カナはロンドンのど真ん中に立っていた。ほとんど下着みたいな格好で、いつもの古いシュミーズ姿で、真紅の蛇革のブーツは紐がゆがんでいて、それがカナだった。
 ぼくの妹カナは十三歳の無知な女の子だ。そして、あくまで普通の魔女のたまごだ。
 マグルの街は、カナには「禁じられた森」の中よりもうんと不透明に感じられた。星が遠いからではない。月が暗いからではない――気配がないからだ。魔法の。
 今夜眠るためのシーツも、屋根もない。木の上でねむってもよかったけれど――いや、やめた。虫除けの魔法を張ることはできないのだ。夏休みに杖を振るうのは校則で禁止されている。ホグワーツを追放されるのは、嫌だ。
 カナは歩いた。胸のあたりまで伸びた髪が鬱陶しかった。古くて大きなトランクと革の鞄が、小柄なカナには不釣り合いで、周囲の人々の目を引いた。
 それに、カナはお金も持っていなかった。宿を取ることもできない――カナは宿泊施設というものすら知らなかったけれど。カナはあまりにも無知だった。魔法界しか知らないというよりは、家の外のことをほとんど知らないのだった。マグルの世界のことなんて、なおさらだ。だって、まだホグワーツでは「マグル学」すら履修していない。

 街灯から街灯を伝うようにして歩いた。視線を横に流すと、れんがを組んだ建物と建物のすきまの暗闇が、カナを見つめているような気がしてしまう。それは自分の内にあるものだ――不安――寂しさ――虚しさ――後悔――などなど。カナは頭をかきむしりたくなった。
 疲れて、カナはトランクの上に座り込んだ。興奮が冷めると、肌寒くなってきた。マグルにじろじろ見られたって、ローブを着てくればよかった、とカナは思った。これじゃまるで――
「きみ、なんだ? お腹でも痛いのか?」
 突如、ぬらり、と影がカナを覆った。街灯が逆光になって、その人の顔がよく見えなかった。こんな光景を、むかしどこかで見たことがあるような――そうだ、去年の夏休み、フレッドがたしか――
「英語、わかんない?」
 カナは、あわてて返事した。
「ううん。なんて言えばいいか、考えてた」
「おかしな子だな」
 カナは立ち上がった。見上げるほど背が高い――リーマスもずいぶんと背が高いけれど、このくらいだっただろうか。しばらく会っていないから――これまた、顔にそばかすの散った、茶髪の男の子の――マグルだった。
「一人か? このへんの子か?」
「えーと、列車で・・・・・・家を飛び出してきたんだ」
「家出少女か」
 カナは嘘をつくのが下手だった。ドキドキする心臓をやり過ごしながら、思いつく限りマグルっぽいことを言ってみたけれど、彼はうまく納得してくれたみたいだ。カナは、これから自分が魔法省に突き出されるのではないかと、それだけを恐れていた。
「僕はウォーレンっていうんだ。きみの名前は?」
「カナだよ」
「ずいぶんアンティークなトランクだな。どのへんから出てきたんだ? ナイルズタウン側か?」
 言いながら、ウォーレンは突然カナの肩に触れた。カナはびっくりして身を小さくしたけれど、ウォーレンはそんなの気にしていないようだった。そして地べたに置いてあるトランクをトントン、と叩いた。彼からすると、カナはあまりに不用心に見えただろう。簡単に荷物に触らせて、盗まれるなんて微塵も考えていないのだから。実際、カナはマグルの少年をどうやり過ごそうかということばかり考えていた。
「えっと・・・・・・」カナがまごまごしていると、ウォーレンはプッと吹き出して笑った。
「悪い、悪い。言いたくないよな。きみってば、意地悪したくなるんだ。だけど、この辺は悪い大人もいるからさ。宿まで送るよ。どこか宛てはあるのかい?」
 カナはほっと息をついたのも束の間、これにもなんと返せばよいのかわからなかった。マグルのお金も持たない(しかも、シックル銀貨を数枚だけだ)し、カナみたいな「いかにも家出少女」風の子が夜に訪ねてきたら、マグルの魔法省的な機関に通報されてしまうだろう。
「もしかして、金がないのか?」
 ウォーレンがまたもやカナを見かねてくれる。カナはウンウンと頷くと、「なんだ、はやく言えよ」と笑った。
「きみ、僕の妹と歳が近い気がするよ。だから助けになりたくてね。十歳くらいだろ?」
「十三歳だよ」
 ウォーレンは目を見開いた。カナの見た目があまりにも幼く見えるので、驚いたんだろう。
「へえ? 十三歳」
 雰囲気が変わった。濡れた視線がカナのまるだしの膝からゆっくり、ゆっくり登っていって、薄着の下の肌をすべって、最後にはカナの淡色の目を貫いた。カナはなんとも言えない心地の悪さを感じた。こんなふうにじろじろ見られることが以前よりもぐっと増えた。家出をしてから余計にそう感じる。
 ウォーレンは気さくなひとで、やっぱり冗談めかした口ぶりがフレッドやジョージに似ている。笑った顔や白い頬に乗ったそばかすが彼らを思い起こさせるのもよくなかった。でもウィーズリーの兄弟たちと比べて、彼はずっとずっと意地悪で、どちらかといえば紳士的ではない、とカナは短い会話の中で思った。それに、笑っていても目の奥がずっとカナのことを探るように見つめていて、マグルと魔法使いの男の子ではずいぶん違うんだな――なんて思っていた。
 ウォーレンは「行く宛ができるまで僕の家に泊まると良い」なんて言うので、カナは、彼が親切なのだと思い込んでついていくことにした。そうじゃないと、彼に対する自分の中の違和感との、つりあいがとれなくなってくるからだ。
 たとえばカナが嫌がるとわかっていていきなり肩を撫でること。
 カナが拒まないとわかると腰を抱いてくること。
 たとえば宿を貸すといってカナをアパートに連れ込んだこと。
 最初からそういうつもり・・・・・・・でカナの容姿を冷やかしたこと。
 カナは悪くないのに「絶対に誰にも言うなよ。特に大人には」と怖い顔をすること。
 彼は行く宛のないカナに無料で宿を貸してくれて、ただ、それだけの親切な人なんだ。打算とか下心とか男女とか――カナにはまだ考えたくないことばかりだ。



