あれからカナは、ジニーとのあいだにあったできごとを、誰にも話すことができないでいた。
何事もない日々が続いた。ないといっても、ジニーはやっぱり元気がないままだったし、カナだってとてもじゃないけれど心から笑うことはできなかった。冬が終わり、陽の光が雪を溶かすようになっても、ふたりはこわばったままだ。ただ、ホグワーツの雰囲気は少しだけ、春の暖かさと似通ってきた。
――襲撃事件がぴたりとやんだ。
ハロウィーンの日にミセス・ノリスが。十一月にコリン・クリービーが。十二月にジャスティン・フィンチ=フレッチリーと「ほとんど首なしニック」が犠牲になってから、それ以降はないのだ。石になった者も、いなくなった者も、命を落とした者もいない。それに、マンドレイクが思春期を迎えたとの嬉しい報告もあった。情緒不安定な苗を一身に引き受けて育てるスプラウト先生はたいへん忙しそうだったけれど、みんな、二度目の植え替えを待ち遠しく思った――あの大量のマンドレイクの植え替えには骨が折れそうだと、カナは思った。植え替えの次はついに収穫ができる――解毒薬さえ煎じることができれば、みんな元に戻るのだ。だけど――だけどカナは、どうしても不安をぬぐえなかった。ジニーが何かを隠しているからだ。ほんとうに襲撃がやんだのなら、ジニーにもきざしがあるはずだ。だから、カナは浮かれることができなかった。ピーブズがカナとハリーをからかって、「わるものー、のけものー、エリオットー」と歌い始めるのだって、とても追い払うような気持ちになれなかった。
「その辛気くさい顔、やめてよね」いつもの週末の訓練で、ガートはうんざりして言った。「それにホラ――あんた、最近全然うまくいってないよ。授業の時もぼーっとしちゃってさ・・・・・・」
「心配してるの?」カナが目を丸くしていると、ガートはかたちの良いまなじりを釣り上げた。
「そんなに驚かなくったって、いいでしょ!」
カナはすっかり着せ替え人形みたいに、ガートにされるがままだ。髪が伸びたり、服を着替えたり、靴だって、ガートが杖を振るうたびに変わっていく。カナが見たことないものばっかりだ。それでも、カナはきごこちのひとつもこぼさない。
「ぼく、誰かに目をつけられたのかも」
「『闇の帝王』のほかに?」
ガートの言葉に、カナはパッと顔をあげた。
「そう・・・・・・なのかな。いったい誰だかわからない。でも、そうか・・・・・・もしかしたら、ヴォルデモートに関係があるのかも」
カナがぶつぶつ言い始めたので、ガートはよけいにカナを訝しんだ。
「ガート。ヴォルデモートは他人を操る魔法が得意なのかな」
「そんなの知らないよ。でも、『あの人』はとくにパワーがあったらしいからね。そのくらい造作もないかもね」ガートはため息とともに、カナの頭にたっぷり乗った花飾りを消しさった。「それに、『許されざる呪文』のひとつに、そんなのがあるって聞いたことがあるよ」
「『許されざる呪文』・・・・・・」カナは背すじが冷たく凍るのを感じた。去年の今ごろ、カナはとある呪いをその身に受けて、長い昏睡状態にあった。「そんなものが、また、ホグワーツで?」
「いったい何の話をしているのか知らないけど」ガートはしらじらしく言った。「『許されざる呪文』は強力な闇の魔術だよ。大人の魔女や魔法使いですら、よっぽど訓練を積んでいないと扱えない。そんな簡単な呪文じゃない」
「ねえ。もしも生徒が操られていたとしたら、それを見破る方法はあるのかな」
「さあね。『DADA』の先生にでも聞いてみたら?」
もう少しまともなアドバイスはないの――と、平素のカナなら言いたかっただろう。カナがあまりにも集中を欠いているので、ガートは今日の訓練のお開きを言い渡した。
「でも、どうしてジニーなんだろう・・・・・・」
ガートがペンダントライトの灯りを消し去ったとき、カナがうっかりこぼした。
「へえ、ウィーズリーの妹が関わってるんだ?」
「・・・・・・教えたところで、結局きみはなにも協力できないんでしょ」カナは口を曲げてガートに言った。
「よくわかってるね。でも、さすがにあたしも、どこで誰が何をしてるかなんて具体的なこと知らないからさ」ガートが額縁を押し上げて、ふたりは部屋の外へ出る。
「でも、すごく怯えててね。何も話してもらえないんだ。だから、いまは事件が落ち着いてるでしょう――何も起こらないあいだは、静観しようと思って」
「そりゃ、かしこい選択だね」ガートは肩をすくめた。
ふたりが渡り廊下に出たとき、カナは再び目を丸くした。まるで絵画から飛び出てきたような――ハープを小脇に抱え、金色の翼を背中から生やした、但し、顔だけは無愛想な小人が走り寄ってきた。「オー! ガーグルド・エイブリー、あなた宛の愛のメッセージです!」としかめ面で叫び、ふたりの前に立ちふさがった。
