翌朝も早くから、カナは揺り起こされた。薄目を開けると、すっかりローブに身を包んだハーマイオニーがそこにいた。ふわふわの栗毛を膨らませて、カナのシーツを奪いとった。ベッドの傍の窓からは、明るくなり始めた白い空が見える。
そうだった。カナはもうホグワーツで暮らしているのだ。
同じ石の城でも、崩れてなんかいないし、すき間から風は吹かないし、ちゃんとあたたかく、料理のにおいがする。あの「がれきの城」とは違う。
「もう授業なの?」
カナが目をこすりながら訊くと、ハーマイオニーは「その前に朝ご飯でしょ!」と、げっ歯類のような大きな白い歯を光らせて、朗らかに言った。
いつものシュミーズの上から黒のローブを被る。寝ぼけたままリボンを結ったため、ぐにゃりと傾いた。寝起きのカナにそっくりだ。三角帽子だって傾いている。
前をパーバティとラベンダーが行き、カナが転ばないようにとハーマイオニーは手を引いて、四人は女子寮の階段を下っていく。栗色のふわふわした髪がくすぐったい。
談話室にはグリフィンドール生が集まっていて、活気がある。数名の上級生は窓際のテーブルで課題の相談をし、下級生は他年の生徒と会話を交わしている。
「いい加減にしないか!」
と、怒号が飛ぶ。カナたちはびくりと肩を弾ませたけど、笑い声が止む気配はない。暖炉の前のソファには生徒たちが集まって、ごわごわとうごめいていた。
「何ごとかしら?」ハーマイオニーが手すりから身を乗り出して、集団を覗き込んだ。
「あんなに押し合っていたら、危ないわ」パーバティも心配そうに見つめる。
監督生のパーシーが、ずかずかと歩きカナたちの目の前を横切って、「オスコーシ!」と杖をかざした。さっきの怒号はパーシーだ。一団はすっかり静かになってしまい、パーシーがその真ん中からハリーを引っ張り出した。
そしてカナたちや、集団の一歩後ろでそれを眺めていた一年生の男の子たちに向かってきびきびと言い放った。
「一年生は大広間へ向かうように!」
その場にいた一年生たちは吐き出される様にグリフィンドール塔の廊下へ追い出された。
「もう、乱暴だわ!」ラベンダーと太った婦人が同時に言った。カナはラベンダーが立ち上がるのを手伝った。
「何があったっていうの?」ハーマイオニーがふわふわの髪を手でとかしながら、ハリーにたずねた。
「みんなが僕の傷を見たがるんだ・・・・・・」ハリーは申し訳なさそうに小さくなってうめいた。
――傷?
一年生の一団は、男の子が前を、女の子が後方を歩いた。カナは大広間までの道が全くわからなかったけれど、どうやら先頭を歩くロナルドは物覚えがいいらしい。カナは集団についていった。動く絵画や甲冑に興味を引かれて、時々足を止めてしまっていたけれど。
そういえば、ハリーの言っていた「傷」とは何だろう、とカナは眠そうにあくびを漏らす老人の像から目を逸らしながら思い出した。
「ラベンダー、傷って何なの?」カナが聞いても、答えはなかった。前を見ると、そこに誰の姿も無かった。
――しまった。
額に冷や汗がにじんだ。こんどは本当に迷子になってしまったのだ。カナはがたがたに曲がった狭い階段の入り口で立ち止まった。どこでみんなとはぐれてしまったのかも思い出せない。
とりあえず、一階に行けば大広間までの道にたどり着けるかもしれないと思い、曲がった階段を下る。狭い階段はやがて天井をどんどん低くして、やがてカナですら屈まなければ通りにくい高さになった。他には一体だれが通れるというのだろう。階段の突き当たりはタペストリーの裏で、それをめくって、屈んだまま出ようとした――しかし、それはかなわなかった。カナが手をかけた瞬間、タペストリーは勢いよく捲れて、誰かが飛び込んできた。