 カナはウォーレンの寝室で、ぺちゃんこのマットの上で、毎日眠るようになった――彼と一緒に。誰かと同じブランケットを共有するのは、カナにとってはひどく久しぶりのことに感じて、慣れるのには時間がかかりそうだった。
 彼が朝早くからパン屋へと働きに出るあいだだけ、トランクを広げて夏休みの宿題ができる。ウォーレンはカナが「学校」に通っていることなんて知らないだろう。ただ、路地に入り込んでいて陽の入らないこの部屋は、昼間でもひどく薄暗かった。油がもったいないからと、彼はランプの使用を許さなかった。だからカナは薄暗がりの中でレポートを書くはめになり――つまり、とてもやりにくいものだった。杖のひと振りで魔法が灯せたなら――と、カナはなんど考えたことだろう。
 コツ、と窓を叩く音がした。カナは振り返った。
 フクロウだ。巻き紙を口に咥えている。おそらくは――ウィーズリーの誰か、あるいは、リーマスだろうとカナは予想した。
 カナは窓を開け、フクロウをその場にとどまらせた。ずいぶんヨボヨボした老フクロウだ。エロールとは違うようだけど。
 手紙は、フレッドだった。

「カナ、みんな君を探してる。ジニーが心配してる。おふくろもだ。みんなだ。僕も。無事だといいけど。フクロウを飛ばしてくれ、頼む――フレッド」

 カナは、嫌われるつもりでその手紙の裏に書いて、フクロウに持たせた。

「心配しないで。きみよりも居心地のよい人を見つけました。ホグワーツには行くつもりです。それじゃあ」

 窓を閉める手は冷え切っていた。手紙がフレッドで良かった、とカナは思った。もしもこれがリーマスだったりしたら――リーマスにまで話が飛び火していたとしたら、カナはフクロウを返すことができなかっただろう。







 カナは夏のあいだ、昨年同様、ウィーズリー家の住む「隠れ穴」に預けられることになっていた。
 仲の良いジニーと過ごせてうれしかった。カナが昨年頭を悩ませた課題を、ジニーはその何倍ものスピードで片付けていった。ジニーはカナよりもずいぶんと成績優秀らしい。
「フレッドとジョージが望遠鏡を貸してくれないの。パーシーが、ペネロピーから新しいのをプレゼントでもらってたわ――そのお古をさっそく壊したみたいでね、しかもどっかに捨てたみたいなの――こうなったらママに言いつけてやるんだから!」と憤慨していた。
 そのことを双子に言うと、「そりゃ、むこうの丘で壊したのは僕さ――でも――いや、だったら僕がジニーとママに叱られてるあいだ、フレッドちゃんの相手をしておくれよ。こいつ、鬱陶しいったらありゃしない!」と今度はジョージが憤慨して言った――おそらく双子は喧嘩でもしたんだろう。いつものことだ。

