翌朝、カナは早くからハウスエルフのエッダに起こされた。ガートも「もう少し寝たいのに・・・・・・」と低い声でぼやきながらも、パジャマを脱ぎ始めていた。日々の習慣って体と心がちぐはぐになりながらも機能するものなんだな、と思い、目が覚めてきてカナも着替えることにした。
 互いの髪をとかし、ガートはカナに軽くお化粧をしてくれた(ガートにむりやり、おしろいと、淡い色の口紅を施された)。ずいぶん伸びたカナの髪は、ガートの手によってハーフアップにまとめられ、キラキラの石が光るバレッタで飾られた。
 ガートが数年前使っていた服があるというので、いつものシュミーズの上から、カナはそれを着せられた。ガートはすっかりカナで遊んでいる。分厚く皺がないのにやわらかなフリルのブラウスに、ふわりと広がる膝丈スカートを身につけたカナは、まるで身分がうんと高くなったみたいだった。
「こうやって、ちょっと身綺麗にしたらさ、あんたずいぶん見違えるよ」
 ガートはそう言ってくれるけれど、カナ自身は、そんな鏡の奥の自分がひどく不釣り合いに感じている。滑らかな黒革のローファーだって、「もう使わない」と言うわりに、ぴかぴかに磨かれているし――改めて、カナはガートの家柄の良さを感じた――でもこれらの衣類は、ガートが着るにはすこし幼すぎるようなチョイスだった。
「あー、パパの趣味なんだ」
 ガートは巨大なクローゼットの奥に、隠された箪笥を見せてくれた。そこには、去年ガートがホグワーツで身につけていたような、マグルスタイルの服や、ファッション雑誌が詰まっていた。ガート自身は、父親の選んできた服をあまり気に入っていないらしい。

 朝食のテーブルへと案内されたカナの目の前に、いくつか手紙が陳列されていた。
「エリオットお嬢さま宛のさらなるお荷物があちらでございます」と、ハウスエルフが暖炉の前を指し示し、うやうやしく頭を垂れた。
「朝食の前に読んじゃいなよ」
 ガートは運ばれてきた熱い紅茶を口につけながら、今日の分の「日刊予言者新聞」を広げた。カナも、順番に手紙を開封していく。
 まず、ホグワーツからの新学期の案内だ。

「拝啓、エリオット殿
 新学期は九月一日に始まることをお知らせいたします。ホグワーツ特急はキングス・クロス駅、九と四分の三番線から、十一時に出発します。
 三年生は週末に何回かホグズミード村に行くことが許されます。同封の許可証にご両親もしくは保護者の同意署名をもらってください。
 来学期の教科書リストを同封いたします。敬具
 副校長、ミネルバ・マクゴナガル」

 いつもより封筒が分厚いと思ったら、中の一番後ろに例の許可証が入っていた。カナはその空っぽの署名欄を見つめ、暗い気持ちになった。
「ガートはホグズミードへ行く?」
「もちろん」上目遣いに目を合わせて、ガートはウインクした。「魔法使いだけの村だよ。あそこは素敵――ダイアゴン横丁よりは狭いし質素だけどね、服屋もなかなか良いよ。喫茶店のコーヒーが結構イケてて・・・・・・」
「行ったことがあるんだね」
「ウン」ガートは思わしげにカナに聞いた。「あんた、まさか行けないなんて言わないよね?」
 カナは口を「へ」の字に曲げて、「言わなくてもわかってよ」とでも言いたげにガートを見た。
「なーんだ。あんたとショッピングするの、楽しそうだったのに」
 カナだって残念だ。けれど、きっとおかあさんは許可証にサインはしてくれないだろう。ダイアゴン横丁にすら行かせてくれないのだから。
 次の手紙に着手した。リーマスからだ。

「カナへ。
 三年生へ進級おめでとう。来学期用の学用品を揃えておいた。きちんと目を通して、九月からの授業に備えておくんだよ。それにしても、『怪物的な怪物の本』なんて揃えたがる『魔法生物飼育学』の先生はいったい誰なんだろうね?
 ・・・・・・
 さて、きっときみはホグズミードに行きたがっていると思うけれど、エリアが許可をしてくれるかどうか悩んでいるね? エリアに手紙を書いてごらん。もしかしたらサインをしてくれるかも。なにごとも、試してみる前からあきらめてはチャンスを逃してしまうからね。
 ところで、『日刊予言者新聞』を見たよ。ウィーズリーさんちの写真にきみは写っていなかったようだけれど、きちんと同行していたんだよね? 手紙も来ないので心配をしています。よければ返事をしておくれ。その時にホグズミードの許可証を同封するといい。エリアの返事が、新学期に間に合うかもしれないからね。
 愛を込めて。リーマス・ルーピンより」

