ホグワーツの警備はいっそう厳しくなった。
フリットウィック先生はドアというドアにシリウス・ブラックの大きな写真を貼って、生徒をはじめ、ゴーストや肖像画にまで、それこそみんなに凶悪犯の人相を覚え込ませていた。フィルチさんは城じゅうの隙間という隙間、子どもも通れないほどのネズミの穴にまで板を打ちつけていた。「カドガン卿」はグリフィンドール塔の番人を解雇され、元いた八階のさびしい踊り場に戻された。かわりに、「太った婦人」が戻ってきた。びりびりに破かれた絵は見事に修復されていたけれど、婦人はまだ神経を尖らせていて、護衛が強化されるのを条件に、やっと復帰を承知した。婦人の警備には無愛想なトロールが数人雇われた。これにはみんないやがったけれど、「カドガン卿」よりも婦人のほうがずっとましだ――トロールは廊下を行ったり来たりして辺りを威嚇し、同じことを繰り返し、低くみにくい鼻で唸りながら互いの棍棒の太さを毎日毎日飽きもせず競っていた。グリフィンドール塔に入ろうとするたび、黄ばんだ目でじろじろと見つめられるのがひどく居心地悪かった。
ネビルはマクゴナガル先生からひどく糾弾された。今後いっさいのホグズミード休暇が禁止され、処罰が与えられ、合言葉すら教えてはならないとみんなに言い渡した。なので、ネビルは毎日、毎回、誰かが談話室に一緒に入ってくれるまでトロールに囲まれて待つ羽目になった。そして朝食時には、ネビルのおばあちゃんから「吠えメール」が届いた。しかし、すぐには開封せずに逃げてしまったものだから――手紙は玄関ホールで大爆発して、「なんたる恥晒し。一族の恥」とガミガミ怒鳴るのが響き渡って聞こえてきた。ネビルは学校じゅうから笑いものにされてしまった――かわいそうだけれど、自分の責任だ。
許可なく城の外を出歩くのも、全員が禁止された。ハグリッドに裁判の資料を届けるためフクロウを飛ばすと、すぐに迎えにきてくれた。玄関からハグリッドの丸太小屋に歩きながら、カナたちは土曜日の夜中の出来事をハグリッドに詳しく話した。話しながら、ハーマイオニーはすすり泣いていた。ロンが襲われていたかもしれないと、心配していた――けんかしていたって、友だちであることには代わりないのだ。カナはそのふるえる背中を撫でた。
ハグリッドのほうも進展があったようだ。今朝通知が届いて、今週の金曜日にバックビークの裁判が行われる。ハグリッドの洋服箪笥の扉の前には――ハグリッドなりの正装なんだろう――巨大な茶色の背広と、黄色と橙色のまだらなネクタイがぶら下がっていた。
カナは何度か、パッドのことをこの場で打ち明けようか迷った――しかし、ハグリッドは「危険生物処理委員会」の裁判の準備に忙しいし、ハーマイオニーは飼い猫のクルックシャンクスが関わっているかもしれないとなるとさらに傷つくだろう。ふたりにこれ以上の考え事を増やすのはいやだった――カナは結局、その場では何も言えなかった。
あれから、やっぱりパッドは姿を見せなかった。クルックシャンクスにいくら詰め寄っても知らんぷりだし――カナは自分の想像がだんだんはっきりしてくるのが怖かった。
「ボガートの課外授業は中止だ」
リーマスが「防衛術」のあと、カナとハーマイオニーを呼び寄せて言った。
「さすがに、今の状況で夜間に不用意に出歩くわけにはいかないからね。さいわい、試験まではまだ時間があるし――ふたりとも、ちゃんと恐怖にどうやって対抗するか、考えておくんだ。またチャンスがあれば訓練をしよう」
「ええ。課外授業がなくなって残念です、先生」ハーマイオニーが弱々しくほほえんだ。
ハーマイオニーは夕食に向かったけれど、カナは教室を出て行かなかった。
「ルーピン先生」カナが神妙に言った。「あの、相談したいことがあって・・・・・・」
リーマスはカナを部屋に通した。いつもの席で、カナが話し出すのを待った。
「先生・・・・・・」カナがぎこちなく言うので、リーマスは口角を持ち上げた。
「ン、もっとリラックスしていい」
「うん・・・・・・」カナは息を吐いた。「リーマス、シリウス・ブラックを知ってるでしょ?」
リーマスはわずかに目を開いた――カナは思い出していた。むしろ、どうして今まで忘れていたのか不思議なくらいだ――去年見た卒業生のリスト、その中に、リーマスの同窓生に、その名前があったのだ。シリウス・ブラックの名前が。
「・・・・・・ああ。もちろん。知らない人はいないだろうね」
「同級生だったんでしょ」
一度ははぐらかそうとしたけれど、そうはいかない。カナの詰めに、リーマスは観念したようだった。
「彼もグリフィンドールだった」リーマスは懐かしむようで、苦しげに声を絞り出した。「わたしの友人のひとりだった」
「ブラックは犬を飼っている?」
「さあ――どうだか。動物好きではなかったけどね」
「それとも、アニメーガス?」