「うわあっ!」
カナはその誰かに勢いのまま押し倒されて、もと来た階段のほうにひっくり返った。頭を強かに打ったのか、クラクラと星の舞うまま目を開けた。
「おいおい! 何で一年生がこんなとこに居るんだ? 朝ご飯が恋しくないのかよ」
飛び込んで来たのは昨日の、双子のフレッドだった。息がかかりそうなほどの距離で、亜麻色の目をパチパチ瞬いた。
「フレッドこそ、どうして?」
カナが言うと、フレッドはさらに驚いて、目をまあるくした。
「僕フレッドだって、どうやって思いついたんだ?」
「えーと、違った? 昨日、お菓子をくれたよね?」
「さあ。どっちでも同じさ」きっとフレッドで合ってるんだろう。彼はにやりと笑った。「やばいな、お前さんまでフィルチに見つかっちまうよ。とにかく上に行こう」
二人は狭い場所で転んだままだったので、カナは先にフレッドの下から這い出た。天井も高くなってきた頃、フレッドがそれは面白そうに言った。
「そういうおチビさんは・・・・・・」
「カナだよ」
ガートの言う通りだ。カナを子ども扱いする人は思ったよりもいるのかもしれない。
「ハーイ、カナ。で、この抜け道を知ってたのか? 誰に教わった?」
「ううん。気づいたらここにいて」カナのお腹がグウと切なく鳴いた。
「そりゃ、なんて勘が鋭いんだ!」けらけらとフレッドは笑った。「その様子じゃ、朝飯はまだなんだろ。でももうすぐ授業の時間だ。ついてないな」
フレッドはカナの頭をポンポンと慰めると、ポケットから何か取り出して、カナの小さな手の上に落とした。手のひらにはヌガーの包みが三つ乗っていた。
「これは?」
「朝食を食べ損ねたかわいそうな友だちに餞別だ。安心しろ、普通のキャラメルだよ。ただ食べ過ぎには気をつけろ」
「ありがとう」
カナはさっそくひとつ口に入れた。たしかに、普通の、とびきり甘くて美味しいキャラメルだった。残りはポケットに突っ込んだ。中で何かがぶつかる。昨日のビスケットが残っていた。
狭い階段を登りきると、出口は大時計の中だった。そこからフレッド、カナと続けて出る。
「ぼく、こんなとこに入ってたんだ」
「本当に覚えてないのかよ」フレッドは嬉しそうに言った。「帰り道、わかるか?」
「えーと、ううん」
「しょうがないな、チビちゃんは。オーケー、どうせこの後は授業入ってないしな」フレッドはそう言うと歩き出した。年上の男の子に付き添われて歩くのは慣れなくて、なんだかむずがゆかった。
「フレッド? 昨日のビスケットは、はずれがある? ぼくだけ声が変わらなかったんだ」
「何? おかしいな――じゃなくて――いや、いや、何を言ってるんだね。そんなおかしなものを新入生に食べさせるわけがないだろう。シー、絶対に教師やパーシーに言ったりするんじゃないぞ。大きな声で症状について相談するのもナシだ」
大時計が鎮座する廊下を後にして、ふたりはグリフィンドール塔の方へと向かった。気まぐれに動く階段。おしゃべり好きの肖像画たち。フレッドが通るといくつかの肖像画たちは怒り出して、「私を元の場所に返しなさい!」とか、「呪ってやる!」とか、さんざん言われていたけど、当のフレッドはどこ吹く風だ。ああ、フレッドはたぶん、あちこちでとんでもない悪さをしているんだろう、とカナは思い至った。
肖像画のほかにも、ホグワーツには何人ものゴーストが住み着いて、徘徊していた。「ほとんど首なしニック」はグリフィンドール生に親切に道を教えてくれたりなんかしていたけれど、他寮に住み着くゴースト、例えばスリザリンの「血みどろ男爵」や、レイヴンクローの「灰色のレディ」なんかはグリフィンドール生にはまったく興味を示さなかった。途中でポルターガイストのピーブズにばったり遭遇してしまい、カナのローブの首元の隙間から手のひらくらいのクモを投げ入れたけれど、残念なことにカナはクモなんかへっちゃらだった。
