「ハグリッドったら、レタス食い虫フロバーワームは『レタスのやりすぎで死んだ』だなんて言うんだ。全然教師の仕事に身が入ってないよ。授業をつまんなくしてるのは誰だって話だよな」
 図書館に向かう道すがら、ロンはぺちゃくちゃと昨日あったことを教えてくれた――魔法省からの連絡が届いて、ハグリッドの無実が言い渡された。しかし、ルシウス・マルフォイはバックビークに目をつけたらしい。彼の処分を検討するために、事情聴取のための裁判が四月に行われるというのだ――
「その、『危険生物処理委員会』っていうのが、かなりやっかいなんだよね?」
「ええ――ハグリッドはその組織のことを『怪物』と呼んでたわ」
「どっちが『怪物』なんだか」ロンが肩をすくめた。
 これから、図書館でバックビークの無実を証明するための材料を探すのだ。過去の魔法生物に対する裁判の記録や、ヒッポグリフが無罪となり釈放された事件について調べれば、バックビークは「処分」を受けることもない。
 これはカナにとっては――とてもそんな気軽な作業ではなかったけれども――良い気晴らしになった。きっと、ハーマイオニーもそう思って、昨晩カナに声をかけたに違いない。本棚の間を縫うように歩き回り、四人はたくさんの書物やヒッポグリフに関する本、過去の魔法生物が対象となった裁判のアーカイブなどを腕いっぱいに抱え、グリフィンドールの談話室へと戻った。
 暖炉の前に四人は陣取って、本や新聞を一ページ一ページめくった――目を皿にして記事を洗っている時間は、フレッドのことを考えないですんだ――ときどき、なにか関係のありそうなものを見つけると、誰かが声を上げた。
「これはどうかな・・・・・・一七二二年の事件・・・・・・あ、ヒッポグリフは有罪だった。うわあ、それで連中のしたことといったら、最悪だよ・・・・・・」
「これはいけるかもしれないわ。えーと、一二九六年、マンティコア――ほら、頭は人間、胴はライオン、尾はサソリの――これが誰かを傷つけたけど、マンティコアは放免になった――あ、ダメ。なぜ放たれたかというと、みんな怖がってそばに寄れなかったんですって・・・・・・」



 カナたちが調べ物で談話室と図書館を往復しているあいだに、城内はすっかりクリスマスの飾り付けがなされていた。ヒイラギやヤドリギを編み込んだ大きなリボンが、廊下にぐるりと張り巡らされていることで、カナはやっとそのことに気がついた。暴れん坊の甲冑もあたたかそうなマフラーを巻き付けて、頭には赤い三角帽子をかぶっていた。大広間には毎度のごとく、金色の星をてっぺんに飾った十二本の巨大なクリスマス・ツリーがずらりと並んでいた。残念ながら、それを楽しむ生徒はカナたちを含めてもごく少数しかいないのだけれど。
 カナはふと気がついたのだけれど、昨日の夕食からリーマスの姿が見えない。あたたかいビーツのスープを、時間ぎりぎりまでゆっくりと時間をかけて食べていたけれど、それでもリーマスは現れなかった。とたんに心配になって――カナは、夕食を終えたその足でリーマスの部屋に向かった。

 予想通りではあったけれど、ノックに対して返事はない。
「リーマス、入るからね?」
 カナがドアノブをひねると、ドアは難なく開いた。しかし、明かりのついていない室内には誰もいなかった。見回すと――奥に続く扉を見つけた。おそらく、寝室だ。
 カナは扉の前に立った。やっぱりノックに返事はない。鍵穴はあるけれど、ここも鍵はかかっていないようだった。
 そっと、音を立てないようにドアノブに手をかけた――やっぱり開いた。カナはゆっくりと、隙間から中を覗くようにして扉を開けて――そして、後ろにひっくり返った。
 わずかに開いたドアの隙間から、ゴーストよりも不気味な石膏顔がのぞいていた――スネイプだ。真っ黒のローブを着ているせいで、顔だけが空中に浮かんでいるように見えて、カナは思わず尻もちをついた。
「エリオット」責めるような声だ。「教師の私室に許可なく立ち入るとはなにごとかね。今すぐ出て行きなさい」
「セブルス、かまわないよ」
 奥からリーマスの声がした。カナは立ち上がった。スネイプ先生は渋々といった感じで、鼻を鳴らしてカナが入れるように扉を開けてくれた。
「けしからんですな。ルーピン先生はミス・エリオットのみを例外的に――特別扱いするという」カナの頭上に恨み言が降ってくる。スネイプ先生にだけは言われたくない。