 いとまを出されたフレッドははじめ不機嫌を隠さなかったけれど、カナにブラッジャーの打ち方を教えてくれた。マグルがスポーツで使う「ラグビーボール」をフレッドが投げて、重くてずっしりした棍棒クラブで打ち返すと、当たるけれどそのまま落ちる。あまりの重さに、腕がジーンとしびれる。「真ん中だ、ど真ん中」とフレッドがお手本を見せてくれる。カナが投げたボールは、フレッドが棍棒を振るうとパァン!と音を立て――破裂した。「本物のブラッジャーは鉄製なんだ。こんなふうになっちゃうからな」フレッドは破片を拾いながら肩をすくめた。
 ジョージはいつもいやがっていたけれど、フレッドはカナを部屋に入れてくれた。あちこちに装置や箱、お菓子の包み、黒くこげたごみの山、試作品であろうボックスがころがった、混沌とした部屋だった。片隅に教科書やローブが山積みになっているのが見えた。火薬のこげた、鉄のにおいが充満していた。足の踏み場はフレッドが教えてくれて、なんとか座れる、ベッドの上まで案内してくれた。
 そこで、カナはフレッドの実験に付き合った。しかしカナにはいたずら魔法がまったく効かないので――フレッドは早々に試作品で遊ぶのに飽きてしまった。
「きみたちの家族の話が聞きたいな」
 カナがねだると、フレッドはぶあつい年季ものの写真アルバムを引っ張り出してきた。アルバムにはアーサーおじさんが子供の頃からの写真が残っている。見覚えのあるグリフィンドールの談話室で、ローブと三角帽子を身につけたおじさんと、モリーおばさんのツーショットだ。
「卒業してすぐ結婚したらしいぞ。超――ラブラブだったんだと」
 やがて二人の子供の写真がたくさん挟まったページにたどりついた。エジプトのグリンゴッツ魔法銀行で「呪い破り」をしているという長男のビル。ルーマニアでドラゴンの研究をしているチャーリー。そしてパーシー。フレッドとジョージが登場した。
「うわぁ、フレッドとジョージは本当にそっくりだね、かわいい」
 カナが言うと、フレッドは咳払いした。
「こんな小さくても、どっちがどっちかわかるか?」
 フレッドは自信ありげににやにやと笑っている。カナが初対面の頃から双子の見分けがついていたことを、二人はまだからかうのだ。
「きみがフレッドちゃんかな?」
 カナが指で赤毛をこちょこちょと擦ると、双子のどちらもが、プゥーと泡を吹いた。
「実は、家族の誰もわからないんだ! どっちの名前にも興味津々だったんだと。まったく、うまくできてるよな? だから赤ん坊の頃は、僕は本当はジョージのほうだったかもしれないし、フレッドのほうだったかもしれない」
 カナは鏡あわせみたいな赤ん坊を見比べながら笑った。
 ふと、彼には話しても良いかもしれないと思った。氷が太陽の下で溶けていくみたいに、砂山が風で飛ばされていくみたいに、それはゆるやかに、カナの心の奥底を晒していた。
「ぼくも双子だったんだ」
 写真の中のフレッドだかジョージだかが、吐いた泡を飲み込んでクシャミをした。
「お前さんが?」フレッドは目を瞬かせた。「双子だったって?」
「兄がいたよ。もう亡くなったんだ」
 顔を上げる。いつのまにかふたりは肩がくっつくくらい近くにいた。思っていたよりも近くて――フレッドの顔が近くて、カナは視線を落とし、ぎこちなく湿った手を握ることしかできなかった。
「小さい頃か?」フレッドは茶化したりはしなかった。
「ホグワーツに入学する直前だよ。七月に。突然だったんだ」
「そりゃ、知らなかったよ」フレッドはアルバムを閉じた。「相棒がいないなんて、想像できないな――兄さんの名前は?」
「シオン」名前を口にして、カナは、寂しくて懐かしい気持ちになった。
「綺麗な名前だ」フレッドが静かに言ったので、カナはくすくすと笑った。
「シオンのこと、友だちに話したの、初めて」
 手が、カナのこぶしを包んだ。フレッドだ。カナがその手を見て――それから亜麻色の瞳を見た。フレッドもカナを見ていた。
「友だちだと思うか?」
 それは――どういう意味だろう。
 カナは耳にドクドクと流れてくる心臓の鼓動が、フレッドに聞こえてしまうのではないかとひやひやした――フレッドの熱い手が、カナのこぶしを、やんわりと開いて――下から包むように触れた。
「なあ」フレッドは額をカナにくっつけた。「キスってしたことあるか?」
 バン! と音をたてて、思い切りドアが開いた。カナとフレッドは間一髪、距離を取った――ものすごく、あからさまに。
「ママには言わないでおいてやるから、カナ、静かに外に出た方がいい。フレッドちゃんは五分後、庭掃除中のロニー坊やを手伝いにいくこと。じゃないとママがこの部屋に突撃するぞ」ジョージはすべてわかってるかのように、呆れて二人に言い渡した。

