エピローグ

『 >>1000なら 』

 千言を掴んだら、さて何を願おうか。
 耳に当てたスマートフォンから溢れる含み笑いに、黄瀬は何スかそれ、と首を傾げた。



エピローグ



 肩から滑りそうになったバッグをかけ直し、小銭を入れた自動販売機のボタンを見る。ミネラルウォーターのボタンに売切の文字が浮いているのに眉を寄せて、隣のスポーツ飲料を押した。
 この辺りで他の自動販売機となると通り過ぎたコンビニ側まで行かなければいけないし、探すための遠回りも、目的地までの我慢もしたくない。
 喉が渇いていた。
 冬の乾燥した冷たい空気が息を吸う度に肺の手前で引っかかるのが不快で、一口含むとマフラーの中に顎を埋める。

『先日報告のために立てたスレではその数字まで行かなかったが、スレの最後に願を掛けるらしい。>>1000ならこの願いが叶う。気力と根性とタイミングで勝ち取れる辺りがいいと思わないか?』
「そんなんで願いが叶ったら苦労しないっス。赤司っち、今もくろちゃん見てるの?」
『敬意を表して時折ね。参加したいとまでは思わないが、なかなか興味深いよ。涼太なら何を願う?』
「>>1000なら黒子っちが今すぐ目覚める」
『おや、欲がないな』
「……嘘っス。>>1000なら全部悪い夢だった。何にもなくて、みんな幸せ」

 年末の悪夢から、もうすぐ一ヶ月半が経つ。新年早々からひどい日々だった。
 あの日、あの夜。
 田舎の小さな集落に突然降って湧いた事件は大きく大きく膨れ上がり、夜中に捜索隊が山へ入り、何度もドクターヘリが往復するという、前代未聞の大騒動となった。
 ……らしい。全て伝聞だから、正直黄瀬には実感がない。もちろん感謝はしているけれど。

 最初に見つかった黒子は、状態が酷かった上にまだ受け入れるような態勢が整っていなかっため、発見から救出に至るまでにかなりの時間を要したという。
 心配だったであろうに、火神と高尾は彼を見知らぬ他人の手に預け、導かれるまま絢子の後を追い続けた。
 青峰、黄瀬、緑間、紫原、赤司と順に発見されたが、その場所は見事にバラバラで、何故居場所がわかったのかと随分訝しがられたようだ。
 本人達から助けを求める電話を受けて探したと説明したらしいが、目印もない山の中で真っ直ぐに要救助者の元へ向かった足取りを、説明することは到底出来ない。
 しかしそのありえない不可思議を、集落の大人達は深く追求しようとしなかった。
 見知らぬはずの山の中へ分け入り、深夜の闇に迷いもせず生存者を見つけ出す少年達。入るわけのない携帯電波を辿り明確に表示される位置情報。余りにも特徴的な名前。
 長くそこに暮らす人々ならば、例え何も問わずとも、何かを感じ取らなかったわけがない。

 救出後、4人は朝日が昇る頃に目を覚ましたそうだが、黄瀬は実に3日間、昏睡状態のままだった。
 起きた彼を待っていたのは連日の聴取と、チームメイトや友人達の気遣わしげな詮索と、親の号泣と、事務所の叱責と、嘘のように筋力の落ちた体と、そして眠ったままの、友達の姿。

 どうしてそんなふうになったのか、今も、誰もわからない。

 最初に戻った黒子一人だけが、目を覆うような状態で見つかった。ガリガリに痩せ細り、髪や肌は艶を失い、体中を傷だらけにして。
 現実に戻ってから新学期が始まるまでの僅かな期間に3度、彼は生死の境を彷徨った。そもそも病院に辿りついたその時にはもう、持ち直せるかどうかわからないような状態だったらしい。黄瀬も、赤司も、青峰も、緑間も、紫原も。黒子の容態が落ち着くまでの数日は、まるで生きた心地がしなかった。

 警察や学校からの再三に渡る問いかけに、5人は相談もしないまま一様に、何も覚えていないと答えていた。
 本当のことを言ったところで信じるわけがないし、そうであるならば応じる言葉など持ち合わせていなかったからだ。
 アスリートとして名を馳せた彼らの弱りきった体と、思い出せと言われる度に無意識に怯える様子を見て、やがて誰も何も言わなくなった。マスコミは周りの人間が勝手にシャットアウトしてくれた。
 だから事件がどのように捜査されてどれだけの成果を得ているのか、自分達と一緒に見つかったという無数の人骨がどこへ還されたのか、黄瀬は何も知らない。知りたいとも思わない。
 ただ彼を取り戻して、一刻も早く全てを忘れてしまいたい、願うならばそれだけだった。

「こないだの日曜日に紫っちが来たっス。黒子っち見て、まだいないねって言ってた」
『……そうか』

 総合病院の門柱に背中を預け、言いながら腕の時計を見る。いい時間だが待ち合わせ相手の姿はまだ見えない。
 黒子が、黒子の中にいない。
 紫原の目に何がどのように見えているのか、または感じているのか、それはよくわからないが、その言葉は火神や高尾が聞いたものと同じだった。

 ━━━聞いたってか、頭の中に言葉突っ込まれたってか?