「いまは休暇中だからね」リーマスはスネイプ先生のネチネチ小言なんてちっとも気にしていないように言った。ベッドに近づいて、カナは気がついた――よろよろと身を起こしているリーマスの手に握られているものに。
 大きなゴブレットだ。カナには見覚えがあった。そのゴブレットにも、中身にも――ぐつぐつと青紫色の煙を吐き出す、灰色のどろどろした魔法薬――カナが、罰則で手伝わされた、劇薬だ。ほんとうに、リーマスがそれを飲んでいたなんて。
「はやく飲みたまえ」
「はい、はい――これ、とっても苦いんだから。すこし時間をおくれよ――」
 リーマスは、半端に身を起こしたままゴブレットを何度か傾けて、やっと薬を飲み干した。まだ青い煙を吹き出し続ける空のゴブレットがスネイプ先生の手に渡るのを、カナは呆然と突っ立ったまま見つめていた。
「――やあ、カナ。こんばんは」
 やさしい声がカナの視線を引き戻した。リーマスはベッドに体を横たえて、いつのまにかスネイプ先生は部屋から去っていったようだ。
「また、心配して、来ちゃったんだね」
「リーマス。あれを、ほんとうに飲んでいるの?」カナはベッドに腰掛けて、真上からリーマスの顔色を覗き込んだ。テーブルランプの灯りだけでは、よく見えないけれど――その顔色は悪い。
「カナ、あれが何か知っているのかい?」
 そう尋ねるけれど、リーマスはすべてわかっているように、落ち着き払っていた。
「ぼく、あれを作るのを、手伝わされた――あんなに強い薬を、飲まないといけないの?」
 リーマスは困ったように微笑んでいた。何も言わない姿を見て――カナは、カナは、からだの奥底から不安がぶわっ――とあふれ出してくるのを感じた。
「ねえ、リーマス」
 カナはリーマスの手をつかんで、涙をぽろぽろこぼした。頬から落ちた大粒の雫が、リーマスの胸の上のシーツに染みをつくる。
「死なないで。ぼくを置いていかないで――ひとりにしないでよ」
「カナ――」リーマスはやりづらそうに息を吐いた。「一人じゃない。エリアがいるだろう」
「いないよ!」カナのかんしゃく玉がはじけた。「おかあさんはぼくを励ましてくれたりしない――叱ったりしない――抱きしめてもくれない――リーマスだって、わかってるでしょう。おかあさんとリーマスは、ちがうよ。リーマスじゃなきゃいやだ。リーマスがいないと――」
「カナ」やさしく、たしかな声だった。「わたしはこんなことで死んだりしないと、約束するよ。でもね、それとは別に――きみは時間とともに、大人になるだろう。そうしたらいつか、大切な人と別れを告げる日がかならず来るんだ」
「いやだよ」カナはしゃくりあげた。いくつも、シーツの上に雫が落ちていく。
「嫌でも、運命は拒めない」リーマスは寝込んでいるとは思えないたしかな口調でカナに言った。「カナ。きみはいつか、思い出を清算しなくちゃならない。心地よかった頃の過去にばかりしがみついていたら、前に進めなくなる時が来る。そうしたら、しあわせなはずの思い出が、足枷になってしまう」
 リーマスが何を言っているのか、カナはすぐには理解できなかった。濡れた鼻をグズグズと吸い、揺れる瞳でリーマスをとらえた。リーマスはあわく微笑んでいた。
「シオンとお別れをしただろう」
 カナはうなずいた。三年近くも前の話だ。
「それでもきみは、ホグワーツへ行った」
 もう一度、うなずいた。そして、顔を上げることができなかった。リーマスの言いたいことが、すこしずつわかってきた。
「それが、清算するということなんだ。わたしはいつまでもきみと一緒にいられるわけじゃないよ。いつかは離れ、それぞれ生きて、そして永遠に会えなくなる日が来る。わたしだけじゃない。誰でもだ」
 リーマスの冷たい手が、カナの頭を優しくなでた。その力無さに、カナは目にまた涙を溜めた。
「カナ、きみはしあわせだったんだね。あの家にいたころ――文句ばかり言っていたけれど、しあわせだったんだ」
「でも、シオンはもういない」
 カナは顔を上げた。リーマスは微笑んだまま、頷いた。
「でも、でも――リーマスはここにいるよ。ちがう?」
「ウン――」鳶色の瞳がきらりと円を描いた。「わたしはここにいるよ」
 カナはしばらく、リーマスの手を自分の額に押し当てて、泣いた。しばらくして、「ここで眠るつもりかい?」と、リーマスが声を振り絞ったことに気がついたとき、カナは自分の行動をひどく後悔した。リーマスの体力を消耗させてしまっていたのだと気がついたからだ。薬を飲んで、いますぐ眠りに落ちたいと、そう思っているに違いないのに――カナも、毎晩おかあさんに苦い薬を飲まされていたから、気持ちがよくわかるがゆえに。