「そこ、気をつけろよ」
階段の途中でフレッドはカナの手を引っ張った。よく見ると、ちゃんとあったはずの階段が一段、カナの目の前で消えていた。フレッドのおかげで、なんとか踏み外さずにすんだ。カナはなんだかフワフワした気持ちでフレッドについて行った。年の違う兄がいたら、こんな感じだったのかな――なんて考えながら。
グリフィンドールの寮の入り口のある廊下に出ると、再びばったりと教科書を抱えたロナルドとハリーの二人組に出くわした。
「君、どこに行ってたんだ? ハーマイオニーのやつが探してたよ。まあ、友達よりも授業の方が大切みたいだけど」
「おお、我が弟! ちょうど良いや。このおチビさんを授業に連れてってやってくれよ。また迷子になって、秘密の抜け道がばれちまうからさ」
「どういう意味?」
ハリーはきょとんとしてフレッドとカナの二人を見比べた。カナはなんと説明したものかと考えていたけれど、フレッドがウインクを飛ばす方が早かった。
「ま、とにかく頼んだよ。ジョージを探さなくちゃならないんだ。多分あいつ、今ごろ管理人に見つかって泣いてるぜ」
「フレッド、ありがとう」
カナが礼を言うと、ひらひらと手を振ってフレッドは廊下の向こうに歩いていった。
「教科書を取ってきなよ。最初の授業は『妖精の呪文』だよ」
ハリーの言葉に、カナはあわてて頷いて寮に入った。杖と教科書、羽根ペンとインク壺に白紙の羊皮紙、少し考えて――リーマスの手鏡をかばんに詰め込んで、大慌てでふたりのもとへと戻ると、ふたりの後ろに続いて妖精の呪文の授業へと向かった。
「早速迷子になったんだって?」ロナルドがあきれたように言った。「君、船着場でも足を滑らせてただろ。そそっかしいんだな。気をつけないと」
カナはロナルドと話したのは初めてだったけれど、そんなふうに見られていたとは思わず驚いた。
「そんなに目立ってた?」ハリーの方を見ると、肩をすくめられた。
「知ってるかもしれないけど、ロナルド・ウィーズリー。ロンで良いよ。さっきのは四番目の兄さんさ」
「四番目?」きょとんとして言うと、ロンは指を折って、七つを数えた。
「七人兄弟なんだ」
「すごいよね」
ロンはくたびれたように言ったけど、ハリーは羨ましそうにニコニコして言った。カナもそれに頷いた。
「フレッドはいつもお菓子を持ってるんだね」
「いたずら道具だよ。あれだけじゃないんだ。迷惑なものをしょっちゅう持ち歩いては、いつもママに叱られてる」
「面白かったよ。声がカナリアみたいになるの」
「それ、絶対あいつらの前で言うんじゃないぞ。悪化する」
妖精の呪文の教室へ向かうあいだ、三人はひそひそと噂の的になった。話題はハリーだ。カナはハリーの傷のことを思い出したけれど、なんだか聞く気になれなくて、視線を送る人々をちらりと見やるだけにとどめた。
「妖精の呪文」の授業は杖のみを出し、教科書は仕舞うように指示された。一年生たちはわくわくして嬉しそうだ。
カナは白灰色の節くれだった杖を机の上に出した。おかあさんのお下がりだ――隣のロンの杖なんか、中の銀色の芯がはみ出してしまっている――それと比べたら、そんなぼろでもないけれど、きれいとは言いがたい。反対隣のラベンダーはピカピカの褐色の杖を手にしていた。それに、このお譲りの杖はカナの手には大きすぎる。
