山中は霧に閉ざされていた。
山道なんてない、裸の樹木と幾らかの常葉樹の隙間を縫うように、這うように、2人は進んでいた。
体力のない女性2人は当然残してきた。いざという時のため駅まで戻り、人がいる場所で待機するよう伝えてある。風邪をひかなければいいと案じたのは、紳士だからではなく他人の心配でもしていなければやっていられない気分だからだ。
途中で目印を付ける、なんて言ったが、視界が30mの世界ではそんなもの何の意味もなさない。
信じるという言葉は何度も胸の中で揺らぐ。
現れては消え、消えては現れる少女の姿を、火神は目を逸らす事もなく黙々と追っていた。
走るほどの速度ではない、けれど立ち止まることは許さない誘導。
日は落ちていたが、月も見えない濃霧の中はどうしてかほんのりと明るく、手にした懐中電灯の出番は今のところなかった。もっとも、あったところでこの鬱蒼とした森の中では大した役目を果たさなかっただろう。つくづく無謀な行軍だ。
足が枯葉と霜の混じった柔らかい土を踏む。何度も滑りかけて、同じだけ舌打ちした。歩き出すとすぐ体は温まったが、幾ばくかの不安に心は冷え切っている。
真ちゃん待ってて、と、経を読むかの如く頭の中で唱え続けていた。
右も左もわからない。スマフォを引っ張り出し、電波と位置情報を確認して安心して、でもこれが真実の情報とは限らないとまた肝を冷やす。
「火神」
呼びかけると、振り向かないまま「ああ」と返事だけが返って来た。少し息は上がっているが、高尾よりはよっぽど落ち着いた様子だ。
体力もさることながら山歩きに躊躇いがなさそうで、慣れているのかと聞けば「まあな」と簡単な説明が帰ってきた。
誠凛は訓練法まで意表を突いてくる。何だ山でケードロって。何でそんな楽しそうなことしてんの。
「怖くないん?」
尋ねるとチラリと振り返って、アホ、と吐き捨てられた。脳筋仲間の癖に人を阿呆呼ばわりとはいい度胸だと思う。
高尾だってみっともないとは思っているのだ。だからいつまでもぐだぐだ言わず素直について来ているのに。
「一つ言っとくけどな」
「おう」
「気を抜いたら涙と鼻水が噴出するぞ」
「はい?」
何を言っているのかと少し先を歩く背中を見上げる。斜面なので大分上にある背中は、丸まることもなくキリリと真っ直ぐで、足は力強く地面を踏みしめて。よろめくこともなく斜面を上がっていく。
そう、まるで一歩ごと杭を刺すような力強さで……気持ち悪いほどに背筋を伸ばして……手と足、同じ方が出て……。
「……火神」
「なんだよ」
「オレ、お前だけが頼りなんだ……」
「そうかよ。実はオレもそう思ってた」
こんな嬉しくない両思いは生まれて初めてだった。
高尾自身も落ち着かずにいたし、厚手の上着で隠れて不自然な強張りに気づかなかったが、叩き飛ばした背中はガチガチだ。見せられた手の平は手汗でぬめっている。これはひどい。
最初からこんな状態で大見得を切っていたのかと呆れたが、それだけきっぱりした確信があったのだと思えば、まあ頼もしくもあった。
緊張解せよ、と声をかける。これではすぐに疲れてしまう。思って、でもそれはおかしいとも思う。もう1時間近くは歩き続けているはずだ。疲れるならとっくに影響が出ていておかしくない。
そうだ、高尾自身も。
何度もよろめいて踏ん張って、木に腕をかけ無理矢理体を引き上げて。普通に動いているのとは話が違う。どうして腕が、足が重くならない。どうして喉の一つも乾かない。
思い出したのはスレッドで語られたカラーズの状況だ。
ここは。
(ここはほんとに、現実か……?)
