とうとう満月の夜が来た――連日の雪がうそのように、雲ひとつない晴れた夜だ。カナはようやく口の中から取り出したマンドレイクの葉を、ガラスの小瓶に入れて、唾液で満たした。窓を開けて、しっかり満月に照らした。髪の毛一本、露をスプーン一杯、蛾の繭――全ての材料がしっかり揃っている。カナは、むしろどうしてこんなにことがうまく運んでしまったのだろうと不思議な気持ちだった。
ハーマイオニーはベッドのカーテンをぴったり閉じて、はやばやと眠りについてしまっていた。どうも、ハリーとロンとは喧嘩をしたらしい――今年の三人はとくに喧嘩の多い年だ。ハーマイオニーもなんだかピリピリと張り詰めている。勉強のしすぎだとカナは思っているけれど。
どうやら、あのクリスマス・ディナーのあとに、ハリーの「ファイアボルト」はマクゴナガル先生に没収されたらしかった。贈り主が不明で、呪いがかかっているかもしれないので調べるのだと――それを告げ口したのがハーマイオニーらしい。なんでも、シリウス・ブラックが贈り主かもしれないというのだ――ロンにそうこぼされたけれど、考えたってわからない話だ。彼がどうやってダイアゴン横丁の箒店へと出入りできるというのだろう――指名手配中なのに。
カナはすべての材料を入れ終えた瓶をポケットに入れて、寝室を出た。それから「目眩まし術」で姿を隠し、こそこそと談話室を出た。
見回りの先生と何度かすれ違った。カナは足音を立てないようにして、ゴーストともすれ違わないようにして――なんとか「禁じられた森」の目の前まで来ることができた。
ここからだ。カナは不安と、恐怖――ふるえる手をぎゅっと握り込んで、息を吐いて足を踏み出した。「目眩まし術」をほどき、「ルーモス」で杖を灯した。カナがつけた目印は消えかかっていたけれど、なんとか見つけることができた。
用心して歩いていたものの――カナはうねる木の根に足を取られた。木の根は頑丈で、ずるずるとカナの足を這い上がってきていた。骨が折れそうなほどぎゅうと締め付けてきて、カナは額に汗を浮かべた――いっそ燃やしてしまおうか――なんて考えながら、それをふりほどこうともがいていた、その時だ。
すぐそばの茂みから、熊のような大きな影が飛び出してきた! カナは悲鳴をあげて杖を突き出しながら、身をひねって転んだ――思いっきりお尻を地面に打ちつけたけれど、カナを攻撃するものはいなかった。恐る恐る目を開けると、そこにいたのはよく知った顔だった。
「パッド」
カナはため息のように名前を呼んだ。カナが突き出した杖は彼を傷つけたりはしていないようだ。細く息をついた。足に絡みついた木の根は、カナに巻きついたまま折れていた。杖明かりを向けると、太くゆがんだ根が大きく引き裂かれていた。
「パッド、助けてくれたの?」巻きついた木の根をはがし、身動きを取ろうとした瞬間、足首がズキンと痛んだ――転んだひょうしに、捻ったか折れたか。カナがうめいたので、パッドから近づいてきてくれた。カナは黒い体をぎゅっと抱きしめた。そして大きくため息をついた。「はあ――ぼく、この森は嫌いだよ。できたら入りたくない――きみがいないときは絶対にいや――」
パッドはカナに付き合ってくれた。あの隠し扉のある場所まで、カナが足を引きずるので、カナを捕まらせて案内してくれた。そして、カナが鍵を開けているあいだは離れ、見回りをしてくれていた。
ポケットに入れていた瓶は無傷だった。転んだ時に割れたりしていなくてよかった――カナはしっかりと錠に鍵をかけ、その錆びきった鍵をローブのポケットに仕舞った。
「オーケー、パッド」
カナが呼ぶと、パッドはすぐに近づいてきてくれた。カナはそのおでこにキスを送り、首すじをよく撫でた。
「つぎは雷雨だよ――いつごろだろうね。誰か知っているかな。レイヴンクローのアバネシーっていう人の天気予報が、よく当たるんだ」
カナは森を出ようとして――足がひどく痛むのでふうふうと息をつくはめになった。この足でグリフィンドール棟まで階段を登ることができるだろうか――と考えていたときだ。
パッドがカナのマントの袖を噛んで、ぐいぐいと引っ張った。カナはよろよろと姿勢を崩し、そのままパッドの上へと倒れ込んだ。
ワン、とパッドは吠える。
「パッド――うそ。大丈夫?」
カナはパッドのうえにまたがった。そりゃあ、カナよりも大きな体なのだから、カナを乗せて歩くこともできるんだろう。バックビークに捕まった時を思い出す。カナはパッドのごわごわした毛を撫で、引っ張らないようにつかまった。
森を出る時、カナは「目眩まし術」をふたりに使った。パッドは慎重にホグワーツ城に入っていく。爪がつきつきと大理石の床にぶつかる音がわずかにするくらいで、パッドの侵入はうまいものだった。とちゅう、スネイプ先生が階段の上からぬらりと顔を出したので、ふたりは息を止めて、先生が顔を引っ込めるのを待った――リーマスの部屋の前の階段を通るとき、その扉をちらりと見た。静かなものだった。
