「え? ハリー、列車の中で倒れちゃったの?」
 朝食の時間、カナはハリーがスリザリンのドラコ・マルフォイやパンジー・パーキンソンに思いっきりからかわれているのを見て、初めてそのことを知った。
「知らなかった」
「知らなくったってよかったよ」ハリーはイライラして言った。カナの向かいにどさっと座り込むと、乱雑にトーストの積み上げられた皿を引き寄せた。カナはバターの入った瓶をハリーに手渡してやった。
「ほら、時間割だぞ、三年生」
 ジョージが時間割の書かれた羊皮紙を手渡してきたので、カナも他の三年生へと回した。
「ハリー、何イラついてんだ?」
「マルフォイのやつだよ」ロンが教えた。
 今回の冷やかしはそうとう気に入っているらしい。スリザリンのテーブルでも、マルフォイがまたもや気絶する真似をして笑いを買っているところだった。
「あんなので笑えるなんて、幸せな頭だね」カナが言った。
「その通り」フレッドの同意だ。
「ろくでなし野郎」ジョージは落ち着いたものだった。「昨日の夜はあんなに気取っちゃいられなかったようだぜ。列車の中で吸魂鬼ディメンターがこっちに近づいてきたとき、僕たちのコンパートメントに駆け込んできたんだ。なあ、フレッド?」
「ほとんどお漏らししかかってたぜ」フレッドも軽蔑した目でマルフォイを見た。
「僕だってうれしくはなかったさ」ジョージが本当にうれしくなさそうに言った。「あいつら、恐ろしいよな。あの吸魂鬼ってやつらは」
「なんだか体の内側を凍らせるんだ。そうだろ?」フレッドの言葉にカナも頷いた。
「だけど、気を失ったりはしなかっただろ?」ハリーがうめくように言った。
「ハリー、気にしすぎだよ」カナがフォローする。
「そうだ、忘れろよ、ハリー。おやじがいつだったか、アズカバンに行かなきゃならなかった。フレッド、覚えてるか? あんなひどいところは行ったことがないって、おやじが言ってたよ。帰ってきたときにゃ、すっかり弱って、震えてたな・・・・・・やつらは幸福ってものをその場から吸い取っちまうんだと」カナは、ジョージの説明したことがよくわかる気がした。「あそこじゃ、囚人はだいたい気が狂っちまう」
「ま、僕たちとのクィディッチの第一戦のあとでマルフォイがどのくらい幸せでいられるか、拝見しようじゃないか」
「そうだな、フレッドちゃんは過去いちばんに絶好調みたいだし」
 カナをとびこえて、フレッドの杖がジョージの脇腹を突いた。
 ハリーはシーカーとして、マルフォイに負けたことはない。負けるわけがないのだ。少しでもハリーが元気を出してくれたらいい。
「わあ、うれしい。今日から新しい学科がもう始まるわ」
 ハーマイオニーが新しい時間割を調べていた。授業の羊皮紙でこんなにかわいらしい声が出せるのはハーマイオニーくらいだろう。
「ねえ、ハーマイオニー――」ロンがハーマイオニーの手元を覗き込みながら言った。「君の時間割、めちゃくちゃじゃないか。ほら、一日に十科目もあるぜ。そんなに時間があるわけないよ」
「なんとかなるわ。マクゴナガル先生と一緒にちゃんと決めたんだから」
「ハーマイオニー、ほんとに全部の選択教科を選んだの?」
「モチの、ロンよ」
「でもさ、ホラ――今日の午前中だ。わかるかい? 九時、『占い術』。そして、その下、九時、『マグル学』。それから――」ロンは笑いながら、さらに身を乗り出して時間割をよーく見た。「おいおい――その下に、『数秘術』九時ときたもんだ。そりゃ、君が優秀なのは知ってるよ。だけど、そこまで優秀な人間がいるわけないだろ、三つの授業にどうやっていっぺんに出席するんだ?」
「バカ言わないで。一度に三つの授業に出れるわけないでしょ――」
 そのときちょうど、ハグリッドが大広間に入ってきた。いつもの厚手木綿モールスキンの上着を着て、巨大な手の片方にケナガイタチの死体を握って、無意識にぐるぐる振り回している。
「元気か?」教員のテーブルに向かいながら、ハグリッドはカナたちを見つけてそわそわと声をかけてくれた。「おまえさんたちがおれのイッチバン最初のクラスだ! 昼食のすぐ後だぞ! 五時起きして、なんだかんだ準備してたんだ・・・・・・」
「ハグリッド、ぼく、すっごく楽しみにしてる」カナがにっこり笑いかけると、ハグリッドもつられてニコーッと笑顔を返した。
「ハハ! そうかい、そりゃ、腕がなるってもんだ! うまくいきゃいいが・・・・・・おれが、先生・・・・・・いやはや・・・・・・」
 ハグリッドはまだかわいそうなイタチを振り回していた。
「まともな準備だといいけど」ロンがこぼした。

 カナの最初の授業は「マグル学」だ。グリフィンドールのほとんどの生徒は人気の「占い術」を選択したらしい。北塔二階の「マグル学」の教室に向かうのはカナとハーマイオニーだけだ。スリザリンからはガートも合流した。生徒数が軒並み少ないので、四つの寮の合同授業となる。クラスにはスリザリンはガートしかいなかった。
「あたしたちの代にはあの威張り屋・マルフォイがいるからね。マグル嫌いがとくに顕著なんだ」
 教室は、マグル製の子ども向けのおもちゃが所狭しと並んだかわいい部屋だった。「なつかしいわ」なんてハーマイオニーはそれらを眺めていた。微動だにせず瞬きもせず微笑みを浮かべただけの女の子の人形が、カナには奇妙に見えた。
 今学期のマグル学の大きなテーマは「マグルはなぜ電気を必要とするのか?」といったものだと説明を受けた。学期末の試験に出すので、きちんと説明できるようになりましょうというバーベッジ先生の指導が入った。カナはそもそも電気が何かわからず、ガートやハーマイオニーに説明を受けて、なんとか理解をした。