リーマスはピクリと眉を動かしたっきり、黙った。鳶色の瞳はじっとカナの目を見つめている。カナの苦手な雰囲気だ――嘘をついてはいけないというか、見透かされているような気がするのだ。カナは思わず、目をそらしてしまう。
「リーマス、ぼく・・・・・・」カナはぎこちなく切り出した。「ぶ、ブラックに手を貸していたかもしれない」
「なんだって?」ぽかんと口を開けて、リーマスは目を丸くした。「どういうことだい?」
「ぼく、し、知らなかった。ただの、ちょっと変わった犬だと思ってた・・・・・・」
カナは自分の両腕で、ふるえる肩を押さえつけた。リーマスが手を伸ばして、カナの肩にふれた。
「カナ。大丈夫だから、話してごらん」
何度か息を吸って、カナはしどろもどろにパッドのことを話し出した。リーマスの最初の授業のあと、「禁じられた森」で真っ黒の大きな犬に出会ったこと。とても賢くて、カナを助けてくれて、慰めてくれて、毎日彼に食事を与えていたこと。クリスマス休暇に一度、グリフィンドールの談話室に入れてしまったこと。彼がクルックシャンクスが持ってきたメモ紙を持ち去って以降、姿を見せないこと――
「あ、あいつはもう『禁じられた森』にいないかもしれない」カナはうつむきながら話し続けた。「リーマス、クルックシャンクスを処分しないで・・・・・・ハーマイオニーはいま落ち込んでるんだ。彼女を悲しませたくないよ。ぼくはいくら処罰を受けたっていいから・・・・・・」
「カナ。落ち着いて、よーく聞いてくれ」
リーマスの冷静な言葉は残酷な宣告のように聞こえた。カナはおそるおそる、顔を上げた。リーマスは複雑な感情を浮かべた、真剣な顔つきだった。
「まず、その犬がシリウス・ブラックだとは断定できない。彼は確かに、アニメーガスという手段を持っているかもしれないね。しかし、野犬とブラックとを見分ける方法はない。その犬はきみが思っていた通りの、ただの賢い犬かもしれない」
カナは呆然とリーマスを見つめた。やさしげに口角を持ち上げながら、リーマスは続けた。
「そして、クルックシャンクスが運んだ紙切れが、ネビルが紛失したメモかどうかも判断ができないね。きみが中身を見ていたら、話は変わるけれど、その前に犬が持ち去った」
カナは頷いた。
「だから、現状ではクルックシャンクスを処分するという話にはならないだろう――ただし」
リーマスは身を乗り出して、ずいっ! と顔を近づけた。カナはのけぞった。
「きみがこれまでにいくつの校則違反をしたか、わたしは数えなければならないようだね」
カナは申し訳なくて身を小さくした。
「吸魂鬼がうろうろしてるっていうのに――『目眩まし術』だなんて、いったい何処で覚えてきたんだ?」
リーマスが背もたれに身をゆだねながら額に手をあてた。カナは目をそらした。
「・・・・・・まあ、きみが校則違反をしたという証拠はないから、処罰はしないよ。きみのこれまでの素行についても、これ以上追及もしない・・・・・・ただし、カナ。もう二度とあの森に近づかないと約束してくれるね? それに、夜中に寮の外へ出るのも禁止だ」
「うん」
カナは嘘をついた――あと一度、たったあと一度でいいのだ。アニメーガスの魔法薬を取りに行かなければいけない。
「ともあれ――勇気ある告白をしてくれてありがとう」リーマスはまた複雑な表情でカナを見つめた。カナは、リーマスに嘘をついたことが心苦しくて、顔を下げた。「真実がきみの想像通りでないことを祈るよ――」
リーマスはカナがアニメーガスにチャレンジしていることなんて、知らないのだ。
ひと月が過ぎたけれど、状況は変わらなかった。グリフィンドールの談話室は四月のホグズミード週末のことで持ちきりだった。カナは今度こそフレッドと「ゾンコ」に行く約束をした。もちろん、バタービールはお預けだ。フレッドはずいぶん懲り懲りしていた。
「フレッド。今度のホグズミードで、ハーマイオニーと時間を作ってもいい? さいきん、元気がないから・・・・・・」
「いいぜ。それなら、午前中はハーマイオニーと遊んだらいい。前回と一緒だ。正午に『三本の箒』で集合。どうだ?」
カナは頷いた。そしてすぐにハーマイオニーとも約束を取り付けた。
「私と遊んだって、楽しくなんかないわよ」とハーマイオニーはつっけんどんに言った。
「そんなの、遊んでみないとわかんないよ」カナが朗らかに言うので、ハーマイオニーはしぶしぶ承諾してくれた。
「ほんと、カナって実験的よね」
ハーマイオニーは心配事を共有してくれた――ホグズミードのハニーデュークスにはホグワーツから直通の隠し通路があること(以前にフレッドとジョージが似たようなことを言っていた。それで、あのパーティーの夜に食べ物やバタービールを調達してきたんだ)。ハリーが明日、その通路を通ってホグズミードに来ようとしていること。シリウス・ブラックがハリーの命を狙っているかもしれないのに、不用心にもハリーは違反を重ねようとしていること――カナは、その通路を教えたのが双子だと聞いて胸がつきんと痛くなった。
