試験用の羽根ペンをカナは置いた――不正防止の魔法がかかっている代物だ――期末試験が終わった。大教室の窓の向こうにはもうすっかり夏が来ていた。ホグワーツ城は大釜の中みたいに暑くて、カナは試験用紙に汗が落ちないか心配だった。
最後の魔法史の試験が終わると、生徒たちは解放感から歓声をあげ、背を伸ばし、羊皮紙を巻き終えると教室を飛び出していった。
カナは手紙の返事を待っていた。
入院中、カナはリーマスに手紙を書いた。最後の手紙はクリスマスプレゼントのお礼の手紙だったので、もうずいぶんと連絡をとっていないことになる。最後に届いたリーマスからの手紙は、やわらかい筆跡で勉強を頑張るようにとカナを励ましてくれていた。まさかそのあとカナが森に消えるとは思っていなかっただろう。もしかしたらおかあさんがもうリーマスに伝えているかもしれないけれど、ダンブルドア校長いわく、おかあさんは落ち着き払っていたらしいから、誰にも知らせていないんだろうなと思う。
十月にカナの手元にあった「開かない手紙」も、結局はどの先生もお手上げだった。マクゴナガル先生なんか「呪いの品かもしれませんから、捨ててしまいなさい」なんて言った。カナはなんとなくそれは憚られた――でもどうしようもできないので、今はトランクの奥底に仕舞ってある。
陽気が校庭のぶなの木や芝生を、きらきら光らせていた。生徒たちが箒に乗ってボール遊びしたり、日向ぼっこしたり、湖の大イカをからかって遊んだりしているのを、教科棟の渡り廊下から見下ろした。
カナはこれからハグリッドの小屋に行くことにしていた。退院してから、しょっちゅう通っている。ドラゴンの話を聞きに行くのだ。それがどんなに美しく、どんなに力強い生き物だったか想像しながら聞くのがカナは楽しかった。そのため、肩掛け鞄の中にはいつも、鮮やかな青色のドラゴン革でできた「イギリスとアイルランドに生息する竜種」の本を図書館から借りて持ち歩いていた。ただ、今日は試験だったから鞄を持ち歩いていない。寮まで一度取りに戻らないといけない。
角を曲がった時だ。
「あんまりしつこいと、お父様に言いつけるんだから」
ガートの声だ。カナはあわてて引き返して、壁に身を隠した。
「それはどうかな。僕の父上のほうが先輩だ。恥をかくのはどっちだろうね」
「あんたって本当に情けない奴ね」
すたすたと早足が聞こえた。ややあって、足音はふたつに増えた。ひとつは遠ざかって行くけれど、もうひとつはこちらに向かってくる。カナは立ち去ろうとしたが、間に合わなかった。
運の悪いことに、こちらに向かってきたのはマルフォイだった。
「ふん」マルフォイはカナに気づくと、ぎくりと肩を揺らしたが、すぐに鼻を鳴らした。「盗み聞きか? エリオット」マルフォイは面白くなさそうに言った。得意の舌の調子がいつもよりも悪そうだ。ふと、カナは思い出したことがある。
「マルフォイ、銀貨を返してよ」
アイスグレーの瞳は一瞬気を取られたように瞬いて、しかしすぐにカナを見据えて細くなった。
「僕が泥棒みたいな言い方だ。返すよ、こんな小汚いシックル銀貨、どうしていつまでも持っていたのか自分でも不思議なくらいだ」
マルフォイはポケットから出したものをカナに投げつけた。カナは咄嗟に取ることができず、銀貨は瞼に勢いよくぶつかった。そのまま床に落ち、その場には静寂だけが残った。
カナがジーンと痛む瞼を開けると、マルフォイは何か言いかけたように唇を引き結んで――そのまま立ち去った。
落ちた銀貨を拾う。カナは怒りすら湧いてこなかった。マルフォイは乱暴で、どうしようもない奴だな、とため息をついた。
カナは今度こそ角を曲がった。空き教室の鍵が空いていた。そっと扉を開けると、チョコレート色のロングヘア――ガートがいた。
ガートは、教室の入り口から一番遠い席に座って、手帳を広げて、羽根ペンでなにやら書いていた。すっと伸びた背すじが、彼女の育ちのよさを窺わせた。しばらく書いたあと、羽根ペンを置いた。それで、なにを思ったか、彼女はおもむろにその手帳に、思いっきりくちびるを押し付けた。
カナが身を動かすと、きし、と足元の床板がうめいた。ガートは弾かれたように振り返って、すかさず杖をこちらに向けた。カナは肩をはねて、立ち尽くしてしまった。
「・・・・・・驚かさないでよ」
ガートは居るのがカナだとわかると、杖をローブのポケットに仕舞った。それから手帳のページをちぎって、それをビリビリと裂きはじめた。カナは彼女に近づいていく。
「なにをしているの?」
「パパに手紙を書いていたの」
ガートは散り散りになった「手紙」の紙片を大事そうにかかえて、窓を開けた。そこから、わたげを飛ばすようにそっと息を吹きかけて、「手紙」を空中に飛ばした。紙片は空中にとけて、消えてなくなった。
「不思議。フクロウじゃないんだ?」
「とくべつにパパが用意してくれたんだ。いつでもやりとりできるように・・・・・・」
ガートは振り返って、はしばみ色の入り組んだ虹彩がカナを見据えた。夏の逆光がガートを影で隠してしまい、表情はよく見えなかった。
「パパがあんたに会ったって」
カナは不思議ではなかった。バートラム・エイブリーがカナを知っていたのだ。ダイアゴン横丁でのことをガートが聞いていてもおかしくはないだろう。
