スネイプの「防衛術」の授業を飛び出したその足で、カナはリーマスの部屋にまっすぐ向かっていた。歩きながら、カナの溢れ出した大鍋の中身がそのまま目から流れ落ちていった。涙のあとを点々と廊下に残しながら、カナははんぶん走るようにして階段を登った。
ドンドンドンドン――はげしく扉を叩く。返事はない。リーマスは留守だろうか。休養しているなら自室だと思ったけれど、もしかしたら医務室にいるのかもしれない――カナが引き返そうと思った、そのときだ。
ほとんど音を立てないようにして扉がわずかに開いた。紙のように白い顔のリーマスがそこに立っていた。ひどく体調が悪そうだったけれど、ぼろぼろと涙をこぼすカナを見て、ぎょっとして部屋の中に入れてくれた。
リーマスは、以前と同じ席にカナを座らせた。足を立てて、膝に顔を埋めるようにして座った。「お茶を淹れるよ」とリーマスが弱々しく言うので、「いらない」とカナはつっぱねた。
ため息をついて、リーマスはカナの向かいに腰掛けた。
「授業はどうしたんだい?」
「見ればわかるでしょ」カナは顔も上げずに言った。
「まったく。あとでスネイプ先生に叱られたって、知らないよ」
「あんな人、大嫌い」
「カナ」
リーマスの厳しい声に、カナはやっと顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、髪が頬や口元に張り付いていた。ふるえる喉でやっと息を吸って、ぎこちなく吐き出した。リーマスが鞄からハンカチを出そうとしたので、カナはローブの袖で無理やり顔をぬぐった。
「リーマスは」
カナが声を絞り出した。いますぐ横になりたいだろうに、リーマスはカナのことを真摯に見つめていた。
「重い病気なの?」
止まったはずの涙が、またぼろぼろとこぼれだした。
リーマスは考えるようにカナから視線をはずし、しばらく黙り込んだ。カナは待った。ややあって、リーマスは弱々しく唇を動かした。
「ン、そうだね――この先、一生付き合っていかないといけない持病だ」
とうとう、カナはしゃくりあげた。袖で何度も目元をぬぐうので、ローブはしっとり濡れていたし、カナの目は真っ赤になっていた。
「それは、いつから、なの」
「もうずっと昔、わたしが子どもの頃からだ」
「隠してたんだ」
「きみたちにまで、よけいな心配はさせたくなかった」
ふらり、とリーマスの頭が揺れた。彼はそのまま背もたれに体をあずけた。
「月に一度・・・・・・今までは、エリアが薬を作ってくれていたんだ」カナははっと顔を上げた。リーマスは腕で顔を覆って、天井を仰ぎ見ている。「ここに来てからは、スネイプ先生が作ってくださっている」
「でも、あの人――」
「カナ」
「――スネイプ先生、リーマスのことを、侮辱したんだ」
「はは」リーマスはあまり気にしていないように笑った。「どうせ、『浮浪者』だとか、『ろくでなし』だとか、そんなところだろう」
どうしてそれがわかるんだろう――カナは頷いた。
「カナ。わたしのことはいいんだよ。きみが不利になるようなことは控えなさい」
「でも、ぼく、ゆるせないよ」
「われらがグリフィンドール」リーマスは冗談めかして言った。「でも、ほんとうに。わたしなんかのためにきみが傷つく必要はないんだよ」
「リーマスは家族だよ」カナはまっすぐに、鳶色の目を見すえた。「リーマスがそう言ったんだ」
おだやかな微笑みが返ってきた。「ン、そうだね。ありがとう、カナ」リーマスはそう言って、身を起こして、懐中時計を確認した。
「さあ、もう夕食の時間だよ」
リーマスはぐずるカナを立たせた。そして、杖ではたいて、カナの涙や鼻水でぐしょぐしょのローブをきれいにした。
「明日は大事なクィディッチの試合だろう? しっかり寝て、応援に行かないと――ほら、ビーターの彼のこと」
その言葉に、カナは目を丸くした。
「リーマス――どうしてそれを?」
カナとフレッドが付き合ってることはリーマスに話していない――だからカナは驚いた。
「ン、なぜって――そりゃあ、わたしだってきみの様子は気にしているんだよ。もちろん、見ていればわかるさ」
リーマスは寂しそうに笑っていた。
まあ、隠しているわけでもないのだから、校内でふたりが仲良くしている姿をみれば、おのずと知られてしまうのも不思議ではない。
まだ日が昇る前から、目が覚めてしまった。
昨晩、カナは夕食を食べる気になれず、リーマスの部屋からまっすぐグリフィンドール寮へと帰り、ベッドのカーテンをぴったり閉じて、早々と床についたのだった。