土曜日の朝。ホグズミードには行けないということになっていると言うのにずいぶんと朗らかなハリーとロンを、ハーマイオニーは睨め付けていた。カナはというと、ハグリッドがいつごろホグワーツに帰ってくるのか聞いていなかったなと思っていた。のんきにホグズミードを楽しんでいていいのだろうか――ハグリッドが聞いていたら、「そんなモン、気にしてどーする」と一蹴しそうではあるけれど。
うららかな陽気がカナの黒髪を照らした。よく晴れた気持ちのいい日だ。ホグズミード村はポップなイースターの飾りがなされ、春の訪れを感じさせた。
ハーマイオニーはまず「スクリビュルス筆記用具店」に足を運んだ。そこで羊皮紙をひと山と、インク壺をいくつか買い込んでいた。カナは色とりどりの各種インクに見惚れた。キラキラしたエメラルド色のインクは、いつもマクゴナガル先生が使っているものにそっくりだった。それに、いろんな絵柄の封蝋スタンプもカナの興味を引いた。セットの箱が売り出してあったけれど――ちょっぴり手が届かなかった。カナは涼しい色合いの便箋と、金箔の混じったラピスラズリ色のインク壺を買い求めた。カナが羽根ペンの先の替えを買おうか迷った時、ハーマイオニーが「もっといい店があるわ」と教えてくれた。「スクリベンシャフト羽根ペン専門店」はその名の通り羽根ペンだけを扱った店で、さまざまな鳥の羽根――時には魔法生物の羽根が大量に取り揃えてあった。空中をふわふわとただよう羽根をつかんで、カナはしげしげと眺めた。そしてぶら下がった値札を見て、手を放した――やっぱり一般的な羽根ペン以外は値が張るようだ。カナは純白の白鳥羽根ペンと、替えのペン先を購入した。「トムズ・アンド・スクロールズ」はハーマイオニーのお気に入りの本屋だそうだ。彼女はさっそうと何冊か手に取り、自分の鞄を重くしていた。カナも、ハーマイオニーのおすすめで「マグル学」に関する本を選んだ。「マグルは電気を愛してる」と「どうして馬車じゃ駄目なの?」の二冊だ。
カナは「ペドラス・プリジオン」を訪れた。フレッドがいたら店に入れないと思ったからだ――ハーマイオニーはあまり化粧品に興味はないのかもしれないと思ったけれど、これがあんがい盛り上がった。明るく気のいい店主のマダムに相談しながら、カナはまぶたの上にのせるキラキラのパウダーをひとつだけ購入した。ハーマイオニーも、カナとお揃いの「人間でありさえすれば、どんな肌にも馴染む」と銘打たれたおしろいのコンパクトケースを手に入れた。ふたりはうわついた気持ちで店を出た。なんだか、自然と笑いが込み上げてきて、へんな感じだった。
ふたりはハニーデュークスに向かった。ハーマイオニーはカナがクリスマスに贈った自由気ままなシュガーが気に入ったようで、買い足していた。勉強のあいまに甘い紅茶で糖分を摂取しているんだろう――
「そういえば、ハリーを見かけないね」小さな声でカナが言った。
「どうせ、透明マントで隠れてるんでしょ。それに、私が行きそうなルートは避けているに決まってるわ」ハーマイオニーはフンと鼻を鳴らした。「そんなことよりカナ、『臓物キャンディ』って意外とイケるわ――どう?」
「うん。こっちの『ファイア・ボンボン』もおいしそう――」
「それ・・・・・・きっとアルコールよ」
「おっと」
試食でお腹が膨らんできた頃、ちょうど約束の時間となっていた。「三本の箒」にはすでにアリシア、リー、フレッドが待っていた。
「ジョージとアンジーは?」
カナがフレッドにこっそり聞いた――フレッドは窓際の小ぢんまりしたカウンターテーブルを指差した。二人の背中が、微妙な距離を保っているのが見える。
「バタービール以外な」
「わかってるよ」
カナはミントのソーダ漬けを頼んだ――フレッドもバタービールを頼もうとして「このあいだの夜は、あなたが飲ませたんでしょ」とアリシアから、チリペッパー・シロップに変更されていた。
カナはスティックでミントをぐしゃぐしゃとつぶしながら、隣の、ハーマイオニーのジョッキでパチパチと泡を出す黄金色の液体をうらめしそうに眺めた。
「カナ。大人になったら好きなだけ飲めるわ」ハーマイオニーが励ましてくれた。
「そういう問題じゃないだろ」リーが唇の上に泡をくっつけて言った。「どんどん飲ませて慣れさせりゃあいいんじゃないか?」
「誰が責任とるのよ――」アリシアがあきれた。
「ふんだ。いいよ。『三本の箒』はバタービールだけじゃないもんね」カナは鼻を抜けるミントのツンとした香りを楽しんだ。
「ミス・ブランケットはご立腹だ」フレッドもいまいましそうにアリシアのジョッキをにらんでいる。
