腫れた目をこさえた翌朝。カナはロンとハリーの姿が朝食の席で見えたので、ほっと胸を撫で下ろした。二人とも、ファングも、生きて帰ってくることができたんだ――カナは人知れず安堵した。ただ、あの森の中で何があったのかを知りたくはなかった。
 そして、ジニーがこっそり話しかけてくる。
「完成したわ」
 冴えない声だったけれど、カナは笑顔を浮かべるほど喜んだ。ダンブルドアへと送る手紙が完成したのだ。
「それじゃあ、これをフクロウに持たせよう。ぼくからマクゴナガル先生へ話してみる。それか、無理だったら夜中にこっそりフクロウ小屋に行くことになるけれど・・・・・・」
「カナに任せるわ」ジニーは弱々しくほほえんだ。カナは預かった封筒を、しっかりとローブのポケットに仕舞った。

 その日の「変身術」の授業で、みんなが耳を疑うような知らせを受けた。
「ええ。もう一度申し上げますが、一週間後、六月一日から期末試験が始まります」
 カナは目をしばたたかせてキョトンとした。ラベンダーも口をあんぐり開けていたし、シェーマスは「こんなときにまだ試験があるんですか!」と叫んだ。一番後ろの席で、変身術の授業で起こるはずのない大きな爆発音がした。ネビルが自分の杖を取り落として、机の足を一本消してしまったのだ。
 マクゴナガル先生は杖のひと振りでそれを元通りにし、大きな声を出したシェーマスに向き直って、しかめ面をした。
「こんなときでさえ学校を閉鎖しないのは、みなさんが教育を受けるためです」厳しい声が響いた。「ですから、試験はいつものように行います。みなさん、しっかり復習なさっていることと思いますが」
 ホグワーツじゅうがこんな状態だというのに、しっかり復習・・・・・・できている生徒が何人いるだろう。それこそハーマイオニーなんかは当然、試験を楽しみにしただろうし、パーシーでさえガールフレンドが被害に遭ってあんなに意気消沈しているのだ。もともと彼ら彼女らほど勉強が好きじゃない生徒はもっと集中できていないだろう。
 教室じゅうが不満たらたらでもんくを言うなか、マクゴナガル先生はさらに声を尖らせた。
「ダンブルドア校長のお言付けです。学校はできるだけ通常通りにやっていきます。つまり、わたくしが指摘するまでもありませんが、この一年間にみなさんがどれだけ学んだかを確かめるということです」
 正直、カナは今年の授業の内容をうまく思い出せそうになかった。ガートとの特訓のおかげで、呪文術と変身術については上達したけれど、授業についてはちっとも集中できていなかった。
 カナは二匹のふわふわの灰色ウサギをスリッパに変えながら、ぼんやりとマクゴナガル先生を見上げた。
「マクゴナガル先生」席の近くを先生が通りがかったとき、カナは声をかけた。「手紙を出したいのですが・・・・・・」
 マクゴナガル先生は授業とは関係のないことを言い出したカナに小言をこぼしたそうにしていたけれど、授業のあとは引率のために時間がとれないのだ。先生は「手紙を」と短くカナに言い渡したため、カナは封筒を差し出した。
「ダンブルドア先生へですか?」宛先を見て先生は驚いていた。
「あの、はい。送れますか?」先生はしばらく考えたのち、「いいでしょう。わたくしからフクロウを飛ばしておきます」と言ってくれた。
 これでカナとジニーの計画はひと段落だ。あとはダンブルドアからのアクションを待っていればいい。カナはジニーにこのことをはやく知らせたくてうずうずした。

 手紙はマクゴナガル先生が出してくれると伝えると、ジニーも安堵したように肩を撫で下ろした。ようやく、ジニーの緊張がわずかにほぐれたような気がして、カナはうれしかった。
 しかし、音沙汰がなく数日が過ぎた。試験開始の三日前のことだ。マクゴナガル先生が、朝食の席でまた発表があると宣言した。
「よい知らせです」