周囲を見回す。どこまでも霧と、木と、土と、冬の匂い。
闇夜にないはずの明かり。命を失った少女。探すのはこの世ならざる空間に建てられた学校で、閉じ込められている仲間。
ぞわりと背筋に冷たいものが伝って、スマフォを取り出した。
しばらく比較的なだらかな斜面が続くのを確認して、スレッドを見る。
いくつもいくつもいくつも、励ましばかりが並んでいた。カラーズだけじゃない。自分達も応援されている。
幾つかを口に出して、先を歩く火神に読み聞かせた。
おう、おう、と、一つ一つのコメントにバカ正直に返してくる。
がんばって。わかってる。
無事に帰ってこい。そうしたい。
報告待ってる。おう、待っとけ。
行くところまで行ってもう出来ることもないと開き直ったのかも知れない。スレッドはどこか和やかさを取り戻していて、呑気だとは思ったけれど、見ていると少し落ち着いた。
折り重なるように目の前を塞ぐ枝を押しのけて、獣道を進む。空気の流れが少し違って思えて、どこかに谷地か、或いは小川でもあるのではないかと思う。
手を洗いたい気もしたがそんなことも言っていられず、どこに着地していいのかわからない足を僅かに彷徨わせた。折れた枝を踏んで、大きめの石を踏み越え、よろめいて木に手をつく。
いよいよ人が踏み込まなそうな感じだよね。
口には出さなかったが、火神も少し難しそうな顔をしていて、言葉を飲む。
目の前の景色よりももう、手の中の掲示板の方がよほど現実味があった。あんなに胡散臭いと思っていたのに。現代人の精神なんて脆弱なものだ。
「何笑ってんだよ」
「ん? ちょっとウェディングドレスのサイズについて考察してた」
「あ? ウェディングドレス?」
「いいから早く行けっ……てうああああああああああああああああああ!!?」
「っの、バカッ!」
突然足が横に滑って、無意識に両手が宙を掻いた。
ガッと腕に衝撃が走り、腹に硬いものがぶち当たる。
ゲヘッと不細工な咳をして、引き絞られ痛む腕を見上げた。頭の上で握られ、ギリギリと引っ張られた腕。腹への衝撃が抱えるような状態になった岸壁だと知り、つま先が蹴った場所がカラカラと崩れていく感覚に気づく。
足元に、あるべきものがない。
限界まで見開いた目の脇を、嫌な汗が一筋伝い落ちた。
暴れずに、手をついて、身を乗り出せ、体は落ちてない。一言一言を区切るように火神が言う。大人しく従って掴まれたのと逆の腕に力を込め、持ち上げた足を岩にかけると、後は力任せに引き上げられる。
荒い息を吐きながら恐る恐る足元を見た。転がっていく小石の、落ちる音がなかなか聞こえない。
僅かな間を置き耳に届いた土くれの微かな衝突音で、大よその高さが知れた。死ぬほどじゃないかも知れないが、落下して無傷で済ますのは難しいだろう高さだ。
「……っぶね……ちょ、何このトラップ……」
「トラップじゃねえよ、どこ歩いてると思ってんだ! 舗装された道路じゃねえんだぞ! 足元見ろよ!」
「うええん返す言葉がないー」
だってスレが。オレの精神安定剤が。そう言えばスマフォ。
手にしていたはずのそれがないことに慌てて、周囲を見回す。少し先の木の根元に鮮やかな色彩を見つけてほっとし、手を伸ばそうとしたところで呼吸ごと動きを止めた。
掴まれたままだった火神の腕がぶるぶると振動する。伝わるように伸ばした自分の手も。ぼたぼたと気持ちが悪いくらいの汗が土に落ちて染み込んでいく。
指先に、冷たい空気が触れていた。
色。鮮やかな色。漏れる明かり。そのすぐそばに、異質な塊がある。歪んだ子供の足。汚れた靴下。そして、テレビくらいでしか見たことがない、白い、丸いもの。眼窟、鼻腔、黒い穴の空いた。
バクバクと凄まじい勢いで心臓が暴れる。
「火、神、あのさ、」
潰れたような喉から絞り出したカスカスの声が、空気を震わす。顔が上げられない。ほんの2m先に立つ、それは、それは━━━
「━━━高尾! カントクに電話しろ!!」
突然叩きつけられるように携帯を投げつけられて、高尾は息を飲んだ。バカ、やめろ、叫ぼうとした口が惚けたまま固まる。
吐き気を催すような出で立ちで立ち尽くす少女の脇を、火神は凄まじい勢いで駆け抜けた。行く先を目で追って、立ち上がる。
少女の姿など目に入らなかった。バッグを放り出し、折りたたみ式の電話を開きながら、僅かに下った窪地へと走った。
色。森の中にはありえない、鮮やかな色。腐葉土に半ば埋もれたそれは。
それは。
「━━━━━━━━!!」