 その日の夜のことだ。ウィーズリー家は大騒ぎとなった。アーサーおじさんが先月応募したという「日刊予言者新聞」のガリオンくじの欄を、みんなでリビングに集まって、固唾を飲んで見守っていた。
「六・・・・・・八・・・・・・」ルーレットがグルグル回る演出がもどかしい。玉がピタリと止まるたび、「隠れ穴」のみんなは大きく息を吸って感嘆の声を上げた。後半になって数字が詰まっていくたびに、歓声が大きく、そわそわ、興奮したものになっていく。
「まだだ、まだ喜ぶんじゃない――」アーサーおじさんは自分に言い聞かせるように言った。何度も誌面と手元の半券を見比べていた。カナはみんなに見えない後ろで、手汗のにじんだ手でフレッドのシャツの裾をギュッと握る。
「六八七〇九・・・・・・三・・・・・・三・・・・・・四・・・・・・、六」みんな、頭がぶつかりあうぐらい誌面を覗き込んだ。
一だ!
 ロンが叫んで、みんなは飛び上がって、抱き合って喜んだ。
「七百ガリオンだぞ!」
 カナとフレッドは向き合って、思いっきり抱きつこうとして――お互い気まずくなって、ぎこちなく微笑み合った。
 天から降ってきた大金を受け取るのに、ウィーズリー家よりもふさわしい人たちはいないだろう。この家は兄弟が多いおかげでびんぼうで、でもみんなとびきり優しくて勇敢な人たちばかりなのだ。
「マーリンの歯――マーリンの脛――いったい何を買えば使い切れるっていうんだろう――」ロンが夢みがちに言った。モリーおばさんとアーサーおじさんが、ああでもないこうでもないと主張しあうのをよそに、ジニーがうららかに言った。
「ねえ、ビルに会いたいわ。これだけのお金があれば全員でエジプトまで行けるでしょ?」
 すぐさま、家族全員がそれに賛成した。ウィーズリー家のエジプト旅行の計画は花火が弾けるみたいな輝きをともなって、とんとん拍子で進んでいく。
 カナを取り残して。
「カナちゃん、あなたもぜひ来てちょうだい。うちの自慢の長男に会わせたいわ」
「素晴らしいわ!」
 ジニーは喜んでいたけれど、カナは困惑した。「みにくいあひるの子」に喜んで大金を使う親がどこにいるだろう? それに、外国へ旅行なんて――ダイアゴン横丁へすらカナは外出を禁止されているのに、おかあさんが許してはくれないはずだ。
「いいえ・・・・・・だったらぼく、家に戻ります」
 リビングがシーン――と静かになった。フレッドが「おい、カナ――」と詰め寄ろうとした。
「あの、ごめんなさい。大丈夫。おかあさんもそっちの方が納得するだろうし」
「そんなことを言わないで、よかったら来ておくれ」おじさんが微笑んで言った。優しくされるたび、カナはどんどん申し訳なくなる。「エリアには私から話せるように掛け合うよ。伝手がないわけじゃない。カナ、きみはもう半分うちの子みたいなものだ」
 カナはちらりとフレッドを見た。そしてぐるりとウィーズリー家の面々を見回す。みんな、カナがなんと言い出すのかを待っている。
「ぼく、でも――」
 うつむいていると、温かい手がカナの背中と肩に触れた。モリーおばさんだ。
「カナ。あなたを一人置いていくなんてことしませんよ。みんなあなたのことが大好きなんだから――」
 それは、もしもほんとうだったとしても、理解しがたかった。カナは、カナ自身が愛されるようなことをウィーズリー家にしたおぼえがない。モリーおばさんやアーサーおじさんがどんなによい人であろうと、おかあさんが昔どんなに大きな貸し・・をしていようと、そこまでしてカナの世話をうけおう必要もないはずだ。
「せっかくの家族団らんに、ぼくが混ざってたら、おかしいよ」
「出たよ、カナの石頭。頑固なんだから」ロンがつぶやくと、モリーおばさんが「ロン!」と激を飛ばす。
「とにかく、カナ。君が心配するようなことは起こらないよ。楽しいことだけ考えて荷造りをしておいておくれ」
 アーサーおじさんの説得に、カナはあいまいに頷いただけだった。

 予定では、夏休みが終わる一週間前にはイギリスに戻り、新学期の準備をするという。つまり、ちょうど一か月間の旅行が計画されていた。
 カナはそもそもそんなに荷物がないので、トランクにものを詰め込むのはあっという間に済んだ。おかあさんのお下がりのトランクは古ぼけていたけれど、簡単には壊れない。それに去年、アーサーおじさんに「検知不可能拡大呪文」を施してもらって、いくらでも教科書もローブも放り込めるようになっていた。
「僕さ、エジプトになんて行かなくたっていいや」
 出発を数日後に控えたある日の昼。カナとフレッドは二人がかりで鶏小屋の糞の山を掃き出して、水飲み場の苔を掃除して、新しい餌の袋を開けた。それらを終えて日陰で涼んでいたとき、フレッドがカナに言った。
「どういうこと?」カナが聞くと、フレッドははっきりしない口調だった。
「君が、旅行に行く気がないだろ? でも、そしたらカナは一人になっちまう。だから、僕がこの家に残れば、君は追い出されなくて済む」
「そんなの――」カナはフレッドが言っていることが信じられなくて、わずかに喉がふるえる。「ダメだよ。ちゃんと、きみたちは家族と一緒にいないと」
「家族なんて、いやになるくらい毎日会って喧嘩してる。君も知ってるだろ? それに、ビルにだって、いつでも会えるさ」
「そんなのわかんないよ」カナはぎゅっと膝を抱えた。「シオンは突然死んだんだ」
 気まずい沈黙が落ちた。ぼくのことを引き合いに出されると、フレッドは何も言えないようだった。
「会えるときに会っておいてよ。後悔したって、知らないから」
「でも、いまの僕は――」身を起こしたフレッドが、カナをまっすぐ見つめていた。「君を一人にするほうが、二度とビルに会えないよりも、ずっと後悔するって思うんだ」
 その言葉は嬉しかった。でも、それと同じくらい申し訳なく思う。カナはその辺の雑草をぷちぷちと抜いた。ふたりが黙って再び気まずい時間が流れた。
 フレッドがため息をつく。
「だいたい、なんでカナは旅行がいやなんだ? 」
 これを言葉にしていいものか、カナはすこし考えた。
「この家の人たちは優しすぎるよ。だって、ぼくは――」
 ヴォルデモートの娘かもしれないでしょう、とは、やっぱり口にすることができなかった。その時に思ったのだ。自分がこの家にいなければ、誰も悩まなくていいのに、と。