 とたん、静かになるどころか、大広間じゅう、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「ダンブルドアが戻ってくるんだ!」何人かが歓声を上げた。
「スリザリンの継承者を捕まえたんですね!」レイヴンクローの女子生徒が甲高く言った。
「クィディッチの試合が再開されるんだ!」オリバー・ウッドが興奮して、雄叫びをあげた。
 カナも、ダンブルドアが手紙を読んでくれて、リドルを捕らえてくれたと思った――それが、思いつく中でいちばんのうれしいニュースだった。
 みんながひとしきり騒いで、やっと静かになってきたとき、やっと先生が発表した。
「スプラウト先生のお話では、とうとうマンドレイクが収穫できるとのことです。今夜、石にされた人たちを蘇生させることができるでしょう。言うまでもありませんが、そのうちの誰かが、誰に、または何に襲われたのかを話してくれるかもしれません。わたしは、この恐ろしい一年が、犯人逮捕で終わりを迎えることができるのではないかと、期待しています」
 爆発のような歓声が上がった。みんなお互い、ここ最近は見ることのなかった嬉しさでいっぱいの表情をしていた。カナも安堵の表情で、隣の席のラベンダーとパーバティとともに、ようやくハーマイオニーがもとに戻ってくれることを喜んだ。

 その日の午前中の授業が半分終わり、カナたちグリフィンドール生は次の「魔法史」の教室まで引率を受けていた。引率教員はギルデロイ・ロックハートだ。彼はこれまでの襲撃事件で何度も「危険は去った」と宣言し、それが間違いだと証明され続けてきたにもかかわらず、相変わらずの自信満々っぷりだった。生徒の安全のための引率も見回りも、まったくの無駄だと思ってるらしい。昨夜は五階の見回りを任されていたらしく、一晩中起きていたのだと言う。見てみれば、髪はいつものような天使の輪っかが見当たらないし、肌もかすかに乾燥しているようだった。
「ワタクシの言うことをよく聞いておきなさい」生徒を振り返りもせずロックハートが言った。「哀れにも石にされた人たちは、目覚めて最初に『ハグリッドだった』と口にするでしょう。まったく、マクゴナガル先生が、まだこんな警戒措置が必要だと考えていらっしゃるのには驚きますね」
 そこで、すかさずハリーが朗らかに言った。
「その通りです、先生」
 みんな驚いて、口をあんぐり開けた。ロンなんか、七冊もの教科書をドサドサと落としてしまった。
「どうも、ハリー」ロックハートが優雅に体をくねらせて言った。「つまり、ワタクシたち教師というものは、いろいろやらなければならないことがありましてね。生徒を次の授業へ送り届けたり、一晩中見張りに立ったりしなくともすでに手一杯ですよ」
「その通りです」ロンまでもがロックハートを調子に乗せた。「先生、引率はここまでにしてはいかがですか。あと一つだけ廊下を渡ればいいんですから」
「実は、ウィーズリー君。ワタクシもそうしようかと思っていたのです。戻って次の授業の準備をしないといけないのでね」
 そして、ロックハートは足早に行ってしまった。
 みんなあきれて、ビンズ先生の待つ――佇む、「魔法史」の教室へと向かった。なにかたくらんでいる風のロンとハリーはいちばん最後尾だ。ハーマイオニーがこの場にいたらなんて言っただろう。カナは思いやられるとともに、あえて放っておいた。
 中庭を通る渡り廊下を過ぎ、「魔法史」の教室の目の前に来たときだ。カナを呼び止める声があった。
「・・・・・・カナ・・・・・・こっちへ・・・・・・」
 聞き覚えのある声だ。カナは誘われるように、グリフィンドールの一団から外れ、植え込みの向こう側へと入っていった。
「ジニー! どうしてこんなところに? 引率の先生は?」
