SS


夜の風

明日は弾丸、ファンファーレ。
 
***



 聞いてなかったなんてのは自分の都合で、知らないなんてのは言い訳だ。
 窮地に立たされて初めて、人は自分の未熟さを後悔する。



 「あーあ。集まってる集まってる」


 忍び込んだ部屋のカーテンの隙間からさした月明かりが、コバルトブルーの瞳に反射する。
 外を伺うギルバードの横顔に深い影がかかって、彼の仄暗い雰囲気が際立って見えた。

 込み上げる吐き気の波に耐えかねて、シャノンはずるずると壁に背を預けて座り込んだ。口の中に広がる鉄の味がさらに不快感を増幅する。
 強かに殴られた腹が痛いのか打ち付けた頭が痛いのか。一枚ヴェールを隔てて覗いているような、ぼんやりした視界がゆっくり揺れている。
 朦朧とする中、とにかく意識だけを手放さないようにその痛みに縋る。ギルバードの涼しい声だけが救いだったが、どうやら状況はあまりよろしくないようだった。

 しかし、タコ殴りにされる寸前でギルバードに引っ掴まれて、走っているのか引き摺られているのか分からないような状態で逃げてきたので、ここがどこなのかさっぱり分からない。



 とんだ災難だ。へまをした。
 自分を責める声が頭の中でぐるぐると回る。

 自分のせいだ。

 大きい割には質素で謙虚、悪く言えばケチくさい家だと聞いていた。あんなごろつき雇ってるなんて知らなかった。
 いや、油断した自分が悪いんだ。
 誰もいないと思って油断したから見つかった。
 巻き込んだ。ギルバードまで巻き込んで、何をしにきた?
 なんて、役立たず。


 「大層な警備だこと。よっぽど隠したいことがあるんだろうよ。没落貴族の分家の末端によくもこんな金があったな…おい。寝るな」


 ぴしゃりと頬を叩かれて、いつの間にかまぶたが閉じていたことに気付く。
 はっと目を開けると、至近距離にコバルトブルーが揺れていた。

 「…睫毛なっが」
「寝ぼけて頭まで悪くなってんのか」
「頭悪いのはもともとだよ。吐きそう。」
「吐いたらここに置いて帰るからな。座ってると落ちるから立ってろ」
「担いで帰ってくれるんじゃないの?」

 見慣れた顔に思い切りしかめっ面された。
 
「担いだら絶対もどすだろ。そしたら本当に途中で捨てて帰る」

 言われた通りすぎて返す言葉がない。


 差し出された腕に縋るようにしてなんとか立ち上がったシャノンは、半ば壁にもたれかかるようにしながら外を覗った。
 階下に少しずつ人が集まっているのが見える。最上階、5階からの景色だった。隅の部屋まで連れて逃げ込んでくれたんだろうが、見つかるのは時間の問題のようだった。もう長くここにはいられない。

 ちくりと胸が痛んだ。
 取りにきた物、まだ回収できてないのに。
 また思考が、負の感情に飲まれていく。
 体が重くて動かない。瞼が落ち始めると、またぺちと頬を叩かれた。


 「だから寝るなって。あとちょっとだから」
「いいよ、置いて帰って。自分でなんとかするし」
「なんでだよ。帰ってこないと寝覚めが悪いだろ。逃げるが勝ちだ、ずらかるぞ」
「もう負けてるようなもんだよ。何もできなかった」
「いや、必要なもんは持った。俺らの勝ちだ」


 目の前にずいと四角いものが突きつけられた。暗い中でよく見えず、目を凝らす。一拍置いてようやくそれが何かを把握して、目が醒めた。
 今回の仕事の目的だった、小さな絵がそこにあった。片手に収まるくらいの小さくて綺麗な銀細工の額縁に、つぶらな瞳が光っている。可愛らしい少女の肖像画だ。

「…いつの間に。」
「お前が殴られてる間。」
「いや、あの。良いんだけどさ」
「助けただろ。目的も果たしたし」

 だからさっさと、こんなところはおさらばだ。
 さんにいいちで開けるから、落ちずに跳べよ。


 朦朧とした意識を現実に引き戻すように、ギルバードがシャノンの腕を引いた。
 突然の展開に心がついていかないままでは、うまく飛べない。
 帰らなきゃいけない。これを届けに。
 挫けかけた心に、ひとかけらの煌めきのようなものがちらついた。


 さん、

 体のスイッチが入る感覚。

 にい、

 その時だけは研ぎ澄まされて、その時だけは風になる。

 いち。




 ギルバードが大きな出窓のカーテンを振り払う。勢いよく窓が開け放たれた。
 二人同時に窓に飛び乗って、目の前に開けた景色に目を細めた。
 
 雲ひとつ無い濃紺に丸い月が笑う。遠くに城下街の光が煌めく。
 夜の香を纏った風が吹き込んで、髪を、服を、カーテンを舞い上げる。
 あっち、とギルバードが指し示した方向に、本館と分館を繋ぐ4階部分の渡り廊下の屋上が見えた。


 考える前に体が動いていた。


 5階から目下、壁沿いに群がる衛兵には用は無い。
 窓の桟を蹴って軽やかに身を投げ出す。
 風が、着地の重力が、静かな闇が心地いい。
 ひゅう、と口笛を吹いた相方が一足遅れてついてきて、先ほど見えていた渡り廊下の上でシャノンの背を叩いた。

「ちょっと遠そうだったから、届くかどうか自信がなかった。先陣きってくれて助かる」
「見たらなんとなく分かるじゃん。着地できなくて落ちることある?」
「自分の身体能力が分かってなくて、落ちてく奴がいるんだよ」
「誰それ。危ないなあ」
「いつも塀が乗り越えられなくて引っかかってる奴がいるだろ。ついでに鍵も開かなければ縄も抜けられない」
「…ああ」

 シャノンが得心する。同じ顔を想像して二人で笑ったところで、下から怒号が響いた。
 あそこにいるぞやら何やら、よく分からない声があちこちから飛んでくる。
 振り返ると、こちらに気づいたごろつきどもが慌てて追いかけてくるところだった。

「やべ」

 ゆっくりしてる場合じゃなかった。
 よもやま話は帰ってから、いくらでもできる。
 ついでに水色の彼の笑い話も。もちろん本人のいるところで思いきり、だ。




 ここまで来たらあとは簡単だ。
 目前に揺れる巨木を足がかりに、敷地の外につながる鉄柵を飛び越える。
 住宅街を走り抜けて、夜でも明るい繁華街まで出ればいつもの景色が待っている。
 その辺で遊んでもよし、部屋に帰り着いて泥のように眠るもよしの大団円。

 そのあとは、困ったひとに笑顔が花開くのを見ながら酒を飲む。
 直接感謝を聞くことはできないけれど、ちょっとは誰かの役に立てたかなって思いながら。





 こんな日常も楽しいけれど、すこしだけ。
 悩みを呟く彼らが過ごす、明るい世界を羨ましいと思うのはここだけの話。