「ねえ、ふたりでどこへお買い物に行ったの?」アリシアは楽しい話題をハーマイオニーとカナへ振った。
「文房具や本屋に行ったわ。それから、お化粧品をすこしだけ」
「まあ。『ペドラス・プリジオン』かしら」
「うん! あのおしろい、素敵だったから、ハーマイオニーにもすすめたんだ――」
フレッドがちらりとカナを見た。あんまり感心していないようだった。
「でも、使う機会はないと思うわ。私、お洒落に気をつかうようなことって、一度もしたことがないの」
「うん、これからたくさんあると思うわ。お化粧も呪文の練習と同じでね、繰り返して、だんだんコツを掴んでいくのよ。ハーマイオニーは髪のボリュームを落としたらアレンジもできそうだし――」アリシアは得意げにハーマイオニーに話した。
「女の子って勝手に大人になっていくよな」
リーがジョッキをかたむけながら、ぼそっと呟いた。
「あなたたちも『糞爆弾』なんかで喜んでないで、紳士的になってよね」アリシアがあきれた目をふたりへ向けた。
「女の子は僕らの夢とロマンがわからないらしい」
「フレッドの夢って?」
カナが聞いた。みんなの視線が集まる――フレッドはコホン、とわざとらしく咳ばらいした。
「僕たちの魔法で、ダンブルドアの心臓をひっくり返してやることさ」
意外にも、女の子たちは「おおー」と感心した声を漏らした。
その時だ。
「ぎゃあああ!」
悲鳴が遠くに聞こえた。店内の客もざわめいて立ち上がり、店の外まで顔を出す者もいた。
「今の聞こえたか!」ジョージが駆けてきた。「マルフォイの野郎だ!」
リーとフレッドは面白がって立ち上がって、店の外へ走って向かった――残されたテーブルにアンジーが合流した。
「なにごと?」
「さあね。関わらないほうがいいと思うけど・・・・・・なんていうか、男の子って、やっぱり子どもだわ」
アンジーが肩を落としたので、みんな苦笑した。
「そうだ。アンジー、お気に入りの整髪料があったわよね。こんどハーマイオニーに教えてあげて。きっとお洒落が楽しくなると思うの」
「い、いらないわ。気をつかってくれてありがとう。いまは勉強に集中したいの・・・・・・」
お人よしで社交的すぎるアリシアの勢いに、ハーマイオニーもたじたじだ。良い息抜きになればいいと思ったのだけれど――やっぱり休日もずっと課題のことばかり考えているようだった。
フレッドが戻ってきて、すでにマルフォイの姿はなかったらしく、「間抜けな姿が見れなくて残念だ」と言葉とは裏腹にニコニコしていた。実際がどうであれ、噂だけがあれば十分なのだと、リーが言っていた。
ゾンコの「いたずら専門店」はハニーデュークスにも劣らない混み具合だった。むしろ熱量はこっちのほうがいっそう高く感じる。店の中では常に派手な色の花火がパチパチはじけ、不気味な色の煙が足元に充満していた。フレッドはいつもの「クソ爆弾」やら「長々花火」なんかのおもちゃをつぎつぎ手に取り、カナに懇切丁寧にいたずらに使う方法を説明してくれた。カナが「カエル卵石鹸」を手に取ると、「パーシーが監督生になった年だ。そいつを監督生の風呂場にこっそり入れ替えようとしたことがあったんだが・・・・・・ヌルヌルして掴みづらいだろ? 間違えて浴槽に落っことしちまったんだ。それからどうなったか、風呂場で孵って、オタマジャクシがプカプカ泳いでた――フィルチがカンカンになってた――今でも思い出すと笑えるよ――」と小声で教えてくれた。カナはそれを一袋買い求めた。使い道は、まだ考えていないけれど。
カナが「ゾンコ」のドアをくぐった、その時だ。
「あぅ」
額にコツン! とするどい衝撃があって、情けない声が出た。
「どうした?」
「フクロウだ」
カナにぶつかってきたのは手乗りサイズの豆フクロウだ――ぶつかった衝撃で、地面に伸びきっている。カナはかわいそうなフクロウを持ち上げ、その足に括り付けられた紙切れを広げた。
「ハグリッドからだ!」
カナはしめっぽい、大粒の染みでインクの滲んだつたない手紙に目を通した――
「カナ、そしてハーマイオニーへ
おれたちが負けた。バックビークはホグワーツに連れて帰るのを許された。処刑日はこれから決まる。ビーキーはロンドンを楽しんだ。おまえさんがたがおれたちのためにいろいろと助けてくれたことは忘れねえ。ハグリッドより」
フレッドはすっかり動揺したカナをホグワーツ城へと送り届けた。駆け上がった寝室でハーマイオニーと合流でき、さっきの手紙を見せた。
「うすうす、こうなる気がしてたのよ・・・・・・」ハーマイオニーは唇をかんだ。
「バックビークは、もうどうしようもないの?」カナは涙声で言った。バックビークは何も悪くないのに――マルフォイなんかに目をつけられたせいで処刑されるなんて、悲しくてたまらなかった。