 ずし、とカナの腕に、骨張った腕が乗った――ウォーレンだ。カナはぼうっとしていたのを、現実に引き戻される。
 彼はまどろんだしぐさでカナの肩を抱き込んだ。猫でも撫でるようなその手つきが、カナのうぶげを逆立てた。でも、動くことはできなかった。
 そういうものだった。そういう、言葉のない合図のようだった。まるで、おかあさんがハグを求める時のような――思わず、カナは全身の力を抜いた。それはウォーレンのメッセージに応えるようで、カナは、カナは自分が自分じゃないようだった。
 骨張った手のひらがカナの胸のしこりを押しつぶすようにあわく触れた。カナは小さくふるえているだけで――その手をはたき落としたりはしなかった。
 男の吐息が首にかかる。カナはウォーレンの気配がぶわ、と、蓋をして閉じ込めていた煙みたいに、ひと息に広がるのを肌で感じた。
 ウォーレンが何を始めようとしているのか、カナにはわからなかった。
 不安になって、顔を見ようとカナは寝返りをうった。腕の中に抱き込まれる――カナは聞いた。「何をするつもりなの?」ウォーレンは噛みついてきた。
 否。
 キスだ。

 「男女のふれあい」だと彼は言った。正直、つまらないと思った。カナはうぶすぎた。
 煙草の煙を浴びながら、くすんだシーツの上でからだを擦り合わせる行為に感じたのは、戸惑いだけだ。まだ、ぬかるみも開きもしないカナの未熟な性器には、あまりそれはよいものと思えなかった。ヒリヒリするし、腰もこわばった――でも、なぜだかカナは付き合わざるをえなかった。ウォーレンが満足そうにしたからか――そういうものなのかもしれない、とカナは本能のような部分で思っていた。
 好意を伝えられた。必要とされた気がした。それはひとえに、カナのもてあます瑞々しさがそうさせたのだけど。
 シーツの中でいつも、彼は眠れずにいるカナのために「ラベンダーは青い」をうたってきかせてくれた。「妹が好きだった」のだと。カナは知らないうただったけれど、心地よく思った。

 それから、カナはひと夏じゅう、ウォーレンのアパートにいるあいだは、彼のものだった。
 抱きしめて、キスをして――そのいきおいが犬のファングにそくっりだった。そう気づいてからは、カナはすこし笑えるようになった――そしてからだのすみずみをべたべた触れられる、ときには、すこし緊張する。カナはきっと、まだウォーレンに心を開いているわけではないんだろう。だからといって、カナは抵抗をしなかった。そうしようと思えば、拒むこともできた。彼のあれを蹴り上げて、この家を逃げ出すこともできた。その理由がなく、行き先もなかった。
 はっきり言って、息の詰まるような日々だった。そしてある日、カナは気がついた。
 下着が足りない。
 初めの一枚は、カナも気づかなかった。だた二枚、三枚と気づいていくと――あきらかに消えているのだ。
 カナはトランクに鍵をかけていないことを後悔した。
 それにその頃になると、ウォーレンが「友だち」を引き連れて帰ってくることが増えた。カナはたいてい、この家の中ではいちばん奥まった寝室のすみでぽつんと過ごし、ウォーレンが仕事先の売れ残ったパンを持って帰ってくるのを待っていた。それでお腹を満たして、ウォーレンに「ありがとう」と微笑むと、彼は幼い子どもみたいに素直に笑うのだ――しかし、週末は違う。
 ウォーレンははじめ、寝室に友だちを入れていなかったけれど、いつからか――カナも宴会・・の一員になっていた。
 酒と、煙草だ。ある夜、カナは「友だち」の中でも大柄な一人に肩を抱かれた。そういうときにはするりと抜け出して、ウォーレンの近くに座りなおす。すると、大柄の「友だち」がいうのだ。
「本当にペットみてえだ!」
 それ以降、カナはこのアパートの居心地が一段と悪くなったのを自覚した。あの名前も知らない「友だち」にとって、カナはウォーレンの「ペット」なのだと、この部屋にいる限り、その通りに思えて。
 カナはようやく、はっきりと、いやになった。自分自身にだ。何をやっているんだろう、こんなところで、息を詰まらせて、宿題も満足にできなくて――奪われていくばかりで。

 下着がひとりでに消えていくはずがない。ここに魔法はない――マグルの街だから。誰かがカナのトランクを開かないかぎり、カナのものが消えていくはずがない。
 それでも、よくない恋人とその友だちがいたのだとしても――カナはまだ、ここを出ていくには策がなさすぎた。
 だって、ウィーズリー家はいまイギリスにはいないのだ。誰かに見つかって、あのがれきの家に連れ戻されて、そして、そしてリーマスに軽蔑されて、頭を撫でてもらえなくなったら――カナは死にたくなるくらい絶望するだろう。
 それに、フレッドに合わせる顔がない。