 カナは人のことをとやかく言えた立場ではないけれど、とにかくジニーがたったひとりこの場所にいるのは異質だった。それに、どこかぼうっとしていて、様子がおかしい。
「ジニー?」
「カナ。こっちへ来て」
 ジニーはカナの手を強く引っ張った。はずみで、抱えていた教科書――ロックハートのたくさんありすぎる著書――がばらばらと植え込みの脇に落ちたけれど、ジニーはそんなのも気にならない様子でぐいぐいとカナのことを引き連れて行こうとする。
「い、痛いよ、ジニー! どうしちゃったの・・・・・・」
 カナの背筋にぞっと冷たいものが走る。もしや、これはジニーじゃなくて、リドルなのではないか――そう思うと、カナはあまり強く抵抗も出来なくなってしまった。ジニーが傷つく可能性があるからだ。それに、リドルがカナを捉えたということは、つまり、手に入れる準備・・・・・・・がすでに済んでいるということなのではないか――
 不思議と、ジニーとカナがどんどん城内を進んでも、誰もなにも咎めたりはしなかった。おそらく、リドルがなにかまやかしを施しているんだろう。



 たどり着いたのは教科棟の三階――「嘆きのマートル」のトイレの目の前だった。
「ねえ、この手を離してよ。逃げたりしないから・・・・・・」カナの右手首は鬱血するほどきつく握られていたため、すっかり無抵抗になってそう言った。
「お断りだね」ジニーの声で、冷ややかにそう返ってきた。
「リドルなんでしょう」
 カナが言うと、「久しぶりだね」とリドルは愉快そうにした。
「僕の名前まで知ってくれているだなんてね。種明かしをする楽しみがなくなってしまったじゃないか」
「ふざけたことを言わないでよ」カナは強気に言い返した。
 これからどうするつもりなのか、不安がないわけではなかった――ただ、カナはどうやってジニーの安全が確保できるのか、そればかり考えていた。
「なにか企んでるね?」ジニーのかわいらしい相貌が粘着質にゆがんだ。美しくも不気味な笑顔がカナの心臓を鷲掴みにしたような心地だった。
 リドルはジニーの杖をふるい、以前壁に書かれたメッセージのその下に、新たな文字を刻んだ。

 彼女達の白骨は永遠に「秘密の部屋」に横たわるであろう

「さあ、カナ。日記を」
 カナは一瞬気を取られた。嗚呼、そうか。
「きみは日記そのもの・・・・なんだ」
「ぐずぐずしていていいのかな?」
 リドルは杖を手に、カナを挑発した。これ以上抵抗することなく、カナは鞄の中から黒革の日記帳を取り出し、リドルへと差し出した。
 リドルは女子トイレの中へとカナを連れていった。そして手洗い台にまっすぐ近づいていく。
「マートル」小さな声でカナは個室の方を呼んだ。すかさずリドルが鼻で笑う。
「ああ。あの時の女子生徒か」しかし、マートルの返事は返ってこない。シーンと静まり返って、カナとリドルの足音が反響するだけだ。
「感謝するよ。僕がこうしていまここにいられるのは、君のおかげだからね」
「ウウウゥゥゥゥ・・・・・・」と低いうめき声が聞こえてくるだけで、マートルは姿を見せなかった。あのかんしゃく玉のマートルが、泣きすさぶだけだなんて。
「リドル、きみはマートルに何をしたの」
「ふん、知りたいかい?」挑発的な笑みだ。カナは背筋がぞくっと震えた。
 リドルはマートルを無視して、手洗い台の一角を深く覗き込んだ。
「ほら。『秘密の部屋』への入り口だ」
 カナも覗き込んだ。なんの変哲もない銅製の蛇口だ――その脇のところに、巧妙に蛇の彫り物がされている。
開け
 リドルが舌を奇妙に震わせてそう言うと、彫られた蛇が動き出した。クルクルとのたうち回り、手洗い台の底のほうへと消えると、今度は手洗い台ごと沈み始めた。
 すべてが沈みきってしまうと、そこには巨大なパイプが剥き出しで鎮座していた。大人も余裕で通れるほどの大きさだ。カナが息を呑む。底を覗こうとすると、頭がくらくらしそうだ。