パッドは無事にカナを八階のグリフィンドール塔へと送り届けてくれた。廊下に誰もいないことを確認して、カナは「目眩まし術」を解いた。「カドガン卿」の肖像画が鎧をガシャガシャと鳴らして、「合言葉は!」と吠えた。
「エイキンドラム」カナは騒音にひやひやしながら答えた。「カドガン卿」は残念そうに額縁を開いた。カナはパッドに押し上げられながら、グリフィンドールの談話室へと入った。
カナはパッドを談話室へと引き入れた。暖炉に火をつけて、目の前のソファーを陣取った。
「クリスマス休暇だから、誰もいないよ。おいで、パッド。あったかいよ」
パッドは暗い談話室を大きく見回しながら、カナのそばにやってきた。カナは靴を脱ぎ、腫れてじくじくと痛む足を観察した。
「折れてはいないかな。冷やせばおさまるかも・・・・・・」
カナは得意の「グレイシアス」でハンカチを凍らせ、患部にあてた。パッドは絨毯に身を横たえながら、カナのしぐさをじっと見つめていた。
「きみに助けられてばっかりだね」カナはパッドにほほえんだ。「アクシオ」で水差しとゴブレットを引き寄せ、注いだものをパッドの目の前に置いた。カナも喉を潤した。
「パッドはホグワーツに詳しいんだね。ぼくよりもたくさんの抜け道を知っているんでしょう。ぼくの友だちとどっちが詳しいかな――」
カナはフレッドのことを思い出し、つい、大きくため息をついてしまう。ぱちぱち爆ぜる火を見つめながら、カナは冷やしている足首をさすった。
「恋人たちは、ふつう、どうやって仲直りするんだろう」パッドが見上げてくるので、カナは苦笑した。「こんなこと言われても、わかんないよね」
パッドが困っているだろうと思って、カナも絨毯の上に腰を下ろした。そしてパッドの背中に寄りかかり、親子みたいにくっついた。パッドがカナの表情を確かめるために覗き込んだので、カナはクスクス笑った。
「パッド。ときどきこうやって、グリフィンドール寮に忍び込むのも悪くないね。でも、休暇が終わってみんなが帰ってきたら難しいかな・・・・・・」
そのときだ。カチャリと扉が開く音がして、パッドがすばやく立ち上がった。カナも身を起こして、階段のほうをのぞく。バン!と大きな音がカナの背後で響いた。パッドが吃驚して、急いで談話室を飛び出したんだろう――カナは咄嗟に立ち上がることができず、追いかけることはかなわなかった。
「誰だ!」
顔を出したのはパジャマ姿のハリーだった。その足元からクルックシャンクスのオレンジ色の影が飛び出した――また男子寮に忍び込んでいたんだろう。ハリーはカナが床に座り込んでいるのを見て、血相を変えて階段を飛び降りてきた。
「カナ! その足、どうしたんだ?」
「その――なんでもないよ。転んで足をくじいただけ」
「今逃げていったのは?」
ハリーはパッドに気づいていた――当然だ。シーカーなのだから、観察力がずば抜けているのだ。
「その・・・・・・ぼく、隠れて飼ってるんだ。犬を」
ハリーの真剣な顔つきが、ゆっくりしぼんでいくのが目に見えた。「なんだ」と呟いて、ハリーはソファーに腰掛けた。
「きみ、ハグリッドにそっくりだ」
「光栄だよ」カナは笑った。「びっくりさせたよね。死神犬かと思った?」
ハリーが立ち上がって、唇を引き結んでカナを見下ろしていた。カナは、ハリーも「占い術」なんてうそっぱちだと思っているものだと、冗談のつもりで言ったのだが――
「ハリー、冗談だよ」あわてて付け加えた。
「ああ、もちろん」その声は暗い。
「悪霊なんかじゃない――可愛くて賢い、ただの犬だよ」
ハリーはため息をついて、ソファーに座り直した。カナは絨毯の上に座り込んだまま、ソファーにもたれかかった。
「ごめん、ぼく――間違ったことばかり言ってしまうみたい」
「いや、カナ。気にしないで。僕も――うまくいかないことばっかりなんだ」
ふたりはしばらく無言で暖炉の火を眺めた。徐々に小さくなっていく火を見て、カナは湿ったハンカチをもう一度凍らせた。
「ルーピン先生が、僕に吸魂鬼祓いの訓練をしてくれるって」ハリーがおもむろに言った。「先生は、ホグワーツ特急でもあいつを追い払ってくれたんだ」
「すごいね」カナは誇らしくなって言った。「そしたら、ハリー、やつらが来ても平気だ」
「カナ、きみも訓練に来るかい?」
カナは意外に思って振り返った。ハリーは、心底ではそう思っていないようなちぐはぐな表情で、カナを見ていた。
「いや、ぼくには必要ないよ。どうして?」
「僕がルーピン先生と時間を作ったら、きみが嫌がるかと思って・・・・・・」
カナは吹き出した。
「ぼくはフレッドみたいに心が狭くはないからね」
カナがふんぞり返ると、ハリーも少し笑ってくれた。