「な、なにごと?」カナがうろたえているなか、ガートはプッと吹き出した。
「ああ。あんた、朝食にも来てなかったんだ」ガートはメッセージカードを受け取る。「ロックハートが思いついたんだよ。バレンタインおめでとう、だって。前学期はいろんなことがあったでしょ。だから気分転換しましょうってコトらしいよ。ま、あの人らしいよね」
ガートはあんがい、このイベントを楽しんでいるようにも見えた。カードをひっくり返して、「げーっ、またタウンゼントだよ。彼も懲りないね」とぼやくと、カードをすっかり蝶々に変えて、空へと解き放った。
「あの小人・・・・・・」天使に扮した小人の小さくなっていく後ろ姿を、カナは見つめた。カードを渡し終えてしまうと、次の配達のためにあっというまに走り去ってしまった。「あいつらも操られてるんじゃ・・・・・・?」
「まさか! ロックハートが? 小人に魔法をかけられる?」ガートはおおげさに言ってみせた。それで、カナも「そんなわけないか」と取り下げた。
ハグリッドのホークランプ探しに、カナは付き合っていた。ハグリッドがまた畑を拡張するというので、土をおこすのにミミズを探しているというわけだ。
「やつら、食べることっしか脳がねえからな」うきうきと巨体を揺らして、うれしそうに言った。暖かくなってきて、鶏も被害に遭わないで、悪いニュースを聞かなくなったからだろう。
茂みを抜けて、「禁じられた森」のすこし手前で、ファングが姿勢を低くした。尻尾をぶんぶんと大きく揺らして、ふたりに合図を知らせた。
「ファング、棘に気ぃつけろ!」
ファングについていって、カナも目標を見つけた。カナがドラゴン革の手袋をはめて、キノコに似た傘の部分をおしのけ、思いっきり引っ張ると、立派なハサミを持ったホークランプが、無力ながらカナに向かってじたばた威嚇した。すかさず、ハグリッドが土に空いた穴に向かってスコップを突き立て、それをあっというまに一輪車に乗せてしまう。ホークランプが大好きな、ミミズの生息土というわけだ。
「ねえ、ハグリッド」用済みのホークランプをあたりの地面に潜らせながら、カナはたずねた。「魔法で操られている人を見分ける方法はあるの?」
「なんだと?」唐突な話題に、ハグリッドは神妙な顔つきになった。「おまえさん、まさか、『許されざる呪文』に興味が――」
「違うよ、その――」カナはまごまごしたけれど、意を決した。「だ、誰かが操られて、事件に関わっているんじゃないかって、そう思って」
「・・・・・・」ハグリッドはずいぶん長いこと沈黙した。カナは手持ち無沙汰に手袋を外して、ローブの泥をはらった。
「おれの知ってることで言やぁ」ハグリッドは慎重に言葉を絞り出した。「まず見破るのは無理だ。それに、『服従の呪文』で洗脳されてる連中は、その命令を幸福なことだと思いっ込んじまう。だから、自分が従わされてるなんてちーっとも思わねえ」
「それじゃあ、罪が知られるかもって怯えていたら、違う?」
「命令は正しいこった。命令は心地のいいもんだ。カナはそんな時、どんなふうになる?」どうやら、カナの推理は的はずれだったようだ。「それに、時間が経つと効果は薄れていくときた。この何か月も従わせるにゃ、なんっ回も呪文をかけ直さなくちゃならねえ」
ハグリッドは一輪車を反転させた。カナはファングに声をかけて、一緒に歩いた。
「しかもだ、ホグワーツの生徒でそんなことができるやつがいるか? え? 何か、違う、もっと他の――」ハグリッドは慌てて口をつぐみ、わざとらしく咳払いした。「とにかく、おまえさんの言ってる闇の魔術の線は違うんじゃねえかと思うがな」
「ぼくもそんな気がしてきた・・・・・・」
カナはうつむいて歩いた。これ以上、カナがなにか考えたところで何も進まない気がしてきた。ジニーが何か言い出してくれるのを待つほかないのかもしれない――
「おれの勘が、魔法使いや魔女の仕業なんかじゃねえと、そう言っちょる」
カナはパッと顔を上げた。ハグリッドが、カナを励ますようにウインクを飛ばした。
「ガートもそんなことを言ってた」
「スリザリンのか。なんて言ってた?」
「強力な魔法生物か、古代の呪物だって・・・・・・」
「まあ、そんなとこだわな」
やがて、小ぢんまりした丸太小屋へとたどり着く。ファングがひと仕事終えたとばかりに水場へとカナを引き連れ、甘えたようにカナの足に擦り寄った。
「だが、カナ。あんま無茶するんじゃねえぞ。おっかさんが、エリアが悲しむからな」
ハグリッドの励ましは、あまりカナのためにはならないものだった。けれど、彼が心配してくれる気持ちだけは、じゅうぶん伝わった。
