ロンとハーマイオニーのあいだに横たわる溝はより深いものになった。二人とも顔を合わせるとぷりぷりと怒り、イライラして、つらそうだった。クルックシャンクスは素知らぬ顔だ――何を考えているのやら。
どちらかといえば、カナはハーマイオニーの味方だった。ロンはあんなふうに怒鳴って話にならないし、スキャバーズはもしかしたら隠れているだけかもしれない、というハーマイオニーの論は一理ある。ロンはスキャバーズが生きているだなんてつゆほども思っていないようだった。生きていてほしいと思っているわけではないのだ。ただ、ハーマイオニーとクルックシャンクスを咎めたいだけなんだろう、とカナは感じていた。でも、クルックシャンクスを見張らなかったハーマイオニーが悪いというロンの主張もカナの腑に落ちる。ハーマイオニーが他人のペットを軽視していると言われてもしょうがないと思った。
カナは翌日の早朝練習を見に行かなかった――気分が乗らなかったからだ。フレッドには悪いけれど。朝食の席でロンがこれ聞こえよがしに「スキャバーズがいたらなあ」なんてぼやくので、ハーマイオニーは「手相と人相、魂相」という本に視線を注ぎながらも、その度に傷ついた顔をした。カナはハーマイオニーが放っておけなかったので、できるだけ彼女のそばにいた。
「動物オタクのカナでも、ネズミより猫が好きなんだと」
ロンがぼそっと言った言葉に、カナは立ち上がった。
「そんなにスキャバーズが大事なら、すこしは探すそぶりをしたらどうなの――」
「カナ」ハーマイオニーがカナのローブを引っ張った。「座って」
鼻を膨らませながら、カナは息を吐いて腰を下ろした。むしゃくしゃするので――カナは目の前のトーストの山を丸ごと引き寄せた。
ハーマイオニーはよけいにカリカリして勉強に打ち込むようになった――授業の移動にカナは追いつけないし、昼休みもすべて課題や読書に注ぎ込んでいて、カナはハーマイオニーに話しかけることができなかった。
バスケットにランチをたっぷり詰めて「禁じられた森」を訪れたとき、カナはとうとうパッドに会うことができなかった。こんなのは初めてだった。昨日、パッドが紙切れを咥えて走り去ってから――ぜんぶうまくいってない。カナは寂しい気持ちで、バスケットをその場に置いた。どうかパッドが戻ってきて、食べてくれますように、と。
帰り道、カナは丸太小屋に立ち寄って、ハグリッドに事情を話した。
「自分のペットが大事なのはわかるよ」
カナがバックビークにイタチの死骸を投げ与えると、上手にキャッチしてバリバリと食べる。ずっとハグリッドの小屋に缶詰なので、機嫌が悪そうだった。
「でも――あんなに攻撃することないのに。意地悪だよ」
もしも、パッドが誰かを傷つけたとしたら、カナはそれを認めることができるだろうか。
「みんな、自分のペットのことになると、ちいとバカになるんだ」
ハグリッドはバックビークを痛ましげに見つめた。
「ぼくとハーマイオニーで、いくつか裁判の記録を見つけたよ――まとめて、こんど持ってくる。ヒッポグリフが有利になるように、ぼくたち、八〇〇年代の伝説まで調べたんだ」
「ほんとうか?」ハグリッドは髭を大きく揺らした。「カナ――ああ、ありがとうな。おまえさんたちには頭が上がらねえ。それと――ハーマイオニーのことをよぉーく見といちゃくんねえか。おれはあの子が無理してるようにしか見えねえ」
「わかってる。リーマスにそっくりなんだ。ずっと顔色が悪い」
カナがうつむいたので、ハグリッドは大きな手でカナの小さな背中をさすった。
「きっと、これからはいいほうに転がるさ――自信がなくとも、信じるっきゃねえ。ビーキーも、あの子たちのことも、ルーピン先生のこともな」
ハグリッドは「明日の試合でまた会おう」と言って、カナを次の授業に送り出した。
「カナ」
今週最後の「防衛術」の授業が終わり、リーマスがカナを呼び止めた。
「少しいいかな」
カナはみんなが教室を出て行くのを見届けて、リーマスに向き直った。