「わたしのことはいいんだよ、カナ」
 リーマスは何度目か、そう言った。カナの気持ちが表情に出ていたんだろう。カナは最後に「明日も来るよ」とおやすみの挨拶をして、リーマスの部屋を出た。

 廊下にはスネイプ先生が立っていた。立ち去ったわけではなかったのか――カナは先生をちらりと見ただけで、階段のほうへと向かおうとした。
「家族ごっこは楽しいかね」
 ひどくさげすんだ言い方だった――カナは振り返り、スネイプ先生を見据えた。
「ほんとうの家族です」
「フム、我が子であるはずの貴様に、自身の秘密を隠すのが、家族か?」
 スネイプ先生は事情を知っているんだろう――リーマスの病気のことも、それを隠し――カナが守られていたことも。
「あなたには関係のないことでしょう」カナは毅然と言い返した。「それに、いまさら。おかあさんだって、ぼくになにひとつ教えてくれたことはありません」
 カナは苛立ちながら、きびすを返した。スネイプ先生は、リーマスをおとしめたいだけなんだ――カナは思い出した。あの薬の材料リストの、かすれた字――おかあさんの頼みで、リーマスに薬を煎じているんだろうけれど、その結果が、リーマスのあの姿だ――「がれきの城」にいた頃、彼のあんな姿は見たことがなかった。子どもたちには隠していたのかも知れないけれど――スネイプ先生のせいだとは思っていない。思っていないけれど――カナとリーマスの仲にまで口を出す必要はないはずだ。



 翌朝。ベッドのカーテンを開いた時、カナは今日がクリスマスの朝であることにようやく気がついた。ベッドの足元に、こんもりとプレゼントの山ができあがっていたからだ。ハーマイオニーが先に起きて、パジャマのままプレゼントのひとつを手に取っていた。
「カナ。あなたからもプレゼントが来てるわ!」
 カナが友人にクリスマス・プレゼントを贈るのは初めてだったので、ハーマイオニーが目を丸くしていた。
「うん。ホグズミードでね」
 山のいちばん上に積まれた箱を手に取った。
 リーマスのプレゼント・ボックスには、カナが選んだ蛇のアクセサリーが小ぶりなクッション付きの箱にきちんと収まっていた。毎日会えるというのに、わざわざメッセージカードを同封してくれているところに、リーマスの面倒見のよさを感じた。
 パーバティからは薄紫色の丸い石が連なったブレスレットが贈られた。それに、ラベンダーからは清めのハーブが入った線香だった。きらびやかな箱からはシキミの香りがする。「占い術」に凝っているふたりは、カナが運命を切り開けるようにと開運のまじないをほどこしたアイテムを選んでくれたようだった。
 ハーマイオニーはマグルの本を贈ってくれていた。「あなたの『マグル学』の手助けになればと思って」とハーマイオニーは笑った。「グリム童話集」と書かれたぶあつい本を、カナはそっと机の上に並べた。
 ハグリッドはナッツがごろごろ入ったパウンドケーキを贈ってくれた。「おまえさんもバックビークに会いに来てやってくれ」と、すこしふるえた字でクリスマス・カードには書かれていた。
 ジニーからは手編みのカラフルなブードゥー人形で、カードには「はやく仲直りをしてね」と書かれていた。
 アリシアとアンジーからは、「ペドラス・プリジオン」のおしろいが贈られた。カナがあの日、店先で眺めていたジュエリー・ボックスのような、大きなパフがついているやつじゃなくて、それのコンパクトケースだった。カナがこれを欲しがってるって、どこで聞いたんだろう――と不思議に思ったけれど、とても嬉しくて、それを机の上に慎重に置いた。
 ガートは「あたしはチャレンジするからね。今度の満月の夜――それから、またお下がりを押し付けてごめん。パパがでっかいのを買ってくれたから、必要なくなっちゃったんだ!」と書かれたメッセージカードとともに、アンティークな花柄のジュエリー・ボックス(これもガートの好みじゃなさそうだ。)、それにロンドンの高級菓子店のマドレーヌを贈ってくれていた。カナは口の中の、すっかりふやけたマンドレイクの葉を意識した――もうすぐだ。月はすっかり満ちようとしていた――あとは、その夜が晴れてさえいれば、次の段階に進むことができる。