「つまり、魔法使いや魔女が魔力を使っているように、マグルも『電気』を生み出して道具を操っているということ? それじゃ、杖も箒も無しでマグルは電撃を生み出せる?」
「違うわ、カナ――ねえ、魔法族に『電気』の説明をすることがこんなにも難しいのかしら?」
「ホグワーツで電気製品が使えたならね、まだわかりやすかったかもしれないけど・・・・・・」

 ガートと別れ、グリフィンドール生には「変身術」の授業が待っていた。
 カナはまだ電気と雷の違いがわからず、ハーマイオニーに尋ねようとして、振り向いた――そこには誰もいなかった。
「ハーマイオニー?」
 すごく足早に次の授業に向かってしまったんだろうか――カナも、「マグル学」の教室から移動するのは初めてだったので、あわてて「変身術」の教室の入っている反対側の塔へと走った。

 すでに教室には他のグリフィンドール生の姿があった。ハーマイオニーもきちんと出席している――カナは空いている一番前の席に座った。
 始業時間ぴったりにマクゴナガル先生が教室へ入ってくる。みんなの目の前にたどり着く頃には、先生はみるみる小さくなり、教壇の上にしなやかなトラ柄の猫が飛び乗った。よく見ると、目の周りにメガネ模様がある。その涼しい目はどう見てもマクゴナガル先生そっくりだ。カナは去年ガートが言っていたことを思い出した。
 カナは息を呑んで感激した。
「先生――本当にアニメーガス動物もどきなんだ!」
 カナの感動をよそに、教室は静まり返っていた。カナは不思議に思って、後ろを見回した。マクゴナガル先生の姿も元に戻る。
「ミス・エリオットはよく知っていましたね。それにしても、ほかのみんなは――どうしたというのですか? 別に構いませんが、わたくしの変身が生徒たちの拍手を浴びなかったのはこれが初めてです」
 カナもそれが不思議だった。シェーマスなんか、喜んで声をあげそうなものなのに、と思う。みんながいっせいにハリーのほうを見た――でも、誰も口を開かない。
 とうとう、ハーマイオニーが手を挙げた。
「先生、私たち、『占い術』の最初の授業を受けてきたばかりなんです」カナはハーマイオニーの言っていることに目を剥いた。だって、さっきまでハーマイオニーはカナと一緒に「マグル学」の授業を受けていたはずだ――カナのとまどいをよそに、ハーマイオニーは続けた。「お茶の葉を読んで、死神犬グリムが――」
「ああ、そういうことですか」マクゴナガル先生は顔をしかめた。「ミス・グレンジャー、それ以上は言わなくて結構です。今年はいったい誰が死ぬことになったのですか?」
 思わずカナは「え?」と声が漏れ出た。
 しばらく間があって「僕です」とハリーが沈みきった声で答えた。
「では、ミスター・ポッター、教えておきましょう。トレローニー先生は本校に着任してからというもの、一年に一人の生徒の死を予言してきました。いまだに誰一人として死んだ者はいません。死の前兆を予言するのは、新しいクラスを迎えるときのあの方の流儀です。わたくしは同僚の先生の悪口は決して言いません。それでなければ――」
 やや早口になっていた先生は一旦言葉を切って、鼻でできる限り息を吸い込んだ。息を吐いて落ち着きを取り戻したかったのだろう。
「『占い術』という分野は魔法の中でも一番不正確な分野の一つです。わたくしがあの分野に関して忍耐強くないということを、皆さんに隠すつもりはありません。真の予言者はめったにいません。そしてトレローニー先生は・・・・・・」
 先生はいまやいつも通りの調子で冷静に言葉を紡いだ。
「ポッター、わたくしの見るところ、あなたは健康そのものです。ですから、今日の宿題を免除したりいたしませんからそのつもりで。ただし、もしあなたが死んだら、提出しなくてもけっこうです」
 何人かの生徒が吹き出して笑った。ハーマイオニーは「占い術」は信憑性に欠けると思っているようだ。カナも、不吉な予兆なら知らない方がましだと思う。「占い術」を選択しなくてよかったかも、と思っていた。



 昼食が終わると、カナは「怪物的な怪物の本」持ってうきうきと校庭へ出た。昨日の雨が嘘みたいに、土は柔らかく乾いていた。ついに待ちに待ったハグリッドの授業だ。
 ハグリッドの小屋へ向かう最中、カナは背後でいやみな笑い声が聞こえてくるのが、夢であって欲しかったと思った。マルフォイとその取り巻き、クラッブとゴイルの下品な笑い声だ。どうにも、グリフィンドールとスリザリンの合同授業らしい。そして、どうして彼らがハグリッドの授業を選んでしまったんだろう、と、こればかりは偶然をうらめしく思う。

 足元にボアハウンドのファングを従えたハグリッドが、小屋の前で生徒を待っていた。ファングは今にもカナに飛び付きたそうにしていたが、ハグリッドがそれを制していた。
「今日はみんなにいいもんがあるぞ! すごい授業だぞ! みんな来たか? よーし、ついてこい! 」
 ハグリッドは興奮した様子で生徒たちを先導した。ハグリッドがあまりにも気合を入れているので、カナは少し心配になった。
「禁じられた森」の外縁を歩き、たどり着いたのは木の柵で囲われた放牧場だった。
「みんな、ここの柵の周りに集まれ! そうだ――ちゃんと見えるようにしろよ」生徒が集まると、ハグリッドは咳払いをした。「さーて、イッチバン最初にやるこたぁ、教科書を開くこった――」
「どうやって?」マルフォイの冷たく、きどった声がした。
「ああ?」
「どうやって教科書を開けばいいんです?」
 みんな、教科書――テープやベルトでぐるぐる巻きの「怪物的な怪物の本」を取り出してみせた。もぞもぞと身動きし、拘束を外せばいまにも飛びかかってきそうだ。
「だ、だーれも教科書をまだ開けなんだのか?」ハグリッドはがっくり肩を落とした。