「なんでしょうか、『ルーピン先生』」
リーマスはすこしぎこちなく頬をかいた。
「ン――学年末の試験のことなんだがね」リーマスはお腹の前で手を組んだ。「はっきり言えば、ボガートを出そうと思っている。これまでの授業の中で、やつの退治に失敗、あるいは体験していない生徒は、ハーマイオニー、ハリー、そしてきみだ」
カナは今でも鮮明に思い出せる。リーマスの最初の授業だ――まね妖怪はカナがウォーレンを恐れていると判断して、変身した。カナは怯えて、たち打ちできなかったのだ。
「実をいうと、ハリーには課外授業を施してるんだ――ちょっとした事情でね。ハーマイオニーは心配いらないだろう。でも、カナ。きみはやつにどう対抗するか、なにか案があるかい?」
そんなこと、ちっとも考えたことがなかった。
「いいえ、まったく」
「それはよくないね」リーマスは残念そうに言った。「予習・復習は勉強の基本だよ。そこでだ――もしよければ、きみも課外授業を受ける気はないかな」
カナは目をぱちくりした。
「それって、ハリーの吸魂鬼祓いの訓練のことを言っているの?」
「なんだ、知っていたんだね」言葉とは裏腹に、リーマスはあまり意外じゃなさそうに言った。「本物の吸魂鬼を使うわけにはいかないだろう。ボガートがちょうど手に入っていてね、ハリーもそいつで訓練した――カナ、どうだい?」
カナは頷いた――「マグル学」であまり良い成績が残せそうにないので、どうにか点数を伸ばせる方法があるのなら、ぜひそうしたい。
「ハーマイオニーを誘ってもいいですか?」
「もちろん、いいだろう」
「ありがとうございます。ルーピン先生」
カナのていねいな口調に、リーマスはほほえんだ。
「先生」
教室を出るまぎわ、カナは振り返った。
「ぼく、うまくやっていますよね?」
きっとリーマスはなんのことを言っているのか、ちっとも理解できなかったに違いない。カナ自身も、はっきりと言い表すことはできない。でも、カナは言って欲しかった――言ってくれるだけでよかった。
「ン、きみはじゅうぶん頑張っているよ」
カナはほほえんで、今度こそ「防衛術」の教室を出た。
ついにレイヴンクロー戦――ファイアボルトの出陣だ。みんながハリーを囲んで、まるで英雄の凱旋のように隊列になって歩いた――たかだか朝食を摂りにいくだけだというのに。
大広間でも、話題はハリーのファイアボルトで持ちきりだった。テーブルのど真ん中に艶やかな箒身は横たえられ、まるで鑑賞品のようにいろんな寮から見物人が集まった。スリザリンはみんな雷に打たれたような表情をしていた。ハッフルパフのセドリックはライバルにもかかわらず、ハリーの新しい箒を快く祝福した。パーシーのガールフレンド、レイヴンクローのペネロピーだって、箒を触りたいと申し出てきた。マルフォイなんか、クラッブとゴイルを引き連れてわざわざ近くまで来てなにかいやみを言っていたけれど、最高の箒を手に入れたいまのハリーはそんなものには負けないだろう――ハリーは果敢に言い返して、グリフィンドールの笑いを誘って、やつらを追い払っていた。
ハーマイオニーはグリフィンドールの隅っこで、かぼちゃジュースのゴブレットを置いた手で目のあいだを揉みながら「イギリス版、マグルの家庭生活と社会的慣習」というぶあつい本を読んでいた。眉間には深いしわが刻まれている。
「ハーマイオニー」
カナの声かけに「ええ、聞いてるわ」と返事はするけれど、視線は本に吸い付いたままだ。
「ルーピン先生が、ボガートを体験させてくれるっていうんだ。試験に出るからって――きみも課外授業を受ける?」
「ほんとう?」
今度こそハーマイオニーはパッと顔を上げた。その顔色は悪いけれど――栗色の目はきらりと光っていた。
「うん。まだいつになるかわからないけど」
「うれしいわ。私、自分の『怖いもの』が何か、ずーっと考えていたの・・・・・・」
カナは突然、背中をポンと叩かれた。フレッドだった。
「カナ。ちゃんと応援に来いよ。ハーマイオニーも」