「さあ、降りるんだ」
 リドルはカナを引っ張った。ふたりは並んでパイプに足を入れ、そして、滑り落ちていった。
 そこは冷たく、ぬかるんだ、果てのない奈落のようだった。ところどころでいくつもパイプは枝分かれしていたけれど、カナたちが滑り落ちるものが一番太く、ずっと下までまっすぐ続いているようだった。きっと、ホグワーツの地下牢よりもずっとずっと下まで落ちていっているに違いない。
 曲がりくねりながらパイプは下へ下へと続いていた。やがて徐々にカーブが緩やかになり、平らな地面にカナたちは躍り出た。そこはひどく濡れた暗いトンネルで、カナのローブも髪もすっかり湿っていた。
「寒いよ」カナがぼやいた声が、何重にも反響して聞こえた。
 リドルはカナを無視して、ふたたび手首を引っ張った。ふたりが歩くたびに、足元でピシャピシャと水が跳ねる。ブーツの中もすぐさまぐしゃぐしゃになった。
「明かりをつけてもいい?」
「好きにしなよ」
 言われたとおり、カナはローブのポケットからなんとか杖を取り出して、「ルーモス」で杖先に光を灯した。
 すると、目の前――足元一面、あちこちに小動物の骨が転がっていた。カナはそれを踏んだり、蹴ったりしながらも、気にしないようにして連れて行かれるまま進んだ。

「バジリスクを知っているかい?」
 しばらく歩いたのち、リドルが言った。カナは「知らない」とだけ答えた。
「見てごらん」
 二人の目の前に、大木のように巨大な蛇の抜け殻がとぐろを巻いて横たわっていた。抜け殻だというのに、毒々しい、鮮やかな緑色をしているのが暗がりでもわかるほどだ――これが「秘密の部屋の怪物」の正体なのだろう。
「本物はもっと美しいよ」
 もっと奥へ、奥へと歩く。ブーツがぐしょ濡れで重たく、引っ張られる手首も痛む。カナが疲れてきた頃、目の前に石の壁が見えてきた。
 そこには彫刻の施された荘厳な扉があった。二匹の蛇が絡み合い、その瞳には大粒のエメラルドが嵌め込まれていた。
「君も試してみればいい」
 カナはされるがまま、扉の目の前へと差し出された。生き物でもなんでもないはずなのに、宝石の瞳がカナを見つめているような気さえしてくる。
――開け
 カナが発したのは、低く、蛇が舌を巻くようなかすかな音だけだった。ああ、やっぱりカナはまさしく、パーセルマウスだったんだ。
 絡み合っていた蛇の彫刻が左右に分かれ、石が擦れ合う音とは対照的に、扉は滑るように開いた。

 中は薄明かりの灯る、水路を拡張したような部屋だった――ここが「秘密の部屋」なのだろうか。あちこちの柱にも、扉と同じく、今にも動き出しそうな石の蛇が絡みついていた。天井は闇に吸い込まれるほど高く、柱が上へ上へと伸びていた。
 柱の間を、リドルは進む。いくつもいくつも柱を通り過ぎたとき、目の前に巨大な石像がそびえ立っているのが見えた。薄緑の闇に包まれて、足元しか見えなかったけれど、近づくにつれて徐々にその相貌が現れる。
 年老いた男性だ。それも、細い顎髭をローブの裾まで伸ばした、顔じゅうに深く皺が刻まれた男性の石像だ。
「偉大なるサラザール・スリザリン」
 リドルは石像の真下までカナを連れていった。そして、足元まできたとき、リドル――ジニーが膝から崩れ落ち、床に倒れた。
「ジニー!」
 カナは自由になった手がしびれるのもかまわず、ジニーを抱き起こした。ぐったりしていて、支えられなくて膝の上に乗せた。頭が力なくだらりと垂れた。その顔は紙のように青白い。目はかたく閉じられていて、呼吸も浅い――カナは心臓が止まりそうな心地になった。
「ジニー、嫌・・・・・・死なないで」
「その子はもう目を覚まさない」
 男の声だ。カナは勢いよく後ろを振り返った。ローブを着た、カナよりも年上の、学生風の男がそこにいた。
「トム・リドル?」
「そのとおりだ」
