「っあ……ッ」
ブルブルと瘧のように震える手から、スマートフォンが滑り落ちた。
半端に投稿されてしまっただろう文章の続きを、と慌ててしゃがみ込むが、正面を見据えたまま彷徨う手になかなか落し物が当たらない。
どうしよう。どうしたら。ていうか何だこれ。こんなの想定外だ。向こうで何が起こったらこんなことになるんだ。だっておかしいだろうこんなの、こんなこと起こるわけがない、起こるわけがないから━━━起こるわけがないから、あいつのために頑張るなんて、安い言葉を、簡単に言えた。
真っ白な呼気が目の前を白く染める。
靄の向こうに立つソレから視線を外すことが出来ずに、高尾は噛み合わない歯をガチガチと鳴らした。
怖いんじゃない。寒いだけだ。そう、これっぽっちも怖くなんかない。怖いわけがあるか。
立ち上がり、立ち尽くす火神の背中はピクリとも動かない。
彼の向こうに見える小さな影も、ピクリとも動かない。
"ソレ"はあまりにも突然、高尾達の前に現れた。
最初に気づいたのは火神だった。弾かれたように立ち上がり森の奥を見詰める彼の挙動に、スレッドに集中していた高尾も、協力者との通話に集中していた女性2人も、しばらくは気が付かなかった。
振り向いたのは、火神が歩き出したせいだ。
逃げるためでなく、まるで引き寄せられるかのように。
移動を始めた彼の動作を何気なく視線で追った3人は、その先の存在に気づくと一様に呼吸を止めた。
止めて、吐いて、ようやく気づく。あまりにも唐突な、吐いた白靄が視界を奪うほどに激しい気温の低下に。
「かがみん、ダメ……!!」
桃井が火神の腕に飛びついてその動きを止めるのを、高尾は肩を跳ね上がらせながら見た。
ダメって何が? 何がってか、アレなに。
理解が追いつかない。だって仕方がない。異次元だの幽霊だのとは無縁のまま齢16までを生きてきたのだ。何度だって言う。今日この日まで、あんなもの一生見ることがないまま生きていくんだって信じてた。
知ってるよ。夜道の変な気配も、車に乗って見る白い影も、金縛りも心霊写真も、科学で証明できないことなんか何もない。人体ってそういう混乱をまま起こすものなんだって。幽霊なんて人間が作り出したただの幻想。
だからこんな、こんなのは。
(おかしいだろ……何だよ、あれ……)
慰霊碑の奥の木の影に見えるのは、錯覚などではありえない、俯いた少女の姿だった。
木々の隙間の暗がりに、溶けるようにうっそりと立ち尽くし、顔の殆どを覆う長い髪の隙間から生気のない濁った目でこちらを見ている。
命ある存在でないことはすぐにわかった。
腕も、足も、胴も、壊れた玩具のようにひどく折れ曲がって、何故立っていられるのか不思議な形になっていた。
褪せた血の色。皮膚の削れた鼻。元の色がわからないほど泥で染まったブラウス。破れたスカート。
それでも、見間違えようがない。ほんの少し前に見たばかりの。写真の中で無邪気に笑っていたはずの━━━
「黒子君を返して!! 絢子ちゃん、あなたもう、死んでるのよ……!!」
半ば裏返った、引き攣った声で叫んだのはリコだった。
全身を強ばらせたまま、高尾は視線だけをそちらへ向ける。
青褪めた顔で、コートの前をきつく握り締めて、震えを押さえ込めるように、それでも真っ直ぐ少女に向けた目は逸らさずに。
ああ、女子すげーわ。
寒気と恐怖で竦み上がった高尾の喉は、頑張ろうとしても音を発してくれないというのに。
桃井は鬼気迫る表情で火神を引き戻す。二歩下がったところで駆け寄ったリコが手を貸した。高尾は動けない。
馬鹿にしてごめん、ほんとは俺もホラーあんまり得意じゃなかった。お化け屋敷ならいいんだよ。ホラー映画も見れないことはない。でも夏のホラー特番とか好きじゃないし電灯のない夜道は割と怖いの。現実だとダメなの。そういうタイプいるじゃん。