びゅうびゅうと風が吹きすさぶ音と、窓がかたかた揺れるのが寝室に響いた。雷も低く唸り、遠くの木立がざわざわと揺れる葉擦れの音が、カナの意識をはっきりさせた。ハーマイオニーの机の上に置いてある時計を見た――四時だ。
カナは誰もいない談話室に降りた。嵐の音は談話室の方がはっきりと聞こえてきた。杖を振って暖炉に火をつけ、パジャマの上からブランケットを羽織り、ソファーのクッションに身を埋めて、ゆらめく炎をぼうっと眺めた。
リーマスが重い病気を抱えていたなんて、そしておかあさんがそれを助けていたなんて、知らなかった。だからリーマスは毎月のように、あの「がれきの城」へ通っていたんだ。そして、そのついでに、ぼくたちの面倒を見てくれていたんだ――助けられていたのは、ぼくたちばかりだと思っていた。リーマスは、カナのことを「家族」だと言っていたけれど、それは、カナがおかあさんの娘だからにすぎないはずだ。もしもおかあさんのほかにリーマスを支援してくれる人がいたなら、彼はカナの世話を引き受ける必要もないのだから。
「カナ」
パッと顔を上げると、ハリーがソファーの真横に立っていた。その腕の中に、なぜかクルックシャンクスを抱えている。こんな時間に目を覚ますなんて、ハリーも間が悪い。
「眠れないんだ?」
「ピーブズに起こされたんだ」ハリーはふてくされたように言った。「それに、この嵐だ」
「ひどい試合にならないといいけど」
クィディッチの試合は、嵐や雷なんかでは中止になったことはない。天気は両チームにとって、フェアな条件なのだ。
ハリーが隣に座るので、カナはクルックシャンクスを引き受けた。カナの腕の中で、金色の目を細くして、ゴロゴロと喉を鳴らした。「この子は?」
「スキャバーズを狙ってるんだ。僕たちの寝室にまで入ってきた」
金色の目がカナを見つめた。何が悪いか、まったくわかっていないようだ。
「スキャバーズはロンの友だちなんだよ、クルックシャンクス。ネズミならほかにもいるでしょう」
言い聞かせるようにカナは言ったけれど、伝わっているかはわからない。カナのとくべつな魔法は猫にも有効だろうか?
「カナ・・・・・・きのう、きみがスネイプに言い返してくれて、胸が空いたよ。そりゃ、あのあとはカンカンで、最悪だったけどさ――」ハリーがすこし言いにくそうにこぼした。カナは「うん」と頷いて、膝の上でどっしり眠るクルックシャンクスを撫で続けた。
「ハリー。前に、誰に手紙を出しているのか聞いたよね・・・・・・それが、ルーピン先生なんだ」
「父親代わりの人だろう。なるほどね」ハリーはいろいろ腑に落ちたようだ。「それで、カナ、食事中にルーピン先生ばっかり見てたんだ」
「ぼく、そんなに見てる?」カナは目を丸くした。
「そのせいだと思うけど――フレッドが気にしてるよ」
カナは恥ずかしくなってきた。アリシアたちだけじゃなく、ハリーにまで仲を心配されるなんて――
ふたりは、空が明るくなるまでのんびりおしゃべりした。五時になる頃、カナは「ハリー、すこし眠ったら?」と言ったが、まだ雨風がバシバシと窓をうつので、ハリーはあきらめた。
「カナは、セドリック・ディゴリーを知ってる?」
「うん」
「僕よりうんと背が高かった・・・・・・競り合いじゃあ、負けてしまうよ」
ハリーはだんだん、試合の緊張感が増してきたようだった。
「うん、そうだね」カナの返事に、ハリーはうなだれた。「ハリー、でも、きみはスニッチを掴めなかったことはないよ。きみが箒に乗れば誰よりも速いよ。そうでしょう?」
カナはおもむろにハリーの右手を持ち上げて、袖を捲って手首をさらした。そこには、ジニーが去年編んだ、スニジェットのチャームがついたいびつなミサンガが巻きついていた。一度なくして、ジニーが持っていたはずだけど。
「あ、これ・・・・・・チームのミサンガだよ。ほら、去年骨抜きにあっただろ、ロックハートのせいで・・・・・・そのとき、誰かが拾ってくれたみたいなんだ」
きっと、ジニーがこっそりハリーに届けたんだろう。
「うん。ハリー」満足げな気持ちで、顔を上げた。ハリーはびっくりしたみたいにカナを見つめていた。カナもハリーの緑色の瞳を見つめる。「みんなきみを信じてる」
「うん」ハリーもすこし勇気づけられたみたいに、あわく微笑んだ。
カナは一度、パジャマを着替えるためにクルックシャンクスを連れて寝室に戻った。まだみんな眠っている時間だったけれど、ハリーが朝食に降りるというのでそれに付き合うことにした。