 ああ、カナは自分が隠れることに精一杯で、リーマスに毎月送っていた手紙のことをすっかり忘れてしまっていた。
「ガート、あとでフクロウを使ってもいい?」
「もちろん」
 カナは次の手紙を見た。ハーマイオニーからだ。でも、開けてから後悔した。封筒はハーマイオニーのものだったけれど、中にはウィーズリーの家族たちからの手紙も、ホグワーツのぶあついサンドイッチみたいにたっぷり入っていた。
 カナはその便箋のたばをそっとテーブルに伏せた。
「あら、もう終わり?」
「うん。読む気分じゃなくなった」
 ガートは特に何も言わず頷いた。そして手を叩いてハウスエルフを呼ぶと、二人分の朝食が運ばれてきた。
「きみのぶんは?」
 カナはハウスエルフのエッダに問いかけた。するとこぼれ落ちそうな大きな瞳がこれでもかというくらい見開いて、「まあ、まあ! めっそうもございません!」と叫んだ。
「お嬢さま、エッダめがお嬢さまと食事を共にするなんて、ありえません! 滅多なことを仰らないでくださいまし。おそろしい、まあ、おそろしい・・・・・・」
 カナはその勢いにぽかんと口を開けた。ガートがクスクスと笑う。
「ハウスエルフは初めて見た?」
 チーズのたっぷり掛かったトースト・クランペットをフォークで切り分けながら、ガートがおかしそうに言った。カナは頷いた。
「奉仕が生きがいの生き物なんだ。ものすごく腰が低くてね、彼女たちの一線を越えるようなことをするのは、逆に侮辱行為になるんだよ」
 カナも朝食に手をつけた。それにしても、メインディッシュに、サラダに、スープ、食後のフルーツまで揃っている。「隠れ穴」ではどんなに食事が多くても誰かに分けたりできたけれど、ここではそんな行儀の悪いことはできそうにない。カナは食べ切れるか不安になった。

 朝食を終えて、カナは暖炉の前に積み上げられた荷物の検分を始めた。三年生用の教科書の中に、不気味にうごめく本が一冊混ざっていた。見た目は一般的な蔵書と変わりない。緑色の革表紙に、金色の箔押しで「怪物的な怪物の本」と書かれていたけれど――なぜかぶあついテープでぐるぐる巻きにされて、がたがたとうごめいていた。
「ああ、それ」ガートが顔を出した。「気をつけなよ。なにしろ、フローリシュ・アンド・ブロッツで、そいつらお互いを食い破ってたんだから――三年生が書店に買い求めに来るたびに、店員が気の毒だったよ」
 どうやら、暴れん坊の教科書らしい。カナは今年一年、「魔法生物飼育学」がうまくいくかどうか不安になってきた。

 リーマスへの手紙を、エイブリー家の聡明そうなワシミミズクに頼んで、カナはやっとひと息ついた。もちろん、ホグズミード村への外出許可証を同封している。ただ、家出のこともエジプト旅行のことも、ひと言も書かなかった。うまく嘘をつける自信もなかったし、カナがあえて言及しなければリーマスも深掘りすることはないだろうと思った。
 ガートがダイアゴン横丁への外出に誘ってくれたけれど、カナは断った。万が一カナの家出を知る者に出会った時に、事情を根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だったからだ。それに、道中のロンドン市街でいつウォーレンやあの「友だち」たちがカナを見つけるかもしれないと思うと、外出しようとは思えなかった。



 カナは結局、ハーマイオニー、ハリー、フレッド、ジョージ、パーシー、ロン、ジニー、モリーおばさんにアーサーおじさん、そして無関係のビルまでもが書いた手紙を読むのにたっぷり一週間をかけた。ハーマイオニーからはフランス旅行に行った感想がたっぷり綴られて、それからカナの家出を心配するメッセージが書かれていた。ハリーも家出をしていたらしく、安全には気をつけるようにと忠告された(ハリーも人のことをとやかく言える立場じゃないと思うけど)。ウィーズリー家の面々からは心配とお説教、それからカナのことをどれだけ大事に思っているかということが長々と書かれており、それが小っ恥ずかしくて読むのに時間を要した(ちなみに、パーシーは首席に選ばれたそうだ。面と向かってお祝いできなかったのが残念)。