 その時の状況をそう表現したのは高尾だ。
 黒子の体が彼らの前に投げ出された時、その魂はキセキの元にあった。疑う2人に、少女は黒子を指差し教えたのだという。

 おにいちゃんは、ここにいないの。
 おともだちとなかなおりしにいったんだよ。
 くろこはみんなと、いっしょにかえるの。

 そうやって。
 黄瀬のことが先にあったから、2人はすぐに黒子の魂が体を離れていると悟り、専門家である霊能者の孫へ助言を求めた。
 霊魂は同時に多次元に存在しうること。
 黒子と絢子の魂の根は確かに繋がっていると思われること。
 それはつまり、今、彼女の意思は黒子の意思であり、黒子の意思は彼女の意思であるということ。
 聞かされた内容はひどく難解だったが、与えられた指示は明解だった。
 崩壊する世界の主たる"くろこ"に干渉することは出来ない。肉体を保護し、彼が還る場所を保て。
 名を明かして呼び、呼ばれることで、キセキ達に現実へ繋がるロープを渡せ。キセキ達の、相棒の在処に手を伸ばし続けた彼らにしか持ち得ない、太い、決して切れることのないロープを。

 呼ばれ認めたことで両者が繋がって、迷うことなく還れたのだと孫氏は言っていた。
 感覚的な話は黄瀬には難しかったが、青峰が「とりあえず俺らも呼び続けりゃいいんだろ」と簡単に言うので、緑間達や桃井とも可能な限り示し合わせて黒子の元に通っては、皆で名前を呼び続けている。
 多分傍目に見たら怖い光景だろう。救おうとしているというより、呪っているように見えるかも知れない。

『様子はどうなんだ?』
「ずっと落ち着いてるっスよ。傷も小さいのは薄まって来たし、見た目はもう寝てるだけみたいな感じ。あと誠凛さんがいつもみっちり部屋に詰まってるから寂しくもなさそうっス」
『そうか。僕も近いうちにそちらへ行くよ』
「落ち着いてからでいいっスよ。オレらもまだ筋トレくらいしかできないからついてられるし。今はそっちのほうが大変なんじゃないっスか?」
『適当に黙らせてるさ』

 珍しく面倒くさそうに言うから、余程なのだろう。元々が責任のある立場だし、誰がどう見ても自分達の中心人物だ。雑音は黄瀬達の周囲より遥かに大きいに違いない。
 漏らされる愚痴や雑談に少し付き合って、軽く笑って、挨拶ついでに再会を約束して、終話を押した。こんな風に赤司と関わるのは何となく不思議だ。
 丁度よく横断歩道を渡り駆け寄って来る青峰と桃井が目に入り、黄瀬は片手を上げた。
 よく見れば緑間と高尾も一緒だった。今日は約束していなかったはずなのに。

「きーちゃん! 何やってるの!」
「へ? 2人を待ってたっス……?」
「電話来なかった!?」
「電話? 今赤司っちと話してたっスけど……あれ、着信来てた。火神っち?」
「折り返しいらねえよ! いいからさっさと中入れ!」

 腕を引かれて、よろめきながら院内に向かう。途中目が合った高尾がにひ、と笑って、隣に立つ緑間は指先で何度も眼鏡を押し上げている。
 ボタンを何度も押し早く早くと焦れながら、エレベーターを待つ桃井の背中を見て。待ちきれない風に隣の階段を見る青峰を見て。自分の手の中のスマフォを見て。

「黄瀬! 院内を走るんじゃないのだよ!」
「てめえ抜けがけすんな!!」
「つーか真ちゃんも、院内で騒ぐんじゃないのだよー」
「ああっ、みんなずるい……!!」

 転げるように走り出した。背後から声と足音が追いかけて来て、すれ違った看護婦が怒声を上げる。止まれない。今日だけ許してほしい。
 2段抜かしで駆け上がった3階の廊下で、見知ったジャージ姿の一団が幾人か固まっていた。
 暴れる息と鼓動を押さえつけて張り上げようとした声を、部屋の前で話し込んでいた少女の視線が塞ぐ。
 すぐ追いついてきた青峰がぶつかるように黄瀬の肩を掴んで、その両側斜め後ろに学ランの2人が立った。
 誰もが言葉を選びあぐねる中、エレベーターから駆け出してきた桃井が青峰の腕にしがみついて勢いのまま声を張り上げる。

「テツ君は!?」

 意気込んだ問いかけに彼女は、無言のまま唇の片端を引き上げ、開いたままのドアの向こうを振り返った。
 手振りで呼ばれた火神がドア枠に手をかけ、ひょこりと顔を覗かせる。
 笑っている。
 振り返って手招く。
 手招いて。
 こちらを指差して。
 声を出さずに何か言って。
 そして、彼の傍らから、少し低い位置に。

 水のように、淡い色。

「━━━満足したのかよ」
「ちゃんと手をつなげる場所まで送ってきましたよ」
「もう、こんな時まで紳士すぎだよ!」
「性分です」
「鈍くさいな。時間がかかりすぎなのだよ」
「人事を尽くしたらこうなりました」
「それにしたって寝坊ひど過ぎっスよ!あと寝癖もひでえ」
「寝る子は育つんですよ。知らないんですか。あとこれは前衛的ファッションです」
「俺ドレス用意してエステ通って待ってたんだぜー」
「そうですか、後は海外へ飛んで性別を変更していただくだけですね」

 全ての発言になめらかに答え、ついさっきまで眠っていたはずの少年がドヤッといい顔をする。

「赤司っち、来週紫っち誘ってこっち来るっスよ」

 嬉しくなって近づいて、肉の落ちた手を取り笑うと、そうですか、と彼も薄く微笑む。とても痩せたけれど、少しも変わらない彼だった。

「では、東京土産に物語を用意しておくことにしましょう。可愛らしくて優しい女の子が、たくさんたくさん頑張って、大好きなお友達と仲直りするお話です」

 抑揚の少ない声が、柔らかく紡ぐ。


 それは悪夢なんかじゃない、とても、とても幸せな、ハッピーエンドのお話なんです。