「まだチャンスはあるわ。でも、後ろにマルフォイがいるんじゃあ、どのみち同じよ」ハーマイオニーも目の周りを赤くしていた。「私たちが何を言ったって、ムダなの」
「そんな・・・・・・」カナはとうとう涙を落とした。ハーマイオニーがカナを抱き寄せた。「みんな、バックビークに会えば、彼がどんなに高潔な生き物か、わかるはずでしょう。どうして・・・・・・」
「委員会の連中なんて、頭の固い馬鹿ばっかり」ハーマイオニーの声もすっかり濡れていた。「魔法生物一匹殺せば、ルシウス・マルフォイの報復を受けなくて済むのよ。そうやって脅したに違いないわ」
「そんなの、許されないよ」カナが髪の毛の張り付いた顔を上げた。ぐしょぐしょに濡れながら、ふたりは見つめあった。「認めたくない」
「私だって悔しくてたまらないわ。でも、でも・・・・・・今回ばかりは私たちの負け。はなから、勝ち目はなかったのよ」
涙をぬぐったふたりはハグリッドに会いに行くべきだと思った――でも、城の外を勝手に出歩くのは禁止されている。談話室の額縁をくぐったとき、トロールが行き来する廊下の向こうに、ちょうど、ハリーとロンの姿が見えた。
カナは一瞬尻込みしたハーマイオニーの手を引いた。ハリーとロンはふたりのことを睨め付けていたけれど――カナは一回だけ鼻をすすった。
「もう告げ口したのかよ?」ロンがぶっきらぼうに言った。
「違うわ」ハーマイオニーはきっぱりと言った。今日のホグズミードのことだろう――そんなことより、今はハグリッドとバックビークの状況のほうが重要だ。
カナは二人に、湿ってよれたハグリッドの手紙を突き出した。
「なんだよ?」
「ハグリッドからだよ」カナが差し出した手紙を、ハリーが受け取った。ふたりは顔を突き合わせてそれを読み――そうして、ようやく状況を理解したらしい。
「こんなことってないよ」ハリーが呆然と、怒りを滲ませて言った。「こんなことができるはずがない。バックビークは危険じゃないんだ」
「ぼくたちがそれを証明した」カナは震えた声を張り上げた。「でも、だめだった――」
ふたたびあふれた涙を、カナは両手で顔を覆って隠した。ハーマイオニーはカナの肩を抱いて、自分も涙を拭いながら言った。
「マルフォイの父親が委員会を脅してこうさせたのよ。あの人がどんな人か知っているでしょう。委員会の連中は怖気づいたんだわ。控訴すればチャンスがある。でも、望みはないと思う・・・・・・なんにも変わりはしない」
「いや、変わるとも」ロンの力強い声だ。カナもハーマイオニーも顔を上げた。「今度は君たちだけじゃない。僕も手伝う」
「ああ、ロン!」
ハーマイオニーはロンの首に抱きついて、堰を切ったように泣き出した。ロンは目を白黒して、オタオタと両手を彷徨わせて――そして、その手はハーマイオニーの頭を不器用に撫でた。
カナは目をぱちくりして、静かに、ハリーと目を見合わせた。
しばらくそうして、やっとハーマイオニーはロンから離れた。
「ロン。スキャバーズのこと、ほんとに、ほんとにごめんなさい・・・・・・」ハーマイオニーはまだしゃくりあげていた。
「ああ――ウン――あいつは年寄りだったし」ロンはハーマイオニーが離れてくれて、心からホッとしたような顔で言った。「それに、ちょっと役立たずだったしな。パパやママが、今度は僕にフクロウを買ってくれるかもしれないじゃないか」
「ロンったら――」ローブの袖で目を拭いながら、カナがあきれた目で見やると、ロンがくたびれた表情で返した。
「カナ。きみも必要以上に長生きするやつを飼ってみれば、僕の気持ちがわかるだろうよ」
厳しい監視のなか、ハグリッドと話すチャンスは、「魔法生物飼育学」の授業中くらいなものだった。
「ハグリッド」
玄関ホールで、生徒の到着を待っている大きな背中に向かって、カナが駆け寄って声をかけた。柳の枝のように緩慢に振り返ったハグリッドは、ぼーっと遠くを見ながら放心状態だった。
「ああ――カナ・・・・・・すまねえな」
「謝らないで」
カナもなんと声をかけるべきかわからなかった。落ち込んだ肩が、大きいはずの体をひと回り小さく見せていた。授業中も、ハグリッドは放心状態で――とても講義と呼べるような時間にはならなかった。
「みんなおれが悪いんだ」
終業のベルが鳴り、クラスのみんなを城へと送り届けながら、ハグリッドはカナやハーマイオニーに語りかけた。
「舌がもつれっちまって。みーんな黒いローブを着込んで座ってて、そんでもっておれはメモをボロボロ落としっちまって・・・・・・カナが探してくれた、ペットとして生きたヒッポグリフと飼い主の名前も、ハーマイオニー、おまえさんが教えてくれたいろんなもんの日付も忘れっちまうし。そんで、そのあとルシウス・マルフォイが立ち上がって、やつの言い分をしゃべって、そんで、委員会はあいつに『やれ』と言われた通りにやったんだ・・・・・・」