ハリーはファイアボルトの行く末が気になって、ここ数日はあまり眠れていないそうだ。カナがかんたんな睡眠薬を作ってあげようかと提案すると、それは却下された。あんがい、ハリーは強がりなところがある。自分が弱く見られるのが嫌みたいだ――それに、心のうちにたくさん悩みを抱えているに違いない。だから、ここ最近のあの三人は、うまくいかなくてちぐはぐに見えるんだ。
暖炉の火が完全に消えてしまい、ふたりは寮へと戻ることにした。もう朝が近かった――カナは寝室への階段を登らず、バスルームへの廊下に向かう。手順その三――「雷雨になるまでの期間、術者はアニメーガスの呪文を、自身の心臓に向かって、日の出と日の入りに毎日唱える必要がある」――カナはトイレの個室に入った。
カナは自分の心臓のあたりに杖を突き刺すようにし、呪文を口にした。
「アマト・アニモ・アニマト・アニメーガス」
金色の光がカナの胸を貫いた――とたん、心臓が大きく跳ね上がり、破裂しそうなほど強い鼓動が、カナのあばら骨を叩いた。口から心臓が飛び出ていきそうで、苦しく、なにか吐き出しそうになりながら――カナはトイレの壁に寄りかかった。ドクドクがおさまってくると、キィン――と耳鳴りまでした。カナはよろめいて――とうとう、便器に顔を突っ込んだ。
出すものを出してしまうと、カナは個室を出た。洗面台で顔を洗い、口をゆすぎ、顔を上げた――これを一日二回、それも雷雨が訪れるまで毎日繰り返すんだ――鏡の中のカナが、淡い空色の目をうつろに濁らせた。
一月になり、クリスマス休暇も終わりにさしかかり、多くの生徒がホグワーツへ帰ってきた。
「最悪」
玄関ホールでカナと会うなり、ガートがこぼした。
「ロンドンは曇りだった――あんたは?」
「いまのところ、手順通り」カナの言葉に、ガートはヘーゼルカラーの目を輝かせたけれど、カナは反対にげんなりして言った。「毎日吐いてる。あれ――ひどい呪文だよ」
ガートは眉をギュッと寄せた。ふたりが参考にした本には、あの呪文がひどい苦痛を伴うことなんて書いていなかったからだ。
「心臓が口から出るみたいなんだ――」
「でも、あんたはあたしより進歩してる。いいよ。俄然やる気になってきた」ガートはうれしそうに言った。「夢が目の前にあるって、どうしてこんなにワクワクするんだろうね」
ガートのきらきらした笑顔がまばゆかった。
「あ、カナ・エリオット」
図書館でルーナと再会した。カナは魔法生物事件の過去の新聞を片っ端から手に取っていたので、両手がいっぱいになっていた。
「ハーイ、ルーナ。良いクリスマスだった?」
「ウン、もちろん。パパが『しわしわ角のスノーカック』の形のケーキを作ってね、それにワニを丸ごとバーベキューしたのも美味しかった」
ルーナとその家族が奇抜なのは、何度かの会話でじゅうぶんにわかっていた。今日はバタービールのコルクのネックレスを首から下げて、缶詰のプルタブを指輪にはめていた。未確認の幻の魔法生物を信じていたりと、奇抜だけど――でも、ルーナはすごく純真で、カナにとっては話していて楽しい存在だった。
「ホグワーツのクリスマスも素敵だよ」
「そうみたい。でも父さんが寂しんぼなんだもン。家じゃ一人だから」
ルーナは父親思いの優しい子だ――母親はルーナが九歳の時に、事故で、ルーナの目の前で亡くなったらしい。カナは今も家でひとりぼっちであろうおかあさんのことを思った――そもそも、ちゃんと生きているんだろうか。
その時、バタバタと図書館に入ってくる足音があった。カナとルーナは本棚から顔を出して、入り口を覗き込んだ――ジニーだ。
「カナ! ・・・・・・ルーナ?」
ジニーは司書に睨みつけられながら、ふたりのもとへと小走りでやってきた。
「おかえり、ジニー」カナとルーナはのんびりと言った。
「あなたたち、いつのまに知り合ったの?」ジニーは答えを聞く間もなく、首を振った。「いえ――カナ。とりあえず急いで来てくれる?」
ルーナと別れを告げ、カナとジニーは談話室へと戻った。ジニーはカナが古い新聞の束をたくさん抱えていたので、不思議そうにしていたけれど――そんなことはどうでもいいとばかりに早足で、カナを額縁の奥に押し込めた。
談話室にはアリシアとアンジーが待っていて、二人は「こっちへ」とカナを引っ張った。行き先は女子寮の、五年生の寝室だ。そこにはハーマイオニーが目を赤くして待っていた。
「カナ・・・・・・」
ハーマイオニーは涙声でカナの名を呼んだ。そして両手で顔を覆った。カナは新聞を両手にいっぱい抱えたまま、キョトンと何度も瞬きをした。
「いったい何?」
カナはわけがわからなくて、周りの三人を見回した。アリシア、アンジー、ジニーは、押し黙っていた。
「ぼく、ハーマイオニーをなにか傷つけた?」
「私じゃないわ――」ハーマイオニーのぐしゃぐしゃの嗚咽がくぐもって聞こえた。「カナ、あなたよ。あなた――」
