「うぅぅ、うううう・・・・・・っ」
歩きながら、カナはうめいた。気づけば「禁じられた森」の前まで来ていた。まだ明るい空には、わずかに夕暮れの色が混ざり始めている。そのせいか、鬱蒼とした森は暗さを増していた。
「う・・・・・・わああああぁぁ・・・・・・リーマスに、嫌われちゃうよぉぉぉおお」
ひと目もはばからずに、カナは大声で泣いた。わんわん泣いた。カナの嗚咽が響いたのか、「禁じられた森」の奥地で鳥がいっせいに羽ばたく音がする。水辺の蛙もしぶきをあげて逃げ去った。さいわい、近くに生徒や教員は見当たらない。カナは座り込んで、しばらく思いっきり泣いた。こんなに大げさに、子どもみたいに泣くのは、初めてだった。
どのくらいそうしていただろう――熱くたぎったカナの身を、冷たい風があおった。ぷるっと肩がふるえて、カナはようやく城内へ戻らなくては、と思い至って、鼻をすすったときだ。
茂みの向こうから視線を感じた。薄暗がりの中で、何かがキラリと光ったような気がする――カナは立ち上がって、近づいた。不用意にも。
大人がそばにいたなら、誰もがカナを止めただろう。だって、カナはいま杖すら持っていないのだ――でも、カナは危険の気配を感じたりはしていなかった。
狼かと思ったけれど――犬だ。岩のように大きな、大きな黒い犬だった。ひどく痩せ細っているように見えるけれど、それでもカナよりも体重があるだろう。息を殺して、横たわっていた。グレーの鋭い瞳が、カナをじっと見つめていた。森に棲む野犬だろうか、その割には人間を警戒していないようだけれど。
「怪我してる」
カナがそっと近寄っても、黒犬は動かなかった。後ろ脚から血を流し、その場にうずくまっているせいで咄嗟に動けなかったのだ――カナはすぐそばまで来て、しゃがみこんだ。致命的ではないけれど、深い裂傷だ。出血は止まっているようだけれど、痛みで動けないだろう。
カナはそこではじめて、杖を持ってこなかったことを後悔した。さっそうと立ち上がり、カナは迷わずハグリッドの小屋を目指した。家主は不在なようだ。いまは大広間で夕食でも摂っているんだろう。外に置いてあるバケツに清水をくみ、プランターから勝手にセージの葉をいくつか摘んだ。ポケットからハンカチを取り出した―― 一年生のころ、アリシアとアンジーが刺繍をして贈ってくれたグリフィンドールカラーのハンカチだ。
大急ぎでカナが戻ると、犬はまだそこにいた。ヨロヨロと、大きく裂けた後ろ脚を引きずって、立ちあがろうとしていた。「待って」カナが言うと、犬はまるで人間の言葉が分かるかのようにピタリと止まった。
「良い子だね。座って・・・・・・傷を洗うから・・・・・・」
カナは泣いて腫れた自分の目もとを拭うことすら忘れて、黒犬の傷を洗い流し、ハンカチを血で汚した。最後に、セージの葉をちぎって水を絞ったハンカチでつつみ、それを傷口にくくりつけた。今できる処置はこの程度のものだろう。カナが杖を持っていれば、もうちょっとマシな処置魔法が使えただろうに。
「ごめんね・・・・・・このくらいしかできないや」
黒犬は観察するようにじっとカナを見た。
「きみはどこから来たの? この森に棲んでいるの? 食べ物はある?」
答えが得られるわけがない。黒犬はただフッと息を吐き、気だるそうにそこに座り込んでいた。
「そうだ、まだ動けないでしょう。食べ物を持ってきてあげる・・・・・・きみは何が好きかな? 夕食のチキンでもいい? 焼いたやつだけど・・・・・・それとも、ハグリッドにイタチの肉を分けてもらおうか?」黒犬は顔を上げ、尻尾をブンブンと振った。「チキン?」ワン、と犬はようやく鳴いた。
「わかった。ちょっと待っていてね――また来るからね」
カナは小屋にバケツを返して、大広間に向かった。玄関ホールは夕食を終えた生徒で溢れていた。カナは人の流れに逆らって大広間へと急いで入っていく。
「カナ!」グリフィンドールのテーブルにラベンダーとパーバティがまだ残っていた。「ねえ、大丈夫? どこへ行っていたの?」
「ごめん、なんでもないんだ」カナはあいまいに笑った。「あのね、森に黒い犬がいるんだ。怪我をしてて――」
「黒い犬ですって!」ラベンダーのキンキンした悲鳴が大広間に響いた。「カナ――マーリンの髭! 駄目よ、関わっちゃダメ」
「ああ、あなたも『占い術』に出席するべきだったわ。いますぐトレローニー先生に相談するべきだわ――」パーバティも美しい顔をゆがめて、悲壮感たっぷりに言った。