「まだ控訴がある!」ロンが熱を込めて言った。「まだ諦めないで。僕たち、準備してるんだから!」
団体の前のほうで、クラッブとゴイルを引き連れたマルフォイが、チラチラと後ろを振り返ってはせせら笑っているのが見える。
「ロン、そいつぁダメだ」玄関ホールにたどり着くなり、ハグリッドは悲しそうに言った。「あの委員会はルシウス・マルフォイの言うなりだ。おれはただ、ビーキーに残された時間を思いっきり幸せなもんにしてやるんだ。おれは、おれは、そうしてやらにゃ・・・・・・」
「ハグリッド!」
カナの静止もむなしく、ハグリッドはハンカチに顔を埋めて、丸太小屋へと走り去ってしまった。
「見ろよ、あの泣き虫を!」
マルフォイたちが、扉のすぐ裏側で聞き耳を立てていた。
「あんなに情けないものを見たことがあるかい! しかも、あいつが僕たちの先生だと」
カナも、ハリーもロンも、怒りで肩を上げ、拳を、杖を振りかざそうとした――しかし、今回ばかりはハーマイオニーが速かった。
バシッ!――いっそ気持ちいいほどの乾いた音が、ホールに響いた。ハーマイオニーが、マルフォイの横面を思いっきり張り飛ばしたのだ。マルフォイは力無くよろめいた。その場にいた全員が、あのクラッブとゴイルでさえ、呆気にとられて突っ立っていた。ハーマイオニーはもう一度手を振り上げた。
「ハグリッドのことを情けないだなんて、よくもそんなことを! この汚らわしい――この悪党――」
「ハーマイオニー!」
ロンがおろおろしながら、ハーマイオニーの振りかぶった手を押さえた。
「ロン、放して!」
ハーマイオニーが興奮して杖を取り出そうとしたので、カナもあわててハーマイオニーの前に出た。その後ろで、マルフォイは後退りし、クラッブとゴイルも困り果ててマルフォイを見た。
「行こう」
マルフォイがそう言うと、三人は地下牢に続く階段へと逃げていった。ハーマイオニーはやっと腕を下ろした。
「マーリンの髭――ハーマイオニー!」ロンがたまげたような、感動したような、うわずった声を出した。
「ハリー、クィディッチの最終戦で、何がなんでもあいつをやっつけて!」ハーマイオニーは髪を膨らませながら言った。「絶対に、お願いよ。スリザリンが勝ったりしたら、私、とっても我慢ならないから!」
「ほら、ハーマイオニー。もう『呪文学』の時間だ。早く行かないと――」ロンがまだもの珍しそうにハーマイオニーを眺めながらも、なだめるように促した。
四人は大理石の階段を駆け上がり、急いで教室へ向かった。
「三人とも、遅刻ですよ!」
フリットウィック先生がそう咎めた瞬間、カナはパッと後ろを振り返った。ハーマイオニーがいない。
「ハーマイオニーは?」席につきながら、カナはふたりにそう尋ねた。
「変だな。さっきまで一緒にいたのに・・・・・・」
「トイレにでも行ったんじゃないか?」
「そうかなぁ・・・・・・」
三人のささやきはフリットウィック先生にかき消された。
「さあ、早くお入り。そして杖を出して。今日は『元気の出る呪文』の練習ですよ! 二人組のペアになって――」
カナはネビルの隣へと座った。教室をぐるりと見回してもハーマイオニーはいなかった。フリットウィック先生の指示に従ってみんなが杖をふるうと、たちまち、教室中は「元気の出る呪文」のせいでニコニコの笑顔で満たされた――カナだけはネビルの呪文が失敗して、怒り出してしまったので、フリットウィック先生が魔法を上書きしてくれたけれど――どれだけ授業が進んでも、ハーマイオニーは現れなかった。
「ハーマイオニーにも『元気の出る呪文』が必要だったのに」
授業が終わり、みんなが満足そうに笑顔で昼食へと降りるとき、ロンがそう言った。
「なんだ。ロンもハーマイオニーのこと、気にしてたんだね」カナがニコニコしながら言うと、ロンもニコニコ顔で言った。
「そりゃ、あいつがあんなにおっかないのも、その、取り乱したのも、勉強のしすぎだ。ストレスだよ。うん。よっぽど疲れてるに違いないね」
三人はそこまで重大だとは思っていなかった――ハーマイオニーが授業を欠席するなんて、よっぽど重大なのだけれど、「元気の出る魔法」は判断力を鈍らせた。
とうとう、ハーマイオニーは昼食にも姿を見せなかった。デザートのアップルパイを食べ終えるころになると、呪文の効果も切れてきて、ようやく三人はハーマイオニーのことが心配になってきた。
「マルフォイがハーマイオニーになんかしたんじゃないだろうな?」
「そんなことできる?」カナがハリーに顔を向けると、肩をすくめていた。
「仕返しなんてしたら、自分が笑いものになるだけだと思うね。マグル生まれにビンタされてのこのこ逃げたなんて、あいつらにとっては恥ずかしいことだろうから」
グリフィンドール塔へと急ぎ足で向かい、トロールの間を通り、「フリバティジベット」の合言葉で談話室へと入ったとき、三人は目を疑った。