「その体に何を隠してるの?」
こつ、こつ、とゆっくり、カナに近づいてくる。カナは動かなかった。やがて胸と胸が触れ合うほどの距離になった。ガートは身を屈めた。
「それに、どうして生きてるの?」耳元で低い声がささやいた。
カナは、身を起こし離れていくガートを果敢に見つめ続け、そして微笑んだ。
「きみは人形みたいに従っているだけなんだね。それに怖くもない」
バン! と破裂音が響いた。カナの足元が黒く焦げ、煙を噴き出していた。ガートの杖がピリピリと名残の火花を散らした。
「馬鹿にしないで」ガートは腹を立てているようだった。カナを見下ろして、威嚇のように杖をぶらつかせた。
「きみのおとうさんはあまり心地の良い人じゃないね」
「黙って!」
ガートはしばらく杖を構えていたけれど、カナが微動だにしないのを見ると、諦めたように「ハーッ」と大きくため息をついて、机に腰を下ろした。
「あんたって、怖いものとかないわけ?」
「あるよ。スネイプ先生とか、マクゴナガル先生が怒ると怖い。きみのことが怖くないだけ」
ガートは杖をクルリと手の上で弄んだ。
「あたしに何か用があるわけ?」
「用っていうか・・・・・・」カナはすこし視線を彷徨わせた。「しばらく話していないなと思って。きみを見かけたから」
ガートはまた「ハーッ」と巨大なため息をついた。
「あんた、もう少し警戒したほうがいい。あたしはスリザリンで、あんたはグリフィンドールでしょ」
「でも、きみは友達だよ。違う?」
ガートが変な顔をしていたので、カナはおかしくなって、吹き出した。
「ガート、おやつを隠された時のファングみたい!」
さらに眉間の皺が深くなったことも、カナは気にしていなかった。カナはわかっていた。ガートは突き放すように振る舞っているだけで、根はとても善良なのだということを。
夕暮れに差し掛かっていた。カナとガートは連れ立って、大広間へ向かった。その途中、四階の廊下の近くから怒鳴り声が聞こえた。マクゴナガル先生だ。
「またハリー・ポッターだよ。話題に尽きないね、彼は。いい意味でも悪い意味でも」
「ハリー、どうしたんだろう」カナは追いかけたくなったけれど、ダンブルドア校長の忠告を思い出し、踏みとどまった。「もう余計なことはしないって言ってたのに・・・・・・」
三階の階段の方から足音がして、カナとガートは振り返った。スネイプ先生だ。
「教授、こんにちは」ガートが愛想良く挨拶した。
スネイプ先生は「こんにちは」とすこぶる低い声で返し、カナとガートが一緒にいるのを何度か見て、「夕食に行きなさい」とだけ言った。
「先生たちがやけにうろついていると思わない?」ガートが髪をかき上げながら言った。
「試験のあとだから?」
「たしかに、天気も良いし、解放感があってね。こういう日に思いっきり高く飛ぶと、気持ちいよ」
「ぼくは高く飛びたくない」
「なんでさ?」
「落ちたことがある」
ガートは息もつけなくなるくらい笑った。
「溺れ死にかけた!」カナが憤って言うと余計にガートは顔を赤くして、涙まで浮かべて笑った。
「何がそんなにおかしいの?」
くつくつとまだ時々お腹を揺らして、ガートはじと目のカナに言った。
「運動オンチ?」
「べつに、ちがうよ。泳げないだけ」カナはぶすくれた。
ぼくらがまだ、ホグワーツの存在なんて知らなかった頃だ。小さなカナとぼくは一つの箒を二人で乗って、よく遊んだ。ある日、カナが箒から滑り落ちた――そう、滑り落ちたのだ。それで湖に落ちた。それ以来、カナはすっかり水辺に近づかなくなった。
「良いこと聞いた」
ガートは目じりをぬぐいながら、あやしく笑った。「今度あんたを脅すときは、船着場か橋の上だね」
「行くもんか」
一対の銀の甲冑が仲違いして、めちゃくちゃに壊しあっているのを尻目に、カナとガートは大階段の方へ歩いた。
「ねえ、スリザリンのチームはやっぱりハッフルパフ・チームよりも強い?」
「そうだね。フィジカルが強い選手が多いから。ラフプレーも目立つし、あたしはあんまり好きなプレースタイルじゃないんだ。一緒に応援するような友達もいないし」
「それじゃあ寮杯はすっかりスリザリンのものだね」
「まあ、ポッター達が馬鹿なことさえしなければ、グリフィンドールのものだったからね。天から餌がぶら下げられてるみたいな気分で、なんとも言えないよ」
ガートと分かれて向かった夕食の席では、生徒の嘆きや安堵が交わされていた。カナもそこに混じる。ラベンダーが悲しそうにローストビーフをかじっている横で、パーバティがすがすがしくビーンズ・スープをかき混ぜていた。
「カナ、試験はどうだった?」
パーバティの問いに、カナはぎこちなく笑うしかできなかった。試験の出来はあまり良いとは言えなかった。筆記試験はまだしも、変身術や妖精の呪文の実技試験はカナを大いに落胆させた。自分で情けなくなるほどだ。少なくとも進級さえできればよいとカナは思っていた。
「カナは三か月のハンディキャップがあるのよ。うまくできていなくたってしょうがないわ。でもわたしは・・・・・・」
ラベンダーはまた啜り泣きそうになりながら、骨つきチキンを手に取って食いついた。