カナよりも随分小柄なフリットウィック先生は、台の上にさらに本を積み上げて登らなければ埋もれてしまう。小さな手足を目一杯伸ばして一人ずつの机の前まで行って、ていねいに点呼をとっていく。小さな姿が大ぶりに動くさまは、年高の魔法使いだと分かっていても可愛らしいと感じる。点呼を終えると、先生は咳払いした。
「一年生の皆さん、入学おめでとう。昨晩の歓迎会は楽しかったことでしょう。今日から魔法学校で最初の授業ですね。さて、皆さんは早く魔法を扱いたいと思っていることでしょう。魔法には理屈ももちろん存在しますが、下級生が身につけるべき『妖精の呪文』はほとんどが基礎であり、感覚的なものです。つまりは実践あるのみということですね」
フリットウィック先生は、生徒たちに杖を握るよう示した。
「杖はこのように構えます。上手な生徒に手本を見せてもらいましょう。ええ、ええ、ミス・グレンジャー?」
ハーマイオニーは呼ばれてすばやく立ち上がった。
「ええ。足を肩幅程度に開いて、全身をリラックスさせています。それに、脇を軽く開いていますね。杖を持つ手は顔の高さです。杖を前腕からまっすぐのびるように、手の全体を使って握り込んでいます。すばらしい! グリフィンドールに五点差し上げましょう」
一年生で最初に点数を得たのはハーマイオニーなんじゃないだろうか。先生は向かい側の生徒のほうへと指導に行った。こちらはハーマイオニーが確認してくれている。
「もう、そうじゃないわ。それにその杖、はやくどうにかしたほうがいいわ。危ないったら」ハーマイオニーの指導はロンのところで止まっている。カナにはロンの構え方の何がちぐはぐなのかわからないけれど、ハーマイオニーには間違っているように見えるんだろう。カナも「杖が大きすぎない?」との言葉をもらった。その通りだと思う。
最初の呪文は辺りを照らす「ルーモス」だ。ハーマイオニーはまるで息を吸うように安定した光を灯して見せ、また点数を稼いでいた。カナは何度挑戦しても、ついには成功することはなかった。ただ、そういう生徒はカナだけではなかった。先生は「危険の少ない呪文ですから、しっかり練習しましょう」と宿題を残し、授業は解散となった。
薬草学はほとんど肉体労働だ。温室はいくつもあって、ホグワーツ城と同じくらい入り組んでいるような気がしてしまう。
ふっくらした小柄のスプラウト先生が、点呼ののちに生徒に手袋を装着するよう促す。ドラゴン革製の手袋はずっしり重く、かなり分厚い。温室の中が暖かいのもそうだけれど、手袋のおかげでカナの頬はあっという間に赤くなった。ちらりと隣を見やると、ネビルも同じだった。
「さあさ、薬草学の授業で作った植物は『魔法薬学』でも使いますからね。心を込めてしっかりお世話しましょうね。そして薬草や魔法植物を好きになってくれたら嬉しいわ」
カナは鉢植えを運ぶ時、手袋があまりに大きいから手が滑ってしまわないかひやひやした。スプラウト先生はお気に入りの植物であるラッパ水仙を、温室のホールに植え替えるように指示した。ラッパ水仙はお喋りなだけの無害な花だ。植え替えたあとのキンキンと痛む耳を害と捉えないのならば。
火曜日の魔法史の授業は、無知そのものであるカナにとっては新鮮なものだった。しかし、担当のビンズ先生――真珠色のゴーストの先生だ――彼はあまりにも抑揚のない、鬱屈とした調子で授業を続けるものだから、授業中の生徒はほとんど眠りの世界へ旅立っていた。それに、中庭に面して背の高い窓を嵌め込んで明るいはずの教室は、生きた者が管理をしないせいかひどく埃っぽく、天井から蜘蛛が垂れてくる始末だ。
あとから聞いた話だけれど、ビンズ先生はホグワーツの自室で亡くなったらしい。ここに棲むゴーストたちは、みんなホグワーツで亡くなったんだろうか?