最後の襲撃から、四か月が経とうとしていた。ピーブズはやっとカナとハリーに意地悪をするのに飽きたようだし、薬草学の授業でアーニー・マクミランが――あれほど避けていたというのに――無愛想にも隣のグループのカナへと声をかけ、糖蜜アンゼリカの苗の入った箱を寄越してくれるようになった。三月には、マンドレイクが三号温室でひと晩中パーティーを開いて大騒ぎをしているという状態だった。これにはスプラウト先生も大満足で、「マンドレイクがお互いの植木鉢に入り込もうとしたら、完全に成熟したということです。そうなれば、医務室にいるあのかわいそうな方たちを蘇生させることができますよ」と、みんなに説明した。
「ハーマイオニー。きみは呪いに詳しそうだったよね」
復活祭の休暇中、談話室でひとり「神秘のカバラ占術」を読んでいるハーマイオニーに向かって、カナは話しかけた。
「人聞きが悪いわね」ハーマイオニーは読みかけた本を閉じ、カナに向き直る。「あれは『最も強力な魔法薬』に書いてあっただけで――」
「し、静かに!」カナがあわててハーマイオニーを制した。あの禁書のことは、あまり知られないほうがいいだろう。
「こほん――それで、それがどうかしたの?」
「マグルにとにかく敵対する魔法生物や呪物を、なにか知らないかと思って」
ハーマイオニーは肩を落とした。
「あの件ね。私もいろいろと図書館で調べているのよ。けれどあまり確信がもてるような情報が得られないの。そうね――魔法生物というのは私も盲点だったわ。それに呪物となると、相当古い文献を探さないとね」
「まだ事件について調べてるの?」
「もちろん。でも、そんなに本格的にじゃないわ。私たちには他にももっと考えるべきことがあるじゃない。例えば・・・・・・」
ハーマイオニーが手に持った本をカナに見せようとした時だ。背後から、朗らかな声でカナを呼んだのが聞こえた。
「おふたりさん。選択科目はもう決めたの?」
アリシアがそう話しかけてきた。自身もクィディッチの練習で忙しいだろうに、毎日浮かない顔をしているカナを気遣ってくれていた。
「ううん、まったく」
カナはそのことについてリーマスからアドバイスを受けていた。もちろん手紙で。三年生になると選択科目を取ることになる。リーマスは四教科も取っていたそうだ。カナがそんなに勉強に熱心になれるはずがないのだと見越していたのか、付け加えて最低限の二教科でもよいのだと記されていた。
「カナ、今まさにそのことについて話そうと思ったのよ! まだ決めていてなかったの!」ハーマイオニーが愕然とした。「私はすべての授業を受けたいと思ってるわ。せっかく魔法の勉強ができるんだから、こんなチャンス逃すわけにはいきませんからね」
ハーマイオニーの宣言にはアリシアも感嘆の声を上げて、拍手を送った。
「全教科を履修するなんて、そうそういないわ! でもハーマイオニーならできると思う。グリフィンドールではパーシー以来ね」
カナがぽかんと口を開けていると、アリシアがアドバイスをくれた。
「私は『占い術』をおすすめするわね。何か大きな決断をするときは満月の夜が良いとか、月桂樹を額にかざして寝るとか、自分の体をパワーで満たす方法がわかってくるの。自分を見つめ直す機会も得られる。それに試験も簡単だし――」
「カナは『マグル学』をとったほうがいいんじゃあないか?」リーが、ソファーの背もたれの方から顔を出して、横槍を入れてきた。「ほら、お前さんって世間知らずだろ? 大人になったらマグルと接する機会もあるだろうし、そうなったときにできるだけ、魔法省の世話にはなりたくないからな」
「でも、カナは動物がとくべつ好きでしょう。『魔法生物飼育学』がいいんじゃないかしら?」まだ選択教科を体験していないはずのハーマイオニーもアドバイスをくれた。
「考えてみるよ」
ハーマイオニーの言うとおりだ。カナは、あまり『秘密の部屋』のことばかり考えてはいられなくなってしまった。
「何より、一緒に受ける友人のことを最優先にした方がいいぜ。ひとりぼっちじゃつまんないからな」
「その通りだわ」アリシアが最初に頷いて、みんなでリーの言葉に頷いた。
「それで、あたしの意見を聞きにきたんだ?」
テーブルの上は、すっかりティー・パーティーのありさまだ。カナのティーセットにシュガーポット、ガートが持ち込んだ老舗店の菓子の包み紙が散らばって、二人はそれを光るトカゲやふわふわ浮かぶ雲に変えて遊んでいた最中だった。
ガートはにやにやと口角をあげて、カナを見た。
「ハーマイオニーはまっさきに全科目を登録したらしいよ。それに、人気の『占い術』は、正直ぼくにはあんまり合ってない気がしてる・・・・・・ぼく、『天文学』だって苦手だもん。きみとの訓練も続けないといけないし、どうしようかと思って」カナは目の前に浮かぶふわふわの雲をぎゅっと固めて、小さくして、キラキラの角砂糖にしてしまった。それを口に運んでみたけれど――うん、味がしない。失敗だ。