 いつまでもこの家での生活が続けばいいのに、来てほしくない時間は矢のように早く過ぎてしまう。一週間なんてあっという間に過ぎて、ホグワーツへと発つ日がやってきた。
 ガートが本当にお金持ちなんだなあとカナが思ったのは、専用の馬車が家の前に用意されているのを見た時だ。黒くつやつやに磨かれた車体に、賢そうな大きく立派な芦毛の馬が二頭。小柄な御者は「お嬢様」に挨拶したっきり、物静かだ。
 ガートは御者に頼んで二人分の荷物を積み上げてもらっていた。「忘れ物はない?」とか話していたときだ。
「あいつは? あんたの知り合い?」
 ガートはうしろを指差した。細長い足に、ぼろの靴にズボン、茶髪の、青い瞳、そばかすだらけの鼻先――カナは血の気が引くのがわかった――立っていたのはウォーレンだ。
「お願い、いますぐ出して」
「待ちなよ、まだ荷物が――」
「カナ」ウォーレンはずかずかと近づいてきて、車内に逃げようとしたカナの手首を思いっきり掴んだ。カナが「痛!」と悲鳴をあげたので、ガートがウォーレンをにらんだ。
「放しなよ。あんた、この子が何なのか、知ってて引き留めてるわけ?」
 ウォーレンはピク、と反応して、カナの身なりと、傷ひとつないぴかぴかの馬車を見て――掴んだ手を放した。ガートはカナが魔女だと言いたかったのだけれど、ウォーレンは勘違いしているようだ――カナはお金持ちの家の子なんかじゃない。着ている服はガートのお下がりだし、これは彼女の家の馬車だ。でも都合がいい。カナはそのまま車内に逃げ込んだ。ガートも向かいに座る。
「カナ、待てよ、僕は・・・・・・本気で・・・・・・」扉を閉めてもウォーレンは馬車のそばを離れなかった。これでは出発できないと、御者がにらみをきかせた。
 カナは窓を開けて、感情のない声で言った。
「盗んだものを返してくれるの?」
 ウォーレンはばつの悪そうな顔をして、「あれはきみが・・・・・・」「もう金に・・・・・・」とか、ぶつぶつ口籠もっていた。
「いい? ウォーレン」
 カナはとびっきり微笑んで言った。
「ぼくは魔女なんだ」
 ウォーレンは口をぽかんと開けて、そして閉じるのを忘れていた。
「冗談だろ」その言葉にカナは肩をすくめて見せた。「僕の知っている魔女は、白目をむいてて、爪がこんなに長くて、髪も長い・・・・・・ヤモリを食べる。それから、頰にこのくらいの『いぼ』がある」
 ウォーレンは指で輪っかを作って、自分の頰にくっつけた。
「きみは違う。僕が焼いたパンでお腹いっぱいにして、白くて、すべすべしてて、それに、きみは頭が悪いだろ?」
「その通り」カナは馬車の窓から顔を引っ込めた。「謝ってはくれないんだね――はやく妹のところに帰ってあげて。さようなら」
 ようやく、馬車が動き出す。ウォーレンは立ち尽くしていた。青い瞳は、馬車が見えなくなるまでこちらを見つめ続けて――じっとなにかを訴えているようだった。
 カナは、細く長い息を、何度も吐いた。いつのまにか握りしめていた拳の爪が、白くなっていた。
「あんなこと言ってよかったの?」
 ガートが腕を組みながらカナを見すえた。彼女の草色の混じったナッツのような、はしばみ色の美しい瞳が、カナのことを気にかけているように見えた。
「どうせ信じないよ。魔女狩りをばかばかしいと思ってるんだ」
「まあ、馬鹿馬鹿しいのには変わりないね。そういえば、今朝も『日刊予言者新聞』で取り上げられてたよ、アズカバンを脱獄した『シリウス・ブラック』!・・・・・・」
 カナを気遣ってか、ガートは話題を変えてくれた。でもあんまり聞こえてはいなかった。さっきから、胸のしこりがずきずきと痛んでしょうがなかった。



 馬車はマグルの道路規則なんか無視して、あっというまにキングス・クロス駅に到着した。去年は通れなかった九と四分の三番線の柵だって、難なく通ることができた。
 ガートは空いたコンパートメントを見つけるのが得意なようだった。カナが人混みにあえいでいるあいだに、あっというまにするすると抜けて、カナを手招きしているのだ。
 おかしな特技だと、カナは感心した。一年生のときも、駅に降りてガートは人ごみを難なくすすんで行ったのだった。
 追いかけようとした時だ。
「カナ!」
 ぐ、と手を引かれ、カナはぞっと冷や汗が噴き出るのがわかった――ウォーレンが追いかけてきた?――ここはホグワーツ特急の中で――そんなことはありえないとわかっていても、カナはまともに振り返ることができなかった。
 パッと手が離れる。
「おい・・・・・・ひどい顔だぞ。そんなに強く掴むつもりじゃなかったんだ。ごめん」
 フレッドだった。カナは力が抜けて、窓にずるりと寄りかかる。泣きそうな気持ちが膨らんでいく――そう、フレッドは謝ってくれるのだ。彼と違って。
「そんなに怯えるなよ。怒鳴ったりしないから・・・・・・」フレッドはカナの異様なようすにたじろいで、勢いを削がれたようすだった。これ以上怖がらせまいと声のトーンを落とした。よく見るといつも一緒のジョージはいない、一人だ。
「どうしたんだ?」
「違う――ごめん。ぼく、きみに合わせる顔がない」
 カナはこれ以上フレッドと話し続けられる気がしなかった。俯いて顔を見れないまま、ガートの待つコンパートメントに駆け込んだ。
 ガートが「なにごと?」と、カナが閉めた窓から外を覗き込んだ。鍵を掛けようとしたその時、がらりと扉が開いた。
「ちょっと、失礼」フレッドがガートに向かって「しばらくこいつを借りていく」と言い、カナを抱えるようにして、車両の後ろの展望デッキへと引っ張っていった。

