蜘蛛の糸

『外』の人間と繋がっている。窮状を訴え助けを求めることが出来る。それだけのことでどれほど安心できることか。
 一気に6人の救出へと舵を切った掲示板の、その唐突なまでの流れに、全員がしばらく声を失っていた。
 写真一枚、加工の可能性を叫ばれる覚悟はしていた。それでも、たまたま撮れてしまったその画面に顔色を失った黒子にはもう一度シャッターを切る度胸はなかったから、それならばそれで仕方がない、他の方向から訴えるしかないと思っていたのだ。

「み、見る人が見れば本物だってわかるもんなんっスよ……!」
「やったじゃねーか。ドン引きしながらアップした甲斐があったな」
「なかなかの成果なのだよ」
「もうすぐごはん食べれるかなー。俺今日は10杯いけるよー」

 口々に言いながら、呆然とする黒子の頭や肩を小突いたり撫でたりしてくる。
 誰が最初だったかはわからない。その手がそれぞれ、小刻みに震えだして、やがて気配はすすり泣きに変わった。
 誰もそれを茶化せない。
 黄瀬と青峰に両側からしがみつかれ、黒子の服を摘んだ紫原は俯いてぐずぐずと泣き出す。傍らにいた緑間までもが眼鏡を取って目尻を拭うのに、釣られて目が潤む。
 携帯を弄りながら手帳に何かを書き出している赤司だけが、涙一つ見せず口元に笑みを引いた。

 緊迫感に染まりきらない掲示板に冗談めかした現状報告を落として、少し明るい気持ちになる。
 急に訪れた日暮れに焦った心は、現金な希望にあっさりと塗り替えられた。
 自分達では探し方すらよくわからない解決方法も、きっともの慣れた風のこの人達なら探し出してくれるだろう。そう思えた。あとは待っていればと。他人任せに。

 しかし、状況は楽観を嘲笑う。

 急に点滅を始めた電球を、全員一斉に中腰になりながら凝視した。何かが起こるならばそこではないと頭ではわかっているのに、目を離すことができない。

「ここからって時に……もうちょっと待ってて欲しかったっスよ……」

 手の中のスマフォをポケットに押し込みながら黄瀬がバッグを持ち上げるのに、そうだ、と黒子も倣う。
 脱いでいたジャージの上をバッグにきつく縛り付けて、慌ててスレッドに書き込みを落とした。誤字だらけだったかも知れないが、丁寧に確認している余裕はない。 視線は周囲に向けたまま投稿結果を確認することもせずバッグの中に落とし込んだ。
 うっかりで命綱を無くさないよう、きっちりとファスナーを閉める。

 教室の半ばより奥に6人固まっていた。
 ドアとの間にぽっかりと空いた空間が何故か恐ろしく、一歩下がろうとしたが、うっかり撮ってしまった写真を思い出して踏み留まる。
 窓の外に移った白いものは携帯の画面では白い煙のようにしか見えなかったが、スレでは無数の手が見えると騒ぎになっていた。
 否定の言葉も上がらなかったということは、そこに何らかしらの異変があったのは確かなのだろう。
 建物の外にも、このドアの向こうにも、おぞましい何かがいるのだと思えば、どうしたって体が強ばる。
 光と闇が交互に訪れる。電気の球が切れる前のような不規則な点滅ではなく、それこそ子供が電気で遊ぶようなそれだ。
 点いて。消えて。点いて。消えて。点いて。消えて。
 リズムに目が眩む。
 動くべきなのか、留まるべきなのか、ドアの前に撒かれた菓子の屑にどれほどの力があるというのか、この場にいる誰にもわかろうはずがなかった。

「もういい加減にしてよ。こんなん何が楽しいんだよ。ヒネリつぶすよ……っ」

 我慢しきれなくなったのだろう紫原が上擦った声で叫ぶと、ブツッと何かが千切れるような音がして、室内が闇に包まれる。
 ヒッ、と、反射的に誰かの喉が鳴る。
 廊下は明るいままのはずなのに、光は射し込むはずなのに、十センチ先も見えないほどの闇で互いの位置関係すら計れない。 失敗した。手でもつなぎ合っていれば良かった。思ったところで後の祭りだ。

