私を呼ぶその声の温度が
私の恋人はひどく無口だ。
「ヴァシリ、ヴァシリさん」
「……」
「ヴァシリ・パヴリチェンコさん?」
「…………」
言葉が通じないわけでは(恐らく)ない。留学生であるところの彼、ヴァシリ・パヴリチェンコは簡単な日本語は理解しているはずだし、日常的なコミュニケーションであれば行えると認識している。
しかし彼が今頑なに私の呼びかけを無視しているのは、ひとえに、今がちょうど筆の乗り時というやつなのだろう。私はベンチに座る彼の後ろから彼の手元を覗き込んだ。
(……相変わらず、上手な絵……)
彼が鉛筆の先を動かすたびに、彼の持つスケッチブックに描かれた絵が段々と深みを増していくのがわかる。私も絵を描くことがあるので、彼のその絵の上手さはよくよく理解しているつもりだ。
「これ、大学の前によくいるねこちゃん?」
「……」
「可愛いよね、よくベンチで日向ぼっこしてて……」
彼はやはり何も話さない。その隣で独り言のように話しかけ続けるのはもはや私の癖のようになっていて、今日も私は返ってこない返事をほんのちょっぴり期待しながら何でもない話を続ける。
「ベンチといえばさ、この前公園で」
「……」
「この前新しいカフェができて」
「……」
「あーお腹すいたなー、お腹空かない?」
「……」
無言。何の返事も返さない様は、側からみれば異様だろう。きっと私が彼にしつこく絡んでいるかの如く映っているのだろう。けれど付き合いの長い私は知っている、これはこれで、彼もちゃんと話は聞いてくれているのだ。
私も初めの頃は彼があまりにも話さないものだから、「もしかして舌がない? 顎関節症とか?」なんて質問をして、なかなか顔色も変えない彼に険しい表情をさせたこともある。
「何を考えているかわからない」
……なんて、言われているのを聞いたこともある。
(たしかに、もう少しだけ話してくれればなぁ)
うん、とか、そうだな、とかでもいい、何か言葉にしてくれれば、きっともっと彼の考えてることを理解できるはず。
(……わがままかな?)
そんなことを考えながら彼の横顔をじっと見つめていると、ふいに彼が振り向いて、その青色の瞳と目があった。どうかしたのだろうかと私が彼の名前を呼べば、彼は少しだけその目を細めて、閉じたままだった唇を小さく開く。
「——涼」
何よりも優しい声、呼ばれた名前。
別にさっきまでの話に応えているわけでもないのに、ただ呼ばれただけなのに、それだけのことでこんなにも嬉しくなる私はどこかおかしくなっているんだろうか。
なぁに、と返せば彼はまた黙り込んだまま、しかし少しだけ体を横にずらし、空いた隣をぽんぽんと手で叩く。座れってこと? と聞き返した後にはただじっと私を見るだけで、ついになんの行動すらも示さなくなってしまった。
「……あはは! それで伝わると思うのはさ、ずるいじゃん流石にさ」
私は笑ってそう答えその空いた彼の隣へと腰掛けた。なんだかんだ言って、それだけのことでも喜んでしまうのがやっぱり恋なのだと再確認しながら。
相変わらず彼の考えてることも何もかもがわからないけれど——多分、愛されてることは確かなのだろうと、私を呼んだ声の温かさを何度も噛み締めた。