「変身術はホグワーツで学ぶ魔法の中で最も危険なものの一つです。いいかげんな態度でわたくしの授業を受ける生徒は出ていってもらいますし、二度と教室には入れません。初めから警告しておきます」
マクゴナガル先生は見た目の通り厳格な魔女だ。自身が寮監督として面倒を見ているグリフィンドールの生徒だからといって、甘やかしたりはしないんだろう。生徒たちは身を固くした。
先生は杖をふるい、近くの机を豚に変え、また元の机に戻して見せた。
「大きく複雑な物ほど、変身術は難しくなります。簡単に見えるでしょうが、あなたがたが家具を動物に変えるようになるまでには、まだまだ時間がかかるでしょう」
先生は羊皮紙に講義の内容を書き取るように促した。先生の言っていることは半分も喉を通らなかった。やがて解説が終わると、マッチ棒が一人一本配られる。
「裁縫針に変えて見せてください。授業終了までにできた生徒には、点数をあげましょう」
カナは――呪文学の時と同じだった。いくら試してもマッチ棒はぴくりとも反応しない。でも、そんなに落ち込むことでもないのかもしれない。授業が終わるまでにわずかにでも成功したのはハーマイオニーだけだった。彼女の変身術はかんぺきで、マクゴナガル先生は機嫌が良さそうに他の生徒に裁縫針を見せつけた。
ハーマイオニーは本当に勉強家だった。そんな彼女が優秀でないはずがない。寝室でさえ机に向かって勉強しているのだ。勉強中のハーマイオニーはなんだか話しかけづらい。グリフィンドールの同級生の女の子の間では、カナはもっぱらラベンダーの一方的なおしゃべりの聞き役だった。
真夜中にはレイヴンクローの生徒たちとともに、天文学の授業があった。グリフィンドール塔の反対側にある塔のてっぺんには天文台があり、不思議と雲ひとつない星空を望むことができた。カナはかなり眠たかったけれど、風に吹かれると不思議と目が覚めたものだった。最初の授業は月の満ち欠けを観測した――満月のエナジーは、魔女や魔法使いには重要らしい。そういえば、リーマスがよく口を酸っぱくして言っていたのを思い出した――「満月の夜は早く寝なさい」って。
カナはこのクラスに馴染めるかどうか不安になった。シニストラ先生の出す宿題は、頭が沸騰しそうなくらい難しかったからだ。
木曜日は「闇の魔術に対する防衛術」だ。教室の中はニンニクの強烈な匂いが充満していた。カナはつい「ウーッ」とうめいて、入り口を塞いでしまったので後ろからネビルに押されてしまった。
「ご、ごめんね。大丈夫?」ネビルが心配そうにカナを覗き込む。
「この教室、ひどいにおいだよ」
「たしかに、こりゃ悲惨だな」ロンが口を斜めにして頷いた。「フレッドとジョージが絶賛するわけだよ。ここの空気を詰めた瓶を売ろうとしてるんだ。吸血鬼に対するお守りだって言ってさ」
クィレル先生はひどく臆病そうな人だけど、ルーマニアでは吸血鬼に出会ったとか、アフリカではゾンビをやっつけたとか、そんな勇敢な話を聞かせてくれた。ついつい興味をひかれたシェーマスが身を乗り出して先生に聞いた。
「ゾンビをどーやってやっつけたんですかー?」
先生は顔を赤くして――話をそらした。生徒たちは肩透かしを食らった。闇の魔術の防衛術の先生はあまり大したことがないようだ、と。
「先生のターバン、あれはひどい匂いがしてたな」「しかもさー、ほら吹きだぜ?」席を立つディーンとシェーマスの会話が聞こえる。授業が終わるとクィレル先生はあっというまに職員室へ消えてしまった。ホグワーツの先生は変わり者が多いけど――クィレル先生はとくにへんてこだ。
ようやく最初の一週間が過ぎ去ろうとしていた。金曜日の朝、カナはルームメイトと朝食をとった。
「魔法薬学だったかしら?」パーバティが尋ねる。
「しかもしかも、スリザリンと合同授業なのよ」ラベンダーがうめいた。「なんか嫌。あいつら、わたしにむかってピーブズをけしかけたの!」