 なんと、モリーおばさんから今年もこんもりした包みが届いた。手紙には、長らく手紙を送らなくて申し訳ないこと、カナを心配する旨や、ホグワーツで元気に過ごしてくれていればそれでいいとか、ジニーから近況は聞いていること、うちの兄弟たちのことは気にしないで、等、カナを気遣う言葉が綴れられていた。モリーおばさんは優しすぎる。たくさん迷惑をかけて――なにひとつ恩返しできていないというのに。お手製のミンスパイの包みの下に、鮮やかな藍色のセーターがていねいに畳まれていた。袖口や襟に、銀色の刺繍糸で綺麗な模様が編み込まれていた。カナは、パジャマを脱いでそれを着た。
「ねえ、見て頂戴」
 ハーマイオニーが言った。見ると、クルックシャンクスを抱いていた。その首に、キラキラ光る金のティンセル・リボンをまとっていた。
「クルックシャンクスもクリスマス仕様よ」
「いいね」
 カナはそう言いながらも――不服そうに髭をぴくぴくしているクルックシャンクスの姿に苦笑した。
 ハーマイオニーはカナの髪をとかしてくれた。そして、カナが持っている白のリボンとブルーのリボン、赤いビロードのリボンを見比べて――白を選んでくれた。頭の後ろでゆるくシニヨンをまとめて、そこにリボンを結んでくれた。
 カナも、ハーマイオニーの髪を編んだ。彼女の栗色の髪はふわふわすぎて、カナの髪とは違って、これがまた難しかった。ハーマイオニーみたいに器用にはできなかったけれど、左右にふたつ、三つ編みを作って、それを後ろでひとつにまとめたハーフアップにした。ハーマイオニーも、モリーおばさん手製の真紅のセーターを着込んでいたので、カナの赤いビロードリボンを貸した。カナのセーターと対になったような、袖口の金の刺繍がピッタリだった。

 ハーマイオニーがロンとハリーにクリスマス・プレゼントを渡していないというので、ハーマイオニーがプレゼントの包みを、カナがクルックシャンクスを抱えて、ふたりは男子寮に乗り込んだ。
「ぼく、階段の下で待っていようか?」
「大丈夫よ。すぐに済むから」
 カナは、ロンのスキャバーズを見てクルックシャンクスが暴れないように、大きな体をしっかりと抱いた。
 三年生の寝室に登っていくにつれて、愉快な笑い声が漏れ聞こえてきた。カナとハーマイオニーは顔を見合わせた。ハーマイオニーはノックもなしに扉をガチャリと開けた。
「二人して、何を笑っているの?」
 ハーマイオニーは手にしていたふたつの包みを、それぞれに渡した。
「まあ、ハリー! いったい誰がこれを?――ねえ、カナも見に来てよ」
 ロンは扉の前に突っ立っているカナを振り返って、大声を出した。
「そいつをここに連れてくるなよ!」
 カナは階段にクルックシャンクスを下ろした。そして「入ったらダメだよ」と言い、扉を閉めた。
 ロンはあわててベッドの奥から戻り、スキャバーズを拾いあげて、パジャマのポケットに仕舞い込んでいるところだった。
 ハリーのベッドの傍に、つやつやの箒が浮かんでいた。カナが「ハリー、箒をもらったの?」と言うと、ロンが口をあんぐりと開けた。
「ファイアボルトだよ!」
「ファイアボルト?」カナは首をかしげた。
「国際試合級の、高級箒だ。カナ、こいつがいくらすると思う! ガリオン金貨が何百枚あったって足りないよ! つまり――スリザリンの箒を全部束にしたって、届かない」
 ロンが興奮してカナにまくしたてた。カナは「ふーん」とつぶやいて、そのなめらかな形状を眺めた。言われてみれば、ハリーの相棒だったニンバス2000よりもつやつやと輝いているし、枝はまるでなでつけたみたいにすっきりとまとまっているし、柄の先には見事な金文字で番号が刻印されていた。
「誰に貰ったの?」カナが聞くと、ハリーは首を振った。
「さっぱりわからない。カードもなんにもついてないんだ」
 やけにハーマイオニーは静かで、顔を曇らせて、唇をかんだ。
「どうかしたのかい?」ロンがたずねた。
「わからない――でも、何かおかしいわ。そんな高価なものをハリーに贈って、しかも自分が贈ったってことを教えもしない人って、誰なの?」
「誰だって良いじゃないか」ロンがイライラと言った。「ねえ、ハリー、僕、試しに乗ってみてもいい? どう?」
「まだよ!」ハーマイオニーが金切り声をあげた。「まだ絶対誰もその箒に乗ってはダメ!」
 みんなが顔を見合わせた。
「この箒でハリーが何をすれば良いって言うんだい――床でも掃くか?」
 ロンの言葉にハーマイオニーが答えるより早く、扉がガチャリと開いて、オレンジ色の塊がロンの懐にまっすぐ飛び込んだ。
おまえ、出ていけよ!