「だ、大丈夫だよ。ただの犬だ」
「死神犬よ!」
二人の鬼気迫る表情に、カナは圧倒されていた。「忠告をどうも。気をつけるよ」とだけ言い、カナはテーブルに向かった。あまり味付けがなされていない肉料理はないかと探し、小ぶりなローストチキンのプレートを手に取った。空の皿を上からかぶせ、パンの入ったバスケットにプレートと水差し、空のゴブレットを放り込み、先生に何か小言を言われる前にとそそくさ大広間をあとにした。
もうすっかり夜だ。カナは新学期のダンブルドアの忠告なんか忘れて、校庭をこそこそと通り「禁じられた森」の付近までもう一度足を運んだ。ハグリッドの丸太小屋の窓から見えないように、石像や木に身を隠しながらすすんだ。
さっきの場所にカナが近づくと、奥の茂みから犬が顔を出した。カナは地面に座り込み、バスケットの中から肉料理とゴブレットを取り出した。水差しでゴブレットを満たし、犬の目の前に置いた。
「食べられるかどうかわからないけど」
カナが蓋にしていた皿を取り上げると、犬はすくっと立ち上がって、よろめきながら近づいてきた。香辛料の香ばしい香りが、カナの胃袋も刺激する。付け合わせのトマトをカナはつまみ、バスケットの中からパンを取り出してかじった。
犬は匂いを嗅ぐこともなく、ローストチキンに口をつけた。あまりに骨をきれいに除けて食べるので、なんて賢い犬なんだ、とカナは感心していた。それに人慣れだってしているし、きっと誰かに飼われていたんだろう。
「きみのご主人様は? ホグワーツの生徒じゃないよね。犬は校則で飼えないし・・・・・・きみみたいな大きな子がいたなら見たことあるだろうし」
腹が満たされた犬は口のまわりをぺろっと舐めとり、カナのことを不思議そうに見つめた。
「名前はある?」
犬は困ったように瞬きをした。カナはそっと手を差し出して、犬が警戒しないのを見るととんがった耳に触れ、頭を撫でた。
「パンは食べられる?」カナはバスケットをその場に置いた。「また明日も食べ物を持ってくるよ。お昼にね」
カナが言い終えるまえに、犬はなにかに怯えたように、茂みの向こうへ飛び上がって走り去ってしまった。カナはきょとんとしたが、言ったとおりバスケットをその場に置いて、立ち上がった。すっかり空っぽになったプレートとゴブレット、水差しを重ねて、カナは城へ戻った。
校庭の向こうに、一段と黒い影がうろついているのが見える。吸魂鬼だ。カナはその小さなシルエットを見ただけでも背中のうぶ毛がぶわりと逆立つ。
「こんばんは」
「うわあ!」カナは手の中の食器を落としかけ、ガチャガチャと激しく揺らして、なんとか持ち直した。目の前に立っていたのは、リーマスだ。
「こんな時間にこんなところで、どうかしたのかな? 夜のお散歩には見えないが」
「リーマス――」
「『ルーピン先生』」リーマスは生徒指導をしているようには見えない朗らかな笑顔で言った。
「ルーピン、先生。ぼく――」落ち着かない。それに、リーマスに隠しごとなんてできっこないのだ。カナのつたない嘘をこれまで何度見抜かれたことか。
「わたしに会いたくなかったんだろう」カナの心臓がきしんだ。
リーマスは杖を振って、カナの手の中にある食器をすべて消しさってしまった。「こんなところではなんだ。それに、怖いのもうろついているしね。ついておいで」
歩き出したリーマスの背中を、カナは素直に追いかけた。そうしようと思えばできたのに、逃げ出そうとは思わなかった。
去年まで前任のロックハートが使っていた部屋は、いまはリーマスに与えられていた。荷物の少ない、質素な部屋だ。「座るといい」と、リーマスは火をつけたばかりの暖炉の目の前の椅子をすすめてくれた。
「お茶を淹れよう。きみのおかあさんみたいに上手ではないけどね。砂糖はひとつでいいね?」
カナをさしおいて、リーマスは杖でポットを叩いてお茶の準備を進める。ようやく振り向いたときに、カナがまだ部屋の入り口に突っ立っているのを見て、苦くほほえんだ。
「おや、叱ろうと思ってるわけじゃないよ。ただゆっくり話がしたかったんだ」
カナはようやく、すすめられた席にぎこちなく座った。差し出された熱い紅茶にカナは口をつけた――なつかしい味だった。「がれきの城」に住んでいたころ、リーマスがたずねてくるたびに飲んでいた。カナはすこし肩の力を抜いた。
「ン――まず、忘れ物を返却しよう。大事なものは落とさないようにね」