 その場の全員が頷いた。
「おまえさんたち、撫ぜりゃあよかったんだ」ハグリッドはカナのテープぐるぐる巻きの本を取り上げて、その拘束をビリッと剥がした。バクバクッ! と本はハグリッドの手に噛みつこうとしたけれど、巨大な親指が背表紙をひと撫ですると、ブルッと震えたのち、パタンと開き、ハグリッドの手の中で大人しくなった。
「ああ、僕たちって、みんな、なんて愚かだったんだろう!」芝居がかったふうにマルフォイが鼻を鳴らした。「撫ぜりゃあ・・・・・よかったんだ! どうして思いつかなかったのかねえ!」
「お・・・・・・おれはこいつらが愉快なやつらだと思ったんだが」
 本をカナに返しながら、ハグリッドは自信なさそうに言った。
「ハグリッド、本屋さんにも教えなくちゃ」カナのアドバイスに、ハグリッドは頷いていた。
「ああ、恐ろしく愉快ですとも。僕たちの手を噛み切ろうとする本を持たせるなんて、まったくユーモアたっぷりだ!」
「静かにしろよ、マルフォイ」ハリーが声を殺すように言った。ハリーも、ハグリッドの最初の授業をなんとか成功させてやりたいと思っているに違いない。
 ハグリッドはすっかり落ち込んでしまった。「えーと、そんじゃ」最初の勢いがすっかり削がれて、何を言うべきか忘れてしまったようだった。
「そんで・・・・・・えーと、教科書はある、と。そいで・・・・・・えーと・・・・・・こんどぁ、魔法生物が必要だ。ウン。そんじゃ、おれが連れてくる。待っとれよ」
 ハグリッドは大股で森へと入っていった。
「まったく、この学校はどうなってるんだろうねえ」マルフォイがわざとらしく声を張り上げた。「あの、うどの大木が教えるなんて父上に申し上げたら、卒倒なさるだろうなあ――」
「だったら、きみが授業をキャンセルしたらいいよ」カナは引き受けたファングのあごを撫でながら言った。「きっとみんなそのほうが嬉しい」
 カナの言葉に、ブロンドの巻き毛を振りみだして、スリザリンのパンジー・パーキンソンが鼻息を荒くした。
「ふん、変人、色ぼけEasyエリオットが。口の利き方に気をつけなさいよ――」パーキンソンの罵倒は途中でかき消された。みんな、放牧場の向こう側をみて、声をあげた。
 ハグリッドが連れてきたのは十数匹の美しい、天馬に似た生き物だった。艶やかな羽で覆われた体躯に、前脚の巨大な鉤爪、立派な嘴に、ぎらついた鷲のようなするどい目――みんなぶあつい革の首輪をして、長い鎖で繋がれている。ハグリッドがそれを大きな手でまとめて握っていた。しかし、さすがにこれだけの数には力でかなうはずがない。ハグリッドは半ば引きずられるようにして放牧場に入ってきた。
「どう、どう!」
 ハグリッドは大きく声をあげた。両腕をふるって、生徒たちによく見えるように柵のほうへと追いやり、鎖をつないだ。カナは柵の一番近いところに飛び出て、その生き物の美しさに見惚れた。
「ヒッポグリフだ!」
 ハグリッドが全身をのばして嬉しそうに言った。
「美しかろう、え?」
 カナは頷いて、「すごいよ」と声をかけた。ヒッポグリフの模様はさまざまだ。漆黒も、褐色も、フクロウのような斑模様も、空の色のような灰色のグラデーションもいた。
「そんじゃ、もうちっとこっちに来い」
 ハグリッドは解説を始めようとした。柵に近づいているのは怖いもの知らずのカナだけだ。うしろから、そろそろと何人かが近づいてくる気配がした。
「まんず、イッチバン先にヒッポグリフについて知らなければなんねえことは、こいつらは誇り高い。すぐ怒るぞ、ヒッポグリフは。絶対、侮辱してはなんねえ。そんなことをしてみろ、それがおまえさんたちの最後の行いになるかもしんねえぞ」
 カナは、夏休みにガートからハウスエルフの扱い方について教えてもらったことを思い出していた。魔法生物も、人間に近い種族でも、ルールも文化も違う。
「かならず、ヒッポグリフの方が先に動くのを待つんだぞ。それが礼儀ってもんだろう。な? こいつのそばまで歩いてゆく。そんでもってお辞儀する。そんで、待つんだ。こいつがお辞儀を返したら、触ってもいいっちゅうこった。もしお辞儀を返さなんだら、すばやく離れろ。こいつの鉤爪は痛いからな」
 話し終わって、ハグリッドは手を揉みしだいた。
「よーし――誰が一番乗りだ?」
 答える代わりに、ほとんどの生徒がますます後ずさりした。なんだか、うまくいかないのでは、という空気が流れているような気がする。
「ぼく、やりたい」
 カナがまっさきに進み出た。
「おまえさんならそう言うと思っちょった、カナ!」
 ハグリッドがうれしそうに大声をあげた。ラベンダー・ブラウンにファングと革の鞄を預け、カナは柵を乗り越えて、放牧場の中に入る。
「よーし、そんじゃ、バックビークとやってみよう」
 ハグリッドは鎖を一本ほどき、灰色のヒッポグリフを群れから引き離し、首輪を外した。柵の向こうでは、生徒たちが息を止めているかのようだった。
「ハグリッドのことは慣れているんだね」
「そりゃ、おれが飼っちょるからな。いいか、礼儀を忘れるな」
 カナは落ち着いていたけれど、やっぱり少しドキドキしていた。怪我をすることなんて今更怖くはないけれど――ハグリッドの授業をなんとか軌道に乗せたいと思っていた。
 雲のような仄暗い灰色のヒッポグリフ――バックビークがカナを見つけた。鮮やかなオレンジ色の瞳が、カナの淡い空色の目をじっと見つめている。
「目を逸らすなよ。なるべく瞬きするな――ヒッポグリフは目をしょぼしょぼさせるやつを信用せんからな・・・・・・」
 カナは目の渇きなんて気にならなかった。それほど、間近で見るヒッポグリフは美しかった。