 ロンが大声で抵抗した。クルックシャンクスのするどい爪がロンのパジャマの胸ポケットを引き裂いた。スキャバーズは無我夢中でロンの肩を乗り越えて、逃亡を図った。ロンはスキャバーズの尻尾をつかむと同時に、はたきおとしたクルックシャンクスを蹴飛ばした――はずだったけれど、狙いが狂って、ベッド脇に置いてあったハリーのトランクを蹴飛ばしてしまった。
 トランクの中身が見事にぶちまけられた。痛みのあまりに、ロンはその場でピョンピョン飛び上がった。クルックシャンクスはもう一度ロンを狙おうとしたけれど、全身の毛をモップみたいに逆立てた。
 ヒュンヒュンヒュンヒュン――と、小さいけれど甲高い音が部屋じゅうに響き渡った。ハリーのトランクの奥底から飛び出てきた、よれた靴下から、何かが転がり出ていた。三角の形の、手のひらぐらいの大きさのものが、ピカピカと光を放ちながら狂ったようにくるくる回っていた。
「携帯かくれん防止器スニーコスコープ!」ハリーがそれを拾いあげた。「忘れてた――バーノンおじさんの靴下は履きたくないから・・・・・・」
 クルックシャンクスはスニーコスコープに向かって歯を剥き出し、フーッと低い声で唸っていた。カナはクルックシャンクスの目の前に手を出し、そっと抱え上げた。
「その猫、ここから連れ出してくれよ!」
 ロンがハリーのベッドの上でつま先をさすりながら、顔を真っ赤にして言った。ハーマイオニーは「言われなくてもそうさせていただくわ!」とツンツンしながら、カナの手を引っ張って、ふたりは寝室を出た。
「カナ、見た? あの人・・・、クルックシャンクスを蹴飛ばそうとしたわ!」
 ハーマイオニーは不貞腐れた顔のクルックシャンクスを引き取りながら、怒りで髪を膨らませていた。
「だから、言ったでしょ。二匹を鉢合わせないほうがいいよ・・・・・・お互い、何するかわかったもんじゃない」
 カナの指摘どおり、ハーマイオニーはクルックシャンクスを女子寮に閉じ込めた。クルックシャンクスはスキャバーズを襲おうとするし、ロンは怒って乱暴しようとするので、両者がお互いを敵視しているように感じた。
 そんなことがあった後なので、グリフィンドールの談話室の空気は最悪だった。ハーマイオニーもロンもカンカンに怒ったままだったし、ハリーは二人を会話させることもあきらめて、談話室にまでファイアボルトを持ってきてはしげしげと没頭して眺めていた。それがハーマイオニーの機嫌をなおさら損ねていた――ハーマイオニーの宿題を綴る羽根ペンの音が、いつもよりもガリガリと苛立たしく鳴っていたからだ。みんな、モリーおばさんのセーターを着ているというのに――心はちぐはぐだった。

 いつもよりちょっと早いけれど、カナはパッドに会いに行こうと思って、厨房へと立ち寄ろうとした。談話室は息苦しかったからだ。厨房へとおりる階段に差し掛かったとき、エメラルド色のローブをきらめかせたマクゴナガル先生とはちあった。
「メリー・クリスマス。ミス・エリオット」
 マクゴナガル先生はカナを見て、柔らかく頬を持ち上げて言った。それが珍しくて、一拍置いて、カナも「メリー・クリスマス。マクゴナガル先生」と答えた。
「今日は、何か予定が?」と、先生に尋ねられて、カナはどぎまぎしながら返事をした。
「いいえ。とくに何も」
「時間があるならば、ひとつ頼み事があるのですが」
 手にしたバスケットを持ち上げて、先生はカナにほほえみかけた。
 マクゴナガル先生の「頼み事」というのは、なんてことはない、「ルーピン先生」に食事を届けてほしいといったものだった。カナはそれを快諾した――どのみち、リーマスには会いにいくつもりだったのだ。パッドにはいつも通り、ランチの後に会いに行くことにして、カナはバスケットを受け取った。

 扉を叩くと、今日は部屋主が出迎えてくれた。カナだとわかると、柔らかく微笑んで「メリー・クリスマス」と言ってくれた。
「マクゴナガル先生が、食事を届けてほしいって」カナはバスケットをテーブルの上に置いた。
「ああ、ありがたい。感謝するよ」リーマスはやっぱり顔色が悪いままだったけれど、起きて動けるぶん、昨日よりは良いみたいだった。
 カナの視線に気がつくと、リーマスは苦笑した。
「朝はだいぶ良いんだ。午後から――そうだね、夜はとくにひどい」
 紅茶を淹れようとしたリーマスを遮って、カナがティーカップを準備した。相変わらずカップのふちは欠けていたけれど、リーマスの部屋にはティーバッグしかないから、簡単だ。リーマスはいつも砂糖を六つも入れるし――ひどいときは蜂蜜を瓶からたっぷり垂らすこともあったほどだ。甘いものが好きなんだ。
 ソーサーに乗せたティーカップを、そっとテーブルに運んだ。
「今日はずいぶん、お洒落しているね」
 カナはティーカップを落っことしそうになった。あわてて、カチャンと音を立てて置いたので、中身がすこしこぼれた。