「ぼくは、落第してなければそれでいい」
そう言ってハッシュポテトにありつこうとした時だ。左右から頬の皮を、むに、と引っ張られる。顔を上げた。フレッドとジョージだ。
「おお! 気が合うな、さすがグリフィンドールの『ブランケットの妖精さん』」
「好成績者リストに名前が載るなんて恥ずかしいことをするくらいなら、真夏にスネイプの大釜でかくれんぼでもさせられたほうがマシだね」
「つまりは、死だな」
ラベンダーは想像したのか、吹き出したように笑い出した。パーバティは呆れている。カナは「ひゃなひて」と訴えて、双子の手をはじいた。
「気にすることないよ、ラベンダー。あの双子はあんなだけど、誰よりもホグワーツを楽しんでる。そうでしょ?」
「うん、そうね、そうに違いないわね」
「光栄です、お嬢様がた」ジョージがそう言って、双子は夕食の席についた。
カナは気がついていた。誰もハリーやハーマイオニーには話しかけない。二人の仲間のロンにもだ。ネビルも減点対象だったはずだけど、おおかた騙されたんだろうという解釈がまかり通っていた。寮杯を逃したことでこんなにも嫌われなくてはいけないだろうか。カナはにぎやかなグリフィンドール生の輪のなかにいると、少し寂しく感じるのだった。
その晩、談話室では例の三人は、窓際の隅っこで静かに勉強しているように見えた。カナはぼーっと輪を眺めているハリーに話しかけた。
「『石』は見つかったの?」カナは冗談のつもりだった。三人は弾かれたようにカナを見て、黙るように口元に指を立てた。
「カナ、今夜だよ」ハリーが言った。「ダンブルドアがいない。今夜、スネイプが動くつもりなんだ。だから僕たち、行くよ」
カナは唖然とした。ハリーの目が、いつか夕暮れの箒置き場で見た時のようにきらめいたせいで、言葉を紡ぐことができなかった。
「もしも僕らが戻らなかったら、先生を呼んで。ダンブルドアが戻っているならそれが一番だけれど・・・・・・」
「ぼくも行くよ」
「カナ」ロンがたしなめた。「君はまだ病み上がりだろ。それに、二度も危険な目に遭わなくていい」
「そうだわ、カナ。あなたは外に残らなければいけないわ。私たちの行動の証明をしてくれる人が必要なの」
ハーマイオニーの説得に、カナは頷いた。
「わかった。きみたちを信じるよ」
そして、四人は談話室が空になるのを待った。
やがて真夜中を過ぎた頃、三年生の悪戯っ子たちが寝室に向かったのが最後だ。
「マントを取ってきたら」とロンがハリーを促した。すぐにハリーが戻ってくる。
「ここでマントを着てみたほうがいいな。もしも足が一本だけはみ出ているのをフィルチに見つかったら・・・・・・」
「クリスマス休暇の時は、慎重に歩けば大丈夫だったよ」
「そんなにゆっくりしていられるかな」
「きみたち、何してるの?」四人は振り返った。
ネビルだ。ヒキガエルのトレバーを両手で掴んでいる。ハリーが寝室に戻った隙に逃げ出したのを、捕まえにきたのだろう。タイミングが悪い。
「なんでもないよ、ネビル。なんでもない」ハリーは透明マントを隠した。
「また外に出るんだろ」
「ううん。違う。違うわよ。出てなんかいかないわ。ネビル、もう寝たら?」
ネビルは説得に応じなかった。
「外に出てはいけないよ。また見つかったら、グリフィンドールはもっと大変なことになる」
「きみにはわからないことだけど、これは、とっても重要なことなんだ」
ハリーは前に進み出て、小さなネビルを見下ろした。しかしネビルも一歩も譲らなかった。ロンがカナを肘で小突いた。「カナ、君はいつもあんな感じだからな」と。
ロンは説得をあきらめてさっさと出て行こうとした。しかしネビルはそれにいち早く気づいて、談話室の入り口の、肖像画の前に立ちはだかった。両手を広げ、通せんぼした。
「ボク、ボク、きみたちと戦う!」
それにはロンが、頭に血が昇ったか、顔を真っ赤にして言った。「そこをどけよ、ネビル! ばかなまねはよせ」
「バカ呼ばわりするな!」ネビルも負けなかった。「もうこれ以上規則を破ってはいけない! 恐れずに立ち向かえと言ったのはきみじゃないか」
「ああ言ったさ。でもその相手は僕たちじゃない。ネビル、いいか。君は自分が何をしようとしてるのかわかってないんだ」
ロンが怒りをあらわにして前に出ようとしたのを、カナが手で制した。
「ネビル、わかった。ぼくがすべて説明するよ。だから座って?」
「そうやってカナはこいつらを庇うんだね! でもボクは騙されない」
ネビルは抱いていたヒキガエルのトレバーを手放した。そのままどこかへと消えていくのも厭わず、ネビルは拳を振り上げた。「ボクはやるぞ、殴れよ! いつでもかかってこい!」
三人は弱り果て――ハーマイオニーを振り返った。
「ネビル、本当に、本当にごめんなさい」ハーマイオニーは杖をサッと振り上げて「ペトリフィカス・トタルス」と、ネビルの小さな鼻先に突きつけた。
瞬間、ネビルの両腕と両足がピタリと閉じて、硬直した。バランスを失った折れた柱のようにぐらりと揺れて――カナのほうに倒れてきた。カナは下敷きになりながら、ネビルを受け止めた。ハリーとロンが加勢し、三人がかりであおむけにする。ネビルは口元もピッタリと閉じてしまっていて、唯一、淡い色の目だけがきょろきょろと動き、恐怖の表情のままでこわばってしまっていた。