 そして、ハグリッドの合図で、カナはお辞儀をした――夏休みにガートに仕込まれた、見事なカーテシーだ。淡く微笑むことも忘れない。
 姿勢を戻したあとも、カナはいっときも目を逸さなかった。バックビークはまだカナを見据えている。お互いに、ぴくりとも動かない。
 ハグリッドが心配そうに「あー、カナ、ゆっくり下がるんだ――」と声を漏らしたときだ。突然バックビークが動き出した。前脚を折り、まるで人間がお辞儀をするかのようにこうべを垂れた。
「カナ、やったぞ!」ハグリッドが興奮した声でカナを褒めた。「よーし、触ってもええぞ! 嘴を撫でてやれ、ほれ!」
 カナは喜んで手を伸ばした。つやつやの嘴はよく磨かれた石のようだ。何度か撫でると、バックビークはうっとりと目を細め、カナの方に額を擦り付けるまでになった。
 柵の向こうからは大きな拍手が聞こえてきた。カナはバックビークに夢中だ。首筋を大きく、羽根の毛並みにそって撫でていると、カナはすっかり気に入られたようだった。
「カナ。こいつの背中に乗ってみたくないか。こいつはおまえさんを乗せてくれると思うぞ」
 乗れと言われても――ヒッポグリフには馬と違って鞍がついていないし、それにカナには高さがありすぎて飛び乗ることもできない――そう思っていると、バックビークが座り込んだ。まるで、向こうから乗れと言わんばかりにだ。
「ホレ! 翼の付け根んとっから乗るんだ。羽根を引っこ抜かねえようにな・・・・・・」
 カナは言われた通り、背中にそっと乗った。するとバックビークが立ち上がる。カナは振り落とされないように一生懸命捕まった――でも――全面羽根で覆われているせいで、どこを掴めばよいのかよくわからない。
「そーれ行け!」ハグリッドはバックビークの尻を叩いた。バックビークは走り出した――そして、なんの前触れもなく翼を広げ、あっというまに羽ばたいて浮き上がってしまった!
「待って――それは聞いてない!」
 カナは絶叫した。カナは、水の中と空中高いところは苦手だった――ぼくが箒の後ろから落っことしたことがあるからだ。
 カナは必死にバックビークの首筋にしがみついた。カナがあまりにもぎゅうと握りしめるので、バックビークも苦しいだろう。けれど、カナも怖い思いをしているのだ、許してほしい――
 バックビークは大きな翼で羽ばたきながら、空を蹴るようにして放牧場の上空を何周か飛び回った。その姿はとても勇猛で美しかったけれど――その景色や乗り心地を味わう余裕は、カナにはない。落ちないようにしがみつくことに必死だ。
 やがてゆっくり旋回しながらバックビークは放牧場の中にドサっと着地した。その衝撃もさながら、カナがよろよろとすべり降りると、ハグリッドが「よくやった!」と褒めて背中を叩いてくれた。柵の外から、スリザリン以外の生徒たちも拍手を送ってくれる。
「よーしと。ほかにやってみたいモンはおるか?」
 カナの次にはハリーやハーマイオニー、ロンたちが名乗りをあげた。ほかの生徒もこわごわと放牧場へと入ってくる。
 カナはハグリッドの任命を受けて、バックビークを他の生徒たちにあてがう役をした。やってきたのはクラッブとゴイルをしたがえたマルフォイだ。
 マルフォイはカナに一瞥くれただけで、バックビークの目の前に立った。バックビークがお辞儀をしたので、マルフォイは得意そうにした。
「簡単じゃあないか」嘴をぞんざいに撫でながら、カナのことを見下ろした。「ハグリッドやエリオットにできるんだ。そんなことだろうと思ったよ・・・・・・お前、全然危険なんかじゃないなあ?――」カナはバックビークの後ろ脚がピクリと動いたのを見て、直感的にマルフォイかを引き剥がそうとした――けれど、マルフォイの口をふさぐことはできなかった。「そうだろう? 醜いデカブツの野獣くん」
 カナの真横で、大きな体躯が迫り上がった。銀色の鉤爪がぎらりと光り、マルフォイの悲鳴が森にこだまする。カナはバックビークにとびついて、落ち着かせようとした――すぐにハグリッドがやってきて、首輪をつけようと格闘した。バックビークはまだ前脚を持ち上げ、マルフォイへの怒りをあらわにしていた。
「死んじゃう!」マルフォイは芝生の上で丸くなって叫んでいた。みるみるうちにローブに血がにじみ、それを見て周りの生徒もパニックになっていた。
「死ぬもんか!」カナはマルフォイに向かって杖を振るった。「フェルーラぐるぐる巻き!」
 マルフォイの深く長く避けた傷口に、カナのハンカチがきつく巻き付く。「痛いよ!」とマルフォイはうめくが、止血が先だ。
「痛い、僕、死んじゃう! 見てよ、あいつ、僕を殺した!」
「死にゃせん!」ハグリッドが蒼白になって駆け寄ってきた。「誰か、手伝ってくれ――この子をこっから連れ出さにゃあ――」
 ハグリッドがマルフォイを軽々抱え上げ、ハーマイオニーが走って放牧場のゲートを開けた。ハグリッドは大慌てで城に向かって走り、そのあとにはマルフォイの腕から滴った血が草地に点々と飛び散っていた。
 生徒たちはみんなショックを受けて、とぼとぼとそのあとをついていった。スリザリン生は怒り、ハグリッドをひどくののしった。
「すぐクビにすべきよ!」パーキンソンは涙ぐんでいる。
「マルフォイが悪い」カナがきっぱりと言い返した。
 スリザリンとグリフィンドールの言い分はおおむねこの通りだ。クラッブとゴイルなんか、力こぶを作って腕を曲げたり伸ばしたりした。口では言い返せないから脅しているのだ。
 みんな玄関ホールへと向かったけれど、カナはファングを小屋に送り届けるために別行動をとった。
「ハグリッドはちゃんと説明してたよ。マルフォイはその通りにしなかったんだ。できないなら、近づかなきゃよかったのに。ばかみたい。一生懸命やってたハグリッドがかわいそうだよ・・・・・・」
