土曜日、十一時――どんよりと湿った冷たい空気が、競技場を満たしていた。カナはマフラーをきつく巻きつけ、グリフィンドール側のスタンド席に身を寄せていた。
「ああ、フリントの箒が、馬鹿力で折れてくれないかな――」ロンのぼやきだ。その隣に、もの静かなジニーを連れている。
「クラッブならともかく」カナがあきれて言った。スリザリンの新しい箒をねたむ気持ちはわかるけれど――現実的じゃない。
 ロンはカナの言葉に不満を示した。
「願うだけならいいだろ、君はすぐにそう――」
「私を挟んで会話しないで」ふたりの間に座るハーマイオニーがぴしゃりと言った。「たとえスリザリンがどんなに最高級の箒を持っていても、グリフィンドールの選手にはかなわないわよ。そうでしょ? みんなを信じましょうよ」
「グレンジャーの言う通り」
 ここで聞こえないはずの声がした。カナたちはパッと顔を上げた――フードを被ったガートだ。
「エイブリー!」ロンが悲鳴をあげた。「なんでスリザリンのきみが――」
「シッ!」ガートが指を立てた。カナの隣にどっかりと座り込んで、ぶつぶつともんくを言った。「タウンゼントが、クリーン・スイープの悪口を言っていたから引っ叩いてやった。あいつ、蝶々よりも飛ぶのが遅いくせに、偉そうに――」
 ロンとハーマイオニーは困惑して顔を見合わせたけれど、カナは驚いて目を瞬かせた。つまり――ボーイフレンドに別れを告げてきたと、そういうことだろう。ガートはグリフィンドール側で観戦するつもりのようだ。
「えー、皆さん。おはようございます」競技場にはつらつとした声が響いた。いつも試合を実況している、リーの声だ。「本日もグリフィンドールとスリザリンの先生方に見守られながら、グリフィンドールのリー・ジョーダンが実況をお送りします。本日の天気は曇りのち雨、雲の中では雷注意報――レイヴンクローのアバネシー予報であります。いつも望遠鏡にかじりついている変人・・・・・・と書いて天才と読みますが、彼の言っていることが間違っていたことはありません!」
 レイヴンクローの集まる席から歓声と笑い声が湧いた。レイヴンクローもハッフルパフも、高級箒を手にしたスリザリンの負けを見たくて、観戦席に押し寄せていた。

