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悩み事は雨の日に

明日は弾丸、ファンファーレ。
 
***



都の人々に嫌われる恵の雨。
私は、それが跳ねる音がたまらなく好きだった。

いつも、1人になった隙を見つけては、その音に耳を澄ますのだ。




大雨の中、営業を終えて静まり返ったひよこ亭。

いつものように、女将さんは皿洗いと明日の仕込みにとキッチンへ消え、ホールに残った私はいつものように客席を片付けていた。
私ひとりきりになった、まだ人のいた気配が消えない店内。

今日も今日とて多分に漏れず慌ただしい1日だった。向こうから割れ物の音が耳をついたかと思えば、逆側から『おい!』と名前では無いものを名前のように呼びつける声が響く。

もう何年も続けた日常だ。
それにも慣れたとはいえ、ふとした瞬間に感じる疲れは虚しさを連れてくる。
ひとしきり片付けを終え、普段なら女将さんの手伝いにすぐに入るところだが、今は少しさぼりたい気分だった。



ちょっとなら、いいかな。

少し悪いことをする気分で誰もいない店内を伺う。うん、綺麗。片付けも完璧。今日も私、頑張ったから。と心の中で言い訳を呪文のように流しながら、そっと、カウンターの客用の椅子に腰を掛けた。

目を閉じて耳を澄ますと、密度の高い雨音がすぐに私の感覚を満たした。
窓のガラスを雨粒が打つ音。屋根で、雨樋で、壁で、跳ねる音。
今日はよく降る。

深く深く呼吸をする。
その瞬間、ざあっと一瞬雨の音が強く押し寄せてきて、涼やかな声が静かに耳に届いた。



「こんばんは、エナ」



予想外の声にはっと振り向くと、暗がりの中で申し訳なさそうにはにかむ人がいた。

「お店閉めた後にごめんね。ちょっと雨宿り、いいかな?」

誰かと思えば、見慣れた常連客だった。
背後の雨越しの街明かりがぼんやりと彼の輪郭をかたどっている。服は濡れているどころか水が滴り落ちており、珍しい色の髪は濡れそぼって重く沈んでいるのが見てとれた。
扉の外は、土砂降りだ。


意外な来客に動揺しながらも、エナは急いでカウンターの下に詰めてある洗い晒しのタオルを持ち出した。
「肌触りはあんまり良く無いですけど」と前置きしてそれを渡す。彼は先ず手と顔を拭って「ああ〜、生き返る」と、ひとつ息を吐いた。そのタオルでそのまま長い髪を絞るように拭くと、あっという間にタオルからも水が滴るようになった。
ぐっしょりしたタオルを受け取って、乾いた新しいものを渡す。一枚では足りなさそうだったので、まとめて3枚ほど積んでポンと彼の手に乗せた。

「冷えちゃうので、良かったら奥へどうぞ」
「いいの?」
「大丈夫ですよ。今日はお客さんも少なかったので、早めにお店も閉めてたんです」
「ごめんね」
「びっくりしました。どうされたんですか」
「まあ、ちょっと。」
「何かあったんです?」
「うん、まあ。足がつくような外出じゃないから安心して」
「そうですか……」


店の奥、先ほど自分が座っていた席の方へとリルドを促しながらエナは首をひねる。
大したことじゃなければ、用事でもなければ、こんな大雨の中わざわざ外出する必要があるだろうか。
いつもあっけらかんとしている人だからこそ、煮え切らない様子が気になった。話したくないなら無理に聞き出す必要もないけれど。


席に座る前に服の水を取って、ワサワサと髪を拭いてと忙しい様子を眺めていると、消えかけの暖炉の炭火が目に入った。
もう春だが夜はまだ冷える。今日は雨だからか、いつもより一際空気が冷たかった。

「良かったら、温かいものか何か飲まれますか」
「本当?でも押しかけて飲み物もって、ちょっと図々しくない?」
「私が良いので良いんです」
「そう。じゃあお代は払うから、お酒でお願いしようかな。お金もびしょびしょだけどいい?」
「拭いてくれたら預かります」
「ちぇ」


お酒ならホットワインかな。温めるならキッチンで、女将さんが仕込みに使っている火を少し借りられるかな。
甘いものが好きな人だから、つまみはチーズと蜂蜜で。ミントかナッツが欲しいかも。

そこまで考えて、我に返った。さっきまで仕事をさぼろうとしていた人とは思えないほど、あっという間に仕事の思考回路に戻っている。
それに気付いて、思わずひとりで苦笑いしてしまった。私、ずっと仕事してる。


「ちょっと待っててくださいね」


キッチンに向かうと、女将さんがきびきびと仕込みをこなしていた。事情を話して、必要なものを用意する。
程よく温まったワイングラスを2つとつまみの木皿を盆に乗せて足早に戻る。