「うん、もちろん」カナはひと足先に競技場に向かう選手たちに手を振った。
カナとハーマイオニーは他のグリフィンドール生徒から遅れて大広間を出た。すると道すがら、ちょうどリーマスと鉢合わせた。
「ハリーの訓練の成果を見届けないとね」
そう言って、リーマスはニコリと笑った。
カナとハーマイオニーがボガートの課外授業を受けたいと言うと、快く承諾してくれた。
「それじゃあ、次の木曜日。夜八時に『魔法史』の教室に集合だ」
「ええ。楽しみにしています」
ハーマイオニーはすこしぎこちなく愛想笑いを浮かべた。なにか都合が悪いのか――それとも課題が切羽詰まっているのか、ハーマイオニーが無理をしないといいけど。とカナは思った。
競技場は大歓声だった。ちょうど、カナたちが席についたとき、選手たちがフィールドに出てきた。割れるような拍手が、青と赤のユニフォームの選手たちを激励した。
「チョウ・チャンか」
リーマスがつぶやいた。鳶色の目はレイヴンクローのシーカーを見ている――カナとハーマイオニーがリーマスを見ると、フッと笑顔を作った。
「いや、なに――彼女は簡単には出し抜けないぞ」
試合開始のホイッスルが鳴った。カナはハーマイオニーみたいに双眼鏡を持ってはいなかったけれど、どれがハリーなのかひと目でわかった。ファイアボルトは、どの箒よりもすばやく高く空中に飛び出したからだ。
リー・ジョーダンの実況解説にも熱がこもっている。
「全員飛び立ちました。今回の試合の目玉は、なんといってもグリフィンドールのハリー・ポッター乗るところのファイアボルトでしょう。『賢い箒の選び方』によれば、ファイアボルトは今年の世界選手権大会ナショナル・チームの公式箒になるとのことです――」
「ジョーダン、試合のほうがどうなっているか解説してくれませんか?」マクゴナガル先生の声が割り込んだ。
「あの箒――」カナがハーマイオニーに向かってつぶやいた。「ほんとうにシリウス・ブラックが贈ったの?」
リーマスがぴくりと反応してこちらを横目に見ていることに、カナは気づかなかった。
「そのくらいしか考えられないわよ。だってブラック家といえば、魔法界を代表する名家だったのよ。高級箒を買えるほどの資産があったっておかしくないわ。だからハリーを陥れるための呪いがかかっているに違いないと思ったのだけれど――」
グリフィンドールのケイティ・ベルが初得点を決め、観客席が歓声で湧いた。とたん、ハリーが急降下した! チョウ・チャンのマークを振り切って、ハリーは直下降した――
あと少しでスニッチに手が届く、といったとき、レイヴンクローの打ったブラッジャーが突進してきた。ハリーはそれを間一髪でかわしたけれど、コースを逸れ、金色のスニッチを見逃してしまった。
レイヴンクローのナイス・ビーターだ。グリフィンドールは落胆した声に包まれた。「フーッ・・・・・・」とカナとリーマスは同じタイミングで息を吐いた。それを聞いて、ハーマイオニーはくすりと笑みをこぼした。ジョージが、腹いせとばかりに相手ビーターにブラッジャーを打ち込んだ。
「グリフィンドールのリード。八〇対〇。それに、あのファイアボルトの動きをご覧ください! ポッター選手、あらゆる動きを見せてくれています。どうです、あのターン――チャン選手のコメット号はとうていかないません。ファイアボルトの精巧なバランスが実に目立ちますね。この長い――」
「ジョーダン! いつからファイアボルトの宣伝係に雇われたのですか? まじめに実況放送を続けなさい!」
レイヴンクローが巻き返してきた。ゴールを三回取られ、点差が五〇点に縮まった。
「そういえば、リーマスは教員席で観戦しなくていいの?」カナは出し抜けに聞いた。
「わたしは卒業生だったんだ。たまにはいいだろう、現役生に混ざったって――」
そのとき、ハリーがスニッチを見つけた。グリフィンドールのゴールポストに向かって突っ込んで――突然方向転換した。目の前にチョウ・チャンが現れて、ハリーの行く手を塞いでいた。さっきまでレイヴンクローのチェイサーにぶつかるかという勢いでスニッチを探し回っていたのにだ――