 コツ、コツ、と今日もフクロウが窓を叩く。カナは無視した。どうせ――どうせ夏が終わったらホグワーツに行くのだ。今さら「隠れ穴」に戻ったって――モリーおばさんがため息をつくだけだ。カナは、自分がハリーみたいに歓迎されてはいないと思った。だって、カナはハリーみたいにかわいそうな扱いを受けているわけでもなく、おかあさんが無理を言って、あの家族に身を寄せているのだ。
 本当なら――カナは今頃、「隠れ穴」の狭くて明るいダイニングで、エジプトに行きそびれたフレッドとふたりで、ミルクとか、ココアとか、何でもいい、温かい飲み物を飲んでいるはずだった。ぽた、と羊皮紙に水滴が落ちる。魔法史のレポートが滲んでしまう――カナは涙をぬぐった。
 自分で決めたことなんだ。泣いたらみっともない。



 それでも、やっぱりカナはウォーレンと同じシーツの中で眠っていた。カナがこの家にいるにはそうするしかないように思えた。ひと晩のあいだに、ウォーレンは何度かカナの唇に口付けるけれど、あの時・・・と違って心ふるえるものではないな、と思っていた。はやく夏が終わって、ホグワーツに行けたらいいのに、と、そればかり考えていた。
 ウォーレンはカナを腕に閉じ込めたまま、眠りにおちる前にいろんな話を聞かせてくれた。このときだけは、ウォーレンのふだんの意地悪はなりをひそめて、十六歳の少年らしい口調で穏やかに話してくれる。なかでも興味深かったのは、彼の生まれ故郷の話だ。
「デム・シャトックスだよ。知ってるだろ。魔女狩りさ」
 カナは、もちろん知っていた。なんといったって、魔法史のビンズ先生が夏休みの宿題のテーマにしていて、イギリスで行われた魔女狩りについてはよく調べたのだから。
「僕の村ではまだ年寄りたちがうんと気を張ってる。なにかと因縁つけて、村八分にされたり、あるいは事故に見せかけて・・・・・・」
 続く言葉は無かったけれど、カナにはよくわかっていた。数百年前まで、魔法使いや魔女の疑いをかけられた者は、いわれのない迫害を受けて処刑を受けたのだ。魔女や魔法使いにとって火あぶりなんてなんでもないけれど。
「ばかばかしいだろ。そんなだから、賢い女はすぐ街に出されるんだ。僕の妹は記憶力が良いんだ。歌もうまいし、きっと都会でバリバリ働く良い女になる。法律をつくったり、税金を数えたりする・・・・・・でもあの村にいちゃダメなんだ。あそこから出してやらないと。でも金がいる。僕がどうにかしてやるんだ。妹を・・・・・・」
 ウォーレンはそのまま、いつのまにやら寝息を立てていた。魔女狩りは本物の魔女ばかりでなく、魔女の疑いをかけられたマグルさえも標的になっていたらしい。それに、そんな風習がまだ残っている村があるなんて――カナは、ウォーレンとその妹のことを少しあわれに思った。夏が終われば、もう二度と会わない人だというのに。

 何度目かの宴会・・で、ウォーレンの「友だち」の一人は、とうとうカナに不躾に触れてくるようになった。まるだしの肩や、背中だ。今までカナはなんとか逃げていたけれど、それも寝室の壁際での宴会・・となると、そうはいかなかった。こういうとき、ウォーレンはなにも言ってくれない。何度か助けを求めようと彼に視線を送ったりしたけれど、おそらく、ウォーレンは彼らのあいだでは立場が弱いんだろう――がさついた荒れた手が、カナの白い肩を滑るようになぞったとき、ぞわぞわとゴーストが体をすり抜けたような悪寒が走る。
「お前の『ペット』、ちょっと貸してくれよ。ほんのちょっとだ――」
 カナはまるで物あつかいだ。ウォーレンはすぐには頷かなかったけれど、あいまいな声を出して、拒もうともしなかった。「友だち」の厭らしい目つきがカナの全身を舐めるように見るのが、がちゃがちゃとベルトを外す金属音が、不快で吐きそうだった。きっと、いつのまにかカナの頭が彼の股間に沈んでいたって、ウォーレンはなんの慰めも励ましもしてはくれないのだろう――
「ほら、できるよな?」
 カナは目を逸らした――好きでもない酒と煙草のにおいを纏った知らない男が、性器を押し付けようと立ち上がった。最後のかすかな希望を込めて、顔を背けたままウォーレンを探した。でも、彼はただそれを呆然と眺めているだけだ。それで、カナはようやく気がついた。
 ああ、恋人でもなんでもないんだ。
 怖くて目を瞑る。前をくつろげたままの「友だち」の手が苛立たしげに、ふるえるカナの首根っこをつかんだ。
 その時だ。
 コン、コン。とアパートの扉を叩く音がした。深夜の訪問者に驚いて、みんないっせいにそっちを見る。ひときわ大柄な「友だち」が、ウォーレンをあごでしゃくり、様子を見てくるよう指示した。カナはその間に拘束を抜け出して、部屋の反対側へと逃げる。
「ここに娘がいるはずだが」
 カナは飛び上がりそうになった。その地響きのようなねっとりした声に、カナはかなり聞き覚えがあった。「友だち」が占領しているのもかまわず酒瓶のあいだを通り抜けて、壁の端からそっと玄関扉のほうを覗く。のっぽのウォーレンの頭のさらに上で、「深夜の訪問者」と、ばっちり目が合った。
 全身黒ずくめの、ホグワーツの魔法薬学の教師、スネイプ先生がそこに立っていた。
「マーリンの髭」カナは思わずつぶやいた。
 玄関へ駆け寄った。まだ九月には一週間以上あいだがあるけれど――見知った人が現れてくれて、カナは心底安堵した。唖然としているウォーレンをほったらかして、スネイプ先生に抱きつきそうな勢いで半開きの玄関扉へ飛びついた。
「帰るぞ」
 先生はそれだけ言うと、踵を返そうとした。カナはあわてて、寝室のクローゼットの中にまとめておいたトランクと革の鞄を手に取って、玄関へ向かった。
「カナ」
 ウォーレンがカナを呼び止めた。スネイプ先生がきびすを返した背中が見えたので、置いていかれてはたまらないと、あわてて、カナは一言だけ。
「ウォーレン・・・・・・さようなら」
 そう言って、走ってアパートを出た。