「ただの『全身金縛り』の呪文よ。ネビル、ほんとうにごめんなさい」とハーマイオニーは悲痛に謝った。
「ネビル、こうしなくちゃならなかったんだ。訳を話している暇はないんだ・・・・・・」「あとできっとわかる」ハリーとロンも、ネビルにそう言った。三人は今度こそ透明マントを被り、談話室を出る時が来た。
「いい? カナ、『フィニート・インカンターテム』よ」
「わかった」カナは頷いた。「気をつけて」
肖像画が元に戻り、談話室には静寂が訪れた。カナは床に倒れたネビルを、なんとか引きずって、三人掛けのソファーの上に横たえた。カナも向かいの椅子に座る。ネビルの唯一動く目だけが、きょろきょろとあたりを見回していた。
カナは膝を抱えて、時間が過ぎるのを待った。寒くはない。ただ心細い。
待つという行為は、こんなにも頼りなく、どうしようもないことだろうかとカナは考えた。おかあさんは、いまもあの家で一人、カナが帰るのを――あるいはリーマスが訪ねてくるのを待っているのだろうか。
一時になった。時々、上の階からわずかな物音がするのがカナを怯えさせた。
二時になった。ネビルは寝てしまったようだ。カナは床にまとまっていたブランケットを掛けてやった。
三時になった。カナは泣きそうになるのを堪えていた。いつまで待てば良いのだろう。ハリーたちはちゃんと帰ってくるのだろうか。もしもフラッフィーが変わらず元気にあそこにいたのならば、すぐに引き返してくるはずだ。カナは決心して立ち上がった。ネビルに「呪文終了」の呪文をかけるのも忘れない。うまくいくかどうかは、わからないけれど。
「『フィニート・インカンターテム』」カナが杖をくるりと振ると、ネビルの四肢が弛緩した。すやすやと寝息が聞こえてくる。うまくいった。カナは安堵した。そして談話室の入り口に向かう。
肖像画の裏の穴をくぐり抜けたとき、カナはぎくりと身を縮こまらせるはめになった。マクゴナガル先生だ。
「ミス・エリオット――あなたまで」
先生の声は悲痛に満ちていた。カナはまた泣きそうになりながら、必死に先生に訴えようとした。
「もうミスター・ポッターたちは行ってしまったのですね」
しかし、マクゴナガル先生がそう言うのが早かった。カナは一瞬気を取られたけれど、「はい」と頷いた。
「ダンブルドア校長がお戻りになられました。ですから、あなたがたはもうベッドでお休みなさい。いったい何人の生徒が中で待っているのかは知りませんが――」
「ぼく一人です」カナは訂正した。「いえ、ネビルもいます。ハリーたちを止めようとして・・・・・・」
「わかりました。ミス・エリオット、あなたはまだ談話室を飛び出してはいませんね? まだその足は廊下の床に着いていません――ですから――早く中へ」
カナは先生に従って談話室へと戻った。ソファーでいびきをかいて寝ているネビルを揺らしたけれど、深く眠ってしまったのか、目覚めなかった。
カナは再びソファーに座り込み、ハリーたちの帰りを待った。どうか無事でいてくれますように――と祈りながら、立てた膝に顔を埋めた。
「カナ!」
声がして、カナは顔を上げた。ロンとハーマイオニーだ。談話室の暗闇はいつのまにか薄くなっており、朝が近づいていることを知らせていた。あれからどのくらい待ったのかわからないけれど、二人が戻ってきた!
カナは立ち上がって、二人をまとめて抱き寄せた。ロンは生傷だらけで、ハーマイオニーも埃っぽい。
「無事でよかった」カナは涙声で言った。二つの手がカナの頭をぽんぽんと軽く叩き、撫でた。
「ハリーは?」カナがたずねると、二人は首を振った。
「フラッフィーの足元の扉から先には仕掛けがあってね・・・・・・私は戻らなくてはいけなかった。彼は奥まで進んだの・・・・・・でもダンブルドアがちょうど来てくれたわ! 帰ってきたのよ!」
「ぼくもそれを聞いた。マクゴナガル先生から」カナは鼻を啜った。「あまりに遅いから、先生に伝えようと思って談話室を出た時、ちょうど廊下にいたんだ」
「それじゃあ、ちょうどその時だな」ロンが言った。切れた唇を動かすと痛そうだ。「僕らは医務室で治療を受けてきたんだ。と言ってもたいしたものは受けてないけどね。延びてた僕を起こしたのはこちらのハーマイオニー様だし」
ロンの言葉に、ハーマイオニーも泣きそうになりながら言った。
「ロンは勇敢だったわ。巨大な魔法使いのチェス盤があってね・・・・・・私たちは駒になってゲームに参加しなくちゃいけなかった。わかるでしょ? カナ。ロンはゲームに勝つために、自ら取られにいったのよ」
ハーマイオニーの言葉に、カナは息をのんだ。チェスは野蛮だ。気性によっては駒を取るときに攻撃したり、破壊したりする。
「その傷は、その時の?」カナが気遣わしげに言うと、ロンが頭をかいた。
「ウン、まあね」カナは思わず涙を落とした。「泣くなよ! もう起きて、ピンピンしてるんだ、今はハリーの心配をしよう。ダンブルドアがついているけど・・・・・・もしも間に合わなかったら・・・・・・あのスネイプだぞ?」
「ここで信じて待ちましょう。きっと帰ってくるわ」
