週末と逢瀬、大人げない気持ちのこと


 約束はいつも週末の夜、いつもの店の前。
 東京よりもずっと冷え込む北海道の風を受けながら、あの子は一人、俺を待っていた。

「悪いな、待たせたか」
「いいえ、今日も時間通りですよ、菊田さん」

 そりゃよかった、と笑えば微笑み返してくれるこの小柄な女性は、いわゆる俺の恋人……というやつだ。毎週、土曜日に、俺たちはここで待ち合わせ、連れ添って飯だのなんだのへいくのが決まり事になっている。

「それじゃ、なんか食いに行こう、希望はあるか?」
「あ、いえ、特には……でも、その、菊田さん」
「ん? あぁ……」

 今日は……と何やら言葉を濁す彼女。そのうっすらと桃色に染まる頬を見て彼女の言わんとするところを察した俺は、その愛おしさににやけそうになるのを堪えながら、なんでもない風を装って言葉を続けた。

「外泊届けなら出してきた」
「! じゃあ……」
「あぁ、迷惑じゃなければな」
「迷惑なんてことあるわけないです!」

 子供のようにはしゃぐ彼女についに堪えきれず笑いが溢れる。それに少し機嫌を損ねたのか、彼女は頬を膨らませながら「なんですか」と唇を尖らせた。

「はは、悪い悪い……なんでもねぇよ」
「そうですか? ……じゃなくて、あの、もしよかったら今日の夕餉は私が作って……」
「——おや、これは菊田軍曹殿」

 天国から地獄へ、高所から低所へ。鈴が鳴るような可憐な声に被せるように、地の底から響くような低い男の声が聞こえる。声の主が誰かよく分かった上で、俺は嫌々そいつの方を振り返った。

「……尾形か……」
「奇遇ですなぁ」

 不遜な態度の部下の姿を認め、俺は深くため息を吐く。今から彼女と幸福な時間を過ごす予定だというのに、何故こんなところで会いたくもないやつに出会ってしまうのか。

「こんなところで何を……ははぁ、逢引ですか」
「そうだ、だからあんま邪魔するなよ」
「なるほど、これはこれは……週明けは菊田軍曹殿の噂で持ちきりでしょうな」

 そんな話する相手いないだろ、お前。——とは言わず。
 さて何と言って追い払おうかと考えていると、何故か彼女が「尾形さん!」と表情を綻ばせた。

「ん、あぁ……お久しぶりです」
「お久しぶりです、先日はありがとうございました」
「……大したことじゃないですよ」

 何やら顔見知りの様子。俺は初耳なんだが。

「それにしてもまさか菊田軍曹殿の奥方だったとは、妙な縁もありますなぁ」
「……! や、やだ、まだそんなんじゃあ……」
「おや、これは失礼。……菊田殿は手の早い方だと思っていましたので」
「尾形」
「おっと、怖い怖い……では、自分はこれで」

 形だけは綺麗に礼をして尾形は踵を返した。あの野郎、後で覚えてろよ、と出かけた言葉は飲み込んで彼女の方へと向き直る。少し話の腰は折られてしまったが、何はともあれこれでようやく彼女と二人きりの週末だ。尾形のことなど忘れてめいっぱい楽しもう。
 
 ——と、その時の俺は思っていたのだが。
 
「それで、道に迷っているときに親切に道案内してくれたのが尾形さんで……」
「ほぉー」
「尾形さんって面白い人ですね、歩いてる時も色々陸軍のお話ししてくれて……あっ、軍規に反するような話はされてませんよ! その辺りもちゃんとしてました!」
「……へぇー」

 今現在、俺は何故か彼女の家で彼女の作った飯をつつきながら、彼女の話す「俺の知らない尾形」の話を延々と聞いている。俺は、一体何を聞かされているのか、と、若干嫌になってきてはいるが、あまりにも嬉々と話しているものだから止めるのも忍びない。

 そうか、そりゃよかったな、なんてから返事をしながら口に運ぶ飯の味は正直よくわからなかった。彼女の作る料理がこんなに味気ないと感じたのは、彼女に出会ってからの一年で初めてのことだ。
 そんな俺の様子には気づいていないのか、彼女はなおも尾形の話を続ける。こんな話をしてくれたとか兵舎での俺についての話もしたとか、そんな事。

(……面白くねぇなぁ)