ガートはというと、ぽかんと口を開けていた。そうしてみるみる――目を疑うけれど――しおらしくなった。
「あんた、来年も『これ』を続けるつもりでいたんだね。あはは、てっきり、あんたは嫌々付き合ってるもんだから、今年度で密会は終わっちゃうのかと思ってた」手まぜのようにティーカップをスプーンでかき混ぜながら、ガートが言った。
「そんなことないよ。きみが指導してくれたからぼくは『目眩まし術』が得意になったし、いろんな呪文が扱えるようになったんだ。だから、やめるなんて言われたら、困るよ」
照れくさそうに頬をかくガートは、普段とは違って見える。年相応の幼さが見え隠れしているようだった。
「あたしはいちおう、『数秘術』と『古代ルーン語学』と『マグル学』をとろうと思ってる。必要だと思ってるのはふたつだけで、『マグル学』はオマケかな」長い指を折り曲げながら、ガートは言った。「『数秘術』は暗号にも使われたりしてるし、『古代ルーン語』は古い文献を解読するのに必要なんだ。あんたが望むなら、あたしが手取り足取り教えてあげてもいいよ」
「いらないよ」カナは頭が痛くなりそうだった。「難しい教科はやめておく。だったら、やっぱり『マグル学』かな」
「夏が来るまでに、ゆっくり考えてもいいんじゃない」
カナは最後の紅茶をすすった。
「でも、ガート。スリザリンのきみが『マグル学』をとるなんて、大丈夫なの?」
「それね。意外かもしれないけど、魔法省を目指してる魔法使いや魔女は、あんがい選択する人が多いんだ。まあ、ばかにしたりするやつがいないわけじゃないけど、マグル対策って必須だからね。将来のために学ぶスリザリン生もいるよ」ガートは杖をふるい、チョコレートの包みをすべて火花に変えてしまった。「それにあたしはマグル育ちだし、楽に単位がもらえるんじゃないかと思ってね」
「ねえ、ぼくたち同じ教科をとったら、絶対協力しようね」
カナがあまりに切実に言うので、ガートは笑いこけた。
休暇も終わり、土曜日はグリフィンドール対ハッフルパフの試合だ。グリフィンドール・チームのメンバーたちは夕方暗くなるギリギリまで練習を続け、士気を高めている。四年生の主要メンバーたちはハッフルパフを打倒し、もはや今年の寮対抗杯をもぎ取るつもりで気分を高揚させていた。
当日の朝は爽やかによく晴れた。みんな早起きして選手たちにエールを送り、同じ朝食を囲むために寮をあとにする者ばかりだ。いっぽうカナは、最近は朝うまく起きれない日ばかりだ。ようやくラベンダーとパーバティに起こされて、寝癖をゆらして顔を洗っているところだ。昨夜、興奮ぎみのアリシアやアンジーに散々「絶対に応援に来てね!」と念を押されていたのにだ。
ようやく玄関ホールに足を運んだのは試合が始まる三十分ほど前のことだ。朝食を終えた生徒たちが大広間から続々と流れ出てきている。その中にガートの姿もあった。
ちょうど向こうもカナのことに気がついたようで、寮の得点をあらわす大砂時計の目の前でふたりは落ち合った。
「いま起きてきたの? ねぼすけなんだから」
ガートが飼い猫でも見るような目でカナを見ている。しかし、カナは返事をすることができなかった。
「・・・・・・今度こそ・・・・・・」
カナは短い悲鳴をあげて身を縮めた。そばにいたガートが「なに?」とうろたえる。
「ガート、いま・・・・・・」カナはふるえる手でガートのローブをつかみ、「こっちにきて」と引っ張る。人ごみの流れる進行方向とは逆、カナが来たグリフィンドール塔へと続く階段を二人は登る。ガートがわけを聞きたがって声をあげそうだったので、カナはうんとトーンを落としてささやいた。
「『声』だよ。ガート。以前ぼくが聞いた、あの正体不明の――」
「ええ?」素っ頓狂なガートの声が階段に響いた。みんなグラウンドに向かっていて、周りにだれもいなかったのがさいわいだった。
カナの耳には、かすかにまだ「声」が続いている。「獲物はどこだ・・・・・・八つ裂きに・・・・・・引き裂いてやる・・・・・・」声は二階の方向へ移動しているようにも感じた。カナはそちらへと走り出そうとしたが、かなわなかった。ガートがカナの掴んだ腕を掴み返していた。
「何してるんだよ!『声』の主に近づけば襲われる――あんた、『目をつけられた』って言ってたじゃないか――うかつなまねはよしなよ」
「でも、それじゃあ、誰かが犠牲になる!」
カナの強い口調に、ガートは尻込みしたようだった。
「・・・・・・今日は試合日で。ほとんどの生徒は城の中にはいないよ」
「ゴーストだって襲われたんだ。生徒以外にも・・・・・・」
「自分の身を守れるの?」ガートの蛇のような瞳が、カナを憂いていた。
「ぼくは殺されないよ」カナは毅然と言い返した。ガートもそれで、ようやく折れた。結局、カナの頑固の前では説得は無意味だと悟ったようだ。