 カナは、わかっているのかわかっていないのか、しょんぼり気味のファングにそうこぼした。

 夕食の席にもハグリッドは現れなかった。スリザリンのテーブルではなにやら大騒ぎみたいだ。おおかた、ハグリッドの授業でマルフォイがひどい怪我をしただの何だのと、あることないこと囃し立てているに違いない。ヒッポグリフに毒なんかないんだから。マダム・ポンフリーがただの切り傷を治すのなんか、ひと晩もかからないのに。
「――そりゃ、ハグリッドは分が悪いな。やつら、今にも調子に乗るぞ。森番を追い出すうってつけの口実じゃないか」
 ハグリッドの最初の授業で起きたことを話すと、フレッドは心底あきれた目でスリザリンのテーブルを見た。
 カナはハグリッドが心配で、夕食も喉を通らなかった。冷たいかぼちゃジュースをちびちびと飲みながら、一人で寂しい思いをしているだろうファングを励ましに行こうと決めた。

 丸太小屋の近くまで来た時、ちょうど向こうからふらふらと歩いてくるハグリッドの姿が見えた。カナは走り寄った。大きな体が今にも倒れそうなほど揺れていたからだ。
「ハグリッド、まさか、もう校長先生から叱られたの?」
「ああ、カナ――いんや、まだだ」暗い、ハグリッドらしくない覇気のない声だ。
「ぼく、校長先生にきちんと説明するよ。ハグリッドは間違ったことを言っていなかった。だって、マルフォイは忠告を無視して、その通りになったんだもの――」カナは必死にハグリッドを励ました。「クビになんか、なるもんか。マルフォイが自分のせいで怪我をしたんだ。ぼくなんて、魔法薬学で何度怪我してるか数えきれないよ。それでもスネイプ先生は続けてるでしょ――ねえ、違う?」
「カナ」ハグリッドはカナの言葉をさえぎった。大きな体が、いまはずいぶんと縮んで見える。「スネイプ先生はベテランの教師で、おれはまーだ今日から始めたばっかの新米だ。わけが違うだろ、な?」
 カナは認めたくなかった。箒の授業でネビルの骨が折れても、マダム・フーチは悪くない。魔法薬学でカナが大爆発を起こしても、それはスネイプ先生のせいじゃない。正しい知識で、正しい手順で、それを扱えない魔法使いや魔女が未熟なだけだ。それに、怪我をしたマルフォイにハグリッドは適切な対処をしていたと思う。
「ハグリッド。ぼく、きみの授業がいちばん楽しみだったんだ。だから、弱気にならないでよ。まだ教えて欲しいことがたくさんあるんだ――」
「ああ――カナ、ほんっとにありがとうな」ひげもじゃの奥できらりと光るものがあった。カナは、ハグリッド、それにバックビークがひどいことにならなければいいけれど――とざわつく胸のしこりをおさえつけた。



 次の日の魔法薬学の授業でカナはガートのぐちをさんざん聞くはめになった。なんでも、パンジー・パーキンソンが目に見えて色めきだっていて、目障り耳障りきわまりないのだという。ガートがマルフォイと家どうしのつながりがあるのをひどくねたんで、なにかとあのキンキン声でいやみを吹っかけてくるんだそうだ。
「あの『色ぼけ』パーキンソン――」雛菊の根を不揃いのバラバラに刻みながら、ガートが唸った。
「彼女に言わせれば、ぼくこそ『色ぼけEasy』らしいけど」カナも雛菊の根を杖の一振りで均等に切り揃える。
「ふん、あいつ、鏡を見たことがないんだね。それか盛りの猫より脳みそが小さい」
 ガートはパーキンソンと席が離れているのをいいことに、さんざんぶちまけている。目の前に座る、スリザリンのセオドール・ノットとブレーズ・ザビニは聞こえないふりをしているようだ。
 その時だ。包帯をぐるぐる巻きにした右腕を首から吊り下げて、マルフォイがふんぞり帰って地下教室へと入ってきた。
「ドラコ、痛むの?」パーキンソンが巻き毛を振りみだして駆け寄って、猫撫で声でいたわった。
「ああ」とマルフォイは痛みを堪えるような反応だ。しかしパーキンソンが向こうを向いたとたん、マルフォイがクラッブとゴイルにウィンクを飛ばすのが見えた。
「ありえない」ガートが吐きそうなジェスチャーを交えてカナに言った。とうとう、ザビニが振り返った。
「エイブリー、女の嫉妬は見苦しいぜ」ザビニが日に焼けた頬を釣り上げていやらしく笑った。つられて、ノットも目を三日月のように細くして、にやにや笑いを浮かべている。
「笑えない冗談だよ――」カナはガートのふるえる手を押さえて言った。「猿と猿の交尾なんて、誰が羨ましがるっていうの」
 笑い声が地下教室に響いた。カナはスネイプ先生に減点されると思ったけれど――先生はカナをぎろりと睨んだだけで、とくべつお叱りは受けなかった。
「静かにしなよ! あたしは目立ちたくないんだから――」
「よく言うぜ、エイブリー。五年生のカップルを破壊しておきながら――」
「だから、あたしのせいじゃないってば――」
 カナは「縮み薬」の作業を再開した。ノットとザビニ、そしてガートは調合なんてそっちのけで楽しそうにおしゃべりを続けている。魔法薬学の時間、グリフィンドールの生徒は身の縮むような思いをしながら神経を張り詰めているというのに、スリザリンはこのざまだ。カナは丸々太った芋虫を輪切りにしながら、向こうのテーブルでスネイプ先生にねちねちと言い寄られているネビルのかわいそうな背中を見てため息をついた。



 その日の午後。新学期が始まってから、カナはこの日のことをあまり考えないようにしていた。なんというか――楽しみというのは違う、嬉しいというのも――でも、嫌なわけではない。もちろん、会えるのは嬉しかった。だけど、どんな気持ちでこの時間が――「闇の魔術に対する防衛術」の時間がやってくるのを待てばいいのか、カナにはわからなかった。「防衛術」の教室に、カナはできるだけ最後に入った。一番後ろの窓際の席に座った瞬間、始業のベルが鳴ったけれど、リーマス――ルーピン先生はまだ来ていなかった。