「ハリーったら」ハーマイオニーがいらいらと言った。「小柄な女の子だからって、紳士になっちゃって」
「困ったな」リーマスも口もとを抑えながらうめいた。「チョウはスニッチをあきらめて、ハリーを完全マークするつもりだ」
ハリーもそれに気がついたのか、勢いよく急降下した――チョウもそれに追随する。そして突然急上昇に転じた。チョウはファイアボルトについていけず、ブレーキを掛け損なった。ハリーは今までの最高速度で上昇していき、そして――見つけた。ハリーはさらに加速した。観客席も息を飲む――
「あっ」カナはグラウンドの地面に視線が吸い寄せられた。
吸魂鬼が数人――以前より少ないけれど、背の高い黒い頭巾の影が、ハリーを見上げていた。
「エクスペクト・パトローナム!」
競技場に呪文が響き渡った。ハリーは杖を持っていた。まっすぐ伸びた杖の先から、白銀色の霧の塊が吹き出して――立派な角の、獣の姿となった。
「牡鹿だ」カナはつぶやいた。
それはしなやかな美しい四つの脚で空中を蹴り、吸魂鬼に向かって突進し、黒い影を直撃した――ハリーは振り返らずに、まっすぐスニッチに向かって飛んだ。そして、掴んだ。
フーチ先生のホイッスルが鳴り響いた。みんな、ハリーの魔法に見惚れて――そして、立ち上がって大きな歓声と惜しみない拍手を送った。カナとハーマイオニーは抱き合って喜んだ。空中でも、真紅のユニフォームの選手たちが、ハリーをたたえてもみくちゃになっていた。グリフィンドールの観客席はみんな飛び出して、グラウンドに向かった。
「カナ、見た?」
「うん。ねえ――リーマス、あれって・・・・・・」
「え?」リーマスは我に帰ったように、グラウンドを見下ろした。「ン、ああ――しょうがない子たちだよ」
カナとリーマスはグラウンドに降り立った。地上に戻った選手たち――おもにハリーを囲んで、みんな飛び上がり、手を伸ばし、喜びの声を上げていた。
「立派な守護霊だったよ」リーマスが優しく、すこし寂しそうな微笑みでハリーをたたえた。
「吸魂鬼の影響はまったくありませんでした!」ハリーは人の塊から顔をだして、頬を真っ赤に上気させて、興奮して言った。「僕、平気でした!」
「あー、ハリー。実は・・・・・・」カナは言いづらそうにした。
「ウン――あいつらは吸魂鬼じゃなかったんだ。ハリー、こっちに来て見てごらん――」
ハリーを引き連れて、フィールドの端っこに向かった。
「きみはドラコくんをずいぶん怖がらせたようだよ」
ハリーは目を丸くしたけれど、カナは軽蔑を込めて目を細くした。マルフォイ、クラッブ、ゴイル、そしてさらにスリザリンのクィディッチ・チームのキャプテン、マーカス・フリントが、みっともなく地面に転がっていた。頭巾のついた漆黒のローブが絡まって、じたばたともがく姿がとても滑稽だった。
「あさましい悪戯です!」マクゴナガル先生が、それはそれはお怒りだった。「グリフィンドールのシーカーに危害を加えようとは、下劣で卑しい行為です! 四人とも処罰します。さらに、スリザリンから五〇点減点! このことはダンブルドア先生にお話しします、まちがいなく! ああ、うわさをすればいらっしゃいました――」
ロンとフレッドが、ハリーとカナを呼びにきた。そして目の前の無様な姿を見て、ひとしきりお腹を抱えて笑った。
「ハリー!」人垣からジョージも声をかけた。「パーティーだ! グリフィンドールの談話室で、すぐにだ!」
「オッケー!」ハリーはロンとともにグリフィンドール生の塊のなかに戻って行った。カナはフレッドが差し出した手を握り、そしてリーマスを見上げた。
「楽しんでおいで!」
リーマスは二人を見て、心の底から笑顔を浮かべたように見えた。
まるで、もうクィディッチ優勝杯を獲ったかのような盛り上がりだった。パーティーは夜まで続いた。フレッドは一時間ほど前に、「ちょっくら姿をくらましてくる。楽しみにしてな――」とカナを残して、ジョージとともに寮の外へ出ていった。