ハーマイオニーはそこにいた。いつものテーブルに「数秘術」のぶあつい教科書を開き、それを枕代わりにして、突っ伏してすやすやと眠っていた。
カナがそっと肩を叩くと、ハーマイオニーはパッと顔を上げた。
「三人とも――どうしたの?」
ハーマイオニーは驚いて目をパチパチと瞬き、辺りをきょろきょろ見回した。
「もう授業の時間? 今度は、な――なんの授業だっけ?」
「『占い術』だ」ハリーが言った。
「それに、『マグル学』もね」カナが付け足した。
「でも、休み時間はまだ二十分ある。ハーマイオニー、どうして『呪文学』に来なかったの?」
ハリーが尋ねると、ハーマイオニーは口をぽかんと開いて、「えっ? あーっ・・・・・・」と口に手を当てた。「『呪文学』に出席するのを忘れちゃった!」
「だけど、忘れようがないだろう?」ロンが言った。「教室のすぐ前まで僕たちと一緒だったのに!」
「なんてこと」ハーマイオニーは泣きそうになっていた。「フリットウィック先生、怒ってらした? ああ、マルフォイのせいよ。あいつのことを考えてたら、ごちゃごちゃになっちゃったんだわ」
「ねえ、ハーマイオニー」カナがゆっくりと言った。「もうとっくに無理を超えてるって思わない?」
「カナの言う通りさ」ロンも援護した。「君はパンク状態なんだ。一度にいろんなことをやろうとして」
「そんなことないわ!」ハーマイオニーは目にかかった髪をはらい、焦ったように膨れ上がった鞄の中を漁った。「ちょっとミスしたの。それだけよ! 私、いまからフリットウィック先生のところへ行って、謝ってこなくちゃ・・・・・・ふたりとも、『占い術』の教室でまたね! カナも『マグル学』でね」
カナは「マグル学」の教室への道すがら、ガートにさっきのできごとを話した。
「グレンジャーもなにか秘密を隠してるんだろうね」
ガートはにこやかに笑った。
「そんなことより、カナ――今日の夜は霧が深いよ。今夜か、明日、チャンスだよ」
そうなのだ。ガートもすっかり「アニメーガス」の薬品の準備を済ませている。いよいよ実行のときが来たのだ。
「あたしはいつもの部屋を使ってるけど、あんたは森まで行くの?」
「だって、あそこに隠しちゃったし」
同時に、カナはパッドのことを思い出して、寂しい気持ちになった。
「ま、止めないけどさ。気をつけなよね。なんならついていってあげようか?」
「いいよ。それに、誰かに見られたら意味ないんだから」
教室の扉を潜った瞬間、カナとガートのことを追い抜いていく生徒がいた。ハーマイオニーだ。
ハーマイオニーはひどく乱雑に鞄を机に置き、後ろの戸棚のおもちゃたちがぐらぐらと揺れるはめになっていた。
「ハーマイオニー、どうしたの?」
また、マルフォイになにか言われたのだろうか――とカナが心配していると、ハーマイオニーはひどく憤慨して鼻を膨らませた。
「『占い術』をやめてきたの。ああ、せいせいしたわ」
カナはあんぐりと口を開いたけれど、その後ろでガートはケラケラと笑っていた。だって――「占い術」の授業にこれから向かうと言っていたではないか。
ハーマイオニーは「マグル学」のノートをせっせと広げながら続けた。
「あんなにくだらない授業に時間を使うくらいなら、『元気の出る魔法』の遅れを取り戻すのに使いたかったわ。きっと試験に出るわよ。フリットウィック先生が、そんなことをチラッとおっしゃったの」
「十二科目も履修するなんてなかなか苦労するね、グレンジャー」
ハーマイオニーはカナの奥に座るガートをチラリと見た。
「ええ。十一科目にたった今減ったけれど」
「あんたなら『十二ふくろう』取れただろうに」
「べつに、いいの。有意義なことをしたいから」
「まったく同意見だよ」
カナはつくづく思うけれど――ガートとハーマイオニーはきっと気が合う。会話のテンポがすばらしく滑らかなのだ。寮が同じなら、きっと良い友人になれただろう。
その日の夜――イースター休暇を目前にして、三年生にはかつてないほど大量の宿題が出されていた。みんなが頭を抱え、カリカリと神経を尖らせる中、カナは別のことで心臓がきしんでいた。
雲がゴロゴロと低く唸っていた。雷だ。じきに雨も降るだろう――カナは深夜に寮を抜け出すか、明日の日中に賭けるか悩んでいた。チラッとアリシアにも聞いてみた。
「明日は雨が降るかな?」
「夜は雷雨だって聞いたけど。明日の朝にはおそらく止んでるわ。オリバーが念入りに調べてたから間違いないと思う」
アリシア含むクィディッチ・チームのメンバーは、最後の追い上げとばかりにキャプテンのオリバーが厳しい練習を設けていた。カナも毎日見守っているのでよくわかる。それに、五年生は今年、「O.W.L試験」を控えていた。試験勉強に、練習に――頭も体も酷使して、へとへとに疲れているようだった。アンジーも「あまりよく眠れない」とぼやいていた。医務室に通うほどでは無いようだけれど、詰め込み過ぎたハーマイオニーの姿が、ふたりに重なって見えた。