「立て! かかってこい! 腰抜けめ!」
肖像画の裏をくぐると、カドガン卿ががちゃがちゃと鎧を鳴らしてわめいた。
「ハリーは腰抜けなんかじゃない」カナは言い返した。
「カナ、相手にしないで」ハリーがあくびしながら言った。
日が昇っても、嵐で薄暗いままの大広間にはまだ誰も到着していなかった。カナとハリーは一緒に座り、温かいミネストローネをすすった。
カナがミネストローネを一杯食べきるまでに、ハリーはオムレツにソーセージ、ぶあついベーコンを平らげていた。
ふたりがトーストに手を伸ばす頃、パラパラと他の選手も大広間にやってきた。最初に入ってきたのはセドリックで、カナにひらりと手を振った。そのすぐ後ろからフレッドとジョージがやってきた――フレッドはセドリックをにらみつけ、カナの隣にどかりと腰を下ろした。
「おはよう」
「おはよう、カナ――ハリー」
ハリーはバターたっぷりのトーストを口に詰め込んでいたので、手を上げて返事した。ジョージはまだ夢うつつのようだ。フレッドはまだ機嫌が悪いみたい――ハリーが横から、カナの腕を肘で突いた。
「フレッド。きみがなにか勘違いしているみたいだから教えておくけど」カナはフレッドにもミネストローネをよそってあげた。「ぼく、きみの前でしかバタービールは飲まないことにしたんだ」
フレッドは、毒気が抜かれたみたいにきょとんとした――そして、「エヘン」と咳払いして、眉をきゅっと寄せた。
「ルーピンの前でもか?」
「うん」
「あいつ――ディゴリーの野郎にデートに誘われてもついていかないか?」
カナはプッと吹き出した。「誘われるもんか!」
「そんなのわかんないだろ! カナ、今すぐここで誓えよ! ハグでもキスでも許してやる」
「おい、誰かこの『色ぼけ』を大広間から締め出して、雨に溺れさせてきてくれ・・・・・・」ジョージがぐったりして、フレッドのミネストローネをすすりながら言った。
選手たちが会場入りするまで、カナはフレッドの腕の中に閉じ込められていた。「そいつを競技用のローブに隠しておくつもりか?」とリーにもからかわれたし、グリフィンドールの一年生たちもこそこそとカナのことを見るのでひどく恥ずかしかった。あまりフレッドに不満を溜めてはいけないな――とカナはつくづく思った。
予報どおり、外はひどい嵐のままだった。雨がどれだけ叩きつけようと、風がどれだけ荒れ狂おうと、生徒たちは試合を観ようと、頭を低くしてグラウンドへと駆けつけた。目の前では、手からもぎ取られるようにしていくつも傘が吹っ飛んでいくのが見えた。
カナはジニー、ロン、ハーマイオニーたちとともに、グリフィンドールの選手を更衣室まで見届けた。みんなびしょびしょで文句を言いながらも激励を受けていたけれど、オリバーはひどく静かだった。
「なんにも見えないよ」
ロンがぼやいたのがうっすら聞こえた。
はっきり言って試合など見れたものではなかった。横降りの雨が風にあおられて乱雑に顔を叩くので目など開けられないし、ハリーはこの視界の悪さで、箒に乗りながらスニッチを探さなければならないのだ。
真紅のユニフォームと、カナリア・イエローのユニフォームがふらふらと空中に舞い上がったように見える。観客席の歓声すら、雨の音と時々響く雷鳴にかき消される。ふだんは客席を楽しませてくれるリーの試合実況も、ちっとも聞こえない。
ハーマイオニーは双眼鏡でしっかりとハリーの行方を追っているようだった。
「見えるの?」
「ええ。なんとかね。防水呪文が効いてるの」
「この雨じゃ、ハリー、きっとなんにも見えないわ」ジニーが心配そうに言った。
漫然とした試合が続いた。何時間経過しただろう――これ以上は無いと思われていた雨がどんどんひどくなり、ジニーとカナはぴったり身を寄せ合って、凍える体をなんとかしのごうとしていた。
「スコアはなんて?」
「六〇対一〇よ」ジニーとカナは声を張り上げてやっと会話できた。
バーン! と、近くで稲妻が落ちた音がした。同時に、審判のマダム・フーチのホイッスルが鳴り響く。グリフィンドールのタイム・アウトだ。
ハーマイオニーがぱっと飛び出して、なにやらチームとやりとりして、そして帰ってきた。
「ハリーの眼鏡に、『インパービァス』を施してきたの」
「君ってなんて気が利いてるんだ!」ロンが大声で叫んだ。「さあ、やれ、ハリー――がんばれ!」