チェイサー三人娘のダンスの輪から外れて、カナはハーマイオニーを探した。談話室の一番奥の隅っこで、喧騒から外れて、一人で本を読んでいた――今朝から読んでいる、ぶあついマグル学の本だ。
「ハーマイオニー、休憩しない?」カナは冷たいざくろジュースの瓶を差し出した。
「ええ・・・・・・ありがとう」ハーマイオニーは顔を上げて、飲み物を受け取った。カナは隣に腰を下ろす。
「今日だけは勉強を忘れたら?」
「そんな時間ないわ・・・・・・全部の教科に課題があるんだから」
ハーマイオニーはふたたび本に視線を落とした。カナも同じ「マグル学」を取っているけれど、そんな参考書は読んでいない。
「ねえ、目標を百点満点から少し落としたらどう? ハーマイオニー、きみは疲れてるよ――」
「それじゃ意味がないわ! せっかく授業を受けるなら、かんぺきにしないと――」
「医務室送りになりたいの?」
栗色の目がカナをとらえた。
「あなたには関係がないでしょう! 放っておいて」
ハーマイオニーは感情的に叫んだ。
「関係あるよ」数日前にハーマイオニーが言ったように、カナもきっぱりと言った。「友だちでしょう。心配なんだ――ハーマイオニーもリーマスみたいに寝込んで、ひどい薬を飲まなきゃいけなくなったら――」
カナが瞳を潤ませたので、ハーマイオニーは一瞬たじろいだ。
「カナ、ルーピン先生の病気っていうのは――」
その時、談話室に大きな歓声が湧いた。フレッドとジョージのふたりが帰ってきて、その両手にはハニーデュークスのお菓子の袋やジュース、それにバタービールの瓶がたっぷり抱えられていた。
「――ふん」ハーマイオニーは鼻を鳴らした。「カナ。あっち行ってちょうだい。あなたにひどいこと言いたくないの」
「ぼく、行かないよ」カナは椅子の上で膝を立てた。「きみが楽しくないなら、ぼくも楽しくない」
ハーマイオニーは、遠目にパーティーの喧騒を見るカナを横目で見て――何も言わずふたたび本に視線を落とした。
「ほら――お前さんたちも。キンキンに冷えたバタービールだ!」
走り寄ってきたフレッドがカナとハーマイオニーにバタービールの瓶をひとつずつ手渡した。それは冷たく、汗をかいた雫がしとしとと垂れていた。フレッドはウインクをひとつ寄越して、他の子にバタービールを配りに行った。
「これ、どうやったっていうの?」
カナは瓶に貼られたラベルを眺めた。「三本の箒」としっかり銘打ってある――でも、なんとなく飲む気になれなくて、お腹の上に置いた。
カナはあくびを漏らした。大騒ぎしているみんなを眺めるだけでも、その声を聞いているだけでも、パーティーは楽しい。ただ、いつもより遅い時間なので、少し眠たい。明日の日の入りに寝坊しないといいけど――とカナが考えていたとき、二人のそばにふらりとやってきた人物がいた。ハリーだ。
「やあ」
返事の代わりに、カナはニコリと口もと持ち上げた。
「ハーマイオニー、試合にも来なかったのかい?」
「行きましたとも」本から目を上げず、ハーマイオニーはキンキンした声で答えた。「私たちが勝ってとってもうれしいし、あなたはとてもよくやったわ。でも私、これを月曜までに読まないといけないの」
ハリーとカナは顔を見合わせた。カナは首を左右に振って、あきらめたような目でハーマイオニーを見た。
「きみにとって、マグル学ってつまらないんじゃない?」カナはマグル生まれのハーマイオニーが「マグル学」に一生懸命取り組んでいる姿が不思議でならなかった。
「楽しいかつまらないかは関係ないの!」イライラとした声が返ってきた。
「いいから、ハーマイオニー、あっちで何か食べるといいよ」
言いながら、ハリーはちらりとロンを見た。ハエ型ヌガーを空中に高く放り投げて、杖の先で叩き落とせるか遊んでいる。
「無理よ、あと四二二ページも残ってるの!」栗色の髪がぶわりと広がった。「どっちにしろ、あの人は私に来てほしくないでしょ」