リーマスは、カナの杖をテーブルの上に置いて、カナの向かいに座った。それから、事務机の上にカナの鞄が置いてある。授業中に置き去りにしたカナの荷物だ。カナは杖を手に取って、ローブのポケットに仕舞った。
「リーマス、授業をだいなしにしてごめん」
カナが上目遣いで小さな声で謝ると、リーマスはあわく微笑んだまま首を振った。
「そんなことを思ってはいないよ。大丈夫」
もう一口紅茶を飲んだ。ハグリッドのこともあって――リーマスが先生としての評価を得られなくなってしまうのはいやだった。
「それよりも、きみが何に怯えているかのほうが重要だ」
ティーカップを置く手が、わずかに震えた。ぎこちなく息を吐き、視線を下げる。リーマスの目をまっすぐ見ることができない。
「あの家出の日に、なにかあった? カナ」
家出のことも、リーマスは知っていた。むしろ、カナのことで彼が知らないことなんて何もないんじゃないかとさえ思う。
「リーマスはなんでもお見通しなんだね」膝の上で握ったこぶしの指先が、白くなっていた。「・・・・・・でも、言いたくないよ。言いたくないことなんだ――わかってくれる?」
「・・・・・・ウン。カナがそう言うなら」リーマスも息を吐いた。「わたしは、きみがひとりで苦しんでいるんじゃないかと・・・・・・なにか助けになればと思ったんだ。きみはエリアに似たところがある。なんでもひとりで抱え込んで、最悪なことになるまで爆弾を育ててる」
「リーマスは、おかあさんのことばっかり」
カナはちらりと様子を伺った。リーマスはわずかに意表を突かれた様子で、でもすぐに笑った。
「わたしはただ、きみたちが間違いなく親子だと、そう言いたかっただけだよ。彼女のことを知っていて、心配しない人のほうが珍しい――それに、わたしにとっては、妹みたいに大切なんだ」
「じゃあ、ぼくのことは?」
「自分の娘のように思っているよ」
「家族みたいに?」
「もちろん、家族だ」
大きな衝撃を受けて、カナは両手で口を覆った。カナがびっくりしたことに、リーマスも心外そうに「おやおや」と両手を上げた。
「ひどい顔だ!」
消灯時間も間際になって、リーマスはカナをグリフィンドール塔まで送り届けてくれた。「懐かしいな」なんて、「太った婦人」の肖像画を眺めていた。
「ン――ああ、そうだった」
胸の内ポケットから、リーマスは一枚の羊皮紙を取り出した。
「ホグズミードの外出許可証だ。エリアから預かっているよ」
そこには、あまり見覚えのない、澱みないかすれた字で、おかあさんの署名がしてあった。
リーマスは額におやすみのキスを送ってくれた。カナも真似をして、リーマスの額をせがんだ。埃っぽくて、煤けて、でもいつもお菓子の甘い匂いがしている――リーマスのことを全身で感じて、乾いた土がたっぷりの水で満たされたような感じがした。
リーマスはカナを「家族だ」と言ってくれた――カナがそう思っているように。たったそれだけの言葉で、カナはこの先何十年だって生きていけるような気さえ、した。
「どこ行ってたんだよ、カナ!」
談話室で呼び止められる。フレッドは以前よりもずいぶんと過保護になったと思う。カナが夜中に学校じゅうをうろうろするのなんて、今に始まったことじゃないし、フレッドのほうだっていろんな抜け道を探したり、先生に怒られるようなことを数えきれないくらいしているはずだ――まあ、夏のことがあったから、カナの姿が見えないのを心配しているというのもあるのだろうけれど。
「これ」カナは今しがた受け取ったばかりの「許可証」をフレッドに見せた。「行っていいって」
パーッと花が咲いたようにフレッドの顔が晴れた。今にもカナのことを抱きしめて振り回しそうな勢いだ。
「そしたら、最初のホグズミード――おそらく来月あたりだ、一緒に行こう。僕らのお気に入りの店があるんだ。ゾンコの店は『ギャンボル・アンド・ジェイプスいたずら専門店』に負けないぜ――」
いちばん最初のデートの計画を、カナとフレッドはうららかに話した。カナはホグズミード村にどんな店があるのかまったく知らなかったので、フレッドの話を興味深く聞いた。
「あっ」カナは思い出したことがある。「ぼく、でも――そうだ。お小遣いをもらってないよ!」
カナが手元に持っているのは、たったのシックル銀貨が三枚ほどだ。
「これじゃ、バタービール一杯がせいぜいだな」フレッドも肩を落とした。
「リーマスにかけあってみる」そう言うと、フレッドはあまり嬉しくなさそうだったけれど――「試してみる価値はある」と頷いてくれた。