 リドルは澱みなくカナたちに向かって歩み寄る。その顔はゆるく微笑みをたたえている。
「ジニーに何をしたの」
 カナは泣きそうになるのをぐっとこらえ、リドルの黒い瞳をにらみつけた。
「僕が仕掛けたんじゃない。彼女が心を開いたんだ」
 リドルはカナのすぐそばまでやってきた。カナはか弱く呼吸をするだけのジニーを守るように抱きかかえた。そして、大きく息を吸い込んで、立ち向かう。
「きみの正体はあの日記帳そのものだ。ジニーがあれに書き込んで、きみはジニーを利用することができた」
「気づくのが遅かったね」リドルは鼻先どうしがくっつくほどカナの顔を覗き込んだ。「こうなった原因は、この子が僕に洗いざらい心の奥の秘密を打ち明けたからさ。どこの誰かもわからない、姿の見えない、得体の知れない魔法の日記帳へ、ね」
 リドルはカナたちの周りを歩き回る。カナは、その手に杖をきちんと握っていることだけを確かめた。
「だから、燃やしたって、破ろうとしたって、傷ひとつつかなかったんだ」
「そんなものじゃ無理だ」
 クスクスとリドルは笑いをこぼす。
「自身の魂を代価に日記帳に細工をしたんだ。つまり、生きているも同然だ。誰か、かわいそうなジニーに教えてやらなかったのかな? 秘密も、恐れも、他人に心をさらすことは魂を注ぐことと同じことだってね――そうして、赤子同然の、ただの記憶でしかなかった僕は力を得た。いつしか、ジニーのほうへ僕の魂を注ぎ込むことができるようにまでなった」
「そうしてジニーを操って、猫やマグル生まれを襲わせたんだ」
 リドルはカナの背後、その頭上からささやいた。
「退屈だったけどね、簡単だったよ。馬鹿な娘だ。聞いてやれば、僕になんでも話したさ。この子の友達を心配しているふりをしてね――そしたら、君だ」
 リドルは息が掛かるほどの距離で、カナの耳もとにささやいた。
「『死の呪文』を浴びて、死ななかったんだって?」
 カナは黙りこくった。
「ふぅん――どんな秘密を隠しているんだい? ハハ――面白くてたまらないよ」
 リドルは再びカナの正面へと回ってきた。
「カナ・エリオット。君が蛇語を話せると聞いて、すぐにわかったよ。嗚呼、僕らは運命共同体だ。君が欲しい。つまり――僕の伴侶として」
「はあ?」
「僕は本気だ――」リドルの血の気のない頬は、今や興奮して紅潮していた。「エリオットと聞いて――すぐに気がついたよ――よくあるファミリーネームだがね――君、ジョゼット・エリオットの血を引いているね?」
「誰だって?」カナはひどく困惑していた。リドルは「僕は間違っていなかったんだ!」と目を爛々と開いて、話し続けている。
「あの女に目をつけていたのは間違いなかった。マグル生まれだと言っていたが、それは嘘だ。現に彼女はスリザリンを卒業していったし・・・・・・おそらくは僕と同じ孤児・・・・・・そして・・・・・・ゴーント家の血を引いているはずだ」
 カナの頭がひどく痺れてくる――リドルの語りは止まらない。
「純粋なサラザール・スリザリンの血族だ! 君もそうなんだろう? 君は純血か? それとも混血か?」
「それがなんなの、なんの意味があるの――」
「君は僕よりも崇高な存在かもしれない」
 カナはめまいがしていた。まっすぐ立っているはずのリドルが揺らぐ。
「知らないよ、ぼくは――そんなの興味ない」腕の中にいるジニーの手をぎゅっと握りしめた。「それに、きみみたいな偉ぶってる人は、大嫌い」
 リドルはカナの反応を意外じゃなさそうに、悠々と笑っている。その瞳に怪しげな赤い光がちらついているのが見えた。
「世界一偉大な魔法使いの眷属となるんだ」リドルはカナの頬を片手でわし掴んで、無理やり目を合わせた。「いずれ魔法界を支配する、ヴォルデモート卿のね」
 カナは目を見開いて、絶句した――どうして、ヴォルデモートの名前が? 彼が、リドルと関係が?