 カナが気づかぬ間に、ホグワーツ特急は線路の上を滑り出していた。ゆるやかに流れていく田園風景を背景に、カナは壁に背を預け、フレッドは手すりに触れた。
「その、カナ。もう怒ってないよ。君も怒ってないよな?」
 カナはうなずいた。もうひと月も前の話なのだ。それに、もとよりカナは怒ってなんかいない。フレッドはそう思っているみたいだけど。
「君が無事で良かったって、そう言おうと思ったんだ。僕はこっぴどく叱られたさ、あんなに顔を真っ赤にして、泣きながら怒鳴れる人なんて、うちの母親しかいないね。人生で二番目に恐ろしかった。それに君のことも根掘り葉掘りだ、恥ずかしかった。いや、ごめん。君を責めたかったんじゃない」
 カナがうつむいたままなので、フレッドは止まる様子もなく話し続けた。
「その、僕は君を一人にしたくなかったんだ。この間も言ったけど。虚勢じゃない、ほんものだ。ほんとうに、僕は君と一緒ならそれでよかったんだ。アー、なんていうか・・・・・・なあ、何か言ってくれよ」
 フレッドはカナの機嫌をうかがうせいで、得意の舌が回らないようだった。彼が口籠るのは、らしくなかった。カナもさっきから考えているのだ。言いたいことがまとまらない。だから、合わせる顔がないと言ったのに。
 列車は森林地帯を抜け、荒れはてた荒野のさなかを進む。風がぴゅうぴゅうと吹くようになり、カナは身を小さくした。
「エジプトは楽しかったんでしょ?」カナは意地悪のつもりでそう言った。
「君のことばっかり考えてたさ」フレッドは頭をかいた。「なんていうか、変だな、僕は。『姿現し』で体が千切れちまえばいいのにと思ってた――なあ、誰なんだ? 『僕より居心地の良い人』ってのは」
 カナにはそのまま話すことはとてもじゃないけどできない――あの半月のことは、まだ、思い出したくないのだ。できたら、このまま忘れ去ってしまいたかった。
「『キスをしたことがあるか』って、聞いたよね」
 フレッドは瞬きを忘れたようにカナを見た。気まずい風が一瞬吹いた。カナは目を逸らさずに言った。「ぼくはあるよ、きみ以外の人と」
「そいつのことが好きなのか?」フレッドは怒っているみたいだった。
「もう二度と会わない人だよ」
「ならどうして、僕に話した? 言わなくったって良かっただろ、僕がどう思ってるかなんて、お前さんにはわかるだろ?」
「ごめん、ぼく――」カナはぽろぽろとこぼすように謝った。「家出なんてしなきゃよかったって、思った。ぜんぶ夢で、起きたらきみがいて、あの日の続き・・・・・・なんて望みはしないから、そばにいるだけでいいのにって」話すうち、カナの瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「僕は――」フレッドは深呼吸した。「僕は、続き・・があるなら、今からでもそうしたいと思ってる」
 とうとう、涙がひとつ溢れた。
 頬に触れた手に手が重なって、それが合図になった。フレッドは屈み、カナはかかとを浮かせてフレッドの肩に手を置いた。一度触れた唇が離れて、それが惜しくてもう一度キスをした。熱い、濡れた頬が触れ合ったまま、長いあいだ抱き合っていた。最後に一回唇どうしが触れて、フレッドはカナを抱き上げて、くるりと一回転したので、カナははしゃいだ。もうすっかり涙は引っ込んでいた。
「ああ、全くもう」
 フレッドは顔が真っ赤だ。それが可愛くて――カナは心から笑った。
「ひと月もおあずけ・・・・される気分がわかるか? とんでもない女だよ、お前は」