最初の一週間が終わる頃には、カナの思ったとおり、「ルーピン先生」の授業はほとんどの生徒のお気に入りの授業となった。中にはリーマスのつぎはぎのローブをばかにしたり、貧しいろくでなしだと吹聴する生徒も――スリザリンのごく一部にはいたけれど。リーマスはたくさんの生徒から慕われた。カナはそれが嬉しくもあり――でも寂しさのほうが大きかった。
「あんたがルーピン先生にこだわる理由が、なんとなくわかるよ」
週末、最初の「秘密の訓練」で、ガートはカナをあわれむように言った。
「だって、誰にでもあんなふうに親切だったら、あんたはいい気分はしないよね」
「わかってくれる?」
ガートはウンウンと頷いた。
「それに、とびっきり優しそうなのに影のある感じも、雰囲気バツグンだし。あの生々しい傷跡が男らしいっていう話も――」
「ちょっと、待って、ガート」カナはガートの話をさえぎった。「そういう――ぼく、彼のことは家族としか思っていないよ。リーマスもそう思ってる」
「なーんだ。てっきり、そういう意味で好きなんだと思ってた」
「違うってば。列車の中で言ったでしょ」
「そうだったね」ガートは口角を保ったまま、目線を落とした。「あたしがそうだから。あんたも同じだといいなって思っちゃった」
カナはなんとなくわかっていた――ガートがバートラム・エイブリーに向ける情愛は、まるで熱心な信仰のようだったから。
「わかるよ、ガート」
カナも、ああは言ったけれど――きっと、この先リーマスよりも好きになる男性なんて、そう現れないだろうということはうすうすわかっていた。それに、リーマスがカナを娘以上の気持ちで見てくれることはないことも。そして、それを望んでもいなかった。
「ぼくたち、同じかもね」
ふたりは言葉もなく頷いた。
手をパンっと叩いて、ガートは気を取り直した。
「さて、そろそろ本格的にアニメーガスの訓練をしよう。じつは、いくつもの儀式が必要なんだ。自分の体を改造するみたいなものだからね」
ガートは一冊の本を取り出した。「器を作り替える-魂の變革-」と書かれた古びた本だ。背表紙がひどく色褪せているけれど、あまり手に取られた形跡がない。
「このあいだの『変身術』の授業で、マクゴナガル教授が変身を見せてくださったんだ――すっごく見事だった。詳しい手順は教えてくださらなかったけど、手順を失敗すると半人半獣になることもあるなんておどしてね――あたし、その後に教授に頼み込んだ。そしたら、『上級生になるまで、この訓練は認められません。ですが、そこまで興味があるのなら、将来的に目指すと言うのならば、その時に禁書の棚の書物を読むことを許可いたします』だなんて! だから、あたし、『目眩まし術』で禁書の棚を必死に探したんだ――」
本を開くと、埃が舞った。ガートはうっかりページを破ったりしないよう、慎重に目的の項目までめくる。
「あった」ガートは唇をなめた。「『アニメーガスの儀式には、まずもって卓越した魔法能力をそなえた成人の魔法使い或いは魔女、そのうえ強靭な忍耐力をそなえた者のみが許される』――この辺はいいや――『手順その一。新鮮な青年マンドレイクの葉を満月の夜から、次の満月の夜まで口に含む。この間、飲み込んだり吐き出したりすれば儀式は失敗となる。満月の夜に見事マンドレイクの葉を口から取り出すことができたならば、葉を硝子の瓶に入れ唾液で満たし、月光に照らす。満月がじゅうぶんに出ていない、あるいは曇天の場合には、新たなマンドレイクの葉でやり直す必要がある』」
ガートは今の手順を羊皮紙に書き起こした。
「つまり、マンドレイクを用意しなくちゃ。そんなことできる?」カナが不安そうに言った。
「『新鮮な』ってことは、魔法薬の材料じゃ役不足だね。スプラウト先生に分けていただくことはできるかも」
「この手順はいくつまであるの?」
カナは本を覗き込んだけれど、癖のあるふるびた字で、ただ読むだけでもひと苦労だ。ガートが助け舟を出してくれた。
「『三つの手順を終えたならば、血のように赤い魔法薬が完成している。自身の魔力と森羅万象の神秘のエナジーで満たされたそれを呪文とともに飲み干し、変身の喜びを享受する』――って書いてある」
ふたりは顔を見合わせた。
「ひとまず、次の満月の夜までにマンドレイクを手に入れよう。スプラウト先生がだめだったら、ホグズミードの『マジック・ニープ』で手に入るかも」
「わかった」本をガートに返しながら、カナは思い出した。「そうだ。ぼく、ホグズミードに行ってもいいって」