 選手たちが出揃った。みんなグリフィンドールの選手に声援を送った――その後ろから、スリザリンのブーイングもわずかに聞こえてきた。ガートが不味いものでも食べた時のような顔で、スリザリンに向かって舌を見せた。
 スリザリンのキャプテン、マーカス・フリントと、グリフィンドールのキャプテン、オリバー・ウッドが、必要以上に固い固い握手――威嚇を交わしたのち、試合開始のホイッスルが響いた。
 十四人の選手たちが舞い上がる――そして、会場のみんなが言葉を呑んだ。スリザリンがグラウンドを縦横無尽に飛び回るので、そのすばやさに目を奪われた。
 誰かがアッと叫んだ。一人、一番高くまで急上昇した小さな影――おそらくグリフィンドールのシーカー、ハリー――に向かって、ブラッジャーが突進していった。ハリーは間一髪でそれをよけた。ビーターのジョージがブラッジャーを追いかけ、スリザリンの選手に向けて思いっきり叩いた――ところが、ブラッジャーは空中で反転し――なんと、またもやハリーめがけて飛んでいった! ハリーはみごとな急降下で、それもなんとか避けた。
「どういうこと?」ガートがまっさきに訝しんだ。「シーカーを狙っている方のブラッジャーの挙動がおかしい。場外に飛んでいきそうな時以外に、あんな動きはしないはず・・・・・・」
「ええ、観ていたわ」双眼鏡で食い入るように試合を見ていたハーマイオニーが答えた。
 ちょうど、リーがしょぼくれた声でスリザリンの最初の得点を言い渡した。
 ハリーとブラッジャーの攻防は続いていた。グラウンドの反対側に待ち構えていた、フレッドのほうに突進した。追撃していたブラッジャーが打ち返された――けれど、またもやハリーめがけて飛んでいく。
「ポッターを狙ってる」ガートが唇を舐めた。
「また誰かが呪いを?」ハーマイオニーは教師陣の座る席やスリザリン側を執拗に観察したが、そのような人物は見つけられなかったらしい。
「生徒がブラッジャーに呪いなんてかけられるはずがない」ガートは身を乗り出して、ハーマイオニーに言った。「試合用の道具はマダム・フーチが管理してるんだ。彼女が見逃すはずがない」
「でも、念入りな準備をして呪いを実行しているのかも。例えばハリーの体の一部を手に入れて・・・・・・」
「ちょっと」カナが立ち上がった。「ぼくを挟んで会話しないで。試合が見えない・・・・・・」ハーマイオニーに席を譲って、二人は入れ替わった。
 ハリーはいつのまにか、試合の最中から大きく離れて、どこかに隠れてしまっていた。ビーターの二人も、ハリーを助けるためについていったに違いない――もう一つのブラッジャーをスリザリンのデリックが、ゴール目前に迫っていたアンジーの頭に向かって打った――アンジーはそれを避けるのに精一杯で、クァッフルをこぼしてしまった。グリフィンドールから落胆の悲鳴が上がる。
「あの双子は何してるんだ」ロンがいらいらと言った。
「ハリーを助けに行ったんだよ」カナも不安そうに言った。ロンの方を見やると、ジニーがハラハラと試合を見つめているのが見えた。
「あんなんじゃスニッチを探すどころじゃないな・・・・・・」今回、二人は言い合いをしなかった。
 予報の通り、雨が降り出した。みんなマントのフードを被り、ビーター不在の試合を見守った。スリザリンがのびのびと飛び回る姿を見るのが苦痛だった。
「スリザリンのリード。六〇対〇」リーの、もはや義務的な報告が聞こえてきた。
 マダム・フーチのホイッスルが鳴り響いた。グリフィンドールの要求したタイムアウトだ。選手たちは集まって、言い争っているのが聞こえてきた――その様子に、審判のマダムも駆け寄った。
 スリザリンは、すっかりグリフィンドールのチームワークが瓦解したと見て、冷たい笑い声とやじを飛ばした。
「大人の魔法使いでも、相当な手練れじゃなければあんなことできない」どよめきの中、ガートの芯のある声が聞こえてきた。「メジャーの試合でも、過去にあったよ。ブラッジャーに細工を仕掛けて――でもうまくいかなかった。ブラッジャーの強制力の方が、複雑で強いんだ。半端な呪文じゃ意味がない」
「誰かが何日もかけてハリーに呪いをかけた可能性が考えられるわ。私たちが考えもつかないような呪いがこの世に存在しているのよ――髪の毛の一本でも手に入れば、それが可能なの」
「へえ、ずいぶん呪術に詳しいみたいだね」
「おかげさまでね」
 ガートとハーマイオニーの会話を、カナは聞こえないふりをした――ロンも同じように、フードを深く被りなおした。
 雨が強くなってきた。ホイッスルが響き――試合が再開された。ハリーは雲の中に突っ込んでいくような勢いで、急上昇した。その後をブラッジャーがまっすぐ追う。フレッドとジョージは、ハリーを追いかけなかった。
「あの狂ったブラッジャーを、ハリーが一人で引き受けたんだ・・・・・・」ロンが絶望したような声でうめいた。
 ハリーは必死に逃げ回っていた。グラウンドのぎりぎりを大きく回り、上へ、下へ、ジグザグに飛んだり、急回転したり――あんな状態でスニッチが掴めるはずがない――グリフィンドールの観客は、シーカーを心配してそわそわして、落胆したり怒声をあげたりした。
 下方から、マルフォイがなにかハリーに向かってにやにやと言葉を投げかけているのが見えた――逃げ回るハリーをばかにしているに違いない。
「やっぱり、スリザリンが細工をしたのよ」ハーマイオニーがいらだたしげに言った。「マルフォイは勝ち誇ってる――」
「ばかね。なんであんなやつがシーカーに・・・・・・」ガートのうめきは、今や降り注ぐ雨の音に掻き消された。
 その瞬間、ハリーがマルフォイを振り返り、一瞬立ち止まった。ブラッジャーはそれを逃さなかった――強烈な打撲音が、観客席にまで聞こえてきた。直撃したハリーの右腕が、だらりと垂れた――骨が折れたに違いない。
「ハリー!」カナたちは悲鳴を上げた。通り過ぎたブラッジャーが、再びハリーめがけてすっ飛んでいく。箒の上でぐらぐらと揺れながら、ハリーはそれをなんとかかわした。
「落ちないで・・・・・・」カナは何度目か、小さな声でそう祈った。ニンバスにしっかり絡んだハリーの膝が箒から外れる想像を、頭から振り払った。
 ハリーが、突然マルフォイめがけて急降下した。
「ハリー、何を・・・・・・」カナがうろたえた時だ。どよめきの中から、ジニーの興奮した声が聞こえた。
「スニッチだわ!」
 マルフォイがハリーを避けた。ハリーは足だけで箒につかまりながら、懸命に手を伸ばし――そして墜落していった。水飛沫を飛ばして泥の中に転がり落ちたハリーの右腕は、かわいそうに、あらぬ方向へと曲がってはいたけれど――無事な方の手にはしっかりと金色のスニッチが握られていた。
グリフィンドールがスニッチをりました!
 リーの放送と大歓声が重なり、雨の音をかき消した。グリフィンドールの勝利だ――みな立ち上がり、喜びに沸いた――ただ、カナは立ち上がることができなかった。ハリーがあまりにもボロボロで――それがショックで。そんなカナのマントに手が回った。フードの中から赤毛が覗いた。ジニーだ。
 ジニーも、おそらくハリーの姿に涙が溢れ出たに違いない。カナも目を潤ませて、ジニーの頭をフードの上から包んだ。
 グリフィンドール生はグラウンドへと向かった。カナも、すぐにハリーが医務室に運ばれるべきだと思い、ジニーを抱えるようにして降りた。