 みんなが座って、机の上に教科書と羽根ペンにインク壺、羊皮紙を取り出してしまって、待つのも飽きておしゃべりに興じていると、やっと先生が教室に入ってきた。
 リーマスはあいまいな微笑みで生徒たちを見回し、くたびれた古い鞄(リーマスがいつも持ち歩いているやつ)を、教員用の机に置いた。明るい昼間に見るからか、なんだか、入学式の日よりも顔色が良く見えた。
「やあ、みんな」リーマスの穏やかな挨拶だ。カナはそれだけで、首の後ろがむずむずとこそばゆくなった。「教科書は鞄に戻してもらおうかな。今日は実地演習をすることにしよう。杖だけあればいいよ」
 カナは言われた通りに教科書を鞄に仕舞いながら、リーマスのことを眺めた。リーマスもカナの視線に気づいて、にこりと微笑みを浮かべてくれた。
「ン! それじゃ、わたしについておいで」
 みんな不思議そうに、でもこれから楽しいことが始まるんだろうといったふうで、リーマスについていった。それがリーマスの不思議な魅力だとカナは知っていた。いつも穏やかで、ひとを安心させて、楽しいことを教えてくれる――だから、カナはリーマスのことが大好きなのだ。
 教室を出て、静まり返った廊下をみんなは進む。授業中なのだから、誰もいないのも当然だ――けれど、かどを曲がったとたん、遭遇したものがあった。
 ポルターガイストのピーブズだ。空中に逆さまに浮かんで、用務倉庫の鍵穴にチューインガムを詰め込んでいた。
 ピーブズは、リーマスが頭ふたつ分ほどの距離に近づいたところでようやく顔を向けた。そして丸めた爪先をごにょごにょと動かして、歌い始めた――
「ルーニ、ルーピ、ルーピン。バーカ、マヌケ、ルーピン。ルーニ、ルーピ、ルーピン――」
 カナは驚いた。ピーブズはいつも生徒にゴミや虫をふっかけたりインクをぶちまけたり、学用品を取り上げて勝手に捨てたりなんてひどいいたずらをする手に負えないやつで、カナのことももちろんからかって歌ったりしていた。けれど、ホグワーツの先生のことだけは、たいてい一目置いていたはずだ。
 みんな、リーマスがどんな反応をするだろうと思って見守った。リーマスは相変わらず微笑んでいる。
「ピーブズ、わたしなら鍵穴からガムを剥がしておくけどね」朗らかな声だ。「フィルチさんが箒を取りに入れなくなるじゃないか」
 フィルチさんはホグワーツの管理人を務めている老人だ。そして非魔法使いスクイブだった。だからいつも生徒のことを嫌っているし、嫌われている。ピーブズと喧嘩することなんてしょっちゅうだ。魔法で仕返しができないぶん、彼の性格は言葉では説明できないくらいものすごく捻くれている。
 ピーブズは先生がたの言うことはなんだかんだで従うのだけれど――それどころか、舌を突き出して、ベーッと唾を吐いた。
 リーマスは小さなため息をついて、杖を取り出した。
「この呪文は役に立つよ」
 リーマスは肩越しにみんなを振り返って言った。
「よく見ておきなさい――ワディワジ逆詰め!」
 ピーブズに向かって杖を向けた。彼がせっせと詰めていたチューインガムの塊が勢いよく鍵穴から飛び出し、ピーブズの左の鼻の穴に見事ヒットした。ピーブズはもんどりうってぐるりと上下反転し、悪態をつきながら遠くへと逃げ去ってしまった。
「先生、かっこいい」ディーンが口をパクパクさせた。
「ン。ディーン、ありがとう」リーマスは杖をしまう。「さあ、行こうか」
 みんなふたたびリーマスについていくけれど、さっきまでとは雰囲気がまるで違う。みすぼらしくて冴えないルーピン先生、なんて思っている生徒は、この場にはもういないだろう。カナは――カナも驚いていた。リーマスがこんなにも素晴らしいセンスの魔法使いだってことを、たったいま初めて知ったのだから。

 職員室の前で、リーマスはようやく足を止めた。「さあ、お入り」と扉を開けて、一歩下がってみんなを中へと入れた。
 カナは職員室をたずねたのは初めてだった。奥にぽーんと突き抜けた細長い部屋で、不揃いの古い椅子がたくさん置いてあった。ひと気のないがらんとした部屋に、たった一人、スネイプ先生が肘掛け椅子に座っていた。グリフィンドールの三年生がぞろぞろと列をなして入ってくるのをじろりと見回している。リーマスが最後に入って扉を閉めると、スネイプ先生が言った。
「ルーピン、開けてくれ。私はできれば見たくないのでね」
 立ち上がって、闇のような黒いローブを翻しながら大股でみんなの傍を通り抜けていった――ドアのところでくるりと振り返り、せせら笑った。
「おそらく誰もルーピン先生に忠告していないと思うが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には難しい課題を与えないようご忠告申し上げよう」
 ネビルは顔が真っ赤になった。カナは心底いやな気持ちになる――ほかの先生の前ですら、生徒をいびるスネイプ先生の性格だけは本当に受け入れ難かった。
 リーマスは眉根を上げて、あくまで朗らかに言った。
「今回の授業で、ネビルにはわたしのアシスタントを務めてもらいたいと思っていましてね。それに、ネビルはきっと、とてもうまくやってくれると思いますよ」
 ネビルはこんど、ブロンドの地肌までも真っ赤にした。スネイプ先生は意地悪そうにリーマスを睨め付けて、乱雑にドアを閉じて出ていった。
「――ウン、さあ、それじゃ」
 リーマスはみんなに部屋の奥まで来るよう合図した。そこには先生がたが着替え用のローブを入れるための古いクローゼットが、不自然にポツンと置かれていた。リーマスがそのわきに立つと、クローゼットはわなわなと震えだし、生き物のように勢いよく壁から離れた。