「よかったね」ガートは喜んでくれた。「もう誰かと約束してる? あ、ウィーズリーと行くつもりだった?」
「うん。一緒に行く予定だよ。フレッドは『ゾンコの店』に連れてってくれるって」
「ええっ! あんなところに? デートなのに?」
「え? うん」
ガートはあきれたように肩をすくめた。そして、への字に曲がった口を、頬を揉んで戻していた。
「ま、あんたたちらしいっちゃ、そうとも言えるね。ピンク色の『マダム・パディフットの店』でいちゃいちゃしてるのなんて想像もできないし・・・・・・」
ガートがふたりの初デートを心配しているのがおかしくて、カナは笑った。
「うん。でも、いろんなところに行くつもりだよ。フレッドは『秘密の抜け道』をいっぱい知ってるって――」
三年生最初の「秘密の訓練」は、打ち合わせをしただけで、あとは他愛無いおしゃべりであっというまに時間が過ぎていった。
昼食のあと、カナはホグワーツ城地下にある厨房に立ち寄って、屋敷しもべ妖精にランチを二人前頼んだ。バスケットにハムやソーセージがメインのサンドイッチを詰めてもらい、冷たい水筒とゴブレットも忘れない。
カナはこのところ毎日「禁じられた森」近くで、あの黒い犬に食事を届けていた。カナが行くと、当然のように毎日待っているのだから、通わざるを得ない。それに、彼は食事ならなんだって食べた。犬が食べても良いものかと迷った、チリソースのたっぷり入ったミートパイを与えたときのほうが、食いつきが良かったくらいだ。彼は普通の犬じゃないのかもしれない。
今日も犬は元気そうだった。ふと、カナは後ろ脚の様子を見た。昨日までしっかり巻きついていたハンカチが消え、犬は痛みなんかもなさそうに、問題なく動かしていた。
「アー、あのハンカチ、なくなっちゃった?」
あれはお見舞いのプレゼントでもらったものだったから、結構思い入れがあったのだけれど――しょうがないか、とカナは息を吐いた。
持ってきたバスケットの中身を広げ、カナはその食いつきっぷりを観察していた。
「きみのこと、なんて呼んだらいいかなあ」
犬は期待のこもったグレーの瞳でカナを見た。
この犬が雄の成犬だということ以外、カナはわからないままだった。ハグリッドが飼っているわけでもないらしい。
「『ブラック』は普通すぎる――『わんちゃん』――」
カナが首を捻っていると、犬は草地のはげた地面に前脚を押し付けはじめた。そこにはくっきりと、犬特有の肉球のスタンプが残っている。カナがそれを見ていると、犬は誇らしげに胸を張った。
「『肉球』?」
犬は嬉しそうに耳をぴくぴくさせた。
「うーん、それじゃ、『パッド』はどう?」
犬はワン! と吠えた。名前が気に入ったようだ。
「よーし、パッド、きみはほんとうにかしこいね」
カナはパッドの頭を撫でた。
「きみはどこからきたのかなあ、帰るところがある? いま、怖いやつらがホグワーツを見張ってるんだ」
パッドはカナの話を理解しているのかしていないのか、じっとカナの瞳を覗き込んでいた。
「校長先生に言って、飼い主を探してもらおうかな?」
その言葉を聞くと、パッドは低く唸り始めた。
「嫌なんだね。ダンブルドアが嫌い?」カナは笑って提案を取り下げた。「あはは、ぼくもあんまり得意じゃないかも――わかったよ。きみのことは内緒にしておく。でも、ぼくもいつまで来れるかわからないから、自分で食料を確保する方法を見つけておくんだよ」
唸り声をひそめ、パッドはカナの手を甘噛みした。カナは両手でパッドの首筋を撫でる。
「うんうん、いい子だね」
カナは、新しい友だちにすっかり夢中になっていた。もっといろんな話――カナの面白い友達や、大好きなリーマスの話を、たくさん聞かせてやろうと思った。
好調なリーマスの「防衛術」とは反対に、ハグリッドの「魔法生物飼育学」はひどくつまらないものになってしまった。初回の、あの目の醒めるような感動の出会いとはうってかわって、毎回毎回、生徒たちはレタス食い虫の世話をさせられていた。茶色のぶよぶよした体は一歩も動かず、ただ与えられた飼料(ほとんどの場合、レタス)をゆっくりと溶かしながらむさぼる。頭だかお尻だかまったく区別がつかないけれど、両端からどろっとした粘液を出すことがある。これは魔法薬の原料になることもあると、「怪物的な怪物の本」にはほんの少しだけ記載があった――でも、ハグリッドはほとんどどんよりと座り込んで、生徒に刻んだレタスを配るだけだ。ハグリッドはすっかり先生としての自信をなくしてしまっていたし、カナやハリーがどんなに励ましてもあらたな魔法生物を紹介する気にはなれないようだった。いまだにマルフォイが怪我したほうの腕をかばって、ハグリッドをおどすように見せつけているのが、不愉快きわまりなかった。それに、カナが応急処置で巻きつけたハンカチも返ってきていないし――今年は物がよくなくなる年だな、と思った。