 グラウンドではハリーがまだ横たわっていた。意識がないようだった。ジニーが息を呑んだけれど――ハーマイオニーが「気を失っているだけだわ」と説明した。
 向こうのほうで、グリフィンドールの選手たちが未だに暴れ狂うブラッジャーを箱に押し込めているのが見えた。
「早く医務室へ連れて行くべきよ」ハーマイオニーが言った。勝利の余韻とハリーの心配の混ざり合った妙な雰囲気の中、カナやロンがハリーを抱えようと進み出た時だ。
「心配ご無用! ワタクシが治してさしあげよう!」
 いやな声が聞こえた――ロックハートが、グリフィンドール生の人垣をかき分けて登場した。雨が身体を打つなか、白い歯を必要以上に光らせ、翡翠色のフードをしっかりと被っている。杖を片手に、ハリーのわきに立つカナやロンをおしのけた。
 ハリーが目を開けた。ロックハートを見ると、「やめてくれ、よりによって・・・・・・」とうめいた。身を起こそうとして無意識に右腕を動かし、激痛に顔を歪めた。
「ハリー、折れてるから」カナがマフラーを脱いで、ハリーの腕を固定しようとした時だ。「チッ、チッ、チッ」とロックハートがカナを制した。
「その必要はない。さあ、ハリー、横になって。このワタクシが、数えきれないほど使ったことがある簡単な魔法だからね」
「僕、医務室に行かせてもらえませんか?」
 カナはハリーが身を起こすのを手伝った。
「先生、そうするべきです」キャプテンのオリバーが駆け寄って、言った。その顔はハリーのひどい怪我を見ても、どうしても喜びを隠せないというふうにニコニコしていた。「ハリー、ものすごいキャッチだった。すばらしいの一言だ。君の自己ベストだ・・・・・・」
 向こうのほうで、まだフレッドとジョージがブラッジャーに乗り掛かっているのが見えた。
 カシャッと聞き覚えのある音がした。振り返ると、コリンがカメラを抱えて、横たわるハリーを撮影していた。こんな時に写真なんか――カナが怒りを感じていると、ハリーが「コリン、こんな写真は撮らないでくれ」と大声で言った。
「みんな、下がって」ロックハートが袖をたくし上げた。
「先生、やめてください」カナが確固たる意志を持ってロックハートに言った。ハリーも「やめて、駄目だ・・・・・・」と弱々しくうめいた。
「ミス・エリオット、そのまま彼を支えていてくれ――」
 みんなの制止もむなしく、ロックハートは杖をおおげさに振り回し、ハリーの右腕めがけて突き出した。
 ハリーの右腕が、みるみる、芯を失ったかのようにぶらさがった――それを見ていたみんなが息をのんだ。ハリーは目を背けたままだ。コリンが狂ったようにシャッターをきる音がする。
「あっ」ロックハートが声を漏らした。「そう。まあね。時にはこんなことも起こりますね。でも、要するにもう骨は折れていない、それが肝心だ」
 カナはおそるおそる、ハリーの手に触れた。ぐにゃぐにゃのぶあつい皮袋みたいにやわらかくたわんだ――カナは息をのんだ。
「ハリー・・・・・・立てる?」
 カナが声をかけると、ハリーはゆっくりと立ち上がった。カナはハリーが見ないで済むように右腕を隠したかったけれど――さすがに無理だった。ハリーはぶら下がった右腕、ローブの端から覗く「骨抜きの腕」を見て、卒倒しそうだった。
 ロックハートが咳払いをした。
「ウン、それじゃ、ハリー、気をつけて医務室まで歩いて行きなさい。マダム・ポンフリーが、その――もう少しキミを――あー、きちんとしてくれるでしょう」
 ロンとハーマイオニーも駆け寄って、カメラを焚きまくるコリンからハリーを隠した。カナは逃げようとするロックハートに向かって、泥水を踏み締めた――その時、水たまりの芝生の中にきらりと光るものを見つけた。
 ミサンガが落ちていた。スニジェットの金の飾りが、鈍く光を反射している。カナは、誰かが踏みつける前に、それを拾った――先月、ジニーが編んだものだ。ハリーが右腕に身につけていたに違いない。
 パッとカナが顔を上げると、ロックハートはすでにそこにいなかった。ハリーたちは医務室に向かい、グラウンドの入口へと消えていった。
「カナ」
 ジニーだ。カナが落としたマフラーを拾い上げてくれていた。泥水と雨にさらされてぐちゃぐちゃだったけれど――「ありがとう」と言ってカナは受け取った。
「ジニー、これ」カナはミサンガを見せた。「ハリーがしてたみたい。でも腕が・・・・・・あんなことになったから・・・・・・落としちゃったみたい」
 ジニーは泥染みのできたミサンガを見て、カッと頬を赤くした。「ハリーが?」
「うん」カナはほほえんだ。「見舞いついでに、これを渡しに行こう」
 ジニーは赤い顔を振って頷いた。

 ようやくブラッジャーを片付けた双子やアンジー、アリシア、先生たちから解放されたリーと合流し、泥んこのぐしゃぐしゃのまま医務室へと向かった。
 その道中だ――箒置き場の前で、スリザリンの選手が集まっているのが見えた。
「見ろ! 名物シーカーのマルフォイだ」フレッドが面白がった。
 マルフォイは大柄な選手の中心でしゅんと肩を落としていた――頭の上にあったスニッチに気が付かなかったのだ。高級箒だけでは選手を務められない。マルフォイにとってもいい薬になったことだろう。
 リーが、厨房に寄ってケーキやお菓子、冷たいかぼちゃジュースやらを山ほど仕入れて、みんなで抱えて医務室に向かった。こんなにずぶ濡れではマダム・ポンフリーに追い出されるのでは――とカナは汗を垂らした。
 ぞろぞろと選手たちが医務室へと入る。カナも続こうと思った時、後ろからローブを引っ張られた。ジニーだ。
「あ、あたし、ハリーにどんな顔して、これを渡せばいいの?」
 カナは耳まで真っ赤にしているジニーに向かってほほえんだ。
「普通に渡せばいいんだよ。何も言わなくていい」
「でも、できそうにないわ。これはカナが渡して、お願い・・・・・・」
 ジニーは、汚れたままのミサンガをカナにおしつけた。
 そのとき、開けっぱなしのドアの向こうから、マダム・ポンフリーの雷が落ちたのが聞こえた。
「この子は休息が必要なんですよ。骨を三十三本も再生させるんですから。
 出て行きなさい! 出なさい!