ハーマイオニーの声は続かなかった。カナはわけがわからなくて、アリシアとアンジーに助けを求めるように視線を送った。アリシアがひどく気遣わしげに、カナの肩に手を触れた。
「月のものはきちんと来てる?」
「えーと・・・・・・『月のもの』?」
「マーリン、ウソでしょ」アンジーが額に手を当てた。
アリシアは考え込むように目を伏せた。
「カナ、あなた、妊娠の可能性は?」
「ええ?」カナの腕からいくつか新聞が滑り落ちた。「どういうこと?」
「だって、カナ、まいにち吐いてるわ――」ハーマイオニーがしゃくりあげながら言った。「食事だって以前より少ないし――」
「それは――」アニメーガスの呪文のせいで吐いてしまうので、夕食をたくさん食べたら苦しいからだ。朝食と昼食はちゃんと食べている。「――それって、妊娠の症状? ぼく、妊娠してるの?」
カナはあまりにも無知だった。
「カナ、あなた――」アンジーが愕然として言った。「あいつに乱暴されたんじゃないでしょうね――」
「乱暴?」
「フレッドがそんなことするはずないわ」ジニーも涙を落としながら言った。「だ、だって、フレッドはカナを大切に思ってるわ」
「それじゃあ誰なのよ」アンジーは怒ったように、困ったように声を上げた。
「ちょっと待って」カナは動揺するみんなを落ち着けようとした。「その、吐いているのは、ちゃんと理由があるよ。妊娠じゃないと思う、多分」
「カナ、あなた、フレッドとしたの?」アリシアがそっと聞いた。
「何を?」
「性行為よ!」しびれをきらしたアリシアがはっきりと言った。
「し、してない」カナはうろたえて答えた。「しないとだめだった?」
「したらダメ!」アリシアとアンジーの声が重なった。
「カナ、本当に違うのね? 検査はした?」
「検査ってどうするの?」
「味で判断する魔法道具もあるけど、取り寄せないと。もしかしたらマダム・ポンフリーが持ってるかも・・・・・・それか、大麦と小麦に小水をかける方法もあるけど」
「トレローニー先生に占ってもらうのは?」
「ぼく、検査はいいよ」
アリシアとアンジーがカナに詰め寄った。
「もしものことがあったらどうするのよ!」
「責任を取らせればいいわ」ジニーがきっぱりと言った。「パパとママがなんて言うか、わからないけど――そうしないと」
「その前に、ぼく、フレッドと仲直りもしてないよ」みんなが静まり返った。カナは、不思議に思ってみんなを見回した。
「カナ、その――」ハーマイオニーが言いづらそうに、鼻をすすった。「私があなたの体調がおかしいって、この二人に相談していたの。私、何日も心配だったから――だって誰に打ち明けたらいいかわからなくて、話しながら取り乱しちゃったの――そしたら、双子とジニーが帰ってきて・・・・・・彼の耳に、この話が入っちゃったと思うのよ。だから――」
カナは頭が痛くなってきた。ようするに――
「カナ、あなたがフレッドとそういうことをしてないのなら、彼――なにかよからぬ勘違いをしていないといいけど」アリシアが心配そうに言った。
「あたしたちから説明するわ」アンジーが言った。「カナ、ほんとに妊娠じゃないのね?」
「変身術の練習をしてるんだ」カナはすこし言葉を濁した。「朝と、晩にね。それがすごくつらいから、吐いちゃうんだ。だから夕食は少なめにしてる」
ハーマイオニーが息をのんだ。
「そしたら、その通りに説明するわ。彼が会話できる状態だといいけど・・・・・・」
アリシアとアンジーは寝室を出て行った。結果がわかるまで、この部屋で待つようにと言ってくれた。カナはまだすこし泣いているジニーと、すっかり目を腫らしたハーマイオニーに謝った。
「勘違いさせてごめん」
「ううん――私が早とちりしたのね。あなたによく話を聞けばよかった」ハーマイオニーは腑に落ちたように、すっかり落ち着いて言った。
「休暇中、フレッドはすごく落ち込んでたわ」カナはジニーの背中を撫でた。「すごく後悔してたの――あなたに謝りたいって、どうかしてたって、ひどいこと言って傷つけたって、見てられなかったわ。かわいそうだった――パーシーがアドバイスしようとして、逆に喧嘩になったりもしたんだけど――」
「うん」カナも泣きそうになりながら、ジニーの話に相槌をうった。
「きっと良くなるわ」ハーマイオニーがなぐさめてくれた。
散らばった新聞の束を集めていると、扉が開いた。アリシアとアンジーが帰ってきた。
「どうだった?」ジニーが聞いた。ふたりは肩をすくめて、顔を見合わせた。
「肩透かしだったわ。わたしたち、心配しすぎだったのかも」
「カナ。階段の下で待ってるって」
寮を出て、カナが想像したとおりの場所にたった一人、フレッドが待っていた。
「やあ・・・・・・カナ」
「うん」
ふたりはぎこちなくやりとりし、以前と同じように廊下に出た。今度はマントとブランケットをそれぞれしっかり持って、以前と同じ三人がけのベンチに座った。やっぱり、一人分の隙間がある。カナは背もたれに身をあずけて、フレッドは前のめりに浅く腰掛けていた。
