やさしくしてよ
かちこち、と秒針が一秒ずつ時を刻む音が静かな部屋に溶けていく。そしてそれに重なった、ぴぴっという電子音。音の発生源である体温計を脇から取り出して、恐る恐る数字を確認して、大きく肩を落とした。
「三十八度五分です……」
「しっかり発熱してるね」
私の手から体温計を受け取り、認めたくなかった事実をわざわざはっきりと口に出す黛くん。なんでこんなタイミングで風邪引いちゃうんだ……。
今日は元々、黛くんと久しぶりにお外デートに行く予定の日だったのだ。なんやかんやと言い訳して外に出ようとしない黛くんを必死で言いくるめて、めちゃくちゃ今日という日を楽しみにしていたのに。うっきうきで起床した時、ちょっと体が熱いなとも、喉が痛いなとも思ってはいたのだ。でもまさか、まさかこんな日に体調不良なんてないだろ、と現実逃避していたら、リビングに入って黛くんと目が合って、三秒でベッドに戻された。さすがに目敏すぎる。黛くんの視線の圧に負けて渋々体温を計ると、まあ予想通り発熱していた、という訳で。こんな状態の私を黛くんが外に出すはずがないから、今日の予定はきれいさっぱりなくなったということである。無念。
「はぁぁぁ……」
「そんな深くて長いため息ついても出かけるのは延期だよ」
「デートって言ってよ……」
「そこなんだ」
黛くんがちょっと笑った。確かに突っ込むところはそこじゃなかったかも。まあでも今の私は、そんなよく分からない部分に突っ込んでしまうくらい落ち込んでいるということだ。だって、このチャンスを逃したら次のデートは一体いつになってしまうんだろう。黛くんの仕事柄突然仕事が入ることだってありえるし、繁忙期とか来ちゃうかもしれないし。……ハッカーに繁忙期とかあるのか分かんないけど。
悪いことばかり想像していたら、なんとなく鼻先がつんとして視界がじわじわとぼやけてきた。私はどうやら思っていたより熱に侵されていたらしい。だって、いつもこんな涙腺緩くないし。
「やだぁぁぁ……」
「ちょっと待って、泣いてる……?!」
「お出かけしたい……」
「嘘でしょ……?どんだけ熱に蝕まれてるの……」
落ち着きなよ、と言いながら背中を摩ってくれる黛くん。風邪のせいで暑いのに芯が冷たかった体に、黛くんのぽかぽかな体温が伝わってきて心地よい。ぐすぐすと子供みたいに鼻をすする私の顔に、黛くんがさも当然のようにティッシュを近づけてくる。
「鼻水垂れるよ。はい、ちーん」
「ごめん待ってさすがに自分でやる……」
「涙引っ込んだね」
黛くんから受け取ったティッシュで鼻をかむ。丸めた紙をなんとなくゴミ箱に向かって放り投げると、見事に入った。お行儀悪いよ、と黛くんに怒られたけど。
「なにか食べたいものとかある?」
「食べたいもの……お粥……?」
「なんで俺に聞くのさ」
「何食べればいいかわかんない……」
「じゃあなんか、ゼリーとかもいる?」
「う〜ん……いる」
「おっけ」
黛くんは、私の頭を一撫でして部屋を出ていってしまった。人肌恋しくて引き止めたくなったけど、流石に出来なかった。これ以上迷惑かけられないもんね。
それから、寝れないからひたすら布団の端を見つめたり、秒針の音を聞きながら目を瞑ったり、頑張って耳を澄ますと聞こえる台所で黛くんが動き回っている音を聞いたりしていたら、いつの間にか出来上がったみたいで。こんこん、とノックの音。
「はあい」
「ごめんね、ちょっと時間かかっちゃった。調子どう?」
「う〜ん、まあまあ」
「そう。まだご飯は食べれそう?」
「たべる!」
「急に食いついたね」
黛くんが持ってきてくれたお盆の上には、あったかそうな卵がゆと、麦茶と、私が好きな味のゼリー。あと、薬が二粒。黛くんのご飯食べるの久しぶりだ、すっごい美味しそう。
「久しぶりに作ったから味の保証は出来ないかも」
「黛くんが作ったから絶対おいしいと思う」
「……あっそ」
あ、今の返事。黛くんが照れてる時にちょっと雑に返事する時のやつだ。褒められて照れてるの、かわいい。
「いただきま〜す」
「はい、どーぞ」
銀色のスプーンで、熱そうなお粥を大事に掬う。ふう、と息をふきかけて少し冷ましてから、ぱくり。
「んまい」
「それならよかった。……口の端付いてるけど」
「どこ〜?」
「しょうがないな……」
ティッシュで私に口の端に付いていたらしい食べかすを丁寧に拭ってくれた黛くん。なんかすごく、お母さんって感じだ。甘えたくなる。
そんなこんなでお粥を食べて、ゼリーを食べて、薬を飲んで、一段落着いた。ごちそうさま、と言うと黛くんが優しい声でお粗末さま、って言ってくれた。
「このまま今日は寝てようね」
「うん……」
「まだ落ち込んでる?」
「次のデートできるかなって……」
やっぱり風邪で弱ってるせいか、いつもより悪い思考が長引くし、簡単に泣きたくなる。今度こそ泣くまいと、唇を強く噛んだ。必死で瞬きを繰り返していると、黛くんが息を吸い込む音。
「……次なんてすぐ来るよ。俺たちいつまで一緒にいると思ってんの?」
「死ぬまで……」
「分かってるじゃん」
やっぱり我慢しきれなかった涙が一粒頬を伝う。布団に染みが付く前に黛くんが優しく拭ってくれて、安心でまた涙が零れそうになったけど、必死に我慢した。
「血出るよ」
いつの間にか強く噛んでしまっていた唇に、黛くんの指先がちょん、と触れる。どこもかしこもあったかい黛くんに触れられて体も心もぽかぽかしてきた。
「……ありがとう」
「いーえ」
この調子で早く寝て、さっさと次のデートの準備をしよう。今日よりうんと可愛い格好にして、メイクもとびきり張り切って。次は絶対来るけど、早い方がいいもんね。
看病してくれるはなし。
2020.5.4