 カナはシャワーで泥を洗い流し、昼食を摂ったあと、ガートと「訓練部屋」で落ち合った。
「ガート、『目眩まし術』を教えてくれない?」
「いいけど、何故?」
 杖からプーッとシャボン玉を出して遊んでいたガートは、カナの言葉に目を瞬かせた。
「また医務室に閉じ込められたりしたら、逃げ出すのに便利でしょ?」
 ガートは、一瞬口をぽかんと開けたのちに、声を出して笑った。
「いいね! あんたも規則を破ることにためらいがなくなってきたんだ」
 椅子をひっぱりだしてきて、ガートは杖で叩いた。椅子はインクを垂らしたみたいに真っ黒に染まった。
「これは?」
「『目眩まし術』の訓練だよ」
 続けて、ガートは椅子を赤――青――緑――白――そして無色透明へと変えていった。
「色を無くすということと、色を加えるということはよく似てるんだ。そこから消すわけじゃないからね。ただの目眩まし・・・・だもの」
 カナも椅子を引っ張り出して、杖を振った――黒一色へ。次に赤へ、青へ――白に変化させたのち、カナは息を吸い込んだ。
「『ディシルーシオ目を眩ませよ』!」
 椅子は透明化した。ただし、その輪郭ははっきりと見えた――水に浮いた油のように、ぎらぎらと光を反射していた。
「惜しいね」ガートが透明な椅子に腰掛けながら、いつのまに淹れたのか、紅茶を啜っていた。
「『消したい』と思っちゃ駄目だよ。あくまで『見えなくしたい』だけなんだから。訓練って難しいよね。切羽詰まってたら、どうしても『見えなくなりたい』って思うはずなんだもん」
「土壇場のほうが成功するってこと?」
「そのくらい、強い意思がないと成功しないってこと」
 むきになりながら、カナは何度か「目眩まし術」を試した。ただし、何度繰り返してもガートの合格を得られることはなかった。

 あっというまに数時間が過ぎた。もうじきに夕食の時間だ――カナはずっと杖を振り回していたので、ずいぶんと疲れてきた。
「よし、カナ」ガートが立ち上がった。「試験をしよう。あたしが目を瞑っているあいだに、あんたは『目眩まし術』で姿を消す。あたしは一歩も動かない。あんたがもしもばればれだったら、あんたのことを猫に変えてペットにしてやる」
「はあ?」カナは思わず大きな声を出した。「本気?」
「本気だよ。呪文の訓練中に動物になってしまったあわれなエリオット・・・・・・まあ、可愛がってはあげるけど、そうなりたくないでしょ?」
 カナは額に汗が伝うのがわかった。ガートは唖然としたカナを放って、くるりと背を向けた。
「十、九、八――」
 カウントダウンだ。カナはあわてて「ディシルーシオ目眩まし術」を自分に使った――うまくいっているかはわからない。足音を立てないよう、そっと移動した。壊れたクローゼットのすぐ隣に立ち、息を殺した。
「――二、一、終わり!」
 合図とともに、ガートは振り返った。部屋の中を見回した――杖を構え、舐めるようにじろりと視線を滑らせた。カナはうっかり喉を鳴らしたり、床が軋んだりしないように気を配った――どうか透明になれていますように、と強く願った。そうでないと、ガートのペットにされてしまう――
「カナ、いるよね? この部屋に」
 ガートルードの呼びかけに、カナは嬉しくなって――そのまま彼女の前に飛び出した。ガートはカナの足音を耳聡く聞きつけ、透明なはずのカナの額を杖で叩いた。
「アイタ!」
 カナの姿はみるみるもとに戻った――ガートが呪文を解除したのだ。
「上出来だよ」ガートはカナの頬を、両手でぎゅっと挟んだ。カナはもごもごとうめき、パッと離れた。
「本当?」カナが目を瞬かせると、ガートがニヤリと笑った。
「やっぱり、あんたは呪文術の才能があると思うよ。自分でできないと思い込んでいるだけなんじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ。あたしだって、一日で『目眩まし術』を扱えるようになったわけじゃないんだから」
 ガートは杖を振って、ティーセットを片付けた。
「だとしたら、一年生の頃にまったく魔法が使えなかったのは何だったんだろう」
「さあね?」ペンダントライトの灯りも消した。今日はお開きということだ。「グレンジャーが呪術に詳しいみたいだったから、彼女に聞いたらどう?」
「もちろん相談したよ。ハーマイオニーは、ぼくが進級できるようでよかったって・・・・・・」
「本当に面白いね、あの子は」
 部屋を出る。二人は大広間を目指して歩いた。
「グレンジャーを見ていると、血統の価値なんてなんの根拠もないものだとわかるよね? どうして頭が堅いヤツらにはそれがわからないんだろう。自分にはどうしても絶対的な付加価値がないと気が済まないのかな」
「でも、わからなくもないよ」その言葉に、ガートはカナを見た。「自分が『何者であるか』を証明することができたら、それを大切にしたいと思うんじゃないかな。もちろん、他人を傷つけていいわけじゃないけど」
「そうだね」ガートは腕を組んだ。「だから、純血主義だなんて、性格や教養に問題があるだけだとも思わない? だって、ホラ――スリザリンのグリーングラス、知ってる? あの子の家も純血主義なんだけど、すっごく無害でおとなしいんだ」
 大広間の扉を開け、中に入る。ガートは、スリザリンのテーブルにつく長い黒髪の女の子を指した。
「ほら、あの子」
「ふうん」カナはガートを見た。「友だちなの?」
「だから――言ったでしょ――あたしに友達は、いないの」
 カナは、ガートがカナをおちょくるわけが少しだけわかった――こんなふうにへそを曲げる姿を見るのは、わりと面白いからだ。