ひときわ高い空中に飛び上がったのがハリーだろう。さっきまでよりも、ずっと動きがいい。ブラッジャーを避け、セドリックの下をかいくぐりながら、必死にスニッチを探している姿がうっすらと見える。
また雷が鳴った。再び、巨大な稲妻がグラウンドの外へと落ちて、その光と巨大な音に観客席からは悲鳴があがった。
「ハリー、雷なんかに気を取られている場合か!」
ロンが叫んだ。ハリーの背後をセドリックが猛スピードで突き抜けていった。あわててハリーもそれに追いつこうとする――
突然、冷たい感覚がカナの身を凍らせた。雨じゃない、風でもない――はっきりと別の、魂が凍るような悪寒。なにも聞こえなくなったのかと思った――震えながら、カナはグラウンドの地面を見下ろした。
おびただしいほどの吸魂鬼の群れだ。群がり、もつれあい、山のように重なりながら、しわがれた骨のような腕を天に伸ばしていた。
何かが、カナの頭をふわりと支配する。
――どうしてそう勝手なことばかりするんだ――
――死ぬことなんて怖くない。行きつく先が地獄だってかまわない――
――嘘だ――
――嘘じゃないわ――
――ねえ、きみはなんて愚かなひとなんだ?――
「セドリック・ディゴリーがスニッチを捕った! 」
リーの実況解説で、カナは意識をはっきりさせた。観客席からは、歓声じゃない、つんざくような悲鳴が響いた。カナはグラウンドを見た。
紅の影が、まっすぐに地面に落ちていくのがスローモーションに見えた。吸魂鬼の群れの中に、そのまま、引っ張られるようにまっすぐ落ちていく――
「ハリー!」
みんなが叫んだ。もうだめだと思った――その時だ。吸魂鬼の群れの中で、ダンブルドアが銀色の光を放った。吸魂鬼たちは風のようにグラウンドを去っていった。そして、ハリーの体がふわりと地面に落ちた。
みんな、泣き叫びながら観客席を動くことができなかった。ダンブルドアは魔法で担架を出し、すばやく城内に向かった。
カナたちもすぐさま立ち上がって、観客席を飛び出した。グラウンドの出口で、グリフィンドールの選手たちも一緒になった。ひどく取り乱して涙を流すジニーの肩をジョージがしっかり掴んで、支えて歩いた。
フレッドが医務室の扉を慌ただしく開けたとき、ダンブルドアがハリーをベッドに寝かせているところだった。
「生きておるよ」
その一言だけで、全員が安堵した。ダンブルドアはひどく険しい顔で、涼しい色の目の奥に怒りを滲ませていた。カナはそれで一瞬、近寄るのを躊躇したほどだ。
みんながびしょびしょの泥んこのまま、ハリーのベッドへと駆け寄った。カナは息をのんだ。ダンブルドアが「生きている」と言わなければ、カナはハリーがまさに息を引き取ろうとしているように見えただろう。顔は紙のように白く、唇は紫色で、呼吸をしているのかどうかでさえ耳をピッタリくっつけなければわからないほどだ。ハーマイオニーは静かに涙をこぼしていた。ロンもひどい顔色だった。カナは泣きじゃくるジニーを連れて、暖炉の前のベンチに座らせ、背を撫でた。
ひそひそと囁く声が聞こえてくる。「地面が柔らかくてラッキーだった」「ダンブルドアが救ってくださったのよ」カナは目を瞑った――ハリーだけが吸魂鬼にひどく影響される理由はなんなのだろう。ハリーはあいつらのせいで箒から落ちたんだ――
トントン、と医務室の扉が叩かれた。ずぶぬれのフリットウィック先生が顔を出した。アンジーが手招きされ、何やら話し――項垂れながら包みを持って戻ってきた。
「ハリーのニンバスよ」
アンジーはひどく落ち込んで、包みを少しだけ開いた。ハリーの美しいニンバスは、いまや見る影もない――柄はずたずたに砕かれ、枝はばらばらに――すべてが粉々になっていた。
「暴れ柳に突っ込んだそうなの」
みんなが落胆した。
カナは、ジニーが静かに震えていることに気がついた。
「ハリー、きっと、ひどく落ち込むわ」
小さな声で、ジニーはそう言った。
そのとき、ハリーが勢いよく起き上がった。みんなが息を呑む音がした。カナとジニーも立ち上がって、ベッドの周りに駆け寄った。
「ハリー!」フレッドが声をかけた。「気分はどうだ?」
「どうなったの?」ハリーがあまりにも平然と聞くので、みんなたじろいだ。
「落ちたんだ」カナが言った。「箒から・・・・・・まっさかさまに」
「ざっと五十フィートか?」フレッドがつけたした。
「みんな、あなたが死んだと思ったわ」アリシアが声を震わせた。ハーマイオニーがしゃくりあげる音が、医務室にやけに響いた。