 ふたりはほかほかした気持ちを冷ますみたいに、しばらく風にあたっていた。カナはようやく、ここひと夏で育ったとげとげした気持ちが、安らいだ。
 惜しい気持ちでつないだ手をほどいて車内に戻ったとき、フレッドがカナに耳打ちした。
「あそこにロンがいるぞ。行ってこいよ」
 車両の一番後ろ、食べ物のカートが止まっているコンパートメントを指して、フレッドが言った。開いた扉のすきまからわずかに赤毛が見えたらしい。
 たじろいだけれど、背中を押されて前に進んだ。カナはフレッドの袖もちゃんと引っ張った。フレッドはこばむことなく、後ろからついてきてくれた。今なら素直に謝れるような気がする。フレッドがいてくれたら、勇気を出せると思う。
 扉をノックすると、窓からそばかす顔が覗き、「マーリンの髭!」と叫んで、扉があいた。
「カナ!」ロンが目をまんまるにして出てきた。そして、カナの後ろにいるフレッドを見て、口パクで何か言っていた(ちなみに『うまくいったの』と言っていた)。
「ロン、あの、心配かけてごめん・・・・・・」カナはうつむきながらもごもごと言った。
「君がそんなにしおらしいなんてビックリだよ。無事ならよかった、ウン。そりゃ心配はしたけどね、酷かったのはフレッドさ、君もわかってると思うけどね。エジプトでも、砂漠のオアシスにホントに沈んじまうんじゃないかと思ったんだ――イタッ!」
 フレッドの指がロンの額をはじいた。フレッドはまた白い顔を赤く染めていた。カナは笑った。ロンも額をさすりながら笑ってくれた。
 カナはハリーとハーマイオニーが中にいると思って、コンパートメントの中を覗き込んだ。
「ハーイ。ハリー、ハーマイオニー」
 そして言葉を失った。二人がカナに声をかけてくれるけれど、すべて通り抜けていった。
 なんで。
 どうして――どうして、リーマスがここに?
 ハリーの奥の座席で眠りこけているのは、どこからどう見てもカナの知っているリーマスだ。鳶色の明るい髪に、白髪が以前より増えている。頬の傷痕だってまだ残っている。いびきをかいて――狸寝入りをしている。リーマスがあんなふうに無防備に眠るわけがない。それに、どうして生徒が貸切で使うはずのホグワーツ特急に? 戸惑いと、言いようのない不安が汗になって手に滲んだ。
「カナ? ねえ、大丈夫?」
 ハーマイオニーがカナの肩を叩いて、ようやく我に帰った。彼女はリーマスを起こさないように小声で続けた。
「この人はルーピン先生よ。きっと『闇の魔術に対する防衛術』の新しい先生なんだわ。さっきからずっと眠っているの」
「本当に教えられるのか不安だよ。なんだか病弱そうだよな?」
「ロン!」
「ぼく、戻るよ」カナがわざとらしく張り上げた声にみんなが気づいた。カナは扉からひらりと離れて「フレッド、それじゃあ後でね」と手を振った。
(「それで、どうなったのか教えてよ!」というロンの興奮した声と、フレッドがコンパートメントに入っていく音が聞こえた。)

 外は雨で、すっかり暗くなっていた。
 カナはランプで照らされた薄暗い廊下をたどり、ガートのいるコンパートメントに戻った。がらりと扉を開けると、ガートはチョコレートファッジにまさにかぶりつこうとしていた瞬間で、「おかえり」と言ってくれた。
「ただいま・・・・・・」カナは脱力しながら座り込んだ。
「仲直りできたの?」
 指にあふれたチョコレートを舐め取りながら、ガートが聞く。つくづく思うけれど、ガートは家での上品なふるまいと、学校での自由なふるまいをかんぺきに使い分けている。
「あんた、いったい何人の男とトラブってるわけ?」
「え?」カナは呆然と聞き返した。ガートはあきれて、肩を落とした。
「まあいいよ。食べる? 大鍋チョコレートケーキ」
 カナはひとかけらもらった。甘くて美味しい。
 ガートは温かいお茶も分けてくれた。それを啜って、しばらくしてから、カナはぽつりと報告した。
「フレッドと付き合ってる」
「へえー?」にやにやと身を乗り出して、ガートは興味しんしんだ。「キスはした?」
「したよ、もう、三回もした」カナは半分やけになった。どうせ面白がられるのだ。
「あはは! 良いじゃない、きっと楽しいよ。彼、ユニークだしね」とガートは笑った。
「それと・・・・・・ねえ、もう、なんでなの? ガート、聞いてよ」
 カナは列車内のコンパートメントにリーマスがいて、ハーマイオニー曰く空席の「闇の魔術に対する防衛術」の教授となるらしいことを伝えた。
「ぼくはなにも聞いてないんだよ?」
「そりゃ、会ってないなら言えないよね」
「でも・・・・・・」カナは腹が立っていたのだった。混乱しながらもガートルードに話していくうち、しだいに言いたいことの輪郭が見えてきた。「ぼくのことがどうでもいいみたいじゃないか」
 わがままだというのはカナにもわかっていた。ようはカナは、自分が一番最初にリーマスに会えなかったことがはがゆかったのだ。
「カナは結局、そのリーマスのことが好きなの? それともフレッドが好きなの?」
 ガートの問いに、カナはぽかんとした。すぐに答えることはできなかった。そんなカナを、ガートはにまにまと口角を釣り上げて眺めていた。
「ガートは、お父さんとボーイフレンドの好意に優劣をつけられるの?」
 今度はガートが唖然とする番だった。
「確かにね」神妙な顔でガートも考えた。十三歳の女の子たちにはまだ、特大の親愛と、恋愛の区別なんてできやしないのだ。