「あの」カナはしどろもどろになりながら答えた。「髪、は・・・・・・ハーマイオニーがしてくれたんだ。彼女、器用だから」
 リーマスはにこやかに微笑んで、頷いた。
「セーターは、モリーおばさんが贈ってくれた。毎年、みんなにセーターを編んでるんだ。とっても上手だよね?」
 リーマスはカナの淹れたお茶を飲んだ。カップの底からさっきこぼしたお茶が滴っていたけれど、リーマスは気にしていないようだった。
「それに、このスカートは、ガートのおさがりだよ。ほら、スリザリンのガートルード・エイブリー・・・・・・もう着ないからって、ぼくにくれたんだ」
「お化粧は自分で?」
 リーマスが聞いたので、カナは額まで赤くした。
「おしろいして、リップをつけただけ・・・・・・いつだかガートがしてくれたけど、ぼく、そんなに道具を持っていないし」
 リーマスはもう一口、砂糖のたっぷり入った紅茶をすすった。
「急にお姉さんになったみたいで、驚いたよ」
 カナもソーサーを持ちながら、紅茶を飲んだ。
「カナももうそんな歳か。わたしも年を取るはずだ」
「フレッドは、『化粧なんかまだ早い』って言うんだ――」
「ン、男の子よりも、女の子は大人びるのが早いからね」クスクスとリーマスは笑った。「仲良くしているかい?」
 カナは押し黙った。ティーカップの揺れる水面に映る自分を見て、ひどく傷ついたような顔をしているのが気に入らなくて――もう一口紅茶を飲んだ。
「いま、けんか中」
「おや・・・・・・嫌なことを思い出させてしまったね」
「ううん。べつに気にしてないよ」カナは紅茶を飲み干した。「なんだか、ぼくのことが気に入らないみたい。ぼくが、リーマスとフレッドのことは比べられないって言ったら、かっとなって――ぼく、どう言えば彼を怒らせなかったんだろうって、ずっと考えてるけど、わからないよ」
 リーマスはきょとんとした。
「ン――そんなときは、『きみのことがいちばん』だって言わないと」
「でも、いちばんとか、どっちが上とか、そんなの無いよ」
「男心は難しいんだ」紅茶を飲み干したリーマスが、呆れたように笑った。



 昼食の大広間はがらんとしていた。いつもの長テーブルは以前のように壁に立てかけられていた。大広間の中央に置かれたテーブルには食器が十二人分用意されている。そこに先生がたが並んで座る。ダンブルドア、マクゴナガル先生、スネイプ先生、スプラウト先生、フリットウィック先生、そして、古びた燕尾服を着たフィルチさんだ。その向かいに、不貞腐れた顔のスリザリンの五年生と、緊張で身を固くしたハッフルパフの一年生が一人ずつ座っている。
「メリー・クリスマス!」ダンブルドアがにっこりと挨拶した。カナは一年生の隣の席についた。ハリー、ロン、ハーマイオニーも、そのとき大広間に入ってきた。
「これだけしかいないのだから、寮のテーブルを使うのはいかにも愚かに見えたのでのう・・・・・・さあ、皆が出揃ったところで――」ダンブルドアは杖をふるった。「クラッカーじゃ!」
 銀色の巨大なクラッカーが現れた。ダンブルドアはその紐の端を、スネイプ先生へと差し出した。スネイプ先生はしぶしぶ受け取って、おもむろに引っ張った。
 パーン!――大砲のような巨大な破裂音とともに、特大クラッカーが弾けた。キラキラの煙やテープ、お菓子の袋とともに、いくつも帽子が飛び出てきた。みんな、好きな帽子をそれぞれ手に取って、三角帽子の代わりに被った。はげたかの剥製の乗った大きな魔女の三角帽子が飛び出してきたときには、三年生はみんな、まね妖怪ボガートのことを思い出したに違いない――ロンとハリーは目配せしてにやりと口角を上げた。スネイプ先生は唇を引き結び、帽子をダンブルドアのほうに押しやった。ダンブルドアはすぐに自分の三角帽子を脱ぎ、難なくはげたか帽子を被った。
「どんどん食べましょうぞ!」
 クリスマスのごちそうはふだんよりもうんと手が込んでいて、特別で、カナは大好きだった。ハッフルパフの一年生が熱心に見つめていた、カナッペの敷き詰められた皿を寄せてあげた。彼は緊張で耳まで真っ赤にしながら、コクコクと首を動かして謝意を示した。サーモンのも美味しそうだったけど、カナはぶどうと生ハムの乗ったのを一つ取って、口にした――ああ、ここにバタービールがあったらな、なんて思った。
 大広間の扉がまた開いた。「占い術」の先生が、ゴーストのようにスーッと近づいてきた。カナは、ああ、この人がパーバティやラベンダーが心酔している「トレローニー先生」か、と思った。ひょろりとやせた背の高い女性だ。大きな瓶底眼鏡のせいで、先生の黒い目は何倍も大きく見えた。折れそうに細い首にいくつも金細工や、パーバティの贈ってくれたような丸い石が連なったネックレスをぶら下げていて、腕や手もいくつものリングで装飾されていた。鮮やかな緑のスパンコール飾りのドレスが目にまぶしい。