 カナは、ポケットに入れっぱなしになっていたスニジェットのミサンガを、石鹸水で綺麗に洗った。少しくたびれてしまったけれど、泥はすっかり落ちた。小さなスニジェットが、身震いして水滴を飛ばしていたので、カナは杖から温風を出して乾かした。
 ジニーに預けられたのはいいけれど、カナはこれをいつまでも持っているべきじゃないと思っていた。明日、カナの手からハリーに渡すこともできたけれど、そうするべきではない。これはジニーが作ったもので――ハリーはそれを知らないかもしれないけれど――やっぱり、カナが渡すべきではないものだ。
 消灯時間の前にもかかわらず、談話室にジニーはいなかった。寝室で休んでいるのだろうか。今日はクィディッチの試合を見て、ハリーが怪我をしたのもあって、疲れて寝てしまったのかもしれない、と思った。
 寝室を訪ねてみたけれど、ジニーはいないと一年生の女の子が教えてくれた。図書館で勉強しているか、それともどこかへ出掛けているのだろうか。行き先に思い当たるところもないし、カナは探しに出るのをやめた――なんとなく、その状況はハロウィーンの夜のことを思い出してしまうからだ。
 今年の初試合を勝利で飾った、ハリーを除くクィディッチ選手たちがはしゃいでいるのを、カナは暖炉の前で楽しんでいた。談話室にいれば、ジニーが帰ってくるのもわかるし、すっかり上機嫌なアリシアに腕の中に閉じ込められてしまっていたからだ。

 パーティーが終わって、日付が変わった。消灯時間はもうとっくに過ぎているというのに、ジニーは談話室に来なかった。女子寮の一年生も、もう眠ってしまっている時間で、カナは扉を叩くのが忍びなかった。
 こんな時間までどこをうろついているのだろう?
 カナは監督生に報告するべきか迷ったけれど――理由もなくジニーが規則を破るとは思えない。それに、どんな事情であれジニーはパーシーに知られるのを嫌がるはずだ――
 カナは杖を手に取って、立ち上がった。
 その時、寮の入り口の階段の方から物音がした。そちらを見やる――淡い茶色の髪がこそこそと引き返していくのが見えた。
「コリン?」
 少年はびくりと肩を揺らした――ゆっくりと振り返る。恐々とカナを見ていた。
「す、すみません。僕――」コリンはうろたえ、言い訳を考えていた。カナはコリンが手に持っているものを見て、やさしく声をかけた。
「ハリーのお見舞いに行くんでしょ?」
 パジャマにカーディガンを着込んだコリンは、いつものごてごてしたカメラではなく、みずみずしい葡萄をひとふさ、籠に入れて抱えていた――カメラはもちろん、肩から掛けて腰の辺りにぶら下がってはいたけれど。
 コリンは叱られると思っていたのできょとんとカナを見つめ返し、やがてぶんぶんと頭を振って頷いた。
 ハリーはコリンの訪問を嫌がるだろうけど――カナが引き止めるのもおかしな話だ。せめて、コリンが暴走しないようについていく方がいいだろう。
「ぼくも行くよ――そうだ」
 カナは訓練したばかりの「目眩まし術」を自分に試した――コリンが「わあ!」と歓声を上げた。
「どう? 消えた?」カナが尋ねると、コリンは「カナ、そこにいるの?」と手を伸ばしてきた。カナがその手を握ると、コリンは跳び上がり、「すごい!」と喜んだ。
 カナはコリンにも「目眩まし術」をかけた。コリンの姿もすっかり消えたように見える。はぐれないように、カナはコリンの手を引いて、談話室を出た。

「どうしてこの時間に?」
 見回りの先生やゴーストがいないことを確かめて、カナがこそこそと尋ねた。
「夕方は、ハリーが眠っていたから面会謝絶だって、追い返されたんです。僕、ハリーの顔をひと目見たくて・・・・・・」
 なるほど、コリンの行動力の高さはまさしくグリフィンドールにふさわしい。
 カナとコリンは、足音が響かないようにこっそりと階段を下る。下階へとくだるほど月明かりが届かず、松明の消えた玄関ホールは真っ暗だった。カナは杖を灯した。
 その時だ。

・・・・・・どこだ・・・・・・

 全身が氷漬けになったみたいだった。思わず杖を落としてしまった。明かりが消え、あたりが真っ暗になった。心配したコリンが声を出した。
「カナ? どうしたの――」
「聞こえた?」カナが震えた声でコリンに聞いた。
「いや、何も」と少し怯えたような声が帰ってきた。「先生の見回りでしょうか?」
「いや・・・・・・」本当に、あの声はカナにしか聞こえなかったのだ。「なんでもない」
 カナの手が震えているのを、コリンはわかっているようだった。
「どうしたんですか? 何かいたんですか?」怖いものなんて無いみたいに、コリンの声ははっきりとカナに何度も聞いた。カナは深く息を吐き、声が震えないように、お腹に力を込めた。
「コリン、寮に戻ろう・・・・・・ぼくが様子を見てくるから、きみはまっすぐ、来た道を戻って」
 カナは手を離し、杖を拾って「目眩まし術」を解除した。
「もしも先生に会ったら、ぼくと玄関ホールで別れたって言って・・・・・・」
「カナ、二人で行きましょう。何かわからないけど、大丈夫。ゴーストも先生も、怖くはないよ」
 コリンの真摯な淡い色の瞳が、カナをじっと見つめていた。カナは、声のもとへ行くべきか、コリンとともに寮に戻るべきか――ドクドクと脈打つ頭で必死に考えた。