 あと少しでホグワーツに着く、という時だった。汽車が速度を落とし、ガクンと揺れ、やがて――完全に止まった。
 ガートは懐中時計を見た。
「まだ着かないはずだけど」
 カナが立ち上がって外の様子を見ようとした瞬間、照明がすべて消え、あたりは暗闇となった。ざわざわと生徒の悲鳴が聞こえる。
ルーモス光 よ」ガートが杖を灯した。おかげでカナたちがいるコンパートメントの中は照らされた。静まり返った暗闇の中、ジジ、と杖が焦げるような音さえ聞こえた。
「何が起きてるの?」
「さあね。でも動かない方が良さそう」
 カナが扉の窓を開けた時、暗い影が横切った。顔は見えなかった。随分と背の高い、黒色のローブをまとった、闇そのもののように見えた。青白い、古枝のような瘡蓋かさぶただらけの腕が前方に突き出ていた――心臓が止まりそうなほど冷たい悪寒がぞっと駆け巡り、カナは腰が抜けてしまった。
吸魂鬼ディメンターだよ。アズカバンの」ガートの杖明かりが再び消えてしまった。吸魂鬼が近くにいると、光さえもすべて失われてしまうらしい。「――ほら、『シリウス・ブラック』が脱獄したって言ったでしょ。そいつがホグワーツに乗り込んだりしないように、警備として置くらしいよ――それにしても、気分が悪いったら」
 ガートは大鍋チョコレートケーキの最後のひとかけらを分け合ってくれた。冷えた体がすこしマシになったような気がする。
 カナは、もう二度と楽しい気持ちになれないんじゃないか、という心地にさせられた。まるで、あのアパートにいた頃を思い出す――
 暗闇の中で、廊下を行き交う足音や、コンパートメントの中でみんなが騒動する物音が聞こえる。やがて、社内の明かりが戻り、列車が再び動き出した。
「『シリウス・ブラック』って、そんなに重要な人物なの?」
「あんた、新聞読まないんだね――」ガートは声を顰めて話してくれた。「ブラックは、『例のあの人』の腹心とまで言われているよ。『あの人』がハリー・ポッターに敗れたあと、手下はみんな捕まった。でも、ブラックは追い詰められたときに抵抗した――捕らえに来た魔法使い一人に反撃するために、通りにいたマグルを十二人巻き込んで、まるごと吹っ飛ばしちゃったって話」
 現実味がなさすぎて、カナはいまいち想像できなかった。一度に十三人の犠牲者を出した犯罪者というのは理解したけれど――
「殺しにためらいがない、そんなやつが脱獄したから、これだけ世間は大騒ぎ、アズカバンも面目丸潰れってわけ」
「でも、そのヴォルデモートの手下がまだアズカバンにはいるんだよね? こんなにホグワーツやイギリス魔法界じゅうに吸魂鬼が放たれたら、他の囚人も脱獄しちゃうんじゃない?」
「さあね。そのへんはさすがにぬかりないと思うけど・・・・・・アズカバンは死ぬよりも恐ろしい場所だっていうし」
 あと十分程でホグワーツに到着するという知らせが全車両に届いた。カナたちはローブに着替える。
「ガート、この服返すよ」
 カナは今日もガートのお下がりを身につけていた。
「あんたにあげるよ! 小さいからあたしはもう着れないし」
 ガートのローブも新調されていた。カナが着るとおそらく床に引きずることになるだろうと思った。カナは自分の膝丈のリトルローブを心許なく思った。