「シビル、これは珍しい!」ダンブルドアが立ち上がった。みんなも食事の手を止めて、トレローニー先生の動向を見守った。
「校長先生、あたくし水晶玉を見ておりまして」霧のかなたから聞こえてくるような、かすかな声だ。「あたくしも驚きましたわ。一人で昼食をとるという、いつものあたくしを棄て、みなさまとご一緒する姿が見えましたの。運命があたくしを促しているのを拒むことができまして? あたくし、取り急ぎ塔を離れたのでございますが、遅れまして、ごめんあそばせ・・・・・・」
「それは、それは」ダンブルドアは目をキラキラさせた。「椅子をご用意せねばのう――」
 ダンブルドアは杖を振り、空中から椅子を取り出してみせた。それはスネイプ先生とマクゴナガル先生のあいだに、トンと落ちた。しかし、トレローニー先生は座ろうとしなかった。巨大な目でテーブルをずいーっと見渡したとたん、悲鳴を漏らした。
「校長先生、あたくし、とても座れませんわ! 十三人になってしまいます! こんな不吉な数字はありませんわ!――」ハッフルパフの一年生はデレク・ヤングと名乗った。ふたりはカナッペをもうひとつ取った。ピクルスのもいける。「――お忘れになってはいけません。十三人が食事をともにするとき、最初に席を立つ者が最初に死ぬのですわ!」
「シビル、その危険を冒しましょう」マクゴナガル先生がイライラと言った。「構わずお座りなさい。七面鳥が冷え切ってしまいますよ」
 カナはマクゴナガル先生が切り分けてくれた七面鳥を受け取った。トレローニー先生は席についたようだ。目をかたく閉じ、口をキッと結んで、まるで今にも不幸が起きるのを身構えているかのようだった。
 カナは構わず食事を続けたけれど、トレローニー先生の言葉に耳をぴくりを反応させた。
「あら――ルーピン先生はどうなさいましたの?」
「気の毒に、先生はまたご病気での」ダンブルドアはみんなに、かまわず食事を続けるよう促した。「クリスマスにこんなことが起こるとは、まったく不幸なことじゃ」
 カナも気持ちが沈むようだった。デレクが、ジンジャーエールの瓶をすすめてくれたので、ゴブレットに注いでもらった。冷たくて、ぱちぱち弾けて、甘くておいしい。先生たちの会話が、聞きたくなくても耳に入ってくる。
「でも、シビル、あなたはそれをご存知だったはずね?」マクゴナガル先生は挑発的に言った。
「もちろん、存じてましたわ。ミネルバ」トレローニー先生は疑われても落ち着きはらって言った。「でも『すべてを悟れる者』であることを、ひけらかしたりはしないものですわ。あたくし、『内なる目』を持っていないかのように振る舞うことがたびたびありますのよ。ほかのかた達を怖がらせてはなりませんもの」
「それですべてがよくわかりましたわ!」マクゴナガル先生は生徒に注意する時みたいにピシャリと言った。
 とたん、トレローニー先生の声が霧が晴れたようにはっきりと大きくなった。
「ミネルバ、どうしてもとおっしゃるなら、あたくしの見るところ、ルーピン先生はお気の毒に、もう長いことはありません」
 ガシャン――と大きな音が鳴った。カナがゴブレットを皿の上に落とした。こぼれたジュースで汚したスカートを、ハーマイオニーが杖を振ってきれいに片付けてくれた。「真に受けちゃだめよ」と小声でカナに言い聞かせてくれた。
 トレローニー先生は大きな音にも気が付かなかったように、話し続けていた。
「――あのかた自身も先が短いとお気づきのようです。あたくしが水晶玉で占って差し上げると申しましたら、まるで逃げるようになさいましたの――」
「いや、まさか――」ダンブルドアは朗らかに、すこし声を大きくした。「ルーピン先生はそんな危険な状態ではあるまい。セブルス、ルーピン先生にまた薬を作ってさしあげたのだろう?」
「はい、校長」スネイプ先生がそっけなく答えた。
「結構。それならば、ルーピン先生はすぐによくなって出ていらっしゃるじゃろう――」ダンブルドアはカナを――生徒達のことを気づかってくれたのだろう。
 カナはその後の食事の味を覚えていなかった。みんなが楽しみにしていたクリスマス・プディングだって、ちゃんと火が消えたのを確認して口に運んだかどうかも覚えていない。まだまだ食事会は続いたけれど、カナは立ち上がった。
「あなた!」おとなしかったトレローニー先生が、カナを呼び止めた。「あたくしの言ったことをお忘れになったのですか! いますぐ水瓶いっぱいの清水を飲み干すのです、死相が浮かび上がっていますわ――」
「シビル」
 カナがなにか言い出す前に、マクゴナガル先生がトレローニー先生を遮った。
「わたくしの生徒を脅かすのはおやめなさい。彼女はあなたがルーピン先生のことをとやかく言うので気分を悪くしたのですよ――ですから、死相ではありません」
 マクゴナガル先生が促してくれて、カナはようやくテーブルを離れた。



 カナは「禁じられた森」の近くまで来ていた。途中、厨房に立ち寄ってクリスマス・メニューを詰めてもらうことも忘れない。