「貴様の母親から依頼があった」
 道すがら、スネイプ先生はカナを迎えにきた経緯を話してくれた。どうにも、あのあとアーサーおじさんとモリーおばさんからダンブルドアへと連絡がいき、ダンブルドアがおかあさんへと、おかあさんからスネイプ先生へとカナの家出のことが伝わったらしかった。
「おかあさんが自分で迎えに来たらいいのに」
「思ってもいないことは言わないほうが賢明だ」
 深夜のロンドンの路地はほとんど人が寄り付かず、街灯の下以外は真っ暗だ。カナは後ろを振り返るけれど、誰も追いかけて来てはいなかった。
「ぼくはどうなるんでしょうか?」
「ウィーズリーはまだイギリスに戻っていない。貴様を親元へと送り返してやりたいところだが、住所も知らん。エリアはとくに指示をしなかった」
 では、カナはこれからホグワーツまでどう過ごせばいいというのだろう。まさか、スネイプ先生の自宅に預けられるんじゃ――カナはきっとそんな顔をしていたに違いない。スネイプ先生が見たことないような苦い顔をして、カナを見た。
「あてがある」

 ふたりはそんなに遠くまで歩きはしなかった。ロンドン市内の住宅街の一角で、スネイプ先生は足を止めた。
「『フギンは地に堕ち、ムニンは巣を作る』」
 家と家の間の柵の隙間に、先生は杖を突き出した。すると、それぞれの敷地がぐいっと左右に分かれ、開いたスペースに立派な造りのお屋敷が現れた。
「先生、ここって――」
 スネイプ先生は大きな鉄の門扉を通り抜けて、玄関までの石垣の道を遠慮なく歩いていく。カナもあわててついていくと、後ろで門扉が大袈裟に閉まった。
 手入れのされた庭に、フクロウの止まり木が用意されていた。その木のうろ・・のすぐ下に、「AVERY」と漆黒の箔押しがされている。
「エイブリーだって?」カナがうわずった声でスネイプ先生に聞く。先生は平然と玄関のドアノッカーを叩いた。深夜だというのに、ドアは開いた。しかし、中には誰もいない――と思いきや、足元に小さな影がいることに気がついた。
「今晩は。いらっしゃいまし、旦那さま、スネイプ教授さま。あいにくでございますが、ご主人様は留守にしておられます」
 甲高い声だ。カナのふとももあたりまでしかない生き物が、よれたレースのシーツを頭の先から体までローブのように巻きつけていた。人型で、こぼれそうな大きな目に、コウモリみたいなとんがった耳――屋敷しもべ妖精ハウスエルフだ。カナはホグワーツの厨房で働いている彼らを見たことがある。
「構わん。彼にはすでに説明してある。ミス・エイブリーは?」
「はい、お嬢様は中でお待ちです、教授さま」
 先生はカナを先に家の中へと通す。ハウスエルフは慣れた手つきでカナの荷物を受け取った。
「エリオットお嬢さまですね。ごゆっくりお過ごしくださいまし」
 慣れない待遇に、カナは戸惑いながらも案内を受けた。