三人は談話室のソファーで身を寄せ合った。ネビルがむにゃむにゃと寝言を言うのをよそに、ハーマイオニーは試練の間で何があったかを詳しく話してくれた。
そろそろクィディッチ・チームのメンバーが早朝練習を始める時間になった頃、談話室の入り口が開いた! 三人は入り口に駆け寄った。でもハリーじゃなかった。マクゴナガル先生だ。
「まだ起きていたのですか!」先生は変身術の指導の時みたいに厳しい声を出した。「そうかと思って、様子を見にきたのです」
「先生、ハリーは?」カナがそう尋ねると、先生は短く息を吐いて、言った。
「ミスター・ポッターは医務室に寝かされています。校長先生が見つけてくださいました」
三人はホッと息を吐いた。自然と笑顔が浮かぶ。カナはまた感極まってしまうのをこらえた。
「それじゃあ、『石』は――」「ウィーズリー!」ロンの言葉をさえぎって、マクゴナガル先生が叱りつけるように言った。
「その話は二度としないこと。いいですね。『それ』の処遇はダンブルドア先生が御決定なされます。あなたたちは今は御休みなさい。本日は試験明けの休暇になっていますから」
マクゴナガル先生は談話室を出ていった。三人は顔を見合わせて、声を出さずにガッツポーズをした。
「ハリーは負けなかった!」ロンがはしゃいで言った。「スネイプの野望を阻止したんだ!」
しかし朝食の席では、大広間の教員席にすっかり無傷のスネイプ先生が変わらず不機嫌そうに座しているのを見て、三人は唖然とした。「なんであいつ、まだ捕まってないんだ?」とロンが落ちた顎を戻せずにいた時、ハーマイオニーが「見て!」と指差した。その先はひとつの空席で――クィレル先生が座っていた席だ。
「えへん」唐突に、ダンブルドア校長が咳払いした。「おはよう、皆の衆。今日はひとつ、皆に知らせねばならぬことがある」
生徒はシーン――と静まり返っている。校長先生はそれを見回して、アイスブルーの瞳が蝋燭の明かりを何度かキラ、キラと反射させていた。
「クィレル先生がお亡くなりになられた」生徒の息を呑む声や、軽い悲鳴が聞こえてきた。大広間じゅうがざわつく中、カナ達も顔を見合わせた。「立ち入り禁止の四階の廊下でじゃ。だからわしは忠告をしていたのじゃが・・・・・・彼はわしらを裏切り、行ってしもうた。彼は『マグル学』の教師としてホグワーツに貢献してくれ、今年は『闇の魔術の防衛術』の指導もしてくれた先生じゃ。じつに残念に思う」校長先生は袖から出したハンカチで目元を拭った。「今日は彼を悼むとしよう」
校長先生が杖を振ると、談話室に漆黒の垂れ幕が降りた。生徒達はざわつきながら、食事を再開した。
誰かが言った。「クィレルはホグワーツを乗っ取ろうとしたって?」「ハリー・ポッターがクィレルと戦ったって本当か?」「それで入院中なんだ?」そんな噂が、またたく間に大広間じゅうを伝わった。カナ、ロン、ハーマイオニーは唖然とした。いったい誰が、そのことを知っていて、話したんだろう、と。だってネビルは昨晩の勇敢さが嘘のようにビクビクしていて、そんなことを話すたちじゃない。でもカナは、グリフィンドール塔に戻る時に聞いてしまった――「ほとんど首なしニック」が、まるで見てきたかのようにハリーの活躍劇を、ほかのゴーストへ語り継いでいるのを。ホグワーツで隠し事なんてできないものだな、とカナは思ったのだった。
何ごともない数日が経ち、ハリーが眠りから回復したとの知らせがグリフィンドールに届いた。生徒達は「英雄が目覚めた!」と大喜びだ。グリフィンドールはシーカーがいないのでレイヴンクローにこてんぱんに負けたし、数日前までハリーを無視していたとは思えない反応だった。ロンとハーマイオニーはさっそくハリーの見舞いに向かった。カナはその知らせをハグリッドに伝えに行くと言って、二人とは別行動をとった。
校医のマダム・ポンフリーがカナを見ると、「五分だけですからね」と厳しくも面会の許可をくれた。
閉じられたカーテンの前で「ハリー?」と尋ねると、「カナ?」と返事が来た。カーテンの向こうには、ハリーがちゃんと生きて、そこにいた。カナを見て薄く微笑んでくれた――喜びのあまり飛びつきそうになるのを、カナはこらえて、「無事でよかった」と笑顔を浮かべた。
ベッドの傍には見舞い品として、クリスマスの比なんかじゃない――本当に山のようにお菓子の箱や包みが積み上げられていた。
「すごいプレゼントだね」
カナが驚いていると、「好きに取っていいよ」とハリーが言った。
「森できみを襲ったのはクィレルだったよ」
「そうらしいね」
カナは積んであるお菓子の山の中から、杖チョコレートを拝借した。ハリーにもそれを分け、カナも口に含んだ。
「カナ、ひとつ聞いてもいい?」
「うん」
「きみはヴォルデモートと、何か関係があるの?」
カナは何と答えればよいのかしばらく考えた。
「ぼく、知らないことばっかりだって言ったよね。だから、その人のことも何も知らないんだ。でもダンブルドア先生が、『ヴォルデモートに気づかれた』って忠告してくれた・・・・・・」
ハリーも顎に手を当てて、考えているようだった。
「カナ。驚かないで聞いてほしいんだ。僕、クィレルに寄生したヴォルデモートと対決したんだ。その時、聞いてしまったんだ」ハリーは青い顔でカナを見据えた。「きみは『血族の娘』だって」