 困惑しているカナがおかしくてたまらないといったふうに、リドルはくつくつと笑う。カナの左手から杖をとりあげて、カナにわかるように空中に文字を書いた。

 TOM MARVOLO RIDDLEトム・マールヴォロ・リドル

 I AM LORD VOLDEMORT私はヴォルデモート卿だ

 リドルが杖をふるうと、文字が入れ替わる。
「これでわかったかな? 僕はヴォルデモート卿の十六歳の記憶。そして、ヴォルデモート卿は『スリザリンの継承者』その人なんだ」
 カナは、あまりにも眩いものを見た時みたいに、目の前がくらくらと瞬いた。もう一度、よおく目を凝らすと、気絶してしまいそうな事実に気がついてしまった。
 リドルの髪は真っ黒だった。その肌は青白い。瞳は黒いけれど――カナだって、ぼくだって。髪は黒い。肌は白い。
 気がついてしまうと、カナはおかしくて、おもしろくもないのにお腹がくつくつと揺れた。リドルもさすがに、突然笑い出したカナを訝しんだ。
「あはは――リドル、きみって、もしかしたらものすごく間違ったことをしているかも」
 カナはジニーをそっと横たえて、ぐしょぐしょのブーツを鳴らしながら立ち上がった。リドルのことはずいぶん見上げなければいけなかったけれど、カナは毅然とその黒い目を見つめ続けた。
「ぼくの秘密を教えてあげるよ――」カナは息を吐いた。「ぼくの父親は正体不明なんだ。そして、その候補の一人が、ヴォルデモートだ」
 リドルは面食らったように目を瞬かせたけれど、それも一瞬だった。高らかに笑い声を上げ、額を手でおさえ、それがいつまでも尾を引いた。誰もいない、何もない地下室にその声だけが奇妙に響いて、カナの頬をびりびりと揺らした。
「ハハ――ああ、そうかい。そういうことなら最早構わないさ」リドルはようやくため息をつき、顔を覆った手の隙間からカナを睨め付けた。「ジニーの魂を完全に手に入れ、もう一つの目的・・・・・・・を果たしたら、僕は君を連れてホグワーツを離れる。そうして、今現在の僕自身・・・のもとへ帰るんだ」
「もう一つの目的?」
「ハリー・ポッターを打ち砕くことだ」
 リドルがカナに向かって杖を振り上げた。鋭い閃光がカナの心臓のあたりに突き刺さった――が、それと同時にはじけて消えてしまった。衝撃もまったく無い。水のつぶてが、ぶつかったとたん霧になったようだった。
「・・・・・・へえ。ずいぶん高等な保護魔術だ」
 カナは頭を振って、まっすぐにリドルを見据えた。
「きみがどんなに優れた魔法使いだろうと、ハリーは倒せないよ」カナがたしかに言うと、リドルはおもしろくなさそうに杖をもてあそんだ。「ヴォルデモートは――未来のきみはハリーに敗れてる」
「もちろん、そんなことは事実で、前提だ」
「でも、一度じゃない」今度こそ、リドルのうすら笑いが消えた。対照的に、カナは強気に口角を上げた。「去年、きみはハリーにもう一度敗れた。『二度産む小鬼ゴブリン、三度産む』って言うでしょう」
インカーセラス縛り上げろ」リドルは再びすばやく杖をふるった。
 勢いよく飛んできた縄を、カナは避けることはできなかった。そのままカナは引きずられ、石像の足に勢いよくぶつかった。受け身が取れず、全身を強く打ちつけた。腕ごと胴体を縛り付ける縄はきつく巻きついているようで、びくともしない。これでは起き上がることも一苦労だ。
「『三度目にしてスニッチング』とも言うだろう?」
 リドルが歩み寄り、横倒れになったカナの口を釦で閉じるかのように粘着呪文でくっつけてしまった。「君は見届けるんだ。ヴォルデモート卿が宿敵を討ち負かし、復活を遂げる瞬間をね」
 カナがどうにか身を起こそうとしたとき、激しい痛みが走り、動くことができなかった――瞬きをする間に、額に脂汗が浮かぶ。太ももか、腰の骨が折れているに違いない。
 そのときだ。石を重く引きずるような――部屋の入り口が再び開いた音がした。
「さあ、ヒーローのお出ましだ」
 リドルが細く上擦った声で言う。カナの杖を自身のポケットに仕舞い込み、悠々と柱の影の暗闇に身を溶かした。
ジニー! カナ!