しばらくのあいだ、どちらからも話し出すこともなく、気まずい沈黙が落ちた。
「・・・・・・さっきの話、どう思った?」
カナが切り出した。フレッドは身を起こし、横目でカナを見た。
「お前さんが、その・・・・・・あれってやつか?」
カナは頷いた。
「正直、信じてなかった。ばかばかしいと思った。そう思いたかっただけかもしれないけどな――ショックも怒りも無かった」フレッドは顔を上げた。「でも、ちょっと怖かった。僕たちもう、ただの子どもじゃなくて――そういうことも起こるよなって。本当だったら怖いな、とは思った」
「その、ぼく――」カナは口をもごもごした。「妊娠ってどうやって起こるのか、全然知らなかった。だからみんな、何をそんなにあわててるのか、全然わからなくて――」
カナの告白に、フレッドが吹き出して、笑い出した。カナはフレッドと目が合った。
「ああ、お前さんらしいな――おふくろに『お勉強会』のお願いをしないと」フレッドはいまだにくつくつとお腹を揺らした。
笑いの波が引いたフレッドは、体ごとまっすぐにカナのほうを向いた。
「カナ。僕は君にひどいことを言って、傷つけただろ。謝ってゆるしてもらえるなんて思ってないよ――」
「ううん。ぼく、きみと仲直りしたいんだ」
「ほんとうにごめん」
「うん・・・・・・うん」
カナが差し出した手を、フレッドは握ってくれた。亜麻色のひとみが、カナのうるんだ空色の目をまっすぐ見た。
「ルーピン先生に嫉妬してたんだ、いっちょ前にさ。お前さんの境遇を考えれば、父親に甘えたかったって、すぐ思いつくはずなのにな――それに、先生は病気してるみたいだし」
「うん――」カナはうつむいた。「でも、ぼくもフレッドを不安にさせたね。そうでしょう?」
「恥ずかしながら」フレッドは唇をかんだ。
「ぼく、きみのことがいちばん好きだよ」
フレッドは目をパチパチと瞬かせた。
「嘘つくなよ」
「うそじゃない」カナは真剣な目で言った。「うそをつくと、ふしあわせになるんだから」
「そんなの、だれに聞いたんだ?」
「マグルの童話だよ」カナは誇らしげに指を立てた。「マリアさま? っていうひとが、うそをつくたびに自分の子どもを連れていっちゃうんだ」
「ああ、親愛なるイエス・キリストのおふくろさんだな」フレッドはうなずいた。「だから嘘じゃないってか?」
「もっと簡単な弁明がいい?」
カナは立ち上がり、フレッドの目を手で覆った。ふふ、と笑いをこぼしながら、吐息があたるほど顔をくっつけた。鼻と鼻がぶつかると、フレッドが息をのんだのがわかった――カナは、白い頬のそばかすの上に、キスを落とした。そしたら、あっというまにフレッドの両手がカナの頭をとらえて、立ち上がって、今度こそ唇を押し付けられた――カナが挑発するからだ。
カナとフレッドはすっかり和解して、またもとの仲良しに戻った。朝と夕方にカナは相変わらず女子トイレでドタバタと倒れかけるけれど、あの苦痛にももうずいぶんと慣れて、吐くほどではなくなった。ハーマイオニーは「ねえ、いったいなんの訓練なの――」と興味を示したけれど、彼女にこれ以上「お勉強」を増やすわけにはいかないと思い、詳しいことは秘密にした。
冬学期最初の「マグル学」は、「原理」についての講義だった。マグルが重いものを持ち上げたり、素早く移動したり、料理をしたりする、そのすべてに「原理」が使われているというのだ。魔法使いや魔女が杖のひと振りで済ませるものを、マグルがいかに工夫してこなしているか、というのが今学期のテーマだそうだ――カナはどんどん頭が痛くなってきた。やっぱり、試験がかんたんとうわさの「占い術」を選べばよかった――と少し後悔していた。
ふるえるような寒空の下、「飼育学」ではハグリッドが火トカゲを見せてくれた。大きな焚き火の中、燃え崩れる薪のあいまをチョロチョロと駆けずり回るサラマンダーは可愛らしかった。みんなで枯れ木や枯れ葉を寄せ集め、その焚き火を絶やさないようにした。漫然と続いたレタス食い虫の世話から一転して、久しぶりにとても楽しい授業となった。
リーマスの顔色はまだ優れなかったけれど、体調が戻ったようだった。「防衛術」の授業は、相変わらず人気もあるし、調子がいい。
カナはハーマイオニーのようすが気になっていた。授業用の鞄はいつもパンパンに膨れているし、授業が終わるとすぐに早足でどこかへ消えてしまう。毎晩、談話室のテーブルをいくつも占領して教科書やノートを山積みにしていた。それに加え、バックビークのための調べ物も並行して行っている――いつもいらいらと焦っていて――カナの疑惑の時に泣いていたほどだ。普段のハーマイオニーなら、あんなことで取り乱したりしないと、カナは思う――すべての選択授業を取るなんて、無茶苦茶だ。それに時間割だって無理があるし、ハーマイオニーはいまにも壊れてしまいそうだった。でも、カナに手伝えることは何もない――せめて、ハーマイオニーが図書館を往復する時間を減らしてあげることくらいだ。