「でも、試合は・・・・・・試合はどうなったの? やり直しなの?」ハリーが聞いた。
みんな黙り込んだ。ハリーはそれだけで、なにか悟ったように唇を引き結んだ。
「僕たち、まさか・・・・・・負けた?」
「ディゴリーがスニッチを捕った」ジョージが言った。「君が落ちた直後にね。何が起こったか、あいつは気がつかなかったんだ。振り返って君が地面に落ちているのを見て、ディゴリーは試合中止にしようとした。やり直しを望んだんだ。でも、もうあいつがスニッチを掴んでた。むこうが勝ったんだ。フェアにクリーンに・・・・・・オリバーでさえ認めた」
「オリバーはどこ?」ハリーは全員を見回して、キャプテンがいないことに気がついた。
「まだシャワー室の中さ」フレッドが答えた。「きっと溺死するつもりだぜ」
ハリーは体を折りたたんで、膝に顔を埋めた――そして、自分を責めるように髪をぎゅっとつかんだ。
カナはなんと言葉をかければよいかわからなかった。ハリーはそうとう、プレッシャーを感じていたはずだ――オリバーの悲願のために、みんなのためにと――今朝、そう言っていたんだ。
「落ち込むなよ、ハリー。これまで一度だってスニッチを逃したことはないんだ」フレッドがハリーの肩を揺さぶった。
「一度くらい取れなくったって、何だっていうんだ」ジョージが続けた。
「これでおしまいってわけじゃない」フレッドが交互に続けた。「僕たちは一〇〇点差で負けた。いいか? だから、ハッフルパフがレイヴンクローに負けて、僕たちがレイヴンクローとスリザリンを破れば・・・・・・」
「ハッフルパフは少なくとも二〇〇点差で負けないといけない」
「もし、ハッフルパフがレイヴンクローを破ったら・・・・・・」
「ありえない。レイヴンクローが強すぎる。しかし、スリザリンがハッフルパフに負けたら・・・・・・」
「どっちにしても点差の問題だな・・・・・・一〇〇点差が決め手になる」
双子の議論のそばで、ハリーは黙りこくっていた。ハリーが出場した試合では、初めて負けたんだ――それがひどく、ハリーに重くのしかかって、押しつぶしそうになっているんだろう。
ほどなくして、マダム・ポンフリーがやってきて、ハリーの安静にため、チーム全員に出て行けと命じた。
「また見舞いにくるからな」フレッドが言った。「ハリー、自分を責めるなよ。君はいまでもチーム始まって以来の最高のシーカーさ」
カナは、自分がチームメイトだったらフレッドみたいに励ますことができただろうか、と考えた。フレッドたちはハリー以上に、何度も負けを重ねてきているはずだ。そして、そのたびに立ち上がってきたんだ――その点、ハリーは負けが初めてだったんだ。だから、今は落ち込む時間が必要なんだ。
フレッドに背中を叩かれて、カナも一緒に医務室をあとにした。選手たちが泥で汚した床を踏みながら、はやくこの嵐が過ぎ去ってくれればいいのにと思った。
翌日も雨だった。昨日のような激しい雷雨とまではいかなくとも、なかなかのどしゃ降りとなった。
カナはハーマイオニーに教えてもらったインパービァスをマントに施し、フードを深く被って「禁じられた森」のほうへと早足で向かった。厨房で受け取った昼食入りのバスケットが濡れないように抱えながらだったので、誰かがカナの出立ちを見たらすぐさま呼び止めて全身をチェックしなければならなかっただろう――さいわい、こんな大雨の中で外出するような人はよっぽどいないようだった。
「パッド、そこにいる?」
カナはいつもの場所で、雨音に声がかき消されないように大声で呼んだ。さすがに今日は出てこないか、と思った時、木立のあいだから、あの黒い立ち耳が覗いた。
駆け寄って、カナは木の下では大粒の雫が滴り落ちてくることに気がついて、自分のマントをパッドにかけてやった。
今日もパッドの食い気は素晴らしかった。パッドがバスケットの中身をぺろりと平らげるあいだ、カナは、昨日の試合のことや、ハリーが吸魂鬼に襲われたこと、ハリーのニンバスが砕けてしまったことなどを話した。今日だって、カナはジニーとともにハリーの見舞いに行った。それでも、どうしても、ハリーはひどく落ち込んだままだった(ジニーのプレゼントが「歌うメッセージカード」だったからではないと思う)――だから、どうしたら勇気づけてあげられただろうとか、そんな、答えの得られないことをパッドに話した。パッドはただカナのことをじっと見つめて、話に耳を傾けているようだった。