・・・・・・殺してやる・・・・・・どこにいる・・・・・・

 殺意に満ちたおぞましい声の主が近づいてきているのがわかった。迷っているひまはない――カナは、コリンの手を掴んだ。
「寮に戻ろう。ここにいたらダメ・・・・・・」
 カナが懇願するのを、コリンは訝しげに見た。
「せっかくここまで来たのに、戻るっていうんですか? 医務室はすぐそこですよ。お願い、ハリーの様子をひと目見るだけ――これを届けるだけだから」
 カナの手をふりはらって、コリンはすたすたと歩き出してしまった。カナは細く息を吐いた。
「わかった・・・・・・コリン、先に向かって。ぼくはちょっと様子を見てくる・・・・・・」
 コリンが向かいの階段へ足を乗せたのを見て、再び「目眩まし術」で身を隠し、カナは声が聞こえた方へと進んだ。こっちは――スリザリン寮へと続く地下への階段だ。
 カナはその暗がりをじっと見つめた。何か――影が動いたような気がする。一歩ずつ、ゆっくりと降りていく。
 十一月の夜だというのに、空気は生暖かい。湿った風がカナの肌を舐めるようで気持ちが悪い。カナは杖を構えて、いつでも呪文を吐き出せるように唇を舐めた。
 降りていった先は、蛇の装飾が目立つ石壁の廊下だった。水路が近くにあるんだろう。水の流れるかすかな音が響いていた。
 誰もいない――それに、あまりコリンを放っておくのも心配だ。カナは引き返した。
 地下ではあの声も聞こえなかった。カナが少しだけ胸を撫で下ろしながら、医務室の方角へと足を向けた時だ。

・・・・・・見つけたぞ!

 カナは自分が石になってしまったのだと錯覚した――違う。呼吸ができる、瞬きも――カナは浅く、息を吐いた。動かそうと思えば、ちゃんと足が動いた。
 全身が心臓になってしまったかのように脈打った。あの時と同じだ――ミセス・ノリスの時と――
 怪物が、獲物を捕らえたのだ。
 カナは階段を駆け上がった。医務室にコリンがいるはずだ、そうに違いない――石畳にカナの足音が響く。二階に続く踊り場に、あるものを見つけた。
 葡萄がひとふさ、実をいくつか散らばせて、転がっていた。近くに籠も落ちていた。
 カナは階段を見上げた――影が見えた。暗くてよく見えないけど――あれは靴だ。
 階段を駆け上がる。そして、それが誰かはっきりとわかった――コリンが、横倒しに倒れていた。カナは駆け寄って、なんとか体をひっくり返した。コリンは、恐怖とも感嘆とも取れるように大きく目と口を見開いたまま、突き出したその手にカメラを抱えていた。
 コリンは見舞い品を手放してまで、何かを撮ろうとしたんだ。
 カナはパッと廊下の向こうを見た。何もいない。誰もいない――ただ暗く冷たい廊下がそこにあるだけだ。
 よろよろと立ち上がり、カナは廊下の突き当たりまで進んで、その向こうを覗いた。奥の階段に、小さな人影が見えた。
 赤毛だ。
「ジニー・・・・・・?」
 息ができなかった。胃が裏返りそうだ――カナは、腰を抜かして、その場に座り込んだ。
 それから――カナはどのくらいそこにいたのだろう。ふと我に返り、コリンのほうを見た。相変わらず、石になったみたいに、手を突き出した格好のまま、横たわっていた。
「石に・・・・・・?」
 カナは力なく立ち上がり、コリンのもとへと戻った。とにかく、助けを呼ばないと――
「エリオット?」
 階下からした声に、カナは弾かれたように振り向いた。踊り場の、落ちた葡萄のあたりに、ナイトガウンを着込んでストールを羽織り、ランプを手にしたマクゴナガル先生が立っていた。
「こんな夜中に何を――」先生の厳しい顔と声は、長く続かなかった。階段を登って、コリンを目にしたからだ。
 カナは、コリンのそばに立ち尽くしたまま動けなかった。マクゴナガル先生が「ア、アルバス!」と叫ぶ。
 階下から、ナイトキャップを被ったダンブルドア校長が顔を出した。マクゴナガル先生の慌てように、なにごとかと階段をゴーストのようにスルスルと滑るように歩き寄り――半月眼鏡の奥で、針のように目を細めた。
「ミスター・クリービーを医務室へ」
 冷静な口調で、校長先生はコリンの肩のあたりに手を伸ばした。マクゴナガル先生が足を持ち、二人はコリンを持ち上げた。
「ミス・エリオット。きみもついてきなさい」
 カナはほとんど放心状態で、先生たちのあとをついていった。