「ぼくが?」
「ほかに『禁じられた森』で呪われた女の子がいなければね」
カナは、探るような、それでいて気遣わしげな瞳の緑色から目が離せないでいた。じっと見つめ合ったまま、しばらく時間が過ぎた。
「・・・・・・ありえない話じゃないね。ぼくは家族のことを、何も知らなくて・・・・・・その人がぼくの父親かもしれないでしょう?」
「まさか!」ハリーは目を見開いた。「あいつは愛なんて知らない。憎しみ、欲望、破壊、そんなものに満ちているんだ。家族なんているわけがない。だからこそ、僕に触れることができなかった、僕のママが命をかけて守ってくれるほどに僕を愛してくれていたから――」ハリーがうつむいたので、カナはそっと杖チョコレートのおかわりを取るために、視線を外した。
「ハリー。でも、聞いてくれる? ぼくがそれをありえない話じゃないと思うわけはね、ぼくが――」カナは言葉を切った。言うべきか、言うまいか、たっぷり考えた――何度か息を吸った。「ぼくが、愛されて育ったわけじゃないからかもしれないんだ」
「カナ。まさか」ハリーはカナを見つめた。「そんなことを言わないでよ。きみは物置に寝かされたり、食事を抜かれたり、誕生日プレゼントをもらわなかったりしたことはないだろう?」
聞きながらカナは泣きそうになっていた。ハリーの言葉のすべてが――カナの心臓に矢となって突き刺さったように痛かった。
物置に寝かされたことはない。きちんとしたベッドだ。冷たくて暖炉のない地下室ではあったけれど。
食事を食べられなかったことはない。与えられていたわけではなかったけれど。
誕生日プレゼントをくれるのはリーマスの役目だった。おかあさんは、ぼくらに目もくれなかった。
おかあさんはぼくらを慈しむことや、気にかけることはしたことがない。怒られたことすらない。褒められたことだって。
薄っぺらな「愛してる」を過剰に並べ立て、悲しみにくれてばかりで――
「ハリー」カナはとうとう、涙を落とした。「それが愛されていない証明になるのなら、きっとそうだよ。ぼくは愛されてなんかいなかったんだ。ぼくが呪われて眠りこけていた時だって、見舞いにすら来なかった。心配だってしていなかった。ぼくが死んだってかまわなかったんだ」
ハリーはカナを抱き寄せた。カナもその肩に額を寄せた。涙がつぎつぎに滲むのを止められなかった。声を上げてしまいたかった。わずかにくぐもった嗚咽が漏れる。ハリーも鼻を啜った。
「カナ、でも、きみの父親がヴォルデモートだと決まったわけじゃない」ハリーはカナの背を撫で、あやすように言った。「きみはあいつの娘なんかじゃない。僕は顔を見たよ。ちっとも似てない。真っ白の蛇の顔を縦に引き伸ばしたみたいな、ばけものだったさ」ハリーはカナを勇気づけてくれた。カナはしばらくして、ハリーから離れた。真っ赤な鼻を啜って、「ハリー、ありがとう」と言った。
数日後の夕食では、年度末のパーティーが開催された。獲得点数の計算が済んだので、寮杯の表彰がある。獲ったのはやっぱりスリザリンだ。カナは落胆する気持ちもあったけれど――みんな生きて一年を終えられたのだ。これ以上のことはない。
大広間の扉を開けて入ってきたのはハリーだ。カナとロンとハーマイオニーは笑顔を浮かべたが、大広間は一瞬静まり返って、生徒達はハリーを見た。そしてまたおしゃべりを再開した。みんなハリーをひと目見ようと立ち上がったりしていたけれど、ハリーは隠れるように席についた。カナの目の前、ハーマイオニーとロンの間だ。
「退院できてよかったね」とカナが声をかけた時。ちょうどよくダンブルドア校長が姿を現したので、生徒達は静かになった。
「また一年が過ぎた」校長先生は笑顔を浮かべ、ほがらかに言った。「一同、ごちそうにかぶりつく前に、老いぼれのたわごとをお聞き願おう。何という一年だっただろう。きみたちの頭も以前に比べて少しは何かが詰まっていればよいのじゃが・・・・・・新学年を迎える前に、きみたちの頭が空っぽになる夏休みがやってくる」
校長先生は一度、大広間を見回した。
「それではここで、寮対抗杯の表彰を行うことになっとる。点数は次の通りじゃ。
四位、グリフィンドール、三一二点。
三位、ハッフルパフ、三五二点。
レイヴンクローは、四二六点。
そしてスリザリン、四六二点」
ひとつ向こうのスリザリンのテーブルから、大きな歓声と足を踏み鳴らす音が聞こえてきた。みんな居心地悪そうにした――とくにハリーや、カナの隣のネビルは、かわいそうに、身を小さくしていた。
「よし、よし、スリザリン。よくやった」ダンブルドア校長はゆったり拍手をしながらほほえんだ。「しかし、つい最近の出来事も勘定に入れねばなるまいて」
スリザリンから笑いが消えていった。大広間は校長先生の言葉の意味を汲み取ろうと、静まり返った。
「エヘン」すでに静かな大広間に、ダンブルドア校長の咳払いが響く。「駆け込みの点数をいくつか与えよう。えーと、そうそう・・・・・・」
先生はグリフィンドールのテーブルを見た。