「心配しなくていい」
 驚いて飛び退いた何人かの生徒に、リーマスは静かに言った。ラベンダーも思いっきり掴んだカナのローブの袖を離す。
「この中にボガートが入っているんだ」
 心配しなくていいと言うけれど――生徒たちはおそろしげにざわついた。さっきアシスタントを宣言されたネビルなんか必死になってリーマスを見つめている――再びクローゼットの取手ががたがた揺れ始めたので、みんなそれを見つめた。
「ボガートは暗くて狭いところを好む。クローゼット、ベッドの下の隙間、流しの下の食器棚など――わたしは一度、大きな柱時計の中に引っかかっているやつに出会ったことがある。ここにいるのは昨日の午後に入り込んだやつで、三年生の実習に使いたいから、先生がたにはそのまま放っておいていただきたいと、校長先生にお願いした」
 リーマスはよどみなく説明して、みんなを見回した。
「それでは、最初の質問ですが、ボガートとはなんでしょう」
 ハーマイオニーが手を挙げた。
「変身妖怪です。私たちが一番怖いと思うものはこれだ、と判断すると、それに姿を変えることができます」
「わたしでもそんなにうまくは説明できなかっただろう」
 ハーマイオニーは頬をピンク色にした。カナは、リーマスがこんな調子でいろんな生徒を褒めたら、みんなリーマスのことを好きになってしまうだろうな――なんてことを思った。
「すなわち、暗がりに座り込んでいるうちは、まだなんの姿にもなっていない。クローゼットの外にいる誰かが何を怖がるのか、まだ知らない。まね妖怪のボガートが一人ぼっちの時にどんな姿をしているのか、誰も知らない。しかし、わたしが外に出してやると、たちまち、それぞれがいちばん怖いと思っているものに姿を変えるはず――ということは」
 ネビルがとうとうしどろもどろし始めたのを、リーマスはあえて無視して話をすすめた。
「つまり、初めからわたしたちのほうが大変有利な立場にありますが、ハリー、なぜだかわかるかな?」
 ハーマイオニーがハリーの隣で高く手を上げ、ぴょこぴょこ飛び上がっているのを見て――ハリーっていつのまにかハーマイオニーよりも背が伸びたんだ、なんて場違いなことを考えた。
「えーと、僕たち、人数がたくさんいるので、どんな姿に変身すればいいかわからない?」
「ン、その通り」リーマスはみんなのことを見回した。「ボガート退治をするときは、誰かと一緒にいるのが一番いい。むこうが混乱するからね。一度に二人を脅そうとして、半身ナメクジの首なし死体が現れたら、どう見ても恐ろしいとは言えないだろう。
 退散させる呪文は簡単だ。しかし精神力が必要だ。こいつを本当にやっつけるのは笑い・・なんだ。きみたちはボガートに、きみたちが滑稽だと思える姿をとらせる必要がある。
 初めは杖なしで練習してみよう。みんなわたしに続いて言うんだ――リディクラスばかばかしい!」
リディクラスばかばかしい!」全員がいっせいに唱えた。
「そう。とっても上手だ。でもここまでは簡単なんだけどね。呪文だけでは十分じゃないんだよ。そこで、ネビル、きみの登場だ」
 クローゼットが思い出したようにまたがたがたと揺れた。けれど今は、ネビルのほうがもっとがたがたと長いこと震えていた。
「よーし、ネビル。ひとつずついこうか。きみが世界いち怖いものはなんだい?」
 ネビルの唇が動いたけれど、声が出ていなかった。
「ン? ごめん、ネビル、聞こえなかった」
 ネビルはまるで誰かに助けを求めるかのように、きょろきょろとあたりを見回して、それから蚊の鳴くような声を絞り出した。
「スネイプ先生」
 その場にいたみんなが笑い声をあげた。ネビル自身も申し訳なさそうにニヤッと笑った。リーマスだけがまじめな顔だ。
「スネイプ先生か・・・・・・フーム・・・・・・ネビル、きみはおばあさんと暮らしているね?」
「え――はい」ネビルは不安そうに答えた。「でも、ボク、ボガートがおばあちゃんに変身するのもいやです」
「いや、いや、そういう意味じゃないんだよ」リーマスは今度は微笑んだ。「教えてくれないか。おばあさんはいつも、どんな服を着ていらっしゃるのかな?」
 ネビルはキョトンとしたけれど、答えた。
「えーと・・・・・・いつもおんなじ帽子。たかーくて、てっぺんにはげたかの剥製がついてるの。それに、ながーいドレス・・・・・・たいてい、緑色・・・・・・それと、ときどき狐の毛皮の襟巻きしてる」
「ハンドバッグは?」
「おっきな赤いやつ」
「よし、それじゃ、ネビル。その服装を、はっきり思い浮かべることができるかな? 心の目で、見えるかな?」
「はい」
 ネビルは自信なさげだ。心配しているネビルを励ますように、リーマスが胸を張った。
「ン! ネビル。ボガートがクローゼットから飛び出してくるね、そして、きみを見るね。そうすると、スネイプ先生の姿に変身するんだ。そしたら、きみは杖を上げて――こうだよ――そして叫ぶんだ。『リディクラスばかばかしい』――そしてきみのおばあさんの服装に精神を集中させる。すべてうまくいけば、ボガート・スネイプ先生はてっぺんにはげたかのついた帽子をかぶって、緑のドレスを着て、赤いハンドバッグを持った姿になってしまう」
 大爆笑が起きた。みんな大喜びだ。リーマスもちょっとおもしろそうにしている――クローゼットが笑い声を聞いて、いっそうはげしく揺れ出した。
「ネビルが首尾よくやっつけられたら、そのあとボガートは次々ときみたちに向かってくるだろう。みんな、ちょっと考えてくれるかい。何がいちばん怖いかって。そして、その姿をどうやったらおかしな姿に変えられるか、想像してみて――」
