」

どういたしまして、の代わりに私の腰に回っている黛くんの両手をぎゅっと握りしめた。いつも体温が高い黛くんらしく、暖かい。

「はぁ……ずっとこうしてられたらいいのに。柔らかくて暖かいし」
「黛くんがお望みなら、いつでも甘やかしてあげるよ」
「ほんと?」

ほんとほんと、と黛くんの言葉を借りるように繰り返すと、やった、と微笑んだ黛くん。その笑顔がなんだか少し幼くて、黛くんの新しい一面が見えた気がした。

「じゃあ、また僕が呼んだら来てね。…………僕って言っちゃった」
「あはは、別に僕でもいいと思うよ」
「気抜けちゃってるなあ……」

恥ずかしそうな黛くん。気を抜いてくれてるのは嬉しいなあ。黛くんの気持ちに少しでも寄り添えたなら何よりだ。またいつでもいいから、お兄ちゃんに疲れたら、私の事を頼ってね。

甘やかすはなし。
2020.3.16