 ブランケットにくるまって、パッドはそこにいた。カナの持つバスケットの匂いを嗅いでか、ワン、と嬉しそうに鳴いた。
「メリー・クリスマス。パッド」
 七面鳥に、チポラータ・ソーセージ、それにクリスマス・プディングだ。パッドならデザートも食べるだろうと思った。案の定、パッドは大喜びで、ぜんぶを平らげた――そして、ひとことも発さないカナのことを、不思議そうに見上げた。
「ごめんね、ちょっと落ち込んでるんだ」カナは弱々しくほほえんで、パッドの頭を撫でた。「ぼく、『占い』なんて・・・・・・『予言』なんてだいきらい。うそっぱちだよ」
 カナは、パッドと出会った日にラベンダーとパーバティが死神犬グリムだと囃し立てたことを思い出した。
「きみのこと、悪霊か何かだと思ってる人だっているよ――こんなに可愛いのに」
 カナは黒いごわごわした毛に砂の粒がついたままのパッドの首すじに、額をグリグリと擦り付けた。

 ハグリッドの丸太小屋のなか、巨大なパッチワークのベッドの上に、バックビークはゆったりと脚を伸ばしていた。さっきまでイタチのランチでも食べていたんだろう――その嘴に血と細かい毛が付着しているし、床には骨が散乱していた。
「ハーマイオニーに聞いたよ。ぼくたち、どうにかバックビークを弁護できないか、過去の裁判を調べてるんだ」
 ハグリッドは目に涙をいっぱい溜めて、カナに抱きつこうとして――すんでのところで止まった。
「ハグリッド」カナは両手を広げて、その髭もじゃのお腹に自らくっついた。「ぼくたち、友だちでしょう」
「ああ――いや、カナ。このあと、誰かと約束してるんかと思ってな。ずいぶん綺麗にしとるから」
「みんな、そればっかり言うんだ」クスクスとカナは笑った。「ぼくをいつまでも子どもだと思ってる?」
「子どもだよ。おまえさんたちはまーだ――ただし、すんごく勇敢で、優しい子どもだ」ハグリッドは髭に涙をぽつぽつこぼしながら、今度こそ小さなカナをぎゅっと抱きしめた。「バックビークは幸せもんだ――おれは一度、こいつを逃そうかとも思った。遠くに飛んでいってくれたら・・・・・・だけんど、こいつはそんなことわからねえ。どっかに隠れてろなんて、ヒッポグリフにどうやって言い聞かせたらええってんだ? どうせ帰ってきちまう。こいつはこの森で生まれたんだ・・・・・・それに、法律を破って、今度こそアズカバンに送られるのがおれは怖いんだ・・・・・・」
 ふるえるハグリッドに、カナはなんと声をかけていいのかわからなかった。去年度、ハグリッドは一度アズカバンを経験している。あそこには吸魂鬼ディメンターがたくさんいるのだ――カナでさえ、すこし近づいただけでひどく絶望したような気持ちになるのだから、あそこの囚人はどんなにひどい思いをするのだろう。想像もできない。
「ハグリッド。ぼく、一度――その、吸魂鬼ディメンターがグラウンドに詰め寄ったでしょう。あのときに、誰かの声を聞いたんだ。そんなことってある?」
「あいつらのそばにいると気が狂う」ハグリッドはカナを解放して、ひっそりと言った。「ひどい思い出ばっかし思い浮かぶんだ。おれんときゃ・・・・・・ホグワーツを退校になった日・・・・・・親父が死んだ日・・・・・・ノーバートが行っちまった日・・・・・・」
 ノーバートはハグリッドがこっそり飼っていた赤ちゃんドラゴンの名前だ。カナは彼と会ったことはなかったけれど、ハグリッドがどんなに愛おしく思っているかを、何度も聞いた。
「カナ。やつらは幸福をぜんぶすいとって、悪い思い出だけを残すんだ。そりゃ、おまえさんの中でイッチバンひどい記憶なんだろう」
「でも、ぼく、そんなの覚えがないよ」
「なんて言ってた?」
「・・・・・・よく覚えていないけど、『死ぬことなんて怖くない、地獄だって構わない』って」
「おまえさんの身近じゃあ――」
「死んだのはシオンだけだよ」カナはだんだん不安になってきた。息を短く吐いて、テーブルの下に隠れているファングの鼻先を見下ろした。「ぼく、ぼく――シオンが死んだ日のこと、なんにも覚えてないんだ。そんなことってあるのかな。あの子がどうやって死んだのかなんて――ぼく、今まで考えたこともなかった」
「そんときの記憶かもしれんな」ハグリッドは優しく言った。「きっと、つらい記憶だ。カナ、人間は嫌なことを忘れるようにできてるんだ。いつまでもつらすぎたら、暮らすモンも暮らせなくなる。な? 忘れっちまったほうがいいこともある」
 カナは、おかあさんのことを思い出していた。もう二年以上会っていないけれど――ぼくが死んでからのおかあさんのようすは、ハグリッドが言う「いつまでもつらすぎて、暮らせない」という状態がピッタリ当てはまると思った。



20240618


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