カナはラベンダーへ、温かいミンスパイをすすめた。彼女は一気に口の中に放り込む。豪快だ。
「スリザリンに意地悪な子がいるんだ? ドラコ・マルフォイ以外にも?」
「ほとんどマルフォイの子分よ。お金持ちだから言い返せないの。下品な芝居に加担して、面白くもないことで笑わなくちゃいけないの。最低のコミュニティよね」
「パーバティったら大人っぽすぎるわ」ラベンダーはゴブレットをクルクル回したのち、かぼちゃジュースを飲み干した。
その時、天井の窓が開いて、羽ばたきが突風のように聞こえてきた。毎朝のふくろう便の配達の時間だ。
向かいの席に、雪のように真っ白なフクロウが降り立った。ハリーのフクロウだ。カナはその美しさに見惚れた。ハリーの手からビスケットを受け取って満足そうにしている姿には、とても癒されるものがある。ふと、白フクロウが方向転換した。カナと目が合う。そのままチョコチョコと皿のあいまを縫って歩き、カナの手をツンと突いた。
「お腹すいてるの?」
カナもビスケットを引き寄せて、小さく砕いてから差し出した。
「あれ、ヘドウィグはどこ?」
「見ろよ、ハリー。彼女は気が多いみたいだ。ご主人様じゃなくてもいいらしい」
ロンのあきれた声は、夢中で戯れるヘドウィグとカナには聞こえていなかった。
魔法薬学で指定された教室は地下牢を幾つも通り過ぎた先にあった。格子の向こうに残されたままの、用途のよくわからない器具や道具を、一年生は不気味がった。しかしカナは「がれきの城」にそっくりだと思っていた。じめじめした暗い場所は慣れっこだ。下へと降るにつれて、空気は冷たく重く、照明も薄暗くなっていく。
広く、明かりの灯った階層に出る――驚くことに、まだ地下がある。グリフィンドールの一年生たちは、大きな木の扉の前で、こそこそと言い合った。「誰が開ける?」と。
でもそれは一瞬のことだった。大鍋を抱えたハーマイオニーがつかつかと歩み寄って、すんなり扉を開けて入っていった。男の子たちは肩をすくめて、それに続く。
ハーマイオニーはいつもそうだ。いつも一人で先を行く。カナたちもハーマイオニーと行動を共にしていたが、彼女のきびきびした動きに誰もついていけなくなってしまい、結果として彼女は一人で行動することになってしまっていた。
魔法薬学の教室は地下回廊と変わらず薄暗い。壁の一面に大瓶が並ぶ。中には薬草や骨、薬液で満たされた生き物の標本などが仕舞われている。ぼくとカナがいたずらで忍び込んだ、おかあさんの工房で見たことがある。
スネイプ先生がやってきた。蝙蝠のような黒ずくめの男だ。石のような白い眉間に、深い皺が刻まれている。
彼が、おかあさんが頼るように言っていた先生なのだろう。でも、話しかけるにはちょっと勇気がいるだろうなと思った。暗く、冷たい雰囲気を纏った人だ。
先生は一人ずつ出席を取っていく。名前を呼ばれた時、カナはなんだか睨まれているような心地になった。きっとみんなそうなのだろう。だが、ハリーの時だけ様子が違った。
「おや、これはこれは」まとわりつくような陰湿な声色だ。カナは背筋がぞわりと逆立つのを感じた。「ハリー・ポッター。我らが新しい――スターだね」
スリザリンの一部から冷たい笑い声がした。それだけで、彼がスリザリンの寮監だというのに納得した。先生の声は明らかに賞賛ではない。カナは息が詰まった――悪意に空気が染まるようで、不安な心地になった。
先生は暗い瞳で生徒を見渡した。
「この教科では、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ」冷たい声が地下室に響く。生徒は静まり返っていた――先生の呟きをひとつでも聞き漏もらして、ハリーのように標的にされたくはないとでも言うように。