ハリーもカナも黙った。ロンがこの瞬間を見計らったように大きな声を出した。
「スキャバーズが食われちゃっていなければなあ。ハエ型ヌガーがもらえたのに。あいつ、これが好物だった――」
ハーマイオニーはみるみるうちに泣き出した。ハリーはオロオロして、カナが手を伸ばす間もなくハーマイオニー立ち上がり、ぶあつい本を胸に大事そうに抱え、女子寮へと立ち去ってしまった。
「ハーッ・・・・・・」カナは特大のため息をついて、前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。「ロン」
カナが厳しい声を出すと、ロンが眉を吊り上げた。
「なんだよ。僕、スキャバーズがここにいたらなあって思っただけだ。なーんにもあいつには言っちゃいないさ」
「自分のしてることが意地悪だってわかってるでしょ」
「あいつはどうなんだよ! あいつが僕に申し訳なさそうな態度をすこしでも取ったか?」
「きみがたったいま、その機会を壊したんだよ!」
「なんで僕があいつのご機嫌伺いをしなくちゃならない!」
「おい、宴席で喧嘩するなよ」
頭の上に空瓶を積み上げたフレッドとジョージが、ヒートアップして今にも杖を取り出しそうなカナとロンの間に入った。
「カナ、ここに座れよ」
カナはフレッドに引き剥がされ、連れて行かれるまま、暖炉の前のソファーに座らされた。そしてカナの持っていたバタービールのコルクを開けて、差し出した。
「やーなことは飲んで忘れろよ」
「いや」
カナは顔を背けた。背けた先にふたたびフレッドが現れた。
「皺になるぞ」カナの眉間をかたい指がつついた。フレッドはその辺をフワフワ漂っていた蛙ミントをつかみ、カナの口もとに押しやった。
ペトリと張り付いた蛙ミントをつまみ、カナは口の中へと放り込んだ。
「ハア」ともう一度大きなため息をつき、カナはフレッドがすでに口をつけたさっきのバタービールを奪った。
カナはそれを一気に飲み干した――冷たい炭酸が喉を通って、それが頭を冷やすみたいで気持ちよかった。カナが無言で手を差し出すと、どこからか瓶がもう一本渡ってきた。カナはそれも飲み干した――
カナはフレッドに正面からしがみついて、ぐったりと倒れ込んでいた。バタービールの瓶を何本開けたのだろう――背中を撫でるあたたかい手が心地いい。カナを宥めすかすのがフレッドの目的だったんだろうか――だとしたら、確かに、一番手っ取り早い方法だったと思う。
カナが熱い息を吐くと、背中の手が止まる。
「気分はどうだ?」
すこしくたびれたように、フレッドが抑揚なく言った。
「ぼく、寝てた?」かすれた声が出た。
「ほんのちょっとな」
ごつごつした肩に、首筋に、カナは額をすり寄せた。まだパーティーは続いているようだ――女の子たちの楽しくはしゃぐ声が遠くに聞こえてくる。
「あんなに飲ませるんじゃなかったよ」
フレッドはわずかに背中を浮かせた。ほんのちょっと、と言っていたけれど、ずいぶん長い時間こうしていたにちがいない。
「ごめん――」
カナは上から退けようとして――あることに気がついて、動くことができなかった。
「あー、その」フレッドはひどく言いにくそうに目を逸らした。「その・・・・・・こっちこそごめん」
カナはそれが何かわかっていた――嫌ではなかった。あらゆることがよみがえってきたけれど――じわりと腰を浮かせて、カナは膝立ちになった。叱られるのを待つ幼い子どもみたいな顔の、火照った頬に唇を寄せた。
「フレッド、ぼく――」フレッドの亜麻色のひとみが、ゆらゆらと動揺していた。カナは小さな声でささやいた。「ぼく、いいよ。できるよ」
フレッドはカナを正面に抱えたまま、ドッと立ち上がった。その顔面は真っ青だ。カナは抱え上げられてきゃらきゃらとはしゃいだけれど、はんたいにフレッドは大慌てで談話室を飛び出した。