カナは杖を片手に「声」のありかをたどる。二階の廊下をふたりは進むけれど、今ではもうずいぶん静かになってしまった。グラウンドの遠い喧騒すら聞こえてこない。
「本当にこっちに向かったっていうの?」
隣を歩くガートが訝しんだ。カナにしか「声」は聞こえないのだから、そう思うのも無理はないだろう。
「もうずいぶん静かになったか、遠くに行っちゃったんじゃないかな」
「まさかもう誰かが――」
曲がり角にさしかかったとき、ガートは言葉を失った――誰かの足が床に伸びているのが見えたからだ。
「ハーマイオニー!」
カナは駆け寄った。ハーマイオニーが石のように硬直して――その場に倒れていた。もうひとり、レイヴンクローの女子生徒も、同じようにしてすぐそばに倒れていた。
「そんな――ガート、すぐに先生に知らせて――」
ガートは呆然としていたが、カナが声をかけたことで動き出した。羊皮紙をちぎって走り書きをすると、ガートが杖を振るう。紙切れは小柄なカラスとなって、「一番近くの先生にお願い」とささやかれると、飛び立っていった。
まただ――また、カナのそばで犠牲者が出てしまった。もしかして、ほんとうに「姿なき襲撃者」はカナのことをつけ狙っているんだろうか――カナにだけ「声」が聞こえるのも、「あの人」がカナの縁者だから――
「・・・・・・生きているよね?」カナはうめくようにガートへと確認した。
「あたしにわかるわけ、ないじゃんか」ガートの声も暗い。壁際に後退りして、しゃがみ込んでしまった。
カナはハーマイオニーの見開いた目をよく観察した。濁ってはいない。死んだ目ではない――カナはそう思った。頭の中に、去年のかわいそうなユニコーンのことが浮かんでいた。
そうしていると、やがてマクゴナガル先生と図書館司書のマダム・ピンスが走ってやってきた。
「エリオット・・・・・・」
マクゴナガル先生は鷹のような目をくたびれさせていた。カナは先生の言いたいことがわかった。この一連の事件すべて、カナのそばで起きているからだ。
とにかく、マダム・ピンスとカナ、ガートは犠牲者二人を医務室へと運ぶよう指示された。マクゴナガル先生は現場をよく観察したあとはグラウンドへ向かった。今日の試合中止を言い渡しに行くそうだ。
医務室になんとか辿り着いて、マダム・ポンフリーも手伝って二人をベッドに寝かせると、カナとガートはベンチで待つよう指示を受けた。マダム・ポンフリーはきびきびと二人の状態を診察した。「同じです。これまでと・・・・・・」その声に、カナは気づかれないくらい小さな安堵を吐いた――死んでない。それだけでカナは救われたような気持ちになる。マンドレイクの解毒薬さえ用意できれば、みんなもとに戻るのだから。
ぼうっとハーマイオニーとレイヴンクローの上級生の姿を見つめていて、気づいたことがある。この女子生徒は――どこか見覚えがあると思ったら――クリスマスにパーシーと並んでいたという、ジニーが言っていた、ペネロピーに違いない。
ガチャリと大きな音を立てて、医務室の扉が開いた。マクゴナガル先生が帰ってきた。その後ろに、競技用のローブと箒を手にしたままのハリーと、ロンを連れていた。面会させるつもりだろう。二人と目が合った。先生は二人をベッドの近くに連れて行くと、ピシャリとカーテンを閉じてしまった。
「ねえ」ガートがカナの腕を小突いて、ささやくように言った。「今回ばかりはポッターも疑いようがないよね。だって彼はグラウンドで試合の準備をしてたわけだし、友達のグレンジャーが被害に遭ったわけだし・・・・・・」
「つまり、ぼくが最も疑わしいってことだよね」カナが毅然と言ったので、ガートも面食らった。
「なにを言ってるのさ。あたしが証人としているでしょう!」
「事件はぜんぶぼくの近くで起きてる・・・・・・」そういうと、ガートは肩を怒らせた。
「でも、あんたはやってない。あたしはそれを知ってるし、誰もあんたのしわざだなんて証明できっこない」
マクゴナガル先生がカーテンの奥から出てきて、カナとガートのそばまで歩み寄った。
「これは、あなたたちのものではありませんか?」
先生が見せてきたのは割れた手鏡だ。桃色のつるつるした持ち手には見覚えがない。カナが否定の意味で首を振ると、ガートが口を開いた。
「私のものでもないですが、材質からしてマグル製品だと思います。だから、グレンジャーかクリアウォーター先輩のものかと」
マクゴナガル先生は「そうでしょうね」と浮かない返事をした。
やがて、ハリーとロンが出てくると「それぞれの寮まで送りましょう」と先生は言った。ガートが、自分は一人で戻れると言いたげにしていたけれど、マクゴナガル先生はそれを言わせなかった。
「いずれにせよ、生徒たちに説明をしなければなりませんから」
