*新ボーダーができてすぐくらいの頃


 静かで暗い部屋の方が、深い眠りにつけるので疲れが取れやすい。ということは勿論わかっているのだが、どうしても、一人暗闇の中で目を閉じているのが苦手だった。
 一人でいるとどうしても、よくないことばかりが頭に浮かんでしまう。辛かった過去のこと。悲しいかもしれない未来のこと。大切な人にまつわる、嫌な想像。
 そんなことをぐるぐる考え続けて寝付けないくらいなら、多少眠りが浅くなっても、明るくて人の気配がする部屋で眠りにつく方がずっとましだった。

 カタカタと、キーボードを叩く音がする。
 乱雑な動きではないけれど、気を遣って消音で作業をしているわけでもない、静かで淡々としたリズミカルな音。時々止まって、また進む。
 毛布をかぶって丸まっているため、今が何時なのかすらもうわからなくなっていたが、パソコンの音や僅かな衣擦れの音を聞きながら目を閉じてまどろんでいるのは、久しぶりに落ち着く時間だった。
「んん、」
 東さんが小さく咳払いをする声が聞こえた。
 次いで、パイプ椅子の軋む音。
 なんとなく私も、ソファの上でもぞもぞと寝返りを打つ。圧迫されていた右肩が解放されて、血液がじゅわっと流れる感じがした。背もたれ側から部屋側へと顔を向けたため、視界がやや眩しくなる。
 眩しいついでに毛布の隙間からちらっと机の方を盗み見ると、思いの外しっかりと東さんと目が合ってしまった。
「すまん。起こしたか」
「んや……、」
 短い眠りを繰り返しながらうとうとと過ごしていたため、声が掠れてほとんど息しか出なかった。
「んン……、体、痛くならないですか……」
 咳払いをして、ようやく薄っすら声が出る。蚊の鳴くような声だったが、東さんは聞き返すことなく、苦笑交じりに答えた。
「うん。痛いな。そろそろ休憩を挟もうかなと思ってたところだったんだが」
「そう……」
「自販機でコーヒーでも買うかな。水か何か飲むか?」
「飲みます……」
 上体を起こすと、節々がぱきぱきと音を立てた。痛い。痛いけど、筋肉を動かすと少し気持ちがいい。
 まだまだ体は重怠い。
 おそらくぼさぼさであろう頭をそのままに、半分しか開かない目でぼーっと虚空を見つめていると、部屋から出ていった東さんが再び戻ってくる。
「ん」
 ペットボトルの水を差し出してくれたので、ありがとうございますと言いながら受け取った。冷たくて気持ちがいい。
 ペットボトルを両手で持ちながらまたしてもぼーっとしていると、東さんが困ったように笑った。
「開けようか? 飲めるか?」
「開ける……飲めます」
 ようやく蓋を開け、口を付ける。水がさっぱりと喉を潤し、自身の喉がかなり渇いていたことに気が付いた。少しずつ、頭が覚醒していく。
「何時間くらい経ちましたか」
「あー、今が……、2時だから、3時間くらいじゃないか」
「2時」
「2時だな……。もうこんなに時間が経ってたのか」
 カーテンのない多目的室の窓から外を見ると、当然のように真っ暗だった。鬼も虎も眠る丑三つ時。エンジニアたちの中には、まだ起きている人もいるかもしれないと思った。
「作業、進みましたか」
「それなりには」
 東さんが小さめの缶コーヒーを煽った。
 この時間にカフェインを摂取するということは、まだまだ眠れそうにないということだろう。
「社畜……」
 小さく呟くと、東さんがはははと渇いた笑いを漏らした。疲労の滲んだ顔を見上げると、また目が合う。
「どちらかというとお前の方が厳しい労働だと思うけどな」
「私は次の出発まで……あと3時間くらいあるので。寝なおします」
「是非そうしてくれ。現場員は体調がパフォーマンスに大影響するからな」
「換装するのである程度はましになりますけどね」
 ペットボトルをソファ近くの床に転がして、また横になる。
 ぐぐっと手足を伸ばして、へにゃりと脱力した。それから毛布をちょいちょいと動かして、元通りに包まれる。
「もう少ししたら……、もっと隊員が増えますかね。そしたら、防衛任務の負担は、少しはましになるかも……」
「そうだな。志願者はぼちぼち増えてきてるみたいだよ」
「ああ、でも……、戦える人が増えると、その分負傷者の数も、増えていくってことですよね。子供が……子供なのに……」
 目を閉じるとすぐに、大いなる眠気が襲い掛かってくる。
 何度眠れない夜を過ごしたとしても。
 どんなに恐ろしい不安が私の足を引っ張るとしても。
 人が死なないなら、それがよかった。それが一番だった。
 そのためなら、私は。
「私は戦いますよ……いっぱい。戦います。みんな、守る……」
「うん」
「わたし、つよいので……」
 意識を手放しそうになる直前、東さんの優しい声が、聞こえた気がした。
「眠ってる間くらいは、俺がお前を守るからな。……だから大丈夫だよ、名前」


 
/shinkai86/novel/2/?index=1
- 落下地点より -