深夜の廊下は凍りつくように寒かったけれど、火照った体を冷やすのにはちょうどよかった。フレッドの選択は正解かも――まえに、ふたりが「大げんか」して「仲直り」をしたベンチで止まった。フレッドはそこにカナをそっと降ろした。そして、自分はその場にしゃがみこんで、頭を抱えた。
「カナ――」
顔を上げたフレッドの唇に、カナは一瞬口づけた。
「そばに来てよ」
すっかり弱った顔のフレッドが、カナの隣に腰掛けた。
「おまえさ、まだ酔ってるだろ? 水かなんか飲ませりゃよかった――」
フレッドは、じいっと見つめてくるカナの淡色の視線に、根を上げた。
「ああ、そうだよ。ごめん。不可抗力だ。おまえのせいじゃない。男ってのはみんなこうなんだ――」
「いやじゃないよ」カナはフレッドのかたい太ももに手を添えた。「きみだったら大丈夫だから――」
「カナ!」
大声に、カナは肩を跳ね上げた。とっさに手を引っ込めて――自分の手をぎゅっと握り込んだ。
「ごめん」フレッドは何度目か謝った。赤く染まった目元を大きな手で覆って、うつむいた。「おまえにそういうことを言わせたかったんじゃないんだ――その、僕もいろいろ考えてるさ。だけど――やっぱり二人で考えないと」
フレッドは顔を上げて、ぎょっと目を丸くした。カナがぼろぼろと涙を落としていたからだ。
「ぼ――ぼくのこと、いやになった? 失望した?」
「なってない。大好きだよ」カナのふるえるこぶしを、フレッドはやさしくほどいて、包んだ。
「ぼくが初めてじゃなくても、そう思ってくれる?」
「うすうすわかってた――おまえが気にしてると思ったから、言わなかったけど」
フレッドはカナにキスをくれた。
「カナ。僕ら、最初から間違えてばっかりだろ。だから、慎重にいこう。焦らずやっていこう。いい感じのところを探そう。二人で考えて――な?」
いまだにぽろぽろと涙をこぼし続けるカナの頬を、フレッドはローブの袖でそっと拭った。
「泣きすぎだ」
「ぼく、泣き虫なんだ」
「知ってるよ」
カナはフレッドの首にぎゅっと巻きついた。
「それに、寂しがりなんだ」
「甘えんぼだしな」
小さな子どもをあやすみたいに、フレッドはカナの背中をゆっくり撫でてくれた。
「・・・・・・子どもっぽくて、いやにならない?」
「いや・・・・・・そんなことない。おまえさんは案外、その、自分で思ってるより魅力的だよ。新たな発見だ」
フレッドはすこし目をそらしながらモゴモゴと言った。
「そういうことだからさ、カナ――」深く息を吸ってから、フレッドが神妙に声を絞り出した。「僕も辛抱しなきゃならないからさ、な? わかるだろ? すこし容赦しちゃくれないか――さっきみたいなのとかはさ――」
カナは何度かぱちくりと瞬きをした。
「『さっきみたいなの』って?」
「ああ、そうだった。おまえさんが覚えてるわけないか――バタービールの泡がたっぷりついてたし」
しこたま酔っ払ったカナは、なにかフレッドをとびきり困らせていたんだろう――さいわいカナは覚えちゃいないので、面白がって笑った。
「フレッドの我慢がいつまでもつかなあ」
「こいつ!」
フレッドはカナのわき腹をくすぐった。カナは大声で笑い、身をよじって逃げ、ベンチから飛び退いた。談話室のメンバーは、ふたりが帰ってこないのでそわそわと待っていたようだったけれど、カナが笑顔で戻ってきたので安堵した。
「フレッドは?」アンジーが聞いた。
「頭を冷やしてるんだろ。文字通りな」
リーが冗談めかして言った。その数分後、フレッドがほんとうに頭をずぶ濡れにして震えながら帰ってきたので、みんなで笑って出迎えた。
パーティーが終わったのは深夜一時を過ぎた頃だ。マクゴナガル先生がとうとうパジャマ姿で談話室に乗り込んできて、「もう全員寝なさい」と言いつけた。寝室に入ったとき、ハーマイオニーのベッドはぴっちりとカーテンが閉じられていたけれど、うっすらと明かりが漏れていた。ベッドの上でまだ読書をしているんだろう――明日、どんな顔をすればいいだろうと考えながら、カナもベッドに潜った。
「あああああああああぁぁぁぁッ!