 ふたりが倒れているのを見ると、ハリーがあわてて駆け寄ってきた。カナはぐったりと倒れたまま、「来ないで。はやく戻って」と口を開くこともできないまま、首を左右に振ってハリーを見つめた。ハリーはカナの異変に気がつきながらも、杖を放り捨ててまでジニーを抱きかかえようとした。そうしてカナと同じく、ジニーが瀕死の状態だと悟る。
「カナ。はやくここを離れよう。いま開放してあげるから・・・・・・」ハリーは背後に放ったはずの杖を手探りで掴もうとして、そこにないことに気がついた。振り向くと、リドルがそこに立っていた。ハリーの杖をくるくると回してもてあそんでいる。
「きみは、トム――トム・リドル」
「ああ。久しぶりだね。君に会いたかったよ、ハリー・ポッター――」
 カナはどうにかハリーのそばに近づこうと、うめき、激しい痛みに耐えながら身を捩った。動くたび、体のふしぶしで爆発が起きているようで、気を失いそうだった。
 カナはずいぶん移動しただろうと思った――実際は数センチほど進み出ただけだ。そのとき、リドルがカナの目の前の石の床に火花を飛ばしてカナを牽制した。
「いま、僕とハリーが話をしているんだ。大人しくしておいてくれないかな」
 ついにハリーがリドルに憤る。カナは痛みで頭が朦朧として、その会話も耳に入っては来なかった。ぼうっと地下室の床を見つめ、浅く何度も熱い息を吐き、心臓が胸を打つ速さすらわからなくなってきた。喧騒が、ものすごく遠くにあるようだった。カナは目を閉じた。こんなところでするはずのない奇妙な旋律すら聞こえてくる。痛みで頭がおかしくなってしまったんだろうか――カナは沈みかけた意識をふっと浮き上がらせた。気を失ってはいけない。ハリーが立ち向かってる。ジニーもリドルに命を奪われまいと戦っているんだ――こんな程度で負けてはいけない。と、カナが目を開けた、その時だ。
 ドスン――と岩のように巨大な影がカナのすぐ目の前に落ちてきた。カナはあやうく踏んづけられてぺしゃんこになってしまうところだった。地響きがカナの痛みを誘い、うめき声が漏れる。
 それは、見上げなければならないほど巨大な、鮮緑色の鱗をもつ蛇――バジリスクだ。
「カナ! 目を閉じるんだ、バジリスクと視線を合わせないで!」
 巨体の向こうからハリーが叫ぶ声が、地下室に響く。カナはあわててぎゅっとまぶたをおしつけた。リドルがくつくつと笑い、シュウー――と独特の空気の抜ける音を発した。
あの少年を殺すんだ
 ずるっ――ずるっ――とバジリスクが丸太のような巨体を引きずる音がする。走り出す足音も聞こえた。リドルの笑い声――巨大な尾が打ちつけただろう、地響きも。このままでは、ハリーがバジリスクにやられてしまう!――カナは思いっきり息を吸い込み、目いっぱい大きな声を出した。
襲ってはダメ!
 とたん、ぴたりとバジリスクの動きが止まったようだった。カナはうっすらと目を開けた。すこし離れた柱のそばで、バジリスクがとぐろをまいて縮こまろうとしていた。
殺すんだ!」リドルがもう一度叫んだ。「チッ――小娘――何故――」カナの口を塞いでいた粘着呪文はいつのまにか薄まっていたんだろう。リドルがもう一度カナに向かって杖を振り上げた時だ。
 これまでとは違う様相で、蛇が暴れ始めた。薬缶から湯が噴き出るような激しい威嚇と、のたうち回ってあちこちに体をぶつける地響きが伝わってくる。
 杖を持たないハリーが、バジリスクを攻撃したのだろうか?――カナは目を細めて、物音の方へと目を走らせた。
 ハリーはぐねぐねと大きく身を捩らせる巨大な蛇の真下にいた。そのバジリスクの両の目からは、おびただしいほどの血が床に垂れ落ちていた。その上空には、金色の尾羽をひらめかせた真紅のまばゆい大きな鳥が、鋭い脚や金色の嘴でバジリスクを攻撃しているのが見えた。あれがバジリスクの目を潰したに違いない。カナはそれが何かすぐにわかった――ダンブルドアの不死鳥、フォークスだ。
鳥にかまうな!」リドルもバジリスクの様子に気をとられたようだ。「においでわかるだろう! 子どものほうを殺せ!
 バジリスクは混乱したように、ふらふらと鎌首を振り回していた。その頭の上でフォークスが不思議な旋律を歌いながら旋回し、蛇の鼻面に攻撃を仕掛けて気を引いていた。カナが朦朧としながら聞いた旋律もフォークスだったんだ。
暴れないで! じっとして!