「まず最初に、ロナルド・ウィーズリーくん」向かいのロンの顔がトマトみたいに真っ赤になった。「この何年間か、ホグワーツで見ることのできなかったような、最高のチェス・ゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに五十点を与える」
グリフィンドールの歓声は天井を吹き飛ばしそうなほどに大きくなった。パーシーが監督生席で「ぼくの弟さ! 一番下の弟だよ。マクゴナガルの巨大チェスを破ったんだ」と言っているのが聞こえた。
「次に、ハーマイオニー・グレンジャーさん・・・・・・火に囲まれながら、冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに五十点を与える」
ハリーとロンがハーマイオニーの栗色の頭をもみくちゃにした。ハーマイオニーは手で顔を覆った。栗色から覗いた耳は赤くなっていた。グリフィンドール生はもう立ち上がって、あちこちで大はしゃぎしている。
「それからハリー・ポッターくん」
今度は水を打ったように静まり返った。みんながダンブルドア校長の発言に耳を澄ませている。
「その完璧な精神力と、並外れた勇気を称え、グリフィンドールに五十点を与える」
爆発したような大歓声だ。グリフィンドールだけじゃない。ハッフルパフやレイヴンクローも喜びの声をあげた。百五十点も増えた! スリザリンと同点になったことを、いったい何人が気がついただろうか。
校長先生が手をかざした。大広間はそれに気づいて、少しずつ静かになっていった。
「勇気にもいろいろある」先生はほほえんだ。「敵に立ち向かうのにも大いなる勇気がいる。しかし、味方の友人に立ち向かっていくのにも、同じくらい勇気が必要じゃ。そこで、わしはネビル・ロングボトムくんに十点を与えたい」
信じられないほどの大歓声が起こった――みんな立ち上がり、三角帽子を高く放り投げ、声の続く限り叫んだ。カナは、呆然と驚いて固まったままのネビルにハグをして、感極まりすぎてその頬にキスを贈った。ネビルはこれまでグリフィンドールのために一点だって稼いだことはなかった――こんなに素敵な意趣返しがあるだろうか。みんなみんな、いつまでも喜び、グリフィンドールの寮杯を祝福し、あちこちから拍手喝采が起きていた。もちろん、スリザリン以外のテーブルから。
嵐のような歓喜の騒ぎの中で、校長先生が声を張り上げた。
「したがって、飾り付けをちょいと変えねばならんのう」
そう言って手を叩くと、深緑の垂れ幕が真紅に、銀色が金色に、スリザリンカラーがグリフィンドールカラーへと変化した。巨大な蛇の装飾が消え、勇猛なライオンが姿を現した。上座では、二つの寮監督の先生たちが握手を交わしているのが見えた――ご満悦のマクゴナガル先生に対して、スネイプ先生は引き攣った苦笑いだった。
その夜は、寮に戻ったあとも大騒ぎのパーティーだった。みんなハリーの勇気を称え、ロンを褒め、ハーマイオニーに感心した。ネビルと仲直りすることもできた。ハロウィーンよりも、クリスマスよりも、この一年でもっとも素晴らしい夜だった。
試験の結果が発表されることを、カナはすっかり失念していた。進退の危機だ。カナは張り出された成績表を見るのが怖かったけれど、ラベンダーが笑顔で手を引っ張ってくれたので、見に行くことができた。カナは落第していなかった。やはり実技はあまりよい成績とは言えなかったけれど、魔法薬学の成績はトップクラスだった。もちろん、ハーマイオニーほどではないけれど。
あっという間に時間が過ぎた。クローゼットが空になり、トランクがいっぱいになったのを確認して、みんな帰省する支度が整った。
「休暇中の魔法は禁止」という注意書きが全生徒に配られて、みんなブーブーもんくを言った。「こんな注意書き、配るのを忘れりゃいいのにって、いつも思うんだ」とフレッドが悲しそうに言った。
カナは帰宅当日の朝に、リーマスからの手紙を受け取っていた。それを、ホグワーツ特急の中で何度も読み返した。カナの無事を喜ぶ文章とともに、信じられないことが綴られていた。
「わたしはロンドンへ迎えには行けない。エリアが他の人を頼んでいるから、駅で待つように」と。
カナはひどく落胆した。ようやくリーマスと会えると思っていたのに――みんな浮かれてお菓子を分けあっているのにカナが参加していないことに気づいて、ハーマイオニーたちがカナを元気付けようと声をかけてくれた。双子なんかは無理矢理笑わせようとカナの鼻を羽根ペンでくすぐったり、顔をトロールに変化させたりしたのでカナは少しだけ元気が出た。ハリーが分けてくれた百味ビーンズの味に一喜一憂して、そうしているうちに荒野を過ぎ、田園風景を過ぎ、街中へ入り、列車はロンドンへと到着した。
キングス・クロス駅の九と三分の四番線ホームだ。
生徒達は列車から飛び出し、別れの挨拶を交わした。カナはホームに初めて足をつけた。入学時は気絶していたから――きょろきょろとあたりを見回す。年寄りの駅員が、生徒を順番に壁の向こうへと送り出していた。あそこからロンドンに出るのだろう。マグルの世界へ。
「夏休みに泊まりにきてよ。ふくろう便を送るから」とロンが三人に言った。
「ぼくも手紙を送るね。送り方が分かれば・・・・・・」カナも朗らかに言ったが、三人にはあまり期待を持たせない方が良いと尻すぼみになった。