 冷たい雨が降っていた。一年生以外の生徒たちは押し問答で、駅の正面へと降り立つ。そこにはおよそ百台ほどの馬車がずらりと並んでいた。不思議なことに、馬車に繋がれた馬はいない。でも、繋がれているべき場所に、手綱自体は伸びていた。まるで馬車の、馬だけをなくしたような状態だった。
 ひとつの馬車に生徒が数人乗り込むと、ピシャリとドアが閉じて滑るように隊列を組んで、馬のいない馬車は走り出す。おうとつのひどい馬車道を、ロンドンの街道とは大違いでがたごと揺れながら進む。ガートの家の馬車とは座り心地が大違いだ――比べるのも気の毒だけれど。
 壮大な鉄の門を潜り抜けたとき、脇の石像のところに吸魂鬼ディメンターが一対配置されているのが見えた。カナはぞっと背筋を凍らせながら、あまり彼らを見ないようにした。
 馬車は徐々に速度を上げ、城の敷地内をぐるりと回る。そして、なにごともなくホグワーツ城の玄関前へとたどり着いた。
 カナが馬車を降りたときだ。水たまりに思いっきり足をつけてしまったので、カナの周りにしぶきが飛んだ。その先にちょうど、誰かのつま先が見えた――カナは濡らしてしまったことを謝ろうと思って顔を上げた。
「――リーマス」
 ずっと会いたかったひとがそこにいた。
 雨空で暗くて、よけいに顔色が悪く見えるけれど、たしかにリーマスが、微笑みをたたえてそこにいた。
「やあ、久しぶりだね。カナ」
 カナは息を呑んだ。この二年間、ずっと会いたかった。
「ン、すこし背が伸びたんじゃないか?」
 早く話したい。たくさん話したい。でも、なんて声をかければいいのか、それがちっとも思い浮かばなかった。
「リーマス、先生なの?」ぎこちなく、それだけ搾り出した。
 みんな、雨に濡れてはたまらないと急いで石畳を登っていく。その流れにさからうことなく、だけどカナはリーマスにぴったりくっついた。もっと話していたかった。
「そうだよ。だから、わたしのことは『ルーピン先生』と呼んでくれると嬉しいな」
「うん、もちろん――でも、その、ふたりのときは今まで通りでいいよね?」
 嬉しくてたまらなかった。夢みたいだ。またこうやってリーマスと話すことを、カナはずっと望んでた――寂しかった――いろんな気持ちがあふれて、高揚して、なんだか変な感じだった。
 大広間にたどり着いてしまった。リーマスは前方の教員席へ。カナはグリフィンドールのテーブルへと向かった。
「カナ!」ジニーが手を振ってくれる――その隣にはジョージとフレッドが並んで座っていた。ジョージはパッと気づいたように手を叩いて、カナに席を譲った。カナはなんだか小っ恥ずかしかったけれど――素直に受け入れた。
「心配してたのよ、手紙の返事も寄越さないで――」
 カナが座るや否や、ジニーがまくしたてるようにカナにがみがみ言った。その件については、カナは甘んじて叱られておこうと思った。
「うん、ごめんね。ジニー。ぼく、もう二度と家出なんてしないよ」
「本当ね? まったく、ピラミッドの中でフレッドがどれだけしょぼくれていたか、見せてあげたかったわ――」
「ジニー!」
 ジニーの奥に座るジョージも参戦して笑った。フレッドはしばらく、この手のことでからかわれる側になるんだろうな、とカナは思った。