「こんなことを、きみに話したってしょうがないよね」カナは膝を抱えた。「でも、ハリーは何か・・・・・・試合に負けた以外のことで悩んでるみたいなんだ・・・・・・それが何かわかんない」
パッドも心配そうに鼻を鳴らした。そして、カナの腕に頭を擦り付けた。まるで慰めているみたいだった。
「ありがとうね、パッド」
カナはパッドの頭を撫でた。
月曜日には、ハリーは退院した。しかし、最初の授業が魔法薬学だったのはついていなかった。マルフォイはグリフィンドールがクィディッチの試合で敗北したことがうれしくてたまらない様子で、授業の最初から最後まで何度も吸魂鬼の真似をした。ロンがついに怒りをあらわにして、ワニの心臓をマルフォイめがけて投げつけた――ぶよぶよの肉塊は、マルフォイの気取った顔面に見事ヒットして、そのかわり、グリフィンドールの点数が五〇点減点された。
昼食後は「防衛術」の授業だった。あれからリーマスが大広間で食事する姿を一度も見かけていなかったけれど、授業に出てくるだろうか――と、カナは不安になりながら教室のドアを開けた。
リーマスがそこに立っていた。やっぱり顔色はすぐれないけれど、あの日カナが訪ねたときよりはずいぶんとよさそうだった。
目の下にくまをこさえたまま、リーマスは席についた生徒たちのことを見回して、にっこり笑った。
とたん、みんながいっせいに、リーマスが病欠のあいだにスネイプ先生がどんなにひどい態度をとっていたかと、不平不満をぶちまけた。
「フェアじゃないよ。代理だったのに、どーして宿題を出すんですか?」
「僕たち、人狼についてなんにも知らないのに――」
「――羊皮紙ふた巻きだなんて!」
カナはハーマイオニーから宿題について聞いてはいたけれど、スネイプ先生からのお達しがないので無視するつもりでいた。
「きみたち、スネイプ先生に、まだそこは習っていないって、そう言わなかったのかい?」リーマスが困ったように顔をしかめた。
「言いました。でもスネイプ先生は、僕たちがとーっても遅れてるーっておっしゃって――」
「――耳を貸さないんです」
「――羊皮紙ふた巻きなんです!」
全員がぷりぷりと腹を立てているのを見て、リーマスはにっこり笑った。
「よろしい。わたしからスネイプ先生にお話ししておこう。レポートは書かなくてよろしい」
「そんなあ」ハーマイオニーだけががっかりした。「私、もう書いちゃったのに!」
みんなが待っていた「ルーピン先生」の授業は心地のよいものだった。今日は予定通りの「おいでおいで妖精」についての授業だ。リーマスは例に漏れず、どこで捕まえてきたのやら実物を持ってきて、みんなによく見せた。
カナは授業のあいだ、静かなものだった。なんとなく、目が合ったときにどんな顔をすればいいのかわからなくて、それが怖くて、リーマスの目をまっすぐ見れなかった。そうなったときは、なんだかまた泣いてしまいそうだったから。
終業のベルが鳴った時、カナはいそいで――そんなふうには見えないように、ごく自然なつもりで――教室を出た。
リーマスが元気になったんだ。それを喜べばいいのに――カナは、彼がこの先もずっと、一生、あの症状と付き合い続けなければならなくて、そして今までもそうやってカナの知らない場所で苦しみ続けていたのだと思うと、やりきれなかった。
それから三週間ほどが経ち、スネイプからの呼び出しがあった。授業を妨害した罰則だ。
夕食の大広間でわざとらしく呼び止められて、カナは黙ってスネイプについて行った。先生は罰則の内容は言わなかったけれど、向かっているのは地下牢だ――
たどり着いたのはスネイプの研究室だ。寒く、そしてひどく暗い。
スネイプは机の上のランプに火を灯した。薄明かりがスネイプの石膏のような仏頂面を闇に浮かび上がらせた。
「貴様にはこれから一週間のあいだ、私の調合を手伝ってもらう」それがひどく不満でたまらないといったふうに、スネイプは言った。
「これから、一週間? 毎日ですか?」
「何度も同じことを言わせるな」やけにイライラした調子で言った。カナはこっそりため息をついた。
「それで、なんの薬品でしょうか」
スネイプはカナの質問には答えずに、材料が走り書きされたリストのメモをずいっと突き出した。
「これらを薬学の準備室から取ってきて、揃えたまえ」
カナがそれを受け取ると、スネイプはカナを見向きもせずに、大鍋をいくつも並べて調合の準備に取り掛かった。
先生の研究室を出て、カナはもっと下の階の地下牢教室へとすすんだ。身が凍るような寒さだ。ブランケットを持ってくればよかった――と、杖明かりを灯しながら思った。