 医務室の入り口のベンチに、カナは座らされた。
 先生たちはコリンを空いたベッドに下ろし、マクゴナガル先生は急ぎ足でマダム・ポンフリーを呼びに行った。ダンブルドア校長は、カナのそばにあるストーブに火をつけた。
 すぐに、寝巻きのマダム・ポンフリーが慌ただしくやってきた。ベッドの上に寝かされたコリンを見て、声を上げた。
「何があったのですか?」
 校長先生は、カナの方をちらりと見た。
「また襲われたのじゃ」ひそひそと、校長先生が言った。静かな医務室では、わずかにカナの耳にも聞こえてきた。
「二階の階段です」マクゴナガル先生の悲痛な声だ。「葡萄が落ちていました――おそらく、ポッターのお見舞いかと」
 沈黙が落ちた。カナはただ、ストーブの火を見つめていた。
「石になったのですか?」
「そうです・・・・・・」
「あの子は?」マダム・ポンフリーはカナのことを尋ねた。マクゴナガル先生は、なんともいえない表情で目を伏せ、絞り出すように言った。
「その場に、一緒に居たのです」
 カナは、自分が疑われても仕方がないと思った。だけど、カナの思考を埋め尽くすのはそんなことではない。なぜ、あの廊下にジニーがいたのか――この一晩、ジニーがどこにもいなかったのは――最初の犠牲者が出たハロウィーンの夜にも、ジニーはどこにもいなかった――そのことだけだ。
 突然、熱した石に水を垂らしたような音が聞こえてきた。ダンブルドア校長が、煙を噴き出すカメラを手にしていた。
「なんてことでしょう!」マダム・ポンフリーの悲鳴だ。「全部溶けてる・・・・・・」
「アルバス、これはどういうことなのでしょう」マクゴナガル先生が、興奮を抑えきれないように聞いた。
 ダンブルドア校長は、考え込むようにコリンをじっと見つめていた。
「これの意味するところは――『秘密の部屋』が再び開かれたということじゃ」
 ――再び?
 カナはパッと顔を上げた。マダム・ポンフリーは口を手で覆い、マクゴナガル先生はダンブルドア校長をじっと覗き込んでいた。
「でも、アルバス・・・・・・いったい、誰が?」
「誰がという問題ではないのじゃ」低く、項垂れるような声だ。「問題は、『どうやって』じゃよ・・・・・・」
 カナは立ち上がった。その時、がたりと大きな音を立ててしまい、先生たちがこちら振り向いた。カナはその視線を振り切り、医務室を飛び出した。
「エリオット!」
 マクゴナガル先生が呼び止める声が聞こえた。カナの足は止まらなかった。
 ――ダンブルドア校長は、誰が「秘密の部屋」を開けたのか、すでに知っていた。犯人の目星がついているんだ――それに、部屋が開いたのは少なくとも二度目だ。以前も、誰かによって開けられて、こんなふうに犠牲になった人がいるに違いない。ダンブルドア校長は、それを知っているんだ――
 カナは吐き気が込み上げてくるような心地がした。胸がむかむかして、気持ち悪い。
 犯人を知っているのなら、ダンブルドアはどうしてそれを公表しないのだろう。生徒に説明をしないのだろう。そして、その犯人を捕らえないのだろう――何か、事情があるに違いないけれど、どうして、先生たちにすらそれを言わないのだろう。
 カナは足早に寮へと向かった。休みなく歩いたために、心臓がドクドクとうるさく耳元で脈打った。
 談話室には、もちろん誰もいない――コリンが石になったというのに、そのことを、まだ誰も知らないのだ――
 カナはその場に座り込んだ。頭がズキズキと痛む。カナはあの場にいたのに――あの声が聞こえていたのに――コリンを引き止めることだってできたのに――結局、「怪物」の被害を増やしてしまった。
 連れ出したのはカナだ。もしもカナがあそこで、「明日にしよう」と言い出していたら、コリンはこんなことにはならなかったはずだ――でも、ジニーが――そうだ。
 ジニーはどこに?
 カナは勢いよく立ち上がり、女子寮の階段を登り、一年生の寝室をそっと開けた。
 みんな、ベッドのカーテンを閉じて静かに眠っている。開けっぱなしのベッドがあった。それがジニーだった。パジャマを着込んで、ブランケットに潜り込み、規則正しく肩が上下している。
 そっと、音を立てないように扉を閉めた。ジニーはいた。寝室で、眠っていた。まるで、ずっとそこにいたかのように――
「・・・・・・・・・・・・」
 カナの見間違いかもしれない――暗かったし、距離もあったし、赤毛の生徒はジニーだけではない。でも、もしも侵入者だとすれば、スネイプ先生が以前言っていた、ダンブルドアの結界でわかるはずだ。だから――あの場にいたのは、生徒や教師、つまりは校内にいる誰かだったはずだ。



 カナはちっとも眠れなかった。ずきずき痛む頭をおさえ、談話室に降りていく。
 朗らかな笑い声が聞こえてきた――おそらく、まだ誰もコリンのことを知らないんだ。カナはうつむいたまま大広間に向かう。
 生徒の行き交う大広間の玄関ホールで、ガートが声をかけてきた。
「ハーイ、カナ。ひどい顔だね?」
 カナがうっそうと顔をあげたとき、ガートは不思議そうに見つめてきた。カナは何も言えず、あいまいな声を出した。
 その時、大広間の中からマクゴナガル先生が出てきた。カナを見つけると、素早く歩み寄ってきた。
「おはようございます、マクゴナガル教授」
 ガートが愛想良く微笑んだ。
「おはようございます、ミス・エイブリー、ミス・エリオット」先生は冷厳な表情を崩さず言った。
「エリオット、朝食を終えたら、わたくしの職員室へいらっしゃい」
 そう言うと、マクゴナガル先生は歩き去っていった。
 カナは返事もできず、ぼうっとうつむいたままだ。
「また規則違反?」そう聞いたものの、ガートはカナの返事を期待してはいないようだ。「まったく――いつまでもここに立ってるつもり?」
 ガートはカナをグリフィンドールのテーブルまで連れていき、座らせた。かぼちゃジュースがたっぷり満たされたゴブレットを目の前に置き、サーモンのサンドイッチをカナに持たせた。
「ガート・・・・・・」カナは、うめくようなかすれ声で言った。「『怪物』を知っている?」
 消え入りそうなつぶやきだったけれど、ガートはちゃんと聞き取った。
「――その話はあとで話してあげるよ。いまはお腹を満たして・・・・・・食べなくてもいいから、ジュースだけでも飲みな」
 結局、カナはサンドイッチを口に運ぶことをせず、かぼちゃジュースを少し啜っただけだった。食べなかったサンドイッチはハンカチで包み、ガートがポシェットに仕舞った(その小さなポシェットにはとても収まりそうにないものを、彼女はかんたんに入れ込んでいた)。

