わるいこだあれ?


ひゅうひゅうと耳元で鳴る風。冷たくてなんだか心地のいいそれが、私の長くなってしまった髪の毛を攫っていった。橋の欄干に肘を置いて、遠くで光るビルを眺めた。すると、じわじわと肘が冷たくなってきて気持ち悪い。欄干を見ると、くすんだ水が溜まっていた。そっか、昨日は雨だったっけ。長袖の服を濡らした雨水をぱたぱたと適当に払ってから、もう一度欄干に肘をついた。
ひゅうひゅう、ひゅうひゅう。鳴り止まない風。冷たくて心地いい風。冷たくて気持ち悪い水。世の中って変なことばっかりだ。誰も悪くないのに謝ったり、あの人が悪いのに謝らなかったり。何が正しいのか分からない。こんなこといってる私が間違ってるのかもしれない。でも、何を基準に正しいを決めたらいいのか分からないから、誰が間違ってるのかすらも、誰にも分からないのだ。

「…………ねぇ、ッ!」
「あれ、」

灰くん。呟いた言葉は風に攫われた。聞こえてたかな。切羽詰まったようにぜえはあと肩で息をする灰くん。珍しいものを見た、あの部屋から出ないことで有名な灰くんが息を切らしている。一生に一度見れるかどうかだ。最期に見られてよかったかも。

「急いでたみたいだね」
「急ぐでしょ……!なに、あのメッセージ」
「ううんとねえ、」

ポケットからスマホを取り出した。お揃いのスマホケース。灰くんと。付き合って一年目のプレゼント。黄緑色のアプリをタップして、灰くんとのトークルームを開く。一番下の新しいところには、''──がメッセージの送信を取り消しました''とだけ。

「なんにも残ってないよ」
「はぁ……?名前が消したんでしょ、なんて送ったか覚えてないの?」
「?」

着ていたワンピースのポケットにスマホを丁寧にしまう。ふわふわと裾が風に揺れている。お気に入りの花柄ワンピース。灰くんからの誕生日プレゼント。一瞬だけ灰くんと目を合わせて、逸らして、わざとらしく小首を傾げた。

「確かね……''誰も悪くないよ''って」
「そうだね、君が送った」
「うん」

くるりと回って視線の向きを変える。さっき一人だった時みたいに、橋の欄干に肘をついて下を流れている川を覗き込んでみた。欠けたお月様に照らされて真っ黒に輝いている水の流れは、とっても綺麗で、怖かった。小さく小さく映った私の影がゆらゆら揺れていて、幽霊みたいで。黒い水面を眺めていると、なんだか私と灰くんの髪の毛みたいに思えてきた。お揃いにしたのはいつだったっけなあ、確か、去年の夏ぐらい。元々茶髪だった私が、灰くんの綺麗な髪の毛が羨ましくて、黒く染め直したんだ。

「今日待ち合わせに来なかったのはなんで?」
「ううん、」

諭すみたいな灰くんの優しい声。聞いたことある声だ。灰くんが住んでるところの、小さい子たちに話しかけてる時とおんなじ。灰くんは私に優しいのに、私は灰くんに優しくない。デートの待ち合わせにも行けないし、あんまり可愛くないし、少しの事で不安になっちゃうし。なんだか勝手に悲しくなって、はあ、とため息をついた。目に入った指先では、ちょうど今日塗ったばかりのマニキュアが月明かりを鈍く反射している。大好きな浅葱色。灰くんの色。これは確か、付き合ったばかりにくれたやつ。懐かしい思い出に嬉しくなって、お月様に両手をかざして微笑んだ。

「ね、もう帰ろう。また帰って一緒にゲームでもしようよ。俺別に、怒ってないよ」
「う〜ん、だめかも」
「……どういうこと」

びゅうびゅうと風が強くなる。そろそろ寒くなってきちゃったな。早く灰くんが帰れるようにしないと。履いていたヒールから踵を浮かせて、ゆっくりゆっくり脱いでいく。この橋はまともな明かりもないから、きっと灰くんは気づかない。そっとコンクリートに降ろした足は、とってもとっても冷たかった。このヒールを買ったのは、確か初デートの時。

「灰くん、あのねえ!」

強くなってきた風に負けないように叫ぶ。下の方を向いていた灰くんの視線がようやっと私と合った。目を見開いた灰くん。にっこり笑ったわたし。

「ねぇ、ちょっと、ま」
「あのね、だいすき!」

橋の欄干を掴んで、ぐっと手に力をいれる。そのまま身を乗り出したら、ちょうど背中を押すように風が吹いた。くるりと反転する視界。駆け寄ってくる灰くん。ああ、あとちょっと、遅かったなあ。灰くんが伸ばした右手は、落ちていく私を掠めて空気を掴んだ。
重力に従って落ちてるはずなのに、なんだかとってもゆっくりだ。だって見える、灰くんの顔が。泣いてる、歯を食いしばって泣いてる。ごめんね、ごめんね、灰くんは悪くないのに。悪いのは私だから、どうか自分を責めないで。無意識に伸ばした片手は、冷たい水にゆっくりと飲み込まれた。

ざぶん。
ぷくぷく。こぽこぽ。ざあざあ。ひゅうひゅう。

なんだ、あんまり変わらない。水の中も、あっちと同じくらい綺麗で、気持ちよくて、冷たくて、苦しいじゃないか。目を瞑ると生まれる暗闇。どこかで見たことあるなあ。どこだっけ。えっと、ああそうだ。今日、今日見たんだ。部屋の隅に丸まって、震える携帯を無視して、膝に顔を押し付けてる時。ちょうど今日。付き合って三年目の、この日に。

思い出を懐かしむはなし。
2020.4.23