「ありがとう。楽しみにしているよ」ハリーは大嫌いなおば夫婦のもとへ帰るのだ。カナは、ハリーが無事に来年もホグワーツに来てくれることを祈った。
カナは最初、壁を通り抜けることが不安だったけれど、ハーマイオニーがするすると歩いて抜けていくのを見て覚悟を決めた。なんてことはなかった。水の中を泳ぐよりもずっと簡単だ――ただ歩くだけでいいんだから。
通り抜けた先で、赤毛の親子が立っていた。すぐにロンの家族だとわかった。母親に手を引かれた、カナと同じくらいの背格好の女の子が「まあ、彼だわ。ねえ、ママ! ハリーよ! ハリー・ポッター!」とひそひそ言っているのが言っているのが聞こえた。
「ジニー、お黙り! 指をさすのは失礼ですよ」とふっくらした母親が言った。あれがロンやフレッドやジョージのお母さんだ。叱りつける声は厳しいけれど、ハリーに向けた笑顔は本当に優しそうで、なにより、娘のジニーの手をいつまでも握っていることがカナには印象的で、くぎづけになっていた。
絵本の中の「おかあさん」みたいだ。と。
呆然としていると、カナは肩を叩かれた。背の高い男性だ。わずかに禿げた赤毛に、そばかすの散った顔、日焼けした頬に眼鏡をかけている――ロンの父親だった。
「はじめまして、君がカナだね?」カナは頷いた。「じつはエリア――君のママから頼まれていてね。夏のあいだ、君をうちで預かるようにと」
「えっ?」カナは困惑して、二の句が告げなかった。
「実は、われわれも突然告げられてね。でも彼女の頼みとあれば、断ることなんてできないさ。エリアには本当に助けられたんだ。おっと、すまない、私はアーサー・ウィーズリーだ」アーサーおじさんはニコリと笑ったが、カナは笑い返すことができなかった。あまりにも話が急で、理解が追いついていかない。
「困惑しているね? 無理もない」おじさんも苦く笑った。「彼女の提案は昔から突拍子もないからね! あれこそ天才と呼ぶべきものだ・・・・・・さあ、友達と別れの挨拶をしておいで。うちの子達には私から説明するから」
カナは背中を押されて、ハーマイオニーたちのもとへと戻るよう促された。振り返ると、アーサーおじさんは石壁から出てきたフレッドやジョージ、パーシーらを力強くハグして、再会を喜んでいるようだった。カナは視線を戻すと、ちょうどハリーのおじさんとおばさん、従兄弟の男の子が、こわごわとハリーを迎えに来ているところだった。
「じゃあ夏休みに会おう」ロンが言う。
「楽しい夏休み・・・・・・あの、そうなればいいけど」ハーマイオニーはさっさと行ってしまったハリーのおじさんの後ろ姿を怪訝そうに眺めながら言った。
「もちろんさ」でもハリーは嬉しそうだ。「僕たちが家で魔法を使っちゃいけないことを、あの連中は知らないんだ。この夏休みは、大いに楽しくやれるさ」ハリーがウィンクするので、不安に思っていたカナ達も顔を綻ばせた。
「それじゃあ、またね。ハリー」カナが手を振ると、ハリーはヘドウィグと大きな旅行鞄を抱えながら、よたよたとおじさんの後を追っていった。
ハーマイオニーも両親が迎えに来ていた。「それじゃあね」と手を振って、彼女も嬉しそうに両親に抱きついて、荷物を預けて歩いていった。二つの家族はどちらもマグルなのに、こんなにも違うものかと、カナが少し胸が苦しくなった。
「カナ、君のところは?」
「ぼくはきみん家に居候」カナが言うと、ロンはネズミのスキャバーズを地面に落としかけた。「なんて?」
「ロン! 聞いたか、『ブランケットの妖精さん』が、ボロのわが家でバケーションだと」フレッドがロンにぶつかるように駆けてきた。ロンは押し潰されかけて、なんとか兄を押し返していた。
「だから、何だって?」
「あなたがカナね」ロンのおかあさんだ。相変わらず、末妹のジニーの手を引いている。「突然で驚いたでしょう。でも、安心してね。あなたを歓迎するわ。自分の家だと思って、くつろいでちょうだいな」
「あの、お世話になります」
「モリー・ウィーズリーよ。この子はジニー。ほら、ご挨拶して」
「はじめまして。ジニーよ」ジニーはモリーおばさんの後ろに隠れるようにして言った。カナも「よろしく」とほほえんだ。
おじさんもおばさんもああ言うけれど、カナはまだ戸惑いを抱えていた。どうしておかあさんはカナを家に入れてくれないのだろう。あんな場所だけれど、一応はカナが帰るところだ。それに、ウィーズリー家に居たら、夏のあいだにリーマスに会えない。
おかあさんへの不満とか、理由のわからない寂しさから、悶々と考えていたけれど、ウィーズリー家に向かう車の中でフレッドやジョージがカナをかまうので、すこしは気が紛れていた。ロンは何度か説明されて、なんとか状況を飲み込めたようだ。パーシーはずっと成績表を見つめながら、自分が試験でいかに素晴らしい成績を取ったか両親に力説した。ジニーはカナに興味を持っていて、だんだんと慣れてきたのか、カナにたくさん質問を寄越してきた。それがロンは面白くなかったのか、横槍を入れてきた――カナは、ウィーズリー家で過ごすのも、きっと、おそらく――確実に楽しくなるだろうと自分に言い聞かせた。
20171226-20230313