 変身術の教室の真横に備え付けてある、職員室の扉をガートが叩く。パッと扉が開き、マクゴナガル先生が顔を出した。
「おや、ミス・エイブリーまで?」
「私は外で待っていますから」ガートが愛想良く微笑み、カナの背を軽く押して促した。
 室内は明るく照らされ、暖炉の火のおかげで暖かい。机の上では羽根ペンがせわしなく動いていた。
 カナは先生に導かれるままソファーに腰を下ろした。マクゴナガル先生も、向かいの椅子に座る。
「昨晩のことを聞かせてもらえませんか」
 先生は穏やかに言った。カナは、ぽつぽつと、辿々しくも説明を始めた。
「・・・・・・コリンがハリーのお見舞いに行こうとしていたので、同行しました。止めても無駄だと思って・・・・・・それで・・・・・・」
 カナは、「あの声」のことを言い淀んだ。
「ぼく、誰かいたような気がしたんです。だから、一度彼のそばから離れました」
「その隙に?」
 カナは頷いた。
「――では、あなたがたの他にも何者かがあの場にいたと?」
「ぼくは物音を聞いて・・・・・・地下と、二階の奥の階段に」
 沈黙が落ちた。暖炉の火がぱちぱちと弾ける音だけが、しばらく聞こえていた――カナは、顔を上げた。
「先生、『秘密の部屋の怪物』とは何なんでしょうか」
 カナの言葉に、マクゴナガル先生は眉間の皺をいっそう深くした。
「・・・・・・それはあなたが知る必要のないことです」
「昨夜も聞こえたんです」先生が眉をピクリと吊り上げた。「獲物を探しまわるような・・・・・・」
「怪物は喋りません」マクゴナガル先生がピシャリと言った。「エリオット、夜中に学校をうろつくのはもうおやめなさい。何か事情があるなら、誰かに相談して――わたしでも、誰でもかまいませんから、大人を呼んで。一人で解決しようとしないで」
 先生の黒い瞳が、カナをまっすぐ見つめていた。厳しく罰するような目つきではなく――カナのことを心配しているように見えた。
「はい」カナはぽつりとそう返すことしかできなかった。

「何故あんたにだけ『怪物の声』が聞こえるのか、不思議だね」
 いつもの隠し部屋で、ガートはカナから事情を聞き出した。顎に手を当てて、考え込んでいる。
「怪物が何かは知らないんだけど・・・・・・ダンブルドアでも呪いを解けなかったということは、それは強力な魔法生物とか、古代の呪物とか・・・・・・」
「そんなものがホグワーツに?」
 カナはじっとガートを見つめた。彼女は肩をすくめて、足を組んだ。
「何があったって不思議じゃない。去年のことを覚えてるでしょ?」
 去年、ダンブルドアが「賢者の石」をホグワーツに隠し、ヴォルデモートがそれを狙い、校内に侵入する事件にカナも巻き込まれていた。しかし、ヴォルデモートが暗躍しているということを知っている人はほとんどいない。
「ヴォルデモートが関わっているということ?」カナの呟きに、ガートは答えなかった。「ダンブルドアは、犯人を知っているようだった・・・・・・でも、それならどうして教えてくれないの? どうして捕まえようとしないんだろう・・・・・・」
「証拠がないからだよ」ガートは微笑んだ。「『怪物』の存在だって、あんたが一方的に疑っているだけで、誰も見たことも、聞いたことすらない・・・・・・何も知らない人からしたら、ただの伝説でしかない」
「でも、確かにいるんだよね?」
「そう言われてる」ガートはよどみなくカナを見つめた。「サラザール・スリザリンが作り出した怪物だとか、彼のペットだとか・・・・・・だから、『スリザリンの継承者』のみに従うんだってさ」
「ガート」カナは神妙な面持ちで、ガートを見つめた。「ヴォルデモートはスリザリンの継承者なのかな?」
「また『闇の帝王』がこの学校で暗躍してるって? ありえない話じゃないね」
 テーブルの上にティーセットと火壺、それにポシェットに仕舞い込んだハンカチの包みをひらりと開いて、サンドイッチを並べながら、ガートが首を傾げた。
「あんたは、犯人を見つけて、それからどうするつもりなわけ?」
 その言葉に、カナはぽかんと口を開いた。
「止めるべきだと思うよ。先生たちに伝えて、捕まえてもらう」
 どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろう、という顔をカナはしていたに違いない。
「そうだね」ガートは眉尻を下げ、諦めの滲んだ表情で、わずかに笑んだ。「でも、それならあたしは協力できない。おしゃべりならしてあげる――わかってくれるよね?」
 ガートの抱えている秘密は、おそらく彼女の父親絡みのことだろう。きっと、秘密の部屋について、ガートはなにか指示をされているに違いない。自分の意思に反したことに目を瞑らなければいけないなんて――カナは、すこし彼女のことをあわれに思った。



20230331-20240515


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