良いニュースもあった。新学期の初戦はレイヴンクロー対スリザリンで、僅差でスリザリンが勝利した。オリバーによれば、グリフィンドールにとっては都合がいい。今度の試合でグリフィンドールがレイヴンクローを破れば、グリフィンドールは二位に浮上することができる。そこで、オリバーはチーム練習を週五日、つまりは平日の全ての朝晩に増やした。これにはチーム・メンバーもくたくたで、夕食のあとは談話室で遊ぶひまもなく、みんな寝室に引き上げていった。
「ハリー、大丈夫かしら」
観客席で放課後練習を見守りながら、ジニーが頬杖をついてぼうっと言った。
「なんだか最近疲れてるみたい――」
「魔法の訓練もしてるって」カナはこっそりと言った。「リーマスに教えてもらってるらしいんだ――吸魂鬼祓いの方法」
「どんな魔法なの?」
「わかんない――」カナも頬杖をついた。「ぼく、なんとなく、リーマスとハリーのことを邪魔しちゃいけないような気がするんだ」
ジニーはなんとも言えず、選手たちへ視線を戻した。
「リーマスはハリーのことをとくべつ気にかけてるように見えるよ――ぼくの気のせいかな?」
「『生き残った男の子』だから?」
「それだけじゃないような気がする」
カナは昨年度末に、図書館で見た卒業生一覧にあった名前を思い出した――ジェームズ・ポッター。リーマスと同じ年に卒業した生徒。
「誰にだって秘密はあるわ」
風が強く吹いた。ジニーがあっけらかんと言うので、カナはジニーを見た。
「あたし、実は――家の箒置き場にこっそり忍び込んで、箒の練習してるの――だから、実はちょっと自信があるのよ。誰にも言ったらダメだからね。内緒よ、カナ」
ジニーはウインクした。風ではためく赤毛がきれいで――カナは「もちろん」と頷いた。
週末。ガートはもう一度マンドレイクの葉を口に含むところからやり直しになった。マンドレイクは休暇中にブランデーをきらして、大暴れしたのか、プランターの周りどころか、「訓練部屋」のそこらじゅうが泥だらけになっていた。
「次の雷雨はいつだろうね――」カナが清潔になったクッションをポンポンと叩き、これ以上砂が出てこないことを確認しながらぼやいた。
「そうだね、四月のころは霧が濃くなるから、雷雲が発生するかも」ガートがようやく椅子に腰を下ろして息を吐いた。「『天文学』でシニストラ先生が、一年生の頃に言ってた気がする」
「ぼく、『天文学』は苦手」
ガートは笑った。
「杖を使わない教科は、あんた、ぜんぶそうでしょ。『薬学』以外」
「そういうこと」
カナはテーブルの上に並べたポットを杖で叩いてお湯を沸かしながら、ティータイムの準備をした。
「アニメーガスに成功したら、どんな生き物に変身するかな」ガートがわくわくして言った。「あたしは想像がついてる――これだっていうのが、ひとつある」
「自分がなりたいものになれるの?」
「そうとは限らないけど」
ガートはシュガーポットから、カナがクリスマスに贈ったシュガーを取り出した――鳥のかたちのそれが、今にも羽ばたいて行こうとしているのを、ガートは器用につまんでいる。
「でも、自分自身を象徴したものに変身するって言われてる」
「登録済みのアニメーガスはたったの七人だけだよ」カナは思い出しながら言った。「参考になるかな?」
「マクゴナガル先生が猫っぽいかって言われたら、あんまピンとこないけど――カナはどう? 自分が何に変身するのか、考えてみなよ」
「うーん」カナは目を閉じた。動物――カナは二年生の夏休みに、フレッドとジョージに「年寄り猫みたいだ」とからかわれたことがある。カナ自身はパーセルマウスだし、蛇とも縁がある。そういえば、おかあさんの研究室にはコウモリが棲みついてたな――カナは目を開けた。
「・・・・・・トカゲとか?」
ガートはお茶を吹き出すところだった。あわててティーカップをテーブルにおいて、咽せこけながらお腹を抱えて、大きく笑い出した。
「トカゲ!」ひときわ笑い、目尻の涙を拭いながら、ガートはヒーヒーと息をついた。「魔法薬の材料にされちゃうよ」
「・・・・・・トカゲじゃなかったらいいなって思う」カナはそんなガートを冷たい目で見つめた。
「あたしはやっぱり、鳥がいい。自由に空を飛べたら気持ちいいでしょ――それか、それこそ犬猫みたいな、ペットみたいなやつだったら目立たず行動できるかなって思う」
カナは、ガートはきっとカラスを思い浮かべているんだろうと思った。フクロウの代わりにカラスをよこすくらいだ――きっと思い入れがあるにちがいない。