「ひえぇ、」

 マンガみたいな黄瀬の声に覆いかぶさるように、笑い声が耳に響いた。きゃはは、と甲高く笑う子供の声だ。
 いくつも、いくつも、いくつも、大人の声、老人の声にも聞こえるそれが、遠くから徐々に、徐々に近づいてくる。
 誰かに腕を捕まれてぎょっと肩を跳ね上がらせた。

「下がるな」

 苦しげな声は青峰のものだ。ほっとする以上に胃に冷たいものが落ちて、恐怖に霞んでいた頭が醒める。
 明らかに呼吸がおかしい。上手く息ができていないんじゃないのか。何も見えない中、彼を引きずっていけるほどの力は黒子にはない。

「紫原君、どこにいますか」
「黒ちん、どっち? 見えないよ〜」
「声聞こえてますね、斜め後ろです。ゆっくり手を伸ばしてください。掴みます」
「うえ、これ誰」
「青峰君です。持っててください。僕じゃいざというとき彼を連れては逃げられません」
「オレだってさすがに峰ちんはきついよ〜……」

 不満と泣き言がごちゃまぜになった声で紫原が漏らした、その瞬間に再び電気が点く。
 ガチガチと音を立てながら続く、先ほどより早いペースの点消灯に頭がぐらぐらした。
 点いて消えて点いて消えて点いて消えて点いて消えて点いて消えて点いて消えて、そして、鈍く、点く。
 何故そこを見たのか、何故すぐにそれに気づいたのか、正直なところ黒子にはわからない。
 ただ、その最後の薄明かりの中、見てしまった。

 教室の後ろ側、僅かに開いた引き戸の隙間から。
 小さな子供の……いや、小さな子供なのに違和感を覚えるほどに肥大した頭部が、覗いていた。
 白目が血のように充血し、瞳孔は色を失った目をぎょろりと巡らせ、教室内を伺い見ている。いや、一つじゃない。
 一組、二組、三組の目。全部大きさがばらばらで、おかしなふうに欠けている。大きな頭以外の姿はない。目は見えるのに顔は見えない。
 その足下で、何かが煙を上げるのが見えた。
 灰色に変色して溶けていく何か。

「前です!!!!」

 とっさに叫んだ。
 同時に、赤司が駆け出してドアを開くのを見た。
 再び照明が切れる寸前、視界の隅で、紫原が支えるのと逆の腕を取った黄瀬が青峰をリードしていくのを確認する。
 後部ドアの方向に向けて制汗材をスプレーする緑間の背後を全力で駆け抜けがてら、その腕を引いた。
 足下も見えない暗闇の中で、光の記憶だけを頼りに残り三歩を踏む。
 勢い余って緑間ごと廊下の壁に激突する背後で、ガーッ、バンッと派手な音が鳴り、慌てて顔を上げた。

 閉じたドアの前で荒い息を吐きながら、赤司が砕いたポテトチップスをドアの前に撒き散らしている。
 振り返った後部のドアは、閉じられたままで何の異常もない。
 あそこに、何か得体の知れないものがいたはずなのに。

 廊下は電気が点いたままだった。点滅もない。恐る恐る閉じられた引き戸を見る。上半分が格子窓になり光を受け入れるはずの内部は、コールタールを流し込んだような重々しい闇に閉ざされている。
 そこから一瞬も目を離せないように凝視したまま、恐る恐る赤司が後ずさり、近づいてくるのを、緑間の手のひらが受け止めた。
 ドアはぴくりとも動かない。何の音も聞こえない。