真っ暗闇の地下牢教室はひどく不気味だった。ゴーストの一人や二人いてくれたら気がまぎれるのに、こういう時に限って現れてはくれないのだ。
薬品倉庫には鍵がかかっていなかった。カナは破り取ったような切れ端のリストを杖で照らしながら、その読みづらいかすれた字に目を凝らした。
「トリカブト?」
カナは目を疑った。トリカブトはほとんど有毒の素材だ――有効範囲と致死量の幅が狭く、調合が非常に難しいもののひとつだ。取り扱いを誤れば、劇物となる――
スネイプが調合を誤るなんてことが起きるとは思えないけれど、あの人が一週間もかけて何を作ろうとしているのか、カナはそれを訝しんだ。カナは順番に材料を手に取っていく――新鮮な満月草の根、チャドクガの繭、マンドレイクの舌、ルーンスプールの神経毒に卵、火とかげに、不死鳥の燃え滓――
すべて取り終える頃には、カナの両手はいっぱいになっていた。薬品倉庫の扉を足で閉め、がちゃがちゃと瓶をぶつけながら、カナは階段を登った。
「先生、これ、どこに――」
「事務机に並べなさい」
カナは火のついていない暖炉の目の前にある、先生の事務机に両手いっぱいの瓶を置いた。暖炉は燃えていないというのに、部屋の中はゆだるように暑かった。
スネイプはてきぱきとカナに指示をした。カナはだんだんと髪の中や首すじにじわりと汗をかいたけれど、スネイプは表情ひとつ崩さない。指示通りに、サラマンダーの生き血をしぼり、満月草を刻み、繭をそっと破り――トリカブトに手を伸ばそうとしたときだ。
「エリオット、鍋をかき混ぜろ」
カナはスネイプと場所を変わる。真上から大鍋を覗き込むと、灰と虫の死骸をかき混ぜたような、ひどいにおいがした。錆色のまだらな液体が、ぐつぐつと泡立っている。
「火を弱め、泡立たないように右回りに」
杖で火壺をつつき、陽炎がチラチラと鍋底を撫でる程度に火を弱めた。そっと、一定の速さで攪拌棒を動かし始める。
カナが混ぜているその上から、スネイプは刻んだトリカブトの茎と緑色の卵を混ぜ合わせたものを、そっと流し入れた。とたん、鍋の中身は粘り気のあるチャコール色に変化していく――カナがちらりとスネイプを見ると「そのまま」との指示が飛んだ。カナは力を緩めず、同じ速度で鍋を混ぜる。やがて、鍋は青色の煙を噴き出すようになった。
カナはスネイプが「フーッ」と息を吐いたのをたしかに聞いた。スネイプは火を消したけれど、カナにそのまま温度が下がるまで混ぜ続けるように指示した。
腕がすこし疲れてきた。顎に汗がつたう――これを一週間も?
「先生、これはなんの薬なんですか」
がまんできずに、カナが聞いた。スネイプはカナが汚した机の上を掃除しながら、意地悪そうに口角をあげた。真っ黒の闇のような瞳が、カナのことを見透かしたように、そしてつまらなそうに言った。
「それを今からルーピンが飲むのだ」
大鍋の熱があらかた取れると、スネイプはできあがった薬をすべて巨大なゴブレットにうつした。そして、カナにはもう寮に戻るようにと言い渡した。
カナは呆然と地下牢を出た。あんなに強力な、劇物まがいの薬を、一週間も飲まなければならないほどリーマスの容体は悪いんだろうか? カナは今すぐにでもリーマスの部屋に行って、顔を見たかった――
カナが罰則で毎晩、例の薬の調合を手伝っているあいだ、リーマスは病欠することはなかったけれど、日に日に顔色が悪くなっていった。やっぱり、あの薬は劇薬で、副作用が強いんだ――カナは朝夕に大広間で食事しているか毎回確認したけれど、今回の服薬では寝込むほどではないようで、リーマスはきちんと出席していた。
約束の一週間の最後の日、薬が出来上がって片付けをしているあいだ、スネイプに聞いた。
「先生、明日からは手伝わなくてもいいんですか?」
スネイプはカナを怪訝に見た。そして鼻を鳴らした。
「明日からは休薬する。それに、エリオット。貴様、忘れてはいないだろうな。これは罰則だ」
「でも、これは、この薬は――」
「もういい。寮へと帰りなさい。明日からは来なくてよろしい」スネイプは有無を言わせないようにしてカナを追い出した。はやく用事を済ませたくて、カナの相手なんてしてられないといった感じだ――
カナが地下牢を出たとき、意外な人物が待っていた。ガートだ。
「やあ。こんばんは」ガートはにこやかに言った。「スネイプ教授との密会は終わった?」
「そんなんじゃない」カナは首を振った。
