開けっぱなしの灰色のカーテン。ぴっしりと閉ざされた窓の隙間から、おおよそ何もない部屋へと夜が流れ込んでくるようだった。
 ベッドサイドの古いランプだけが、か弱い光をぼやぼやと放っている。
「明かりくらいつけたらどうですか」
 半分ほど開いたままになっている薄いドアを、ツェッド・オブライエンは形式的にノックした。
 予想通り返事はない。特に躊躇うこともなく、部屋に足を踏み入れる。
 部屋の中に、淹れたての珈琲の香りが広がった。
「あと、ドアはきちんと閉めたほうがいいですよ。カーテンも」
 後ろ手にドアを閉めたツェッドは、サイドテーブルの上、アンティークランプの隣にガラス製のカップを置き、両開きのカーテンをゆっくりと閉めた。マグネットがカチンと合わさる音。
「眠ってるんですか?」
 ベッドの上に横たわったままぴくりとも動かない部屋の主の顔を、ツェッドは静かに見下ろした。
 腕を伸ばす。
 その硬い爪が髪から覗く頬に触れる直前、名前がおもむろに寝返りをうった。
「起きてますね。珈琲を淹れてきましたよ」
「……んん」
「僕はもう寝ますけど、いいですか」
「いくない……」
 名前は小さく唸りながら、そしてぐねぐねとうねりながら上体を起こした。
「髪、ぼさぼさですよ」
 ツェッドは薄く笑いながら、名前の横に腰掛けた。スプリングがぎしりと音を立てる。ツェッドが名前の髪に指を伸ばした。
 爪が頭に当たらないよう気を付けながら、指の間で髪を梳く。柔らかな髪が水かきを撫でる。絡まった髪の束に何度も指がつっかかり、その度にツェッドは両手で髪をほぐした。
 名前はされるがままに頭を揺らし、痛いともやめろとも言わないままその指の感触に身を委ねていた。
「なんか……暗くないか」
「入口のドアを閉めたので」
「ああ……」
「通路の明かりで生活しようとするのはやめてください」
「部屋の照明は明るすぎるんだよ」
「面倒くさい人だな……」
 名前が目についたガラスカップにゆるゆると手を伸ばす。蒸気でガラスの取っ手がつるつると滑った。
「これなに?」
「あなたが淹れてこいと言った珈琲です」
「ホット・バタード・ラムがいい」
「残念ながらそれは珈琲ですね」
「いれてきて」
「ご自分でどうぞ」
 んんーともぐうーともつかない声を上げて、名前はツェッドの方へぐいっともたれかかった。
「あっ、ぶないな! 珈琲! 置いてからにしてください!」
 言うが早いか、カップを急いで取り上げる。幸いまだ一滴も零れてはいないようだった。
 ツェッドは小さく溜息を吐く。
「あなたという人は本当に……、僕もう眠いんですけど」
「うん。前から思ってたけど、君の服ってだいぶ卑猥だよな」
「意味が分からないですし、僕の話を聞いてください」
 名前は剥き出しのツェッドの腹回りに触れようと腕を動かし、結局触れずにやめた。硬い太ももに頭を乗せたまま、ツェッドのへそのようなものを注視する。いくら見つめようとも、それがへそなのか腹筋の割れ目なのか、あるいはもっと別のものなのか、名前には判別がつかなかった。
「つまんない」
「何がですか」
「ゲームしたい。ザップとレオは?」
「とっくに事務所を出ましたよ。今何時だと思ってるんですか」
「知らない」
 名前は仕方なく体を起こした。
「引きこもりは孤独だ」
「そうですか」
「冷静な相槌やめてくれ」
「本当にもう眠いんですよ。あなたからのメールの通知の光で目が覚めたんですよ」
「なんか送ったっけ」
「寝ます。おやすみなさい」
「待って待って」
 名前は立ち上がろうとするツェッドのカーゴパンツに必死にしがみついた。
「ちょっと、脱げそうなんでやめてください」
「すけべ」
「いい加減怒りますよ」
 言いながら、ツェッドはベッドからほとんど落ちかけている名前の頭に手を添えて、そっと枕の上へと戻した。
 名前が何かを言う前に、問答無用で毛布を被せる。
「おやすみなさい」
「さっき起きたところだからあんまり眠くないんだけど」
「知りませんよ」
 はあ、と、今度こそツェッドは大きく溜息を吐いた。
 名前はそれを見上げながら、小さく笑った。
「私は君と過ごす夜が好きなんだ」
「そうですか」
「間違った。私は君が好きなんだ」
「……そうですか」
 よかったですね、とツェッドがぶっきらぼうに呟く。
「うん。よかった」
「本当にもう寝ますからね。おやすみなさい」
「おやすみ。いい夢を」
 部屋の扉が一度開いて、通路の明かりが一瞬部屋に入り込んできて、ツェッドの背中とともにまた明かりが遠ざかった。夜の底。


 
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- 落下地点より -