「マンドレイクが手に入りそうだよ!」
とある週末、ガートがうれしそうに報告した。
「スプラウト先生が、去年のつがいがふやした苗を育てていて、ひと株譲ってくれるって。ただ、寮で個人的に栽培するには危険があるから、十二号温室の一角を貸してくれるんだって」
「それじゃ、マンドレイクの世話に通わないとだね」
「うん――ああ、待ちきれないよ。いつごろ青年になるんだっけ?」
「それは、スプラウト先生に聞いてみないと――」
十月に入ると、寮の雰囲気ががらりと変わる――クィディッチ・シーズンがやってきた。グリフィンドールの代表選手たちは、キャプテンかつキーパーのオリバー・ウッドが最終学年だということで、クィディッチ優勝杯をなんとしてでも手に入れたいと、気合い十分だった。グリフィンドールはこの七年のあいだ、一度もクィディッチ・トーナメントで優勝できていないのだという。
グリフィンドール・チームは今が最高のチームだとカナは思う。去年はトーナメント自体が中止になったし、一昨年はシーカーであるハリーが怪我をして参戦できなかったのだ。キーパーのオリバーはその巨体に見合わぬ繊細な箒さばきが得意だし、アリシア、アンジー、ケイティのチェイサー三人娘の胆力とスピードは他のチームには真似できない。人の嫌がることをよくわかっているフレッドとジョージはおあつらえ向きにビーターを任されているし、双子は息もぴったりだ。それに、最年少で才能を買われた歴代最高のシーカー、ハリーだ。このメンバーで真っ向から勝負して、負けるはずがないのだ――不幸なアクシデントさえ起こらなければ。
カナはジニーと一緒に、毎回グラウンドにつきそい、練習を見守った。一週間に三回、早朝と放課後だ。だんだんと日は短くなり、冷え込んでいった。雨の日も増えたけれど、選手たちは雨にも風にも負けじと箒を飛ばした。
カナはマフラーとブランケットをきつく巻き、グラウンドのベンチに座っていた。隣にはジニーも一緒だ。ハーマイオニー直伝の瓶入りの火を持って、暖をとりながら夜闇で暗いグラウンドを見守った。
「あたしもはやく選手になりたいわ」出しぬけにジニーが言った。
「オリバーに言った?」
「ウウン――今はメンバーがいっぱいでしょ。オリバーは優勝杯をゲットする最後のチャンスだから、新しいメンバーに挑戦している余裕がないと思うの」
「そうだろうね」
オリバー・ウッドのあのぎらついた目を見ていたら、誰だって彼が並々ならぬ思いで今年度のクィディッチ杯に掛けているということがわかるだろう。
「あたし、ほんとうは箒で遊んじゃダメだって、ママに言いつけられているの。お兄ちゃんと遊んだらダメって――でも――次男のチャーリー、話したわよね? グリフィンドールのシーカーだったの。あたし、彼の箒さばきをさんざん近くで見てたのよ」
きっと、ジニーもいい選手になるだろうと思った。ウィーズリーの兄弟たちから何人も才能ある選手が選ばれている。ジニーにもその血が流れているのだ。それに、ジニーはいつでもハリーの隣に並びたいと願っているし――どんな努力でもできてしまうだろう。
練習が終わると、冷たい手がかじかむほど気温が下がっていた。カナとジニーは立ち上がって、グラウンドの地面に降り立った選手たちを迎えに行った。
「カナ!」
飛びついてきたのはアリシアだった。背後からカナが体に巻きつけたグリフィンドールのブランケットに顔を埋めて、「寒いわ、とっても寒い。見てよ、指先がぱっくり割れちゃってる――」とカナに慰めを求めた。
カナはポケットから、軟膏の入った小さな壺を取り出して、アリシアに手渡した。
「これ、アリシアにあげる。薬学の授業で暇があって、作ったんだ。簡単だし、肌荒れにも効果があるし――」
カナは練習続きのアリシアが最近寝不足で、お菓子ばっかり食べていると愚痴をこぼしていたのを覚えていた。アリシアは軟膏を受け取って、目をきらきらと潤ませた。
「カナ、あなたって天使みたい――ありがとう。なくなったらまた作ってくれる?」