事態を重く受け止めたマクゴナガル先生は、生徒たちに厳しい制限を与えた。
「全校生徒は夕方六時までに、各寮の談話室に戻るように。それ以後は決して寮を出てはなりません。授業に行くときは、かならず教員が一人引率をします。トイレを利用するときも、必ず先生に付き添ってもらうこと。クィディッチの練習も試合も、すべて延期です。夕方はいっさい、クラブ活動をしてはなりません」
これには野次やブーイングが飛ぶ――と思っていたけれど、談話室はあんがい静まりかえっていた。グリフィンドールの生徒はみんな、黙ってマクゴナガル先生の話を聞いていた。
先生は読み上げるために広げた羊皮紙を杖のひと振りでクルクルと巻きながら、声を詰まらせた。
「言うまでもないですが、わたくしはこれほど落胆したことはありません。これまでの襲撃事件の犯人が捕まらないかぎり、学校が閉鎖される可能性もあります。犯人について何か心当たりがある生徒は申し出るよう強く望みます」
マクゴナガル先生は、すこしぎこちなく肖像画の裏から談話室を出ていった。その背中がとても小さなものに見えた。
とたん、グリフィンドール生はごうごうと喋り始めた。リー・ジョーダンが立ち上がって、スリザリンを非難する演説しているのも、カナは耳に入ってこなかった。
談話室の隅のほうで、パーシーが落ち込んでいる。仲の良いペネロピーが襲われて、ショックを受けているんだろう。けれど、今のカナには声をかけることができなかった。この襲撃事件は、カナが引き金となっている可能性があるのだ――それがどうやって証明できようか。ガートも言っていたけれど、カナはひとつも関わっていない。できようがない。けれど――クリスマス休暇のあの夜、ジニーの姿をした誰かが――
そうだ、ジニーは?
カナは談話室をぐるりと見回す。ジニーは、あのなめらかな赤毛は見当たらない。カナは立ち上がり、女子寮の方へと足を運んだ。一年生の寝室をノックすると、顔を出したのはまさに探していたジニー・ウィーズリーだった。ずいぶんと顔色が悪い。
カナはジニーを連れ出して、二年生の寝室へと入った。ラベンダーやパーバティは談話室にいたし、まだ時間も早い。しばらく帰ってはこないだろう。
自分のベッドにジニーを座らせて、カナはその隣に腰掛けた。
「何か話してくれる気分にはなった?」
ジニーはかわいそうなほどに肩をビクビク揺らして、カナのことを怯えた目で見つめた。
「カナ、あ、あたしは・・・・・・」ジニーの目はカナのことをじっと見つめたり、逸らしたりとせわしなく動いた。しびれをきらして、カナが口をひらく。
「・・・・・・ぼく、この事件に、自分が関わっているんじゃないかって、そう思うんだ」
ジニーがパッと顔を上げた。
「ぼくが行く先々で、みんな被害にあうんだ・・・・・・」
「それは、違うわ」ジニーがふるえる声で否定した。「その・・・・・・カナ、あなたは悪くないの」
「そんなの、ジニーにわかるわけがない」
「わかるのよ!」髪を掻き乱して、ジニーは頭を抱えた。目には涙をためて――「あたしがやったの。あたしが――」
「ジニー」カナは諭すように言った。「きみがやったんじゃない。きみの中の誰かでしょう」
ピタリと、ジニーの呼吸が止まる。
「――カナ。『彼』に会ったのね?」
カナは頷いた。ジニーは全身の力が抜けたように、へたり込んだ。大きくため息をつきながら、とつとつと話してくれた。
「ああ――あたしが教えたの。あなたのこと、日記に書いたのよ」
「日記?」
「ええ。あたしの日記帳――カナも、知ってるでしょう。あの古いのよ」
ジニーが使っている、中古の黒革の日記帳のことだろう。ダイアゴン横丁に学用品を買い揃えに行ったとき、いつのまにか手に入れていたという――
「その日記が?」
「あの日記を使うと、『彼』と話せるの。日記の中で」
「『彼』って、誰なの?」
「リドル・・・・・・トム・リドルよ」
それが、ジニーを操ってマグル生まれを襲い、あの夜カナを組み敷いた者の名前に違いない。そして、スリザリンの血を引く「継承者」で、純血主義者。
「・・・・・・ジニー。放っておけないよ。このことをダンブルドアに話さなくちゃ」
ジニーは絶句した。顔を一段と青くして、手が細くふるえている。
「あたし、た、退学になるわ。ここにいられなくなっちゃうわ・・・・・・」
「ならないよ」カナは確固たる口調で言った。「ジニーは利用されただけなんだ。ダンブルドアがそんなことをするはずがない。それにダンブルドアは、犯人がわかっているような口ぶりだった」ジニーはぶるぶるふるえ出した。「ねえ、ぼくを信じて、ジニー。きっと悪いようにはならないよ。明日の朝食のときに、先生に事情を話して一緒に校長室へ行こう」