やめてぇぇぇぇ!」
飛び起きた。カナだけじゃない。暗闇でとにかくカーテンを引っ張り、カナは杖明かりを灯した。
「なにごと?」
ハーマイオニーがくぼんだ目をこすりながら言った。
「この部屋じゃないようね」
「誰の声かしら?」
パーバティはランプを灯し、自分たちの寝室に異常がないことを確かめた。四人は部屋を出た。バタン、バタンと他の部屋の扉が開く音もする。カナはベッドのブランケットを引っ張り、ガウンの代わりに身に纏いながら階段を降りた。
パーティーの残骸が散らかったままの談話室で、ロンを囲むように三年生の男子たちが言い合っているのが見えた。穏やかではないようだ。他の生徒も何人か降りてくる。
「何の騒ぎ?」「叫んだのは誰なんだ?」「君たち、何してるの?」「マクゴナガル先生が寝なさいって仰ったでしょう!」
あとから来た生徒が、まだ物足りない生徒が起きてきたのだと思って口々に騒ぎ立てた。カナたちは三年生の集団に近づいた。
「ロン、ほんとに、夢じゃなかった?」
「ホントだってば。ブラックを見たんだ!」
カナはその声を聞いて、眉をひそめた。
「いいねえ。またパーティーを再開するか?」フレッドの陽気な声が聞こえた。
「みんな、寮に戻るんだ!」
パーシーの怒号が轟いた。パジャマに首席バッジを留めて、急いで階段を降りてきた。
「パース――シリウス・ブラックだ!」ロンがずいぶん弱って言った。「僕たちの寝室に! ナイフを持ってた! それで起きたんだ!」
談話室はシーン――と静まり返った。
「ばかげてる!」パーシーは信用していないようだった。「ロン、食べ過ぎたんだろう――悪い夢だ――」
「ホントなんだ!」
「おやめなさい! まったく、いい加減になさい!」
騒ぎを聞きつけて、マクゴナガル先生が戻ってきた。肖像画を乱雑に閉じて、目も眉も吊り上げてその場の全員を睨みつけた。
「グリフィンドールが勝ったのはわたくしも嬉しいです。でもこれでは、はしゃぎすぎです。パーシー、あなたがもっとしっかりしなければ!」
「先生、僕はこんなこと許可していません!」パーシーは憤慨して体を膨らませた。「僕はみんなに寮に戻るように言っていただけです。弟のロンが悪い夢にうなされて――」
「悪い夢なんかじゃない!」ロンが叫んだ。「先生、僕、目が覚めたら――シリウス・ブラックが、ナイフを持って、僕の上に立ってたんです」
マクゴナガル先生はロンをじっと見据えた。
「ウィーズリー、冗談はおよしなさい。肖像画の穴をどうやって通過できたというんです?」
「あの人に聞いてください!」ロンは「カドガン卿」の肖像画の裏側にふるえる指を向けた。
ロンのことを疑わしそうな目で睨みながら、マクゴナガル先生は廊下へと出た。談話室の全員が、息を殺してやりとりを聞いた。
「カドガン卿、いましがた、グリフィンドール塔に男を一人通しましたか?」
「通しましたぞ、ご婦人!」誇らしげな「カドガン卿」の声が聞こえた。談話室のみんなは愕然として顔を見合わせた。
「と――通した?」マクゴナガル先生も動揺していた。「合言葉は?」
「持っておりましたぞ、ご婦人! 一週間分、全部持っておりました。小さな紙切れを読み上げておりました!」
マクゴナガル先生が談話室に戻り、みんなの前に立った。先生の顔は血の気の失せた真っ白な顔でみんなを見回した。
「誰ですか――」ふるえた声だ。「今週の合言葉を書き出して、その辺に放っておいた、底抜けの愚か者は誰です?」
沈黙を破ったのは「ヒッ」という小さな引き攣れた悲鳴だった。ネビルがガタガタ震えながら、そろりと手を上げていた。
それからは大騒ぎだ――ふたたびシリウス・ブラックの捜索が城じゅうでなされた。グリフィンドール生は寝室に戻ることもできず、談話室で全員で夜を明かした。
カナは考えていた――クルックシャンクスが持ってきて、パッドが奪い去ったあの紙切れ――あれが、もしかしたら、ネビルの合言葉メモなのではないかと思った。しかし、それをどうやって、誰に相談したらいいだろう。カナがいくつもの校則を破っていること――これはいまさらどうでもいい。もしかしたら、ブラックの手下を世話していたかもしれないこと。クルックシャンクスが、ブラックと繋がっているかもしれないこと――ラベンダー、パーバティー、ハーマイオニーとともにブランケットにくるまりながら、カナは人知れずどきどきと心臓が跳ね、痛む頭を抱えていた。
とうとう、シリウス・ブラックを捕らえたという知らせは来なかった――またもや逃げおおせたのだ。
20240710