二月になると寒さは増したけれど、だんだんと日が長くなってきた。カナはがんばって早起きを続け、授業が終わると急いで手近なトイレに駆け込み、こっそりとアニメーガスの呪文を実行した。
自分がどんな動物になるかだなんて、カナは想像もつかない――でも、パッドが喜んでくれて、一緒に遊べるような姿がいいと思った。それこそ、犬とか。
パッドは変わらずカナの給餌を受けていた。ただ、さいきんはその黒々とした毛並みが乱れていたり、小さな切り傷があったりと、すこし気になる様子だった。
「パッド、もしかして誰かにいじめられてる?」
ミネストローネの皿から顔を上げたパッドは、カナを見ていなかった。その視線をたどると――カナの背後に、ジンジャー色の大柄な猫、クルックシャンクスが歩み寄っていた。
「クルックシャンクス、こんなところまで散歩に?」
よく見ると、その口に紙切れのようなものを咥えている――それをカナの足元に落とした。
パッドはクルックシャンクスを警戒していないようだった。彼が森にまで出歩くなら、知り合っていてもおかしくないけれど――
「これ、何?」
カナが地面に落ちた紙切れを取り上げようとした瞬間、ガチャン! と大きな音がして、カナは手を止めて顔を上げた。そのとき、パッドがすばやく紙切れを奪って、森のさなかへと走り去ってしまった。
「パッド!」
カナは立ち上がった。皿の中身を半分も残して――いままで綺麗に平らげていた彼が――パッドがカナを置いて走り去ってしまった。クルックシャンクスが持ってきた紙切れはなんだったんだろう――散らばった皿やゴブレットをかき集めながら、カナはクルックシャンクスを見た。大きく口を開けてあくびして、ぴくぴくと髭を伸ばしている。
「クルックシャンクス、パッドと知り合いなの?」
オレンジ色の猫は知らんぷりで、そそくさとその場を立ち去った。カナは汚れた皿をバスケットに入れ、ため息をついた――動物の考えていることを推し量るのって、ほんとうに難しい。
その日の夜、カナは椅子やテーブルを大々的に占領していくつもの課題に勤しむハーマイオニーの隣で、「マグル学」のレポート――「マグルがどうやって火を起こすのか」――の残り十センチを悩んでいた。カナは一旦悩むのをやめ、顔を上げた。ハーマイオニーは積み上げた教科書の山から「古代ルーン語」の辞書を引っ張り出そうとしているところだった。学期が始まってからあんまり寝ていないんだろう。目の下にうっすらくまが浮いていた。顔色が悪い――まるでリーマスを見ているみたいだった。
「ハーマイオニー、今日、きみの猫が『禁じられた森』まで散歩してたよ。それに、動物の友だちにプレゼントまでしてた」
「あら、そうなの! あの子、とっても賢いの――私が羽根ペンをなくしたとき、それを拾って持って帰ってきたこともあったわ」視線を辞書から離すことなく、ハーマイオニーは言った。
ハーマイオニーが失くしものをするなんて珍しい――と、カナが心配して口を開こうとしたときだ。談話室から興奮した声が起こり、ざわめきだした。
カナが振り返ると、人だかりの中心にハリーやロンの姿が見えた――ハリーはその手に、「ファイアボルト」をしっかり握っている。
ハーマイオニーは小さくため息をついた。横目で人垣をちらりと見ただけで、すぐに課題に戻った。
みんながハリーの新しい美しい箒を誉めそやし、次から次に生徒の手に渡っている――
「あなたも見てきたら?」ハーマイオニーはつまらなそうに言った。
「ぼくはいい」カナは一度あの箒を真近で見ているし――なにより、ハーマイオニーを一人にするのははばかられた。
十分ほどその騒ぎが続いただろうか。ハリーとロンがふたりのいるテーブルに近づいてきた。ハーマイオニーはすぐそばに二人が立って、ようやく顔を上げた。
「返してもらったよ」ハリーはにっこり笑って、ファイアボルトを持ち上げた。
「言っただろ? ハーマイオニー、なーんにも変なとこはなかったんだ!」ロンが言った。
「あら、あったかもしれないじゃない!」ハーマイオニーは突っぱねた。「つまり、少なくとも安全だってことが今はわかったわけでしょ!」
「うん、そうだね。僕、寝室のほうへ持って行くよ」
カナはハリーがそわそわとハーマイオニーのことを眺めていることに気がついた――カナはレポートのしめくくりに自分の名前を乱雑に書いて、半乾きのまま羊皮紙をぐるぐるとまとめた。
「僕が持って行く!」ロンがうずうずと箒を見た。「スキャバーズにネズミ栄養ドリンクを飲ませないといけないし」
ロンはファイアボルトを硝子細工のようにていねいに捧げ持ち、男子寮への階段をのぼっていった。
「レポート五十センチ、やっと終わった!」カナはわざとらしく声を上げた。「ぼく、ちょっと休憩してくるね。ハーマイオニー」
カナは道具をまとめて、座っていた席をハリーに明け渡した。チラリとカナを見るその緑色の目を見つめ返して――ちゃんと仲直りするようにと、念を込めてみた。