 できる限り顔には出さず、しかし引き続き気のない返事ばかりを返していると、ようやく何かおかしいと気がついたのか彼女の話が少し止まった。

「あの……菊田さん、私の話あまり面白くなかったですか?」
「ん……まぁ、そうだな、少しな……」

 素直な感想を口にして、俺はしまったなと顔を上げる。しょげたような表情の彼女の姿が目に入って、俺は彼女を傷つけてしまったのだと酷く後悔した。

「いや、あー……お前が悪いわけじゃ……つまんないっつーか、面白くなかっただけで」
「それって同じ意味じゃ……」
「いや、なんつーか、んん〜……」

 適切な言葉を探して言い淀む様はいよいよ格好がつかない。情けねぇ。これで彼女よりずっと年上なのだと思うと一層情けない。あぁ、そりゃあ、歳も近くて(外目には)親切な尾形の話ばかりするのも頷ける。
 ……頷けてしまうのだ。
 
「——なぁ、やっぱりお前も若い奴の方が良いのか」
 
 ——
 ————
 ——————

「……………………」

 ——長い、沈黙が流れた。最初に口を開いたのは、彼女の方だった。

「き、菊田さん……」
「……おう」
「それって——やきもち、ですか?」
「………………おう」

 ——多分、今の俺は、この広い北海道の大地の上で一番カッコ悪かったと思う。

「ふ、ふふ、うふふ」
「笑うなら笑えよ……」
「へへ、えへへへ、へへ、へ」

 つぼにでも入ったのか、口元を手で隠しながら小さく笑い声を上げる彼女。俺がその嘲笑を甘んじて受けていると、彼女は柔らかな声で「かわいい」と呟いた。

「カッコ悪いの間違いだろ」
「ふふ、そうかもしれないですけど……私からしたら、可愛い、です、可愛いですよ、菊田さん」
「……っはぁ〜……! 悪かったよ、変なこと言って!」

 降参降参、と両手を挙げると、彼女は一層笑い声を大きくする。そんなにおかしいのか、と俺が口を曲げると、彼女は「ごめんなさい」と言いながらまた笑った。

「ふふ……でも、ちょっとだけ傷つきました。だってそれって菊田さんが私のこと信じてくれてないってことですよね?」
「そういうわけじゃねぇが」
「そういうことですよ」

 真向かいに座っていた彼女が腰を浮かせ、俺の隣へと座り直す。少しだけ居心地の悪かった俺は、何も気にならない風を装って箸を動かしていた。

「だって、私がちょっと優しくされたくらいで尾形さんのこと好きになっちゃうって思ったんですよね? ……私のこと、そんな移り気な女だと思ってたんですよね」

 ……図星ではあるので、否定はできない。

「悪かったって」
「本当に思ってます?」
「思ってる」

 上目遣いで小首をかしげる彼女。おそらく彼女は怒っているということではなく、単に俺を揶揄って遊びたいのだろう。
 それがわかっていたとしても、そもそもの失言をしてしまったのは俺自身だ。多少の責めは甘んじて受けるつもりで彼女の目を見ながら少し微笑み、「悪かった」と繰り返す。すると再三の謝罪に流石に気を良くしたのか、彼女は満足気な様子で頷き、また少し、俺の方へと身体を傾けた。

「なら、いいです」

 目を閉じて息を吐く愛おしい人を、俺は静かに見下ろした。——あぁ、戦場で背負った背嚢と比べ、肩にかかる彼女の重みのなんと軽いことか。
 ふわりと漂う香りは先月に俺が彼女へと贈った香水のものだろう。視界の端で揺れる髪飾りも俺が選んだ。その髪を梳くためのつげ櫛も、俺の名を呼ぶその唇に引いている紅もそう、全部俺が選んだ、俺が……

「菊田さん?」

 ——そう考えれば考えるほど、俺はこのいたいけな女を抱きしめたくてたまらなくなるのだ。

「……なぁ、今夜は——、っえぁ?」

 たまらず肩に腕を回し、そのまま抱き寄せようと——したところで彼女がいきなり立ち上がる。俺が行き場を失った腕を硬直させているのを今度は彼女が見下ろしながら、優しくにこりと微笑んだ。

「私、先に食べ終わったのでお布団の準備してきますね」

 そうして無慈悲にもそのまま俺の腕の中からなんの未練もなくするりと抜けていってしまう。なんてことだ、俺の方はもうすっかりその気になっているというのに。

「食器は、台所に下げておいてもらえると嬉しいです」
「あ……うん……」

 彼女は自分の分の食器を手に台所へ立つ。そこで小さく水の音がしたかと思えば少し早足で寝室の方へと向かっていく。
 そして律儀に襖を閉めかけて——あの、と小さな声で呟き俺を振り返った。

「……お布団、一組でいいですよね? ……準備、してますから……お早めに、来てくださいね」
 俺の返事を待つことなくピシャリという音共に彼女の赤い頬が見えなくなる。聞こえるか聞こえないかはわからないながらも、俺はようやく「わ、かった」という一言だけを返して食べかけの飯をまた口に運んだ。
 
 やっぱり、味なんかはわかりそうにもなかった。