「杖を振り回すようなばかげたことはしない。そこで、これでも魔法かと思う者が多いだろう。沸き立つ大釜、立ち昇る湯気、人の血管の中を這い廻る液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力・・・・・・諸君がこの見事さを真に理解するとは期待していない。私が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法である――」
カナは先生と目が合った――偶然だと思うけれど――その瞬間、おかあさんの暗い瞳を思い出す。スネイプ先生の彫刻のような表情は――似ても似つかないけれど、おかあさんを彷彿とさせる。
「ただし」先生は続けた。「諸君らが、私がこれまでに教えてきた薄鈍たちよりも、まだましであればの話だが」
生徒たちは動かない――動けなかった。みんな野生動物のように、スネイプ先生が次に何をするのか、様子を伺っていた。隣の席のネビルなんて――かわいそうに、小さく震えている。
「ポッター」
先生は突然ハリーを指名した。視線が集まる。
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
視線を集めたハリーはロンと顔を見合わせた。その隣で、ハーマイオニーが手を挙げたけれど、スネイプ先生は知らんふりだ。
ハリーは「わかりません」と答えた。先生は手のひらをかざして、「有名なだけではどうにもならんらしい」と鼻を鳴らした。
「ポッター、もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけてこいと言われたら、どこを探すかね?」
ハーマイオニーの手がこれ以上は届かないほど高く伸びた。ハリーは困惑した様子でスネイプ先生を見つめ返して「わかりません」と答えた。
「授業に来る前に教科書を開いて見ようとは思わなかったわけだな、ポッター。え?」
先生とハリーは視線を交わらせたまま拮抗していた。後ろの席でマルフォイたちが声を上げて笑っている――カナは振り返った。向こうのほうにガートが座っているのが見える。頬杖をついて、つまらなそうに教科書を捲っている。
「ポッター。モンクスフードとウルフスベーンとの違いはなんだね?」
とうとうハーマイオニーが立ち上がった。それでもスネイプ先生は無視して、ハリーを睨め付けた。
「わかりません」ハリーは落ち着いた様子で返した。「ハーマイオニーがわかっているみたいですから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」
生徒の数名から笑い声が漏れた。スネイプ先生はやっとハリーから視線を逸らし、「座りなさい」とハーマイオニーに言った。
「教えてやろう、ポッター。アスフォデルとニガヨモギを合わせると、眠り薬となる。あまりに強力なため、『生ける屍の水薬』と呼ばれる。ベゾアール石は山羊の胃から取り出す石で、万能な解毒剤となる。モンクスフードとウルフスベーンは同じ植物で、別名をアコナイトとも言うが、トリカブトのことだ――どうした? 諸君、なぜ今のを全て手元に書き取ろうとしない?」
みんながいっせいに羽根ペンと羊皮紙を取り出した。カナもあわてて羽根ペンにインクをひたした。生徒が頭を上げ終わらないうちに、スネイプ先生が言った。
「ポッター、貴様の無礼な態度でグリフィンドールは一点減点」
その後の授業中、グリフィンドール生は肩身の狭い思いをした。注意を受けるのはほとんどグリフィンドールばかりだった。カナは隣の席のネビルと組んで、おできを治す(先生いわく「簡単な」)薬を調合することになった。
カナにしては珍しく、おっちょこちょいなネビルの行動をフォローするのに、冷静にならざるを得なかった。普段ルームメイトに世話を焼かれているのはカナの方にもかかわらずだ。先生は生徒たちがひとつひとつの工程を正しく行えているのか見回ってくるので、ネビルはその度にぷるぷると震えて、動けなくなってしまうのだった。