「いつでもつくってあげるよ」
そのあと、アリシアがこそこそと耳打ちした。
「ほんとは彼にあげる予定だったんじゃないの?」
カナはどきりとした――たしかに、授業のあいまに作ろうと思った時は、フレッドが怪我をしたら使ってくれたらいいと思っていた。しかし今となっては、選手の誰もが怪我のリスクがあるのだから、必要な時に誰かに渡そうと思っていた。
「うん、まあね――」カナはあいまいに笑った。アリシアがカナのことをもみくちゃにして、腕の中に閉じ込めた。
「あーあ。なんか悔しいわ。とられちゃった」
「あのな」ふたりのやりとりを聞きつけてか、フレッドが追いかけてきて声をかけた。「こいつはモノでも、ペットでもないぞ」
「あら、そんなこと知ってるわ。可愛いカナ、ちっちゃな魔女だもの」アリシアはカナをフレッドから遠ざけた。「あなたがそうやってね、母親みたいにくっついて回らなくたって大丈夫よ。一人前のレディなんだから。ねえ?」
不満そうにアリシアを睨め付けるフレッドが可愛くて、カナは笑った。そして、「とられちゃったね、フレッド」とアリシアに抱きついて、フレッドをからかった。
グリフィンドールの談話室に帰ると、やけに生徒が集まって、ざわざわと落ち着きがない雰囲気だった。
「どうしたの?」
カナは入ってすぐ、目の前にいたネビルに聞いた。
「あ、カナ・・・・・・」ネビルは掲示板を指差した。そこには「第一回目ホグズミード週末」のお知らせが掲示してあった。
「十月三一日か。帰ったらハロウィーン・パーティーも待ってるな」
カナの後ろからジョージが肖像画の穴から入ってきて言った。その顔がやけに神妙で、カナは不思議だった。
その後ろにアンジーとアリシアが続いた。ホグズミード週末のお知らせを見て、あれが欲しいここへ行きたいと次々に候補を上げていた。
「うーん」いつのまにかフレッドがカナの隣に立っていた。「こりゃ、なにか手助けがいるかもな」
「そうかしら?」ジニーもいつの間にかフレッドの隣に立っていた。「あんまり勝手なことして、また喧嘩になっても知らないからね」軽やかに言い残して、ジニーは同級生たちが集まっているほうへと駆けて行った。話が見えず、カナは取り残されていた。
「なんの話?」
「鈍感なやつ。見ててわかんないか?」
「いや、全然」
「アンジーと一緒だな」フレッドは肩をすくめた。「ま、今度のホグズミード週末を楽しみにしてな。おもしろいことが起きる――かどうかはあいつ次第だけど」
その時だ。
「おい! 離せよ、このやろう!」
ロンの怒声が談話室にこだました。暖炉の前の席で、ロンが鞄に張り付いたハーマイオニーの猫――この夏から、ハーマイオニーとともにホグワーツにやってきた――クルックシャンクスを引っ張り上げようとしていた。クルックシャンクスはひどく怒り、何度もシャーッと唸りながら、ロンの鞄を引き裂いた。
「ロン、乱暴しないで!」
ハーマイオニーも悲鳴をあげながらおろおろした。他の生徒たちもなにごとかと見物に集まってくる。ロンはついに鞄を振り回し、猫を引き剥がそうとしたけれど、クルックシャンクスは鞄にがっしと張り付いて離れなかった。
とうとう、ロンの鞄の中から何かがぽぉーん、と飛び出した。ロンのペット、ネズミのスキャバーズだ。
「まーたやってるよ」フレッドが面白がった。
ハーマイオニーが夏休みから飼い始めた猫のクルックシャンクスは、大柄で非常に賢い猫だったけれど、ロンの姿を見るとスキャバーズがそこらにいないか、潰れた鼻を押し付けて必死に探し始めるのだ。スキャバーズももうずいぶんな年寄りで、ふつうのネズミの寿命からすると生きているのが不思議なくらいだった。最近になって食欲がなくなり、やせて元気がないとロンが心配していた。
クルックシャンクスがスキャバーズを追い、ロンがクルックシャンクスを捕らえようと追いかけた。何人かの勇気ある生徒が、クルックシャンクスをとらえようと手を伸ばした。けれど、狙い澄ましたブラッジャーのようにすばやい赤毛の猫は、ことごとくすり抜けていった。スキャバーズは何人もの生徒の股下を通り抜け、とうとう古びたキャビネットの下に潜り込んだ。クルックシャンクスはぶつかる手前で急停止し、がにまたを低くして体をひねり、前脚をキャビネットの下に突っ込んで激しく掻いた。
ハーマイオニーがクルックシャンクスをようやく抱え上げて、ロンがキャビネットの下からその長い腕でなんとかスキャバーズの尻尾をつかんで救出した。