ジニーは口を閉ざし、返事することができないでいた。カナはかわいそうなジニーの手を握り、おでこをくっつけて、安心させるように言った。
「誰も死んでないんだ。ジニー。誰の未来もなくなってない。だから大丈夫だよ。どうにかできるはず」
ふたりはしばらくそうやって、身をよせあった。
翌朝、カナたちの計画はあっさり頓挫してしまった。
「昨夜、ダンブルドア校長に停職命令が下されました。理事会の決定です」
そう告げるマクゴナガル先生の声は、冷静だけれど沈みきっている。生徒たちも絶句し、誰もが心配そうな表情を浮かべていた。
「また、一連の襲撃事件の参考人としてハグリッドが魔法省に連行されました」
もうひとつのニュースもカナを打ち砕くのにじゅうぶんだった。あのやさしいハグリッドが、マグル生まれを襲うなんて、そんなまねをするはずがない。カナだけじゃない、ハグリッドを慕う子どもたちは誰もがそう思って、猜疑心や恐怖心を大きく膨らませていた。
ダンブルドアとハグリッドのいないホグワーツは、奇妙な空気に包まれている。外はすっかり緑が濃くなり、夏がすぐそこまでやってきているというのに、どこか暗くて息苦しい。不安で、緊張して、楽しく笑おうとしてもそれは不自然に廊下に響き渡ってしまう。だから、誰もが声を押し殺していた。
但し、スリザリンの一角――マルフォイだけは、この状況を楽しんでいるようだった。まるで自分が権力者になったかのように、肩をそびやかして学校を歩き回っていた。あげく、魔法薬学の授業中、マルフォイはスネイプ先生を大声で呼び止めて、「先生が校長職に志願なさってはいかがですか?」なんて言うのだ。スネイプ先生も満更でもなさそうにマルフォイをたしなめたけれど、「ダンブルドア校長は理事たちに停職させられただけだ。私は、まもなく復職なさると思うがね」と返した。
授業中にガートから聞いたけれど、ホグワーツの理事会のメンバーにはマルフォイの父親がいるらしく、曰く「父上こそがダンブルドアを追い出す人だろうと、僕はずっと思っていた」と朝からさんざん吹いていたらしい。それであんなに大きな顔ができるのだと、カナは信じられない気持ちでうなずいた。
「カナ、ファングに餌をやるの、君に頼んでもいいかい?」
「・・・・・・えっ?」カナはぼうっとしていて聞き漏らした。すでに昼食を終えたロンが話しかけてきていた。
「大丈夫かい? ご飯は食べている? ほら、ハグリッドが行っちゃっただろう。ファングの世話を誰かがしないと」
「ああ――ウン、わかった」カナは上の空で返事をした。ロンは、カナがどうやって先生たちの監視の目から抜け出すかなんて一切考えていないように、「そりゃ、ありがたいよ」と返事をした。実際、カナには「目眩まし術」がある。
カナはその日の夕方、寮の談話室にもどったあと、再びジニーを寝室に呼び込んだ。
「ジニー。ダンブルドアのほかには、誰に相談すればいいのかぼくにもわからない。日記帳はまだ持っている?」
「ええ。あるわ・・・・・・」
「それを、ぼくが預かるよ。そしたら、きみがまた操られたりしないでしょう?」
「でも・・・・・・」ジニーはカナの心配をしているようだった。
「ぼくは心配いらないよ。彼にずいぶん気に入られてるんだ。殺されたりしないよ」
ジニーは涙ながらに黒革の日記帳をカナに手渡した。なんの変哲もない、ただの日記帳にしか見えない。
「こんなの、燃やしちゃえばいいのに」
「できないの」
ジニーの言葉に、カナは目を開いた。
「燃やすのも濡らすのも、意味ないのよ。傷ひとつつかないの」
カナは感心してパラパラとページを捲る。やっぱりすべてが白紙だ。ガートの持っているおかしな手帳みたいだな、と思った――
「そうだ!」カナはひらめいた。「ダンブルドアへ手紙を書こう。真実を話して、リドルを捕まえてもらえばいいんだよ」
「うまくいくかしら・・・・・・」
「やってみるしかないよ」
それから、カナとジニーは連名で、ダンブルドアへの手紙の制作へと取り掛かった。ただ、このことを文章にしてわかってもらうには難しく、手紙を書くだけのことだというのに難航した。
そうしているうちに数日が経ってしまった。移動教室はみんなと引率の先生と一緒でたいへん窮屈だったし、そう言う事情でカナがジニーと会えるのは朝起きて朝食までの時間と、夕食をとって寮に帰ったあとの夜だけだった。それに、他のどの生徒にも見つかってはいけないので、隠れる必要があって、一日の中であまり長く時間を使うことができなかったのだ。
そんな中で、カナは同室のメンバーがベッドに入ったのを確認したあと、夜中にこっそり抜け出して、「目眩まし術」で身を隠しながら、ファングに餌やりをするというミッションまで抱えていた。今のところは、順調に毎日こなすことができている。どうしても一日に何度もは来ることができないので、少しずつ食べるようファングによーく言い聞かせる必要があった。