「ネビル、大丈夫だよ。教科書に書いてある通りにすれば間違いないよ。ヤマアラシの針はある?」
カナはネビルをなだめるように背を叩いた。その時、後ろのほうで声がした。
「ミスター・マルフォイが角ナメクジを完璧に茹で上げた。皆、近くに来て見ておくように」
スネイプ先生がマルフォイを褒めたとわかった時、カナはげんなりして、にやにや顔のマルフォイとスネイプ先生から目をそらして鍋の方に戻した。そして悲鳴をあげた。
「あぶない!」
叫ばれたネビルは驚いて手に持っていたヤマアラシの針を、大鍋の上で落としてしまった。カナはとっさに火にかかっていた大鍋を渾身の力で引っ張った。
「カナ!」ネビルの悲鳴だ。
鍋はあつあつに煮えていたので、それをまともに握ってしまったカナは、煙が噴き出すほどに両手を焼いた。
「なにをやっている!」
スネイプ先生がそれをめざとく見つけて寄ってくる。杖を振って、濡れた包帯をカナの手にぐるぐると巻きつけた。
「鍋の扱い方も知らんとはな。一点減点だ。ロングボトム、医務室に連れて行きなさい」
こんな時でも減点を忘れない先生にげんなりしたカナだったが、大慌てのネビルに連れられて医務室に向かった。
二階に急ぐみちの途中で、ネビルは泣き出してしまっていた。
「ごめんねカナ。ボクのせいだ」
「気にしないで。ぼくも慌ててた・・・・・・」
「ウウン」ネビルは悲しそうに言った。「女の子に怪我をさせたなんてばあちゃんの耳に入ったら・・・・・・ボク、なんて言われるか・・・・・・いつもこうなんだ。家でもばあちゃんに怒られっぱなしだし、この間だって・・・・・・」
それまでは感じなかった痛みが、歩いているうちにヒリヒリ、ズキズキと骨まで焦げ付くようになっていた。カナはその両手を宙にぶらんと下げたまま、ネビルに悟られないように彼を慰めながら歩いた。
「ネビル、ぼくなら一人で医務室まで行けるから、きみは授業に戻りなよ」
「大丈夫なの? すごく痛そうにみえるよ・・・・・・」
「痛いけど、それだけだよ。一人で歩けるから」
カナは痛みに耐えながら苦く笑い、ネビルを安心させようとした。痛みが悪化する中、落ち込むネビルを傷つけないように振る舞う自信がなかったので、できればネビルには一刻も早くこの場を立ち去って欲しかった。カナはだんだん自分の頬がひくついたのがわかった。
「でも、だめだよ、きみを医務室まで送り届けないと」
結果的に、カナはネビルが残ってくれて助かった。ひどくなってきた痛みに顔を渋くしながらふらふらと歩いていたから、支えがないと頭をぶつけていたかもしれない。医務室までなんとかたどり着いて、校医のマダム・ポンフリーの診察を受けた。
「ひどいやけどですわ。ドラゴンのげろにでも触れなければこんなふうにはなりませんよ。いったいどうしたというのですか」
「ぼく、その・・・・・・鍋を握っちゃったんです。両手で・・・・・・火にかかったままのを・・・・・・魔法薬の授業で」
「ボクのせいなんです・・・・・・ボク、ヤマアラシの針をうっかり鍋に入れそうになって」
「でしたら、この程度で済んだのは幸いでしたわね。その『うっかり』のせいで大爆発していたはずですから」
ぞっとして震えるネビルとカナをよそに、マダムはじゅくじゅくに腫れだしたカナの両手に、青くてねばっとした粘液(やけどに効く薬らしい)を塗りながらきびきびと事情徴収した。
「魔法薬の授業では毎回誰かしらここにやってきますけれど、鍋を両手で握った生徒はあなたが初めてです。ミス・エリオット」
カナは手が痛くて使うことができなかったのでその日は入院することになった。マダム・ポンフリーはお小言をこぼしながらも、優しい手つきでカナに食事を与えた。それが絵本の中の「赤ん坊」のようで、恥ずかしくてたまらなかった。
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