 みんな静かになって、いちばん怖いものは何かを考えている。カナの場合はなんだろう。ユニコーンの死体? 去年出会ったバジリスクに、トム・リドル? それとも――ぼくの亡き骸。どれもピンと来なかった。吸魂鬼ディメンターだって怖いけれど――
「ン。みんな、いいかい?」リーマスが言った。
 カナはあわてた――まだ怖いものも思いついていないし、それがどうやったらばかばかしく見えるのかも思いついていなかった。でも、周りのみんなは杖を握り、腕まくりしてリーマスに頷いていた。まだ準備ができてないなんて言えない。
「ネビル、すこし下がろう。みんなも場所を空けておくれ。いいね? つぎの生徒は前に出るようにわたしが合図する。みんな下がって。ネビルがまちがいなくやっつけられるように――」
 みんなはぴったりと壁にくっつくような形になった。ネビルは一人、クローゼットのそばに取り残されている。その顔色はひどく青ざめていたけれど、しっかりと杖を握り、袖をたくし上げていた。
「ネビル、三つ数えてからだ」リーマスがクローゼットの取手に杖を向けた。「スリー、ツー、ワン――それ!」
 リーマスの放った火花が取手にぶつかると、扉が勢いよく開いた。彫刻のような顔、尖った鷲鼻、くぼんだ黒い瞳――飛び出してきたのはまちがいなくスネイプ先生だった。ネビルのことをぎらぎらと睨みつけている。
 ネビルは杖を上げ、口をパクパクさせながら後退りした。スネイプ先生がローブの懐に手を差し込んで、ネビルとの距離を詰めてきたときだ。
リディクラスばかばかしい!」
 ネビルは声を裏返しながら叫んだ。
 パチン――と頬を勢いよく叩くような音がして、スネイプ先生が躓いた。気がつけば、丈の長い、レースで縁取りされた緑色のドレスを身にまとっている。見上げるように高い帽子のてっぺんには、虫食いしたはげたかの剥製が乗っていて、手には大きすぎる真紅のハンドバッグをぶら下げている。
 みんな、これ以上ないくらい笑った。ボガート・スネイプ先生は途方にくれたように固まっている。リーマスが大声で次を呼んだ。
「パーバティ、前へ!」
 豊かな黒髪を揺らして、パーバティが前に進み出た。その表情は緊張している。スネイプ先生がパーバティを見つけると、もう一度パチン、と音がして、こんどは血まみれの包帯をやせた全身に巻き付けた、ミイラ男が立っていた。くぼんだ眼窩と口元の影だけがわかる顔を向けて、ゆっくりとパーバティに迫った。足を引きずり、探るように手を突き出して――
リディクラスばかばかしい!」
 包帯がひとすじ、バラリとほどけ落ちた。足元に落ちたそれに引っかかって、ミイラはつんのめった。その勢いで、頭がゴロンと転がっていった。
「シェーマス!」リーマスが呼ぶと、反対側から砂色の頭が飛び出した。
 パチン!――ミイラはバンシーに姿を変えた。真っ赤な目を光らせ、骸骨のような緑色の顔を引き攣らせて、この世のものとは思えない、細く長い叫び――泣き声を上げた。あまりに甲高い悲鳴に、髪の毛がぶわりと逆立つ。
リディクラスばかばかしい!」
 とたん、バンシーの声が枯れ、喉をおさえた。これでは泣き声も上げられない。
 パチン!――ボガートは飛び出してくる生徒たちに向かって次々に姿を変える。
「混乱してきたぞ!」リーマスが叫んだ。「ロン、つぎだ!」
 パチン! 女の子たちが悲鳴をあげた。なにしろ――ボガートはゆうに六フィートを超える巨大蜘蛛へと変身したからだ。けむくじゃらで、かみそりのような鋏をがちゃがちゃと鳴らし、ロンに迫る。
リディクラスばかばかしい!」
 轟くような大声だ。ロンが放った呪文は蜘蛛の脚を消し去ってしまった。
 けむくじゃらの蜘蛛の胴体がカナめがけて転がってきた。
「カナ、構えて!」リーマスが呼ぶ。一歩前に出て、杖を構えた。
 ゴワゴワの毛の生えたクアッフルみたいなそれが目の前に辿り着く頃に、パチン――という音とともに、ぐにゃりと歪んですがたをかえた。
 ぬらりと影が伸びてカナを覆う。カナは見上げた。
 男だった。長身で痩せた、骨張った肩の――夏じゅう一緒に居た、ウォーレンだった。
 それで――カナはやっと腑に落ちた。怖かったんだ。あの夏じゅう。夜になるたび。カナは怯えていたんだ。
 怖いという言葉と感情が結びついたのに気づいたら、カナは泣きそうになってしまった。
「リディクラス!」
 涙声にならないように叫んだ。しかし杖から延びた光線は、ウォーレンの鼻先ではじけて消えた。それを見て意地悪そうに笑う。あの目尻の皺を見ると、カナは下着が毎日無くなっていたことを思い出して、血の気が消える。
「――カナ。カナ。大丈夫よ」
 杖を落として、カナは立ち尽くしていた。パーバティが肩に触れて、ようやくわれに返る。ウォーレンはもういない。いつのまにかボガートは消え去っていた。
 カナはリーマスを見た――目が合った。ザッと血の気が引く音がする――リーマスはばつが悪そうだ。
 それで――カナは、思わず職員室を出て行ってしまった。杖を拾うことも忘れて、わき目もふらず早歩きで、リーマスの最初の授業を飛び出した。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう――リーマスに嫌われる!
 そればかりがカナの頭を巡った。あの目――驚いていた――悲しいような、こちらを気遣わしげに見る、さっきのあの目。
 リーマスはカナが夏に何をしていたのか、気づいたに違いない。さっきこらえたはずの涙が出た。カナはそれをぬぐいながら、あてもなく歩いた――



20240608


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