今夜もゴーストにぶつからないように気をつけながら、灯りのない真っ暗闇の城の中をなんとか脱出することができた。
できるだけ音をたてないように丸太小屋の扉を開ける。ファングが飛び出そうになるのをなんとかおさえて、小屋の中に身を滑らせる。「目眩まし術」を解除して、寂しかったと尻尾を振り乱すファングをぎゅっと抱きしめた。
「ファング、よしよし、いい子で待ってたね」
とろとろにたるんだ頬をよく撫でながら、カナは明かりもつけずに小屋の中を探った。ここ数日のうちに、カナはこの小屋のどこに何があるのかだいたい把握できるようになった。
床に置きっぱなしのファング用の皿に、カナは犬用の餌――干し肉、大豆、とうもろこしをミルクと混ぜた、ハグリッドの特製品――を一日分として用意した。ファングは待ちわびたとばかりによだれをたらたら溢しながら皿へと食らいついた。
「もう、全部食べちゃだめって言ってるでしょう」
そのときだ。
コンコン、と扉をノックする音が、真っ暗な丸太小屋に響いた――先生が来た、ついに見つかってしまった? 物音を、話し声を聞かれた? 顎を汗がたらりと伝う。
扉がゆっくり開いた。
「カナ!」
顔を出したのは、ハリーとロンだ。透明マントから身を出しながら、目を丸くしている。
「マーリンの髭――きみ、どうやって寮を抜け出したの?」
ほんとうに、ロンはカナがファングの餌やりに来るとは思っていなかったらしい。
「きみたちがファングの世話をぼくに任せたんでしょう」
「そうだけど――」
カナが「目眩まし術」を扱えるほどに呪文が上達していることを、誰かに悟られるのは賢明だとは思えなかった。何にもできない、手のかかるカナ・エリオットだと思われていたほうが得策だ。
「とにかく、きみがいるならファングの扱いは任せたよ。行こう」
「ちょっと待って、どこに――」
「蜘蛛を追いに――『禁じられた森』だよ」
ハリーの揺らぎのない緑色の瞳が、無言でカナを説き伏せているようだった。カナはヨロヨロと椅子に腰を落とした。
「ねえ――行ったらダメだよ、あそこは――」
「カナ」ハリーがたしかな口調でさえぎった。「わかってるよ。でも、僕たちは行かなくちゃ」
ロンはすこし行きたくなさそうにしていたが、ハリーの目はたしかなものだった。
「だったら、絶対に帰ってきて」
ロンもハリーも頷いた。目もとは濡れなかったけれど、カナのその声はすっかり涙声だった。自分でもどうしてこんなに泣きそうなのかはわからなかった。
「・・・・・・そうだね。カナは去年あんなことがあったんだ」ハリーが慰めるように言った。「もしも僕たちが朝まで帰らなかったら、先生に説明して」
ふたりは目を合わせて、「もう行かないと」と、ファングを連れて出て行ってしまった。テーブルの上に透明マントと、カナだけが残された。
カナは一人になってようやく、自分の体がかすかに震えていることに気がついた。
ゴーストや見回りの先生たちに見つからないよう息を殺してグリフィンドール塔へ帰り、「ミミダレミツスイ」の合言葉で「太った婦人」の肖像画を押しのける。婦人は休んでいたところを邪魔されたのでひどく迷惑そうにしていたけれど、そのぼやきはカナにはあまり聞こえていなかった。
カナが談話室で「目眩まし術」を解除して息を吐いたときだ。パッと視界が白く光り、カナは短い悲鳴をあげた。両腕のぜんぶで顔を隠した――また、また魔法が飛んできたのかと思った。でも、カナの身には何も起こっていない。耳もとでなにかうるさく鳴っていると思った――カナの心臓の音だ。おそるおそる、腕をおろした。そうしてカナの目に見えたのは、目の前に立っていたのはジョージだった。手には杖を持っていて、それがやわらかな灯りを灯している。
カナが言葉を失っていると、ジョージはじれったそうに口を開いた。
「なに、たまたま肖像画が動くのが見えたからさ。トイレに行こうとしてたんだ。実は今まで起きてて・・・・・・」ジョージはカナの様子をうかがいながら、気まずそうに頬を掻いた。「べつに、ガミガミ言おうってんじゃないさ。パーシーじゃあるまいし。な、お前さんも早くベッドに入って寝るんだぞ」
ぽん、とカナの頭を一回叩くと、ジョージは男子寮のほうへと踵を返した。
カナは、まだ寝付けるような気分じゃなかった。一人がけのソファーに腰掛ける。ここはハーマイオニーのお気に入りの席だ。暖炉のすこしはずれにあって、小さなテーブルがそばにある。ここに本をいくつも積み上げて読書している姿を、よく見かけてた。
まばたきすると涙があふれそうになった。それを袖でぬぐう。友だちがいなくなったら嫌だ。友だちがひどい目にあうのも嫌だ。カナは、もう誰も傷つく必要がありませんようにと、形なく祈った。
20240530