「お待たせしました」とグラスを下ろすと、湯気からシナモンの香りが広がった。



「わ、豪華」

お客さんに喜色が満ちるのを見ると、ほっとする。

「おつまみはサービスです」
「そうなの?じゃ、いただきます」

細い指がチーズをつまむ。
頬張った表情に喜色が滲むところまで見届けて、自分もグラスを持って彼に並んだ。


温かいグラスの中で、とろりとした紅い液体がランプの光を反射する。
ほっとした空気の間に雨音が流れる。
遠くの方から静かに雷音が響いている。


「雨凄いですね」
「止まないよね。僕、今日帰れるかな」
「お客さんたちは、しばらく続きそうだねって言ってました。長雨になるんじゃないかって」
「それ、意外と当たるんだよなぁ。じゃあまた濡れながら帰るしかないか」

言葉を交わすものの、お互いに疲れているのか会話はいつもよりスローペースだ。
言葉が切れたタイミングで、エナはグラスを口に運んだ。
ワインの華やかさの中に、どことなく懐かしいスパイスの香りが紛れ込む。ひと口ごとに温もりが喉元を落ちていって、お腹が温まる感覚に眠気を覚えた。
それもそのはず、雨で客足が途絶えたので早めに店を閉めてはいたが、日付けはとうに超えている。

そう、夜更けもいいところなのだ。
こんな日の、こんな時間の、こんな訪問。


エナのもの言いたげな気配が伝わったのか、気が変わったのか、はたまた沈黙に耐えかねたのか。しばしの沈黙ののち、彼の方から、ばつが悪そうに話だした。

「……さっきまで、実家に顔を出してたんだ。本当は一晩泊まって帰る予定にしてたんだけど、ばあさまと大喧嘩になってそのまま飛び出してきちゃった」
「えっ、そんな」

子どもみたいな。
うっかり出かけた言葉を気合いで引っ込める。
私の言葉を代弁するように、「大人げないでしょ」とリルドが肩をすくめた。

「いつもと同じ喧嘩。喧嘩になるのが分かってるからできるだけ帰りたくなかったんだ」
「何が原因なんですか?」
「うーん、なんて言ったら良いのかな…。僕の知らないところで、色んなことを勝手に決められるんだよね。例えば、望んでもない縁談の話が自分の知らないところで進んでて、もう断れない所まで来てから知らされる、みたいな。
そういうのがよくあるから僕も面倒くさくなっちゃって、大抵その時はそのままにして。でも後からふつふつ来て、文句言って、じゃあ先に言えって怒られる。それで頭にきて、言えるわけないだろって怒鳴って出てきちゃった」

軽そうな口ぶりでそんな話をして、彼は笑った。

「大人げないんだ。お互いに」


また、長い指がチーズを攫っていく。
砕いたナッツがこぼれ落ちて、木皿の上でコロコロと音を立てた。

「ばあさまはね、きっと僕を自分の夢に重ねてるんだ。名のある家と関係をつないで家の地位を上げてほしい。功績を残して、人に仰がれるようになってほしい。僕にとってもそれが幸せだと思ってる」

それは、どこか諦めを含んだ声色だった。

「嫌だって、ちゃんと話してみたことはないんですか」
「あるよ。でも駄目。じゃあお前は何がしたいって聞かれると答えられない。ばあさまのお眼鏡に叶うだけの言葉が出てこない。
空っぽで、結局ずっとこうやって逃げ回って、皆生きるために必死なのに僕だけこんなに中途半端」

外で、一際大きな風が吹いた。隙間風の流れに乗ってランプの火が大きく揺れ、透けるような横顔に落ちた影が揺らいだ。



「……変な話聞かせてごめんね。そろそろ帰ろうかな。ご馳走様でした」

そう言って立ち上がる彼の服の袖を、気づくと掴んでいた。思った以上に冷えた感触が手を濡らした。

「あ、あの、えと。」
「なに?」
「あの、危ないです。雨もまだ強いし」
「さっきもこんなもんだったよ」
「泊まっていきましょうよ。私、女将さんに泊まってもいいか聞いてきます」
「大丈夫だって、近いもの」
「駄目ですよ。帰せません」
「そうだよ、こんな時に外に出てると脳天に雷が降ってくるよ。泊まっていきな。ずぶ濡れじゃないか」
「女将さん」

押し問答していると、いつの間にか様子を伺いに来ていた女将さんがカウンターの奥から顔を覗かせていた。
手にはナイフを持ったまま暗闇の中から覗いているもんだから、ちょっとしたホラーだ。

「いや、でもそれは申し訳ない」
「リビングのソファかエナと添い寝するか、好きな方で寝ていきな。ちょっと小さいかもしれないが、着替えもエナのが入るだろう」
「ちょっと、女将さん」
「うーん」
「あんたに拒否権はないよ。同じ濡れるにしても明るくなってから帰りなさい」
「分かったよ。じゃ、エナのベッドで寝かせてもらおうかな」
「もう、リルドさん!!」




窓のガラスを雨粒が打つ音。屋根で、雨樋で、壁で、跳ねる音。
私の大好きなお店で、素敵な人たちの声を聞きながらゆっくり過ごす、こんな雨の夜も悪くない。

明日もきっと、慌ただしい。