カナはフレッドとジョージのソファーに近づいた。ジョージが興奮してカナに言い寄った。
「カナも見に来たらよかったのに! ファイアボルトだぞ――」
「ぼくはクリスマスに一度見てたから」
「ま、お前さんはヒッポグリフのほうが好きみたいだし」フレッドが肩をすくめた。
カナはちらりとさっきのテーブルを見た。ハリーはさっきまでカナが座っていた席で、ハーマイオニーとなにやら話している――ハーマイオニーはすこし、ほんのすこし気分を持ち上げたように見えた。だって、今度は課題の手を止めて、ハリーの顔をちゃんと見ながら話していたから。
そのときだ。押し殺した叫び声が男子寮から響いてきた。談話室は静まり返り、みんな階段に釘づけになった――じきに慌ただしい足音が聞こえてきて、だんだん大きくなる――ロンがベッドのシーツを引きずって、談話室に飛び込んできた。
「見ろ!」
ハーマイオニーのテーブルに荒々しく近づいて、シーツを突き出した。
「見ろよ!」
ロンは大声をあげてシーツを振りみだした。
「ロン、どうしたの――」
「スキャバーズが! 見ろ! スキャバーズが!」
みんなが遠巻きに見ている中、カナはソファーのそばを離れて、三人に近づいた。
ハーマイオニーはわけのわからないようすで席を立ち、詰め寄るロンからのけぞるように離れた。カナとハリーはロンの掴んでいるシーツを広げた――赤く点々とした染みがついている。
「血だ!」
呆然と静まり返った談話室に、ロンの叫び声がこだました。
「スキャバーズがいなくなった! それで、床に何があったかわかるか?」
「い、いいえ」ハーマイオニーは震えた声で言った。
ロンはハーマイオニーの翻訳文の上に何かを投げつけた。三人は覗き込んだ――古代ルーン語の奇妙な文字の上に散らばっていたのは、細く長いオレンジ色の毛だ。
「待って、ロン――」カナが声を出すと、ロンはもっと声を張り上げた。
「あの猫はいつもスキャバーズを狙ってた――ずっとだ! ハーマイオニーが一度だってそれを真剣に考えたことがあったか?」
「落ち着いてよ――」
顔を真っ赤にして捲し立てるロンは、フレッドと喧嘩した夜を思い起こさせる。カナはシーツを巻き取り、ハーマイオニーに一歩近づいて、すこし怯えた目でロンを見た。
「ほんとうにスキャバーズはいないの?」
「だったらこの血はなんなんだよ!」ロンは乱暴にカナの手からシーツを奪い取って、それを突き出した。
「証拠がないわよ」ハーマイオニーが、落ち着いた声で果敢に言った。でもその肩はすこし震えているのが、カナに伝わってくる。「この毛はクルックシャンクスの毛かもしれないわね。でも、クリスマスからそこにあったかもしれないじゃない」
「君がきちんと猫を見張ってれば、その証明になったかもな」ロンはいまいましげにハーマイオニーを見下ろした。「この期に及んで、あいつの無実を装うってか」
「ぼく――」
「カナは関係ないだろ!」
ロンの大声に、カナは肩を跳ね上げた。
「関係あるわ。カナは今日の午後、クルックシャンクスを見ているもの。その血はいつのものなの? あなたはスキャバーズの姿をいつまで見ているの? それに、あなたたちのベッドの下のどこかに、スキャバーズは隠れているかもしれないわ――」
カナはこわごわとハリーを見た。ハリーがぎこちなく身じろぎすると、ロンとハーマイオニーもバッとハリーを見た。
「ハリー・・・・・・」
「ハリー、言ってやれよ!」
ふたりはほぼ同時に言った。ハリーは苦しげに声を絞り出した。
「ハーマイオニー。きみには悪いけど――僕も、とうとうクルックシャンクスがスキャバーズを食ってしまったと思ったよ。今の状況証拠だけだったら」
ハーマイオニーは栗色の巻毛を膨らませた――拳をきつく握りしめて、何度か口を開いて、ようやく低い声を出した。
「いいわよ。ロンに味方しなさい。どうせそうすると思ってたわ!――最初はファイアボルト、今度はスキャバーズ。みんな私が悪いってわけね! ほっといてちょうだい――私、とっても忙しいんだから!」
ハーマイオニーは机に広げていた教科書やノート、羊皮紙をぜんぶかき集めて、両手いっぱいに抱えて、前なんて見えないだろうにずかずかと女子寮へ向かった。カナはその後ろから、ハーマイオニーが落としたノートやレポートを拾い上げながら追いかけた。
寝室に入ったとたん、ハーマイオニーは腕の中のものをベッドに放り投げ、そのまま泣き出してしまった。
「クルックシャンクスが悪いっていうの――証拠もないのに――どうしてあの子を目の敵にするの――」
カナはふるえて上下する背中をさすった。ハーマイオニーはカナにしがみつき、疲れ果てるまで泣きじゃくった。
クルックシャンクスは寝室にはいなかった――動物の考えていることが推し量れたなら、どんなに良かっただろう、とカナは昼と同じことをもう一度考えていた。
20240707