それから二人の言い合いだ――ハーマイオニーとロンはときたま喧嘩をすることがあったけれど、今回はことさらひどい。
「あいつがあのネズミをあんなに大事にしてるなんてな」フレッドがぽつりと言った。「ネズミなんて、可愛くもなけりゃ、役にもたたないだろ? ロンのやつもふだんからそう言ってる――ありゃ、被害者意識がひと一倍強いんだ」
カナはそれに頷くのもロンに気の毒だったし、この喧嘩に首を突っ込むことは賢明ではないと思った。それに――カナはスキャバーズのようすが、ここ最近はいちだんと変だなと思っていた。もともと、カナがどんなに触れても、ちっともカナの目を見ようともしないのだから――もともと変なネズミではあるのだけれど。
翌日、変身術の教室の前で、ラベンダーが今朝届いた手紙を開けていた。カナは早朝練習に付き合うために毎日早起きしていたので、眠くてぼーっと、教室の扉が開くのを待っていたところだった。さっきの薬草学の時間で、ロンが怒りを引きずって「花咲か豆」をいくつもこぼし、その片付けで体力を使った後でもあった。
しかし、ラベンダーの息を飲む声と、しゃくりあげる泣き声が聞こえてきて、目が覚めた。
「ラベンダー、何かあったの?」
パーバティがラベンダーの肩を抱えるようにしてなぐさめていた。グリフィンドールの三年生がみんな集まって、ラベンダーの様子を見にきた。
「今朝、ラベンダーのご実家から手紙が来たのよ」嗚咽をこぼすラベンダーの代わりに、パーバティが小声で言った。「ラベンダーのうさぎのビンキーが、狐に殺されちゃったんだって」
「まあ。ラベンダー、かわいそうに」ハーマイオニーが言った。
「わたし、わたし、うかつだったわ!」ラベンダーは涙に暮れながら嘆いた。「今日が何日か、知ってる?」
「十月十六日」ディーンが言った。
「そう!」
「それがどうしたの?」カナは話を遮らないように、こっそりハリーに聞いた。
「最初の『占い術』で、トレローニー先生が予言したんだ」
「『あなたの恐れていることは十月十六日に起こりますよ!』覚えてる? 先生は正しかったんだわ。正しかったのよ!」
「まさか――」カナが小声でつぶやいたけど、シェーマスは小難しい顔で頭を振った。みんながシーンと静まり返った中で、ハーマイオニーがためらったように口を開いた。
「あなた――あなた、ビンキーが狐に殺されることをずっと恐れていたの?」
「ううん、狐って限らないけど」ラベンダーはぼろぼろと涙をこぼしながら、ハーマイオニーを見た。「でも、ビンキーが死ぬことをもちろんずっと恐れてたわ。そうでしょう?」
「ビンキーは病気でもしていたの?」カナがやさしく聞いた。
「それとも年寄りだったかしら?」ハーマイオニーが付け足したように聞いた。
「ち、ちがうわ!」ラベンダーがふたりを見回した。「あ、あの子、まだ赤ちゃんだった!」
しゃくりあげるのが大きくなって、パーバティはラベンダーの肩をいっそうきつく抱きしめた。
カナはなんと言葉をかければよいのかわからなかった。ラベンダーの気持ちは痛いほどわかる――カナもぼくとの別れは突然だったから。けれど、ラベンダーがトレローニー先生の忠告を真に受けて、何か行動していればビンキーが死ぬことはなかったのかと言われたら――
「それなら、どうして死ぬことなんか心配するの?」
ハーマイオニーが言い放った。パーバティはハーマイオニーを睨みつけている。
「ねえ、論理的に考えてよ」ハーマイオニーはこの場にいる全員に言った。「つまり、ビンキーは今日死んだわけでもない。でしょ? ラベンダーはその知らせを今日受け取っただけだわ――」
ラベンダーはいっそう大きな声で泣いた。かわいそうだ。
「――それに、ラベンダーがずっとそのことを恐れていたはずがないわ。だって、突然知ってショックだったんだもの――」
「ハーマイオニー、そのくらいにしなよ。ラベンダーは吃驚してるんだ」カナはハーマイオニーをさえぎった。彼女が「占い術」のことを疑っているのはみんな知っている。
「カナ、やめとけよ。それにラベンダーも、ハーマイオニーの言うことなんか気にするな」ロンが声を張り上げた。「人のペットのことなんて、どうでもいいやつなんだから」
「ロン――」
そのときだ。マクゴナガル先生が「変身術」の教室の扉を開けた。いまにもロンとハーマイオニーが一触即発の口喧嘩を始めそうな状態だったので、みんなナイスタイミングだと思いながら教室へと入っていった。
20240609