「あか、し、くん」
「何か見たか」

 訪ねられ、言葉にしようとして、思い出した恐怖に喉が鳴る。
 子供を、と、必死に絞り出した声でそれだけ答える。
 子供、本当に子供だっただろうか。子供というのはあんな形をしていただろうか。ぶよぶよと腫れ上がり肥大化した土色の皮膚、赤い目、白い瞳孔、ぎょろぎょろと動いてこちらを見ようとしていた。もう少しで目が合うところだった。
 ぐううぅ、と意識せずに喉が鳴って、自分でも驚くような勢いで目から水分が溢れ出す。ぼたぼたと尋常じゃない量の涙が足下に滴っていく。

「く、黒子!? ななな、泣いてる場合では、ないのだよ!」

 聞いたこともないほど慌てた声の緑間に言われ、制御できない激しさで首を縦に振りながら立ち上がった。
 ここを離れたい。怖い。この薄い戸の向こうに、あいつらがいる。

 震えてまともに動かない足を必死の力で動かし、歩を進めようとする。
 しかし、その気力をも押さえ込む更なる必死さで、「待って!」と悲鳴じみた声が背後から上がった。

「青峰っちやばいっスよ。これどうしたらいいんスか!」

 黄瀬の鼻をすすりながらの訴えに振り向けば、張り出した柱の角にうずくまった青峰は、言葉もなく背中を痙攣させている。周囲に散った何かとすえた臭いで、彼が嘔吐したことを知った。
 紫原がおろおろと背中をさすりながら名前を呼ぶのに応えようとしてか、時折手を動かすから、意識を保っていることだけはわかる。

「青峰く……どうし……」
「わかんないっス! 教室出た途端になんかビクンビクン跳ね上がっていきなり吐いたっス。青峰っち、しっかりしろよぉ」

 痙攣の収まらない背中に覆い被さるようにしがみついて、黄瀬がわんわん泣いている。釣られた紫原も号泣寸前だ。つついたら決壊しそうな涙を下瞼に溜めて、ぎゅうっと唇を噛み締めている。
 一瞬足元をもつれさせた赤司が早足に三人へ近づき膝をつくのを、黒子と緑間は並んだまま呆然と見ていた。
 ほんの数分前に得たはずの安堵は、あっさりと霧散してもうどこにも見当たらなかった。

「敦、大輝を背負えるか」
「長い距離とか走ったりとかじゃないならー……」
「とにかくここを離れよう」
「離れてどこ行くんスか」

 普段の青峰からは想像もできない弱りきった姿を見て、動かすのが不安になったのだろう。黄瀬が必死の力で止めにかかる。
 見かねた緑間が背後から引き剥がしに行くと空いた空間が不安に思えて、黒子もふらつく足で後を追った。

「黄瀬、落ち着くのだよ!」
「だってこんな狭いとこで、どこ行ったって一緒じゃないっスか! 冗談じゃねえよなんでこんなことになってんだよ意味わかんねえよ……!!」
「涼太、立て。どこに行こうと変わらないかも知れないが、目の前に明らかに何かがいるとわかっていて留まるのはバカの所行だ。お前の愚行に全員巻き込むつもりか」

 厳しい叱責の声音に、黄瀬の肩がビクリと揺れる。

「誰一人も置いていかないし見捨てない。お前がここに留まるなら誰も進めない。わかるな?」

 視線を合わせて言われ、涙目のまま言葉に詰まる黄瀬の袖を、うずくまったままの青峰の手が力なく掴んだ。
 5対1すんだろ、と掠れ掠れの声が呟いて、僅かな間を置き、悪い、と呟く。彼自身自分に何が起こっているのかわからないのだろうとわかる、その怯えた響きに。
 黒子は肩にかけたバッグを胸に引き寄せて、きつく抱きしめた。
 この中に希望がある。

「い、移動、しましょう。少なくとも今は、ドア一枚隔てて動きを止められてる。今のうちに、できるだけ、情報、を、……」

 顔も知らない、そこに本当にいるのかもわからない、誰かが与えてくれる情報を。
 今はそれだけが、目の前に降ろされた蜘蛛の糸だ。

 泣いている場合じゃない。
 きつく閉じた目からこぼれ落ちた情けない水滴を、長袖Tシャツの袖口で乱暴に拭い取った。