SS


夏の蜃気楼

気ままな散文。
 
***


どこにも行けない、何にもなれない、酷く後ろ向きで懐古主義な世界。
そこから与えられた『未来のため』の肩書き。
そんな不自由さの象徴に身を押し込んで、僕は今日も日の光に晒される。

鬱陶しい。

第1ボタンまで止めろだの、ネクタイを緩めるなだのと煩いが、エアーコンプレッサーのリモコンを操作する権限すら与えられない僕らが誰一人としてそれを守っているはずもない。僕も例外に漏れずだらしのない首元で、暑さに歪んだ景色の中を歩く。
全身を包む蝉の音に、何もかもがかき消されていく。

何も考えられなくなる暑さだ。
すっかり思考を失って、そのままアスファルトに溶け出してしまいそうなほど。

ペットボトルのお茶が沸いている。
喉を鳴らして飲むほどでもないお茶を飲み干して一歩踏み出すと、汗が喉元を伝って胸まで落ちた。

頭痛が酷い。視界が揺れる。
心なしか足元もふらつき、だんだん体が重くなる。

「……これは死ねる」

呟いた時、いつもの下校路の傍にある鳥居が目に入った。
大きな神社にあるような朱塗りの艶やかな鳥居ではない。苔むして表面が溢れ始めた石造りの鳥居だ。両脚の下の方に剥がれかけた札が貼ってあるが、風化し、泥が跳ねて真っ黒になっている。

その奥に見えた境内の、ひときわ暗い木陰に吸い込まれるように、僕はのろのろと足を踏み入れて倒れ込んだ。



「疲れたのかい?」



小さな社に背中を預けて足を投げ出し伸びていると、頭上から涼やかな声が降ってきた。
声の主も確認せず、虚ろな目を鳥居の外に向けたまま僕は発声した。
酷く乾いた喉から、掠れた声が転がり出る。

「ああ、」

酷く体が重く、頭の奥が痺れている。

「疲れた」

目を閉じて、空を仰ぐ。
そのままゆっくり目を開けると、息がかかる距離に不思議な男の顔があった。
鈍色に反転した瞳。本来ならば白目があるはずの場所に、自分の顔が小さく映り込んでいる。
清らかな水のように肩の向こう側まで流れる髪は、触れれば凍りつきそうなほどに透明だ。
きっちり合わせられた和服の襟周りには汗ひとつ見えず、病的なまでの白い肌が木陰の中で浮いている。
およそ、この世のものではない。

「可哀想に」

汗で髪が張り付いた額に、男の掌が置かれた。
その心地の良い体温に、僕は目を細める。
体が動かない。
気が付いたら蝉の音は消えていた。


「久方ぶりの可愛いお客さんに良いものをあげよう。きっと、今の君に丁度いい」

手を出してごらんと促されるまま、膝に落としていた手を器にして上に向ける。そこに、赤子の拳ほどの巾着袋が落とされた。
手首から先だけを動かして、緩慢に、巾着袋を逆さまに振る。
袋からころりと顔を出したのは、氷のように透き通った4つのBB弾だった。

それは、この男の流れるような髪と同じように、口に含めば弾ける氷菓のようだった。
そのくせ、それは人の体温では溶けることなく、確かな形でそこに存在している。


「一つ飲んだら暑さがなくなる。二つ飲んだらどうでもよくなる。三つ飲んだら、いい夢が見られるよ」

歌うような声が落ちてくる。


この逃げ場のない暑さも、前にも後ろにも進めない自分も、どうでもいい。

衝動的に心が動いた。

BB弾をまとめて口に放り込もうとした僕の手を、男が制した。

「全部飲んじゃうの?せっかく君の為に準備したのに」

僕の手からひとつ、透明な影を落とす球体がつまみ上げられる。
球体の表面で華やかに反射する光。
その華やかさと対照的に妖しい、薄い唇からちらりと覗いた赤い舌。
絡め取られて、それは今度こそ溶けた。

「トリップを楽しまなくちゃ」

含みのある笑顔が木漏れ日に彩られる。
BB弾から落ちるのと同じ色の影がその髪に揺れるのを見て、喉の渇きが抑えられなくなった。

何にも期待しない。
でも何かに縋りたい?

居ても立っても居られなくなって、手の平に転がった残りの丸薬をまとめて口に放り込んだ。
ひとりでに弾けて、仄かな薬臭さが鼻に抜ける。
氷のように冷たくて熱い、喉を焼くような感覚が内臓に落ちていく。

「あ」

熱い。
暑いのに寒い。

「馬鹿だねえ」

嵐のように通り過ぎていく感覚に次いで、視界が反転した。
ぐるり、と回った景色と全く相関しない方向へと体が折れる。
ほおに触れる、灼けたコンクリートが冷たい。

歪む世界。

物の境界が分からなくなって、全てのものが混ざり出す。
切れ切れの耳鳴りと、遠くで反響するのは鼓動の音。
前も後ろも分からない。
眩しいのかも暗いのかも分からない。
最早なにが見えているのかも分からなくなって。
意識を投げ出そうとした間際で、僕は脳裏に満天の星を見た。


暗転。



***