火神に伝えたかったけれど、その目は高尾のことなんか振り向こうともせず、ただじっと少女を見ている。恐怖など欠片も感じていない、けれど操られているとも思えない強い視線で。
意味がわかんねーよ火神。これ完全にジャパニーズホラーだぞ。お前苦手だって言ったじゃん。裏切り者。何する気なんだよ。
「何してんのよバ火神! あの子が止まってくれてる内に引くわよ……!!」
「かがみん、お願い動いて、早く」
「は? 意味わかんねーよ、引くって何で」
「お前が意味わかんねーよ!!!」
あ、声出た。
罵声を浴びせて金縛りが解けた、そのままの勢いで駆け寄り、力任せに巨体の腕を引く。女の子とは違うその力に流石に少し姿勢を崩して、火神は眉間に深い皺を寄せた。
「んだよ、おい……!」
「話ならここを離れてからにしろよ! お前さっきまでスレ見てたんじゃないのか!? 子供らに攻撃されたカラーズどうなってた!? 危険なの! 逃げないとならんの! どぅーゆーあんだすたん!?」
「ひっでえ発音だなオイ、攻撃なんかされるわけないだろ」
「はあ!? お前何言っちゃってんの!? 取り憑かれてんの!? 勘弁しろよ……!!」
「何言ってんのはそっちだろ。だってあれ、黒子じゃねえか!」
「は!? 何、お前の相棒幼女なの!? あそこまで陰気だった!?」
「2人ともちょっと落ち着きなさい! 火神君、わかるように説明して。黒子君が何? 何が言いたいの?」
嫌な汗をかきながら引け腰で喚き立てる高尾と踏ん張りながら意地になっている火神の後頭部を一発ずつ叩き飛ばして、リコが声を張り上げる。
思わず背筋を伸ばした高尾は、2人のどちらにも向いていない視線を辿って目を丸くした。
じっとこちらを見たままの、しかしまるで火神の言葉を裏付けるように、敵意がないことを示すように、少し遠ざかった少女の影。
リコも、彼女の肩に縋るように身を寄せた桃井も、見れば微かに足が震えている。それでも開いた距離と同じだけ、同じくらいに僅かだけ、理性も取り戻していて。
一人でそれ以上ごねるわけにもいかず、恐る恐る、少女から火神へと視線を移した。
「いや、だから、絢子って今、黒子と同化? してんだろ? だったら俺らに攻撃なんかするわけねーし、そもそも名前とか何にも関係ない俺らの前に現れる理由なんか迎えに来て欲しい以外あるわけねーし。……です」
「いや、いやいやいや……悪い、俺その信頼関係はちょっとわかんねえわ……」
第一、同化というのは"拝み屋の孫"氏から与えられた超理論的眉唾知識であって、少女と会話を交わす黒子を見たという証言━━ああクソ、幽体離脱も同化なんたらと同じくらい現実味ねえよ━━黄瀬の言葉のほうが、信頼度は高い。
一緒にいたと言うのだから、黒子が絢子と何らかのつながりを得たのは確かだろう。だからと言って、目の前に現れた怨霊がイコール黒子だと言われて誰が頷けるものか。
「それにアレ、黒子っぽい。いや、見た目とか何かそういうんじゃなくて、気配でもねーんだけど、空気ってか、何かこう……」
「……どう思う?」
「━━━私は、かがみんの言ってること、荒唐無稽でもないと思います。彼女がテツ君だっていうのは正直わからないんですけど……何かを訴えたくて現れたのは確かですよ。危害を加えたいならこちらの話し合いを大人しく待ちますか? あの子、消えも動きもせず私達の話がまとまるのを待ってるのに」
「そんなのあの世に連れてくための作戦とかじゃねーの!?」
「ここに来て幻の学校を離れてまで? 絢子の側には今、黒子君がいるのよ。野次馬しに来ただけの私達をわざわざ迎えに来てまで連れて行く理由は何? そもそもあの子がこの場に来られる事自体がありえない異常事態でしょ?」
「そんなんわかりませんけど……!!」
むしろこの場面で自分が責められている意味がわからない。理由など必要か?