 通された客間にいたのは、やっぱりガートルード・エイブリーその人だった。パジャマ姿ではあったけれど、スネイプ先生に頭を下げるしぐさにはどこか気品がある。
「スネイプ教授。ご機嫌麗しゅう」
「ああ。楽にしなさい」
 そして、ガートがカナに向き直る。
「今晩は。カナ。我が家へようこそ」
 よそいきの笑顔を浮かべたガートがニコリと微笑み首をかしげる。動くたびに揺れるぶあついシルクのネグリジェは、パジャマにしてはずいぶん高級そうだ。カナの古いシュミーズとは全然違う。
「どうぞお掛けになって」
 カナは言われるがままソファーに腰掛けた。ハウスエルフが薄着のカナにブランケットを持ってきてくれた。
「あの、ガート。きみのおとうさんは?」
 ガートは不自然な微笑みを貼り付けたまま、カナの質問に答えた。
「父は普段はこの家にはおりません。御用でしたら、本宅のほうへとフクロウをお使いになってくださいませ」
 あのバートラム・エイブリーがいないというのは、カナにとっては良い情報だ。でも、なんだかカナはへんな心地だ。やたら丁寧なガートの口調が、カナの調子を狂わせる。
「ミス・エイブリー。君の父上にはもう話を通してあるが、こやつを新学期までこの家で預かっていただきたい」
「はい。父から承っております。ですから、スネイプ教授はご心配なさらなくても結構ですよ」
 その言葉を聞いて、スネイプ先生は立ち上がった。「では、あとは任せた」と言い、客間を出て行ってしまった。
「教授、また新学期に」とガートは笑顔で手を振った。客間にはカナとガートの二人が残される。
 ふう、とガートがため息をついた。さっきよりいくらか姿勢を崩して、やっと普段のガートらしい雰囲気になった。
「びっくりしたよ。急にパパから『お前の友達を匿ってほしいと頼まれてね』って連絡が入って――」
 カナはブランケットを手繰り寄せて、体を折るようにして膝を抱えた。無意識に大きななため息が出た。ガートの家のブランケットはふわふわで、ほこりひとつついていなくて、あったかい。
「家出してたんだってね。疲れたでしょ。なんか飲む?――エッダ、ホットミルクを頂戴」
 ハウスエルフがどこからともなく姿を現して「お嬢さま、承知いたしました」と返事すると、またもやすぐさま消えた。
 まもなく、熱いホットミルクが運ばれてきた。カップを手に取ると、カナの冷たい手にじわりと熱が移る。何度か口にすると、だんだん眠たくなってきた。
「あんた、お風呂は入ってたの? ちょっと埃っぽいし、煙草臭いよ――ねえ、綺麗にしてから寝よう」
 たしかに、カナはあのアパートではじゅうぶんにシャワーを浴びることはできなかった。最後に体を綺麗にしたのは、服を洗ったのはいつだろう、と考えるくらいには。
 カナはバスルームに連行された。グリフィンドール寮のお風呂とは全然違う、広くて綺麗なバスタブも付いていた。カナが服を脱いでいると、ガートが少しだけ扉を開けて顔を出した。
「これ、パジャマ。あたしのだけど、着られるでしょ。ここに置いとくから。汚れ物は籠に入れといてね」
「ね、ガート。これお湯はどうやって出すの」
 カナが聞くと、ガートは説明しあぐねて――結局「入っていい?」と尋ねてからお風呂の中まで来てくれた。
 そのとき、ガートが息をのむ音が響いた。カナがなにごとかと振り向くと――ガートはカナの背中やお尻にある鬱血のあとをまじまじと見つめて、カナのことを思わしげに見た。
「あんた――いや、話さなくていいや。それで、こっちがお湯でこっちが冷水ね・・・・・・」
 鏡で見てみると、カナが自分ではあまり見えない場所に、ウォーレンはいくつもあと・・をつけていたらしい。そういえば、下着を返してもらっていないな――とカナは思い出して、気持ちが落ち込んだ。

 客間に戻ると、ガートが待っていた。「そんなんだから、医務室の世話になるんだよ」と、カナが髪から雫を滴らせているのを見かねて、乾かすのを手伝ってくれた。
 ガートの住むこの「パパの夏の別荘」はいわゆる豪邸だったけれど、住んでいるのは彼女と、ハウスエルフだけなんだそうだ。時々バートラム・エイブリーが帰ってきて相手をしてくれる時や、お呼ばれして社交場に出席するとき以外は、ほとんど一人で過ごしているそうだ。
「夏休みは魔法も使えないし、エルフは遊び相手にはなってくれないからつまんない」と、ガートはにこにこ言った。カナがいるせいか、言葉のわりにずいぶん楽しそうに見える。こんなに綺麗で広い家に住んでいても、ひとりぼっちだったら当然寂しいに決まっている。
「パパの寝室と書斎は立ち入り禁止。それ以外は自由にしていいよ」
 カナは、申し訳ない気持ちも抱きつつ、ガートの好意に甘えた。ガート曰く「パパが良いって言ったら良いんだよ」とのことだが――あの狡猾そうなエイブリーが、いくらガートの友人とはいえ無条件にカナを滞在させるだろうか、とも思う。
 ガートはなにも事情を聞かなかった。彼女が知っているのは、カナが家出したと言うことだけらしい。
 一緒のベッドで眠った。ウォーレンの家とは違う――潰れたマットレスやぺちゃんこのシーツじゃない。ふかふかのベッドに、手ざわりのよいシーツに、ブランケットだ。ホグワーツのベッドよりもうんと大きく、木の柱や天蓋が黒くつやつやと輝いていた。
 カナは肩が触れ合っただけでも大げさに震えた。怯えているのが、ガートにも伝わっているはずだった。ふたりは離れて眠った。



20230310-20240607


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