 カナもバジリスクに命令をくだす。混乱して時間が稼げるのならいい――しかし、リドルがそれを許さなかった。
「黙れ!」
 ひどい衝撃があって、カナは何フィートも向こうへ吹っ飛ばされた。痛いなんてものじゃない――カナの叫びが、暴れるバジリスクの騒音と一緒になって地下室に響く。足がおかしな方向に曲がっているような気もする。今度こそ、本当に動けなくなってしまったに違いない――
鳥に構うな! やつは後ろだ!
 リドルの興奮した指示が聞こえる。カナはハリーのいるほうを見た――いつのまにか、ハリーは銀色の大きな剣を手にしていた。
 バジリスクも毒々しくぬめぬめと光る長い牙を剥き出しにして、上から落ちてくるようにハリーに襲いかかった――間一髪でハリーはそれを避けた。蛇は壁に激しく身を打ちつけ、それでもなおハリーを襲う。裂けた舌先がハリーを探り、その脇腹をとらえた――もう逃げられなかった。バジリスクは今度こそハリーをとらえたと、まっすぐに食らいついた! ハリーは諸手で剣を構えて、思いっきり剣を突き刺した――
 ハリーの剣は、まさしくバジリスクの口蓋をつらぬき、脳に達しているだろう。バケツをひっくり返したような血が、ハリーをしとどに濡らした。ハリーがずるずると壁にもたれると同時に、バジリスクは横様に床に倒れ、痙攣をなんどかくりかえしたのち、動かなくなった。
 カナはハリーのもとへといますぐに駆け寄りたかった。でも熱い息を吐くことしかできなかった。ハリーの腕に、深々とバジリスクの牙が突き刺さっているのが見えた――ハリーも朦朧としているように見える。
 フォークスが、ハリーに寄り添うように舞い降りたのが見えた。
「これで、ハリー・ポッターはおしまいだ」
 リドルがそう、カナに向かってつぶやいて、ハリーのもとへと歩いていった。
 ああ――これで終わりにさせてたまるもんか。カナはきょろきょろと視線をめぐらせた。だけど、カナの杖もハリーの杖も、リドルが握っている。すこし身を捩っただけでも、全身にひどい痛みが響く。吐きそうになりながらカナは考えを巡らせた――その時だ。
 フォークスがカナの元へと舞い降りてきた。カナの額に頭を擦り付け、「クルル」と短く、鈴のように鳴いた。その燃えるような赤い瞳は、あの日、突如燃え上がったフォークスの最期の炎を思い起こさせるものだった。
 ――燃やすのも濡らすのも、意味ないのよ――
 ――傷ひとつつかないの――
 ――きみは日記そのもの・・・・なんだ――
 ――そんなもの・・・・・じゃ無理だ――
 あの日記帳だ。あれを始末するしかない。どうしてそのことに早く気が付かなかったんだろう。
 ハリーの剣はバジリスクに深々と突き刺さっている。なら、ハリーが握っている「蛇の王」バジリスクの牙――強力な魔法生物の一部なら?
 その時だ。カナを縛り付けていた縄が、萎れた蔓のように草臥れ、カナのしびれた腕の、簡単なちからでちぎれていく。カナは折れ曲がった足なんて無視して、痛みなんてないみたいに――実際、痛みは感じなかったのかもしれない――転びながら、もつれながら走った――ジニーのそばへ。そして、ジニーのローブのポケットから日記帳を取り出す。
 カナの動きに気がついたリドルが、カナめがけて杖を振り上げた――だけど、カナのほうが早かった。
「ハリー!」
 カナは「リドルの日記」を思いっきり投げた。不思議と、カナの投げた軌道は大きな弧を描き、ハリーのもとへとまっすぐに届いた。
 同時に、カナの頭に強い衝撃があった。リドルの攻撃がじかに当たったのだ。今までの攻撃とは全く違う――全身がガラスになって粉々に砕けるように、カナは崩れ落ちる。
 
 薄れゆく意識の端で、ひどい絶叫がカナの鼓膜を震わせたのがわかった。ただ、水の中にいるようにぼんやりしていて、それに、カナには悲鳴の主を、リドルとハリーの行く末を、ジニーの安否を見届けるような時間は残されていなかった。



20240604


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