目の前に異形の化物がいる。しかもそれは友人達をおかしな場所に引きずり込んだ元凶で、人を害する力を持っている。
悲鳴を上げて一目散に逃げるのが人間の正しい姿じゃないのか。
何で顔突き合わせて真面目に相手の目的探ってるんだ。
彼女の望みを推測したところで答えをもらえるわけでもない。虚ろな目をした少女は口を開くこともなく、空気に紛れて静かに佇んでいるだけだ。
ああでもほんと何で、こんな近くにわざわざ出てきて、何もせずに立ってるんだよ。
「何だかわからないけど連れて行こうとしている、って君がただ怖がってるだけでしょ。私はあの子がここに現れた理由の考察を求めてるのよ。しっかりなさい、相方連れ戻しに来たんでしょ!」
「だから、それじゃないんです!? 俺らあいつらを取り戻しに来たんだし、絢子にとっては敵じゃん……!」
「絢子が欲しいのは誰でも大差ない仮想のお友達よ。代わりはいくらでもいる。そのうちの何人かを連れ戻したいって、手が届きもしない現世で足掻いてる私達の存在があの子にとってどれほどの驚異だって言うの? 孫さん達ですら効果の程が知れないって言うのに」
「そ、りゃあ……」
「あいつ、キセキを俺達に渡したいんだと思う」
言い淀んだ高尾の代わりに、口を開いたのは絢子から目を逸らさないままの火神だった。
一切の怯えや焦燥を含まない、落ち着き払った声。
本当に意味がわからない。もしかしたら火神の目には自分達と違うものが映っているんじゃないかとすら思う。
━━━いや、有り得ないことじゃないのか。
そうでもなければ、どうして目にもおぞましいアレが相棒だなんて言えようか。ホラーが苦手だとビクビクしていたこの男が。
「どういうこと?」
「自分のことだけだったら、俺らを冬山ん中に誘うようなことしない。形振り構わず呼ばなきゃならない理由があるんだ。そんなの、今は一つしかねーよ。……っス!」
「━━━…それは、確信なのね?」
眉間を抑えながらの確認に、火神は大きく、力強く頷いて返した。
「誰も信じないなら俺一人でも行く。相棒が頼って来てんのに背中向けられるかよ! あいつは絶対俺を危険な目になんか合わせねー、です!」
多分や恐らくなんて揺らぎは全くない。
ここまではっきり言い切られては、理も実もない恐怖感なんかで太刀打ちできるわけがない。
リコは大きく溜め息をついて足元に視線を落とし、桃井は顔色を失ったまま、火神の見ている影を追うように、見るに耐えない姿の少女を見つめている。
「なあ火神、ちょい聞いていい?」
「なんだよ」
「あの子の姿、お前にはどう見えてんの?」
「は? 何かボロボロの、……絢子って子に見えるけど。お前違うの?」
「……それでも、アレが黒子だって?」
何を言っているんだと言わんばかりの真っ直ぐな目。曇りなき眼過ぎて高尾はちょっと引く。
間違いなく絢子に見えているのなら、自分達と違う何を見て取りアレを黒子だと言い張るのか、それがわからないのがどうしても気持ち悪かった。
高尾は目がいい。正直、自分ほど目がいい人間を見たことがないとすら思っている。他の者に見えないものだって見える。だから、誰かに見えて自分が見えない、ということに納得がいかない。
ちゃんと説明しろよ、と。
リコが言ったそれとは違うニュアンスで吐き捨てる。
正確に意味を把握したのだろう、少し考えるように首筋を掻いて、火神はもう一度少女を見た。微動だにせず、空気に投影された絵のようにただそこに居るだけの悪夢を。
「信じろって」
火神が怖がらなすぎて、もう何だか怖がっている自分達の方がバカみたいに思えてくる。この感覚ってまずいんじゃないの、とも思うけれど。
「自分を信じやがれって、あの捉えどころねえ目で訴えて来んだよ。そういう時のあいつは絶対に裏切らないし、どうしても俺の力が必要な時なんだ。お前にだってわかんだろ、顔も目も何も見えないけど、ここだって、絶対的につながってる時の感覚」
断定的に言われて、息が詰まった。
わからないなんて言えない。言えないだけの関係を作り上げてしまった。
他の誰にも理解できないだろう。自分でだって言葉にできない。
だけどその瞬間。瞬きよりもまだ短い一瞬。決して裏切れない、運命のようなつながりが体を突き動かすのだ。
そして投げたボールは、間違いなく彼の手につながり、鮮やかな放物線を描いてただ一つのゴールへ吸い込まれていく。
あの、息を呑むような高揚。体中からまばゆいものが溢れ出すような感覚。
満足気な顔で振り向く相手への、自他の境を見失うほどの、圧倒的な。
「……ああああああもおおおおおおくっそおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
力の限りに叫んでがばっと蹲り頭を抱える、高尾の奇行を肩を跳ね上がらせた3人が恐々と見下ろした。
グロテスク幼女見たときよりビビってんじゃねえよバ火神。
「否定できねえ! 恨むぞ真ちゃん!!」
頭を抱えたまま「付き合えやいいんだろ! 命預けてやる!」と喚き散らす。
半泣きでぐわっと立ち上がると、火神がニッといい顔で笑った。ああこいつ本当にいいヤツなんだろうなぁと思った。でも今は普通に、ぶん殴りたかった。
「……聞こえたかよ、黒子! 俺は、俺らはお前を、信じるからな!」
火神が声を張り上げる。絢子ではなく、黒子を呼んで。
リコと桃井が息を呑むのが聞こえる。
少女の手が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がる。半ば伏せた顔に濃い影を落としたまま、ボロボロの服と、土色の肌と、乾いた血の色の指先がふいと宙を掻く。
一度。二度。三度。
少女の背後で、先を見せない白い霧が重く、重く揺らいだ。