ガートはカナの元気がないのをわかっているようだった。
「まだ時間あるでしょ、ちょっとだけ。ついてきて――」
連れてこられたのはいつもの「訓練部屋」だった。ふたりは中に入り、ペンダントライトを点けた。机の上に、今までと違うものが鎮座している。
「マンドレイクだ」ガートが自信たっぷりに言った。「今日は満月だよ。絶好のチャンス――覚えてる?」
「アニメーガスの儀式その一」カナはよどみなく言った。「マンドレイクの葉を口に含んで過ごす。次の満月の夜まで」
「その通り」ガートの口角が上がる。「次の満月の夜が晴れていることを祈らないと。そうじゃないと、やり直しになっちゃう」
たっぷりと青い葉を茂らせた若いマンドレイクのひとつを手で押さえ、ガートはポシェットから小ぶりな銀色の瓶を取り出した。
「それ、なに?」
「ブランデー」ガートはマンドレイクの周りの土に、酒瓶の中身を思いっきり撒いた。「葉っぱを切り取る時、暴れないようにしないとね・・・・・・」
ガートが抑えているので、カナがマンドレイクの葉を二人分ちぎった。ガートの策が効いたのか、マンドレイクはわずかにみじろぎしただけで、叫んだり暴れたりはしなかった。
「酒くさい」カナはいやな顔をした。「ぼく、アルコールに弱いんだ。大丈夫かな」
「葉っぱには掛かってないと思うけど」ガートはさっさと葉をおりたたみ、口の中へと入れた。「これ、ひと月も保てるかな」
カナも意を決して、葉を口に放り込んだ。間違えて、噛んで飲み込んだりしないように気をつけないと。
「次の満月はクリスマス休暇らけど」ガートはひどくしゃべりづらそうにした。「その前に、次の手順を確認ひよう。材料が必要になるほ思うから」
「ひょうらね」
ふたりは神妙な面持ちで、「訓練部屋」をあとにした。これ、うまくいくんだろうか、しかも、誰にもバレないで――と、お互いに思っていたはずだ。
気分を萎びさせる悪天候はまだまだ長引いたけれど、十一月の終わりに、レイヴンクローがハッフルパフを思いっきり負かしたことで、グリフィンドールが活気づいた。グリフィンドールはもう一試合も落とすことはできず、後に引けない状況だけれど、まだ優勝争いから脱落したわけではない。ずっと魂が抜けたようだったオリバーは、再びあの狂ったようなエネルギーを取り戻し、今までに増してチーム練習を厳しくした。
学期が終わる二週間前に、急に空が明るくなり、眩しい乳白色の朝日が顔を出した。ようやく雨がやんだ。ひどい長雨で泥んこの校庭は、キラキラ光る霜柱に覆われるようになった。それで、もうすっかりホグワーツはクリスマス・ムードに包まれた。
「なあ、カナ。今年はお前さんも一緒にうちへ帰らないか?」
例年の通り、談話室の掲示板にクリスマス休暇に居残る生徒の名簿が張り出されたとき、フレッドがカナにそう言った。カナは、その提案はたいへん嬉しかったけれど――
「ううん。ぼく、ホグワーツに残るよ。リーマスと過ごしたいから」
とたん、なごやかな談話室の一角で、空気が一変した。カナの周りから沈黙が広がって、凍りついたような時間が流れた。
「へえ?」冷たい声だ。フレッドはカナを見下ろした。悲しんでいるような、怒っているような、それらをすべて押さえ込んでいるような、悲痛な表情だった。
カナは――ああ、間違えた、と思った。
「そうだよな。お前さんはルーピン先生のことが大事なんだった」フレッドは笑顔を浮かべたが、その目はちっとも笑っていなかった。
「フレッド、ぼく――」カナは手を伸ばしたけれど、フレッドはそれをたやすくかわす。
「聞いた僕がばかだったよ」
「ねえ、待ってよ――」
「ついてくるなよ!」フレッドは怒鳴って、それからはっとして、またあの悲痛な表情でカナを見た。「ごめん、僕――ちょっと一人になりたいんだ。わかるよな?」
そう言って、フレッドは男子寮へと去って行った。取り残されたカナは、談話室にいる生徒からの遠巻きな視線に気がついた。いたたまれなくて、カナも、振り返らずに女子寮への階段を登った。
リーマスのことが心配だった。それは、リーマスのそばを離れてボーイフレンドと過ごすことよりも優先してはいけなかったんだろうか。それとも、カナの何かがフレッドを傷つけたんだろうか。さいきん、カナにはわからないことばっかりだ。
カナはベッドに腰かけて、枕をぎゅっと抱いた――ああ、フレッドがカナの心の中をぜんぶわかってくれたらいいのに――と、大きなため息をついた。
20240612