 ――今年の組分けが終わった。新入生に惜しみない拍手を送りながら、カナは自分たちの代よりも生徒の数がうんと多くなっていることに気がついた。おそらくは――やはりヴォルデモートの失脚は、家庭を持つ人たちにとって重要な要素だっただろう。未来が明るくなければ、子どもたちを安心して育てることなんてできない――ならば、おかあさんはどうしてぼくたちを産んだのだろう。カナはまたよくないことを考えてしまう。
「おめでとう!」ダンブルドア校長が立ち上がり、挨拶をはじめた。「新学期おめでとう! 皆にいくつかお知らせがある。一つはとても深刻な問題じゃから、皆がごちそうでぼーっとなる前に片付けてしまう方がよかろうの・・・・・・」
 エヘン、と咳払いをして、校長先生は続けた。
「ホグワーツ特急での捜査があったから、皆も知っての通り、わが校は今アズカバンの吸魂鬼ディメンター達を受け入れておる。魔法省の御用でここに来ておるのじゃ」
 ダンブルドアは、吸魂鬼が学校じゅうをうろつくのをよく思っていないにちがいない。放たれる言葉の端々から、そんな気配がする。
「吸魂鬼たちは学校への入り口という入り口を固めておる。あの者たちがここにいるかぎり、はっきり言うておくが、だれも許可なしに学校を離れてはならんぞ。吸魂鬼はいたずらや変装に引っかかるような代物ではない――『透明マント』や『目眩まし術』でさえ無駄じゃ」
 カナは胸がきゅうと縮んだ。去年はさんざん、「目眩まし術」で学校じゅうをうろついたけれど――今年はそうはいかないようだ。もちろん、用さえなければカナもそんなことをする必要はないのだけれど。
「言い訳やお願いを聞いてもらおうとしても、吸魂鬼には生来できない相談じゃ。それゆえ、一人一人に注意しておく。あの者たちが皆に危害を加えるような口実を与えるでないぞ。監督生に、首席の生徒達よ、頼みましたぞ。誰一人として吸魂鬼といざこざを起こすことのないよう気をつけるのじゃぞ」
 前の方の席に座ったパーシーが、胸を張っているのが見えた。「ウィーズリー家の最後の首席だ。記念にちゃんと見ておかないとな」とフレッドがこっそり言った。それに、五年生になったアンジーが監督生に選ばれたのだと、それもつまらなそうに耳打ちしてくれた。
 ダンブルドアの話が終わる頃には、周りの生徒はみんな、シーンと静まり返っていた。みんな、ホグワーツ特急で怖い思いをしたに違いない。
「楽しい話に移ろうかの」ダンブルドアが朗らかに言った。「今学期から、うれしいことに、新任の先生を二人、お迎えすることになった。まず、リーマス・ルーピン先生」
 教員席のリーマスへと視線が集まる。煌びやかなローブを身につけた先生がたの中で、リーマスはいつも通りの質素でつぎはぎのした古臭いローブを身につけていたため、やけに浮いて見えた。
「ありがたいことに、空席になっている『闇の魔術に対する防衛術』の担当をお引き受けくださった」
 あいまいに微笑むリーマスに、パラパラと気のない拍手が起こる。あまりにみすぼらしくて、生徒達の信用が得られていないに違いない。カナはできるだけ大きく拍手をした。
 それに、反対側の席からスネイプ先生がやけに鋭い目つきでリーマスのことを睨んでいるのが気になった。ふたりはおかあさんと同世代で知り合いだろうし、スリザリンとグリフィンドールだったのだから、なにか因縁があってもおかしくないな、とカナは思った。
「なあ、カナ。あの先生とさっき喋ってたよな。知ってる人か?」フレッドがこっそりたずねてきた。
「うん。ぼくの父親代わりみたいなひとだよ」
「えーっ! それじゃあ、リーマス・ルーピン先生って、カナが言ってた『リーマス』なの!」ジニーが興奮して黄色い声を出した。
「もう一人の新任の先生じゃが――ケトルバーン先生は『魔法生物飼育学』の先生じゃったが、残念ながら前年度末をもって退職なさることになった。手足が一本でも残っているうちに余生を楽しまれたいとのことじゃ。そこで後任じゃが、うれしいことに、他ならぬルビウス・ハグリッドが、現職の森番に加えて教鞭を取ってくださることになった」
 カナは飛び上がって喜んだ。ハグリッドにこれ以上適任な仕事はないだろうと思った――グリフィンドールからは割れんばかりの拍手が響いた。ハグリッドはうれしそうに顔を真っ赤にして、生徒達を見ていた。
「マーリンの髭!」向かいの席で、ロンがテーブルを叩きながら叫んだ。「噛み付く本を指定するなんて、ハグリッド以外にいないよな?」
「――さて、これで大切な話はみな終わった」ダンブルドアが両手を振り上げた。「さあ、宴じゃ!」
 瞬きのあいだに、さっきまで空っぽだった金の皿に料理がこれでもかと溢れかえっていた。大広間には話し声、笑い声、ナイフやフォークの触れ合う音がにぎやかに響く。
 フレッドはカナが好きそうなものを選んで寄せてくれた――「自分で取れるのに」とカナが言うと、ジニーとジョージが二人してかぼちゃジュースを吹き出すところだった。カナはちらりと教員席のリーマスを見た――ちゃんと食事をしている。
 今回のデザートはかぼちゃのタルトだった。カナはずいぶんと食べる量も速さも成長したけれど、やっぱり同世代の子達に比べたらかわいらしいものだった。

 歓迎会がおわり、新監督生のアンジーが引き連れる一年生を先頭に、グリフィンドール生は寮への階段をひたすら登っていく。そのあいだ、カナはジニーからエジプト旅行の話をたくさん聞いたし、後ろではフレッドはジョージにさんざんいじられていた。
「太った婦人レディ」の肖像画の目の前に来ると、「合言葉は?」と尋ねられる。後ろの方から、パーシーがほかの生徒をかき分けてずんずんと前に躍り出た。
「新しい合言葉は『フォルチュナ・マジョールたなぼた』!」
「あーあ」ネビルが悲しげな声を漏らした。合言葉をいつも覚えられないのだ。



20230310-20240607


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