「アリシア、アンジー。ぼくに三日ちょうだい。睡眠に良い薬を知ってるんだ」
カナだって試験勉強をしなければならないというのに、呑気なものだった。
寝室でこれまでの魔法薬の書き取りをひっくり返していると、いつのまにか夜が更けていた。「弛緩薬」と「乳児の催眠粥」の項を参考にして作ったレシピを走り書きして、カナは羊皮紙の束を閉じた。窓を見ると、ざらざらとそれなりの雨が屋根を打つ音が聞こえてきた。
同室のメンバーはみんなベッドに入ったようだ――ハーマイオニーのベッドからだけは明かりが漏れていたけれど――カナはトイレにでも行くふりをして、そっと寝室を出た。
談話室に誰もいないことを確認して、カナは階段を降りた。「フーッ」と息を吐いてから、「ディシルーシオ」ですっかり透明になり、窓に自分の姿が反射していないことを確認して、談話室を出た。
「太った婦人」の寝言をやり過ごし、いびきをかいたトロールの間をそーっと通り抜けながら、カナは階下へ降りていく。マントかなにか羽織るべきだったかな――と、丈の合わなくなってきたシュミーズだけで出てきてしまったことを後悔したけれど、戻って「婦人」を起こしてしまうのはやっかいなことになりそうだったので、あきらめた。
手の中に例の隠し戸の錠前の鍵をしっかり握り、カナはいよいよ玄関ホールの扉を少しだけ開けて身を滑らせた。ごろごろと雷鳴を響かせながら雨を降らす空を見上げた。
今回で最後だ。そして、パッドはもういない――カナはもう一度深く息を吐き、雨の中へと踏み出した。
びちゃびちゃと足音はしたけれど、この雨だ。バレずに「禁じられた森」にたどり着けるだろう――吸魂鬼の存在も、近くには感じない。カナは勇気を振り絞って歩いた。やっぱり、マントを持ってくるべきだった。
ハグリッドの小屋を迂回して、ようやく、いつもパッドと落ちあっていた森の入り口へと到着した。カナは「ルーモス」で杖を灯した――自信はないけれど、行かなくては。
二度目の道は、比較的思い出せていた。あれはパッドがやっつけてくれたうねる根だ。カナは「グレイシアス」で根を凍らせつつ、雨でぬかるんだ地面に気をつけながら、慎重に歩いた。
――そして、どのくらい歩いたんだろう。濡れて冷え切った体は震えてきた――もしかしたら迷ってしまったのかも知れない――チャレンジは無謀だったかも知れない。あきらめた方がよかったのかもしれない。せめて、ガートに着いてきてもらえばよかったかもしれない――助けを呼ぶにはどうしたらいいだろうか、木立のあいだから魔法火を飛ばせば、先生たちは誰か気づいてくれるだろうか――などと考えていたときだ。
カナはわずかに開けた場所に出た。ここは、見覚えがある。カナは、ひときわ大きな木に駆け寄った。そのうろについた錠前は閉じている。カナは魔法で解錠し、二つ目の扉に鍵を差して回した。雨で濡れてひどく手こずったけれど――開いた。
取り出した瓶の中身は、数か月前とは全く違う姿をしていた。暗闇のなかでもじゅうぶんにわかるほど真っ赤に濁り、闇のなかでわずかにきらめいていた。カナは、そのあやしい光に見惚れながらも、ふるえる手で瓶のコルクを抜いた。息を吐き、吸い、毎日そうしているように杖を胸に突き立てた。
「アマト・アニモ・アニマト・アニメーガス」
カナは思いっきり瓶をひっくり返し、中身を飲み干した。ひどい味だ。どろりと固まった血のような、野草のような、泥水のような――ドクドクと、拍動があたまを揺らした。間もなく、心臓を鷲掴みにされたような痛みが起こり、カナは半分叫ぶようにうめいた。瓶が手から滑り落ち、地面に落ちて砕けた。
あまりの苦痛にからだを起こしていられなくて、木のうろの前で身を折りたたんだ。うめきながら短く息を吐き出すことしかできず、頭がくらくらと揺れ、目の前が霞んでいく――カナはとうとう、横倒れになって、胸をつかみ、のたうちまわった――
カナは意識を保っていた。雷雨の「禁じられた森」のど真ん中で、ずぶ濡れの泥だらけで、手足を開いて仰向けに倒れていた。まだ、ドクドクと脈打っているのは感じるけれど――ゆっくり息をつけるほどには落ち着いてきた。カナは身を起こす。ひどいありさまだ。でも――これは成功したと言えるのだろうか。カナは何の動物にも変化していない。どうすれば変化できるのかもわからない――
見回して、カナは手探りで杖を探した。どこに落としたのだろう。隠し戸に近寄ると――割れた瓶のガラスに触れたりもしたけれど、気にせず、そして見つけた。カナはひとまず明かりをつけようとした。
「ルーモス」
そして、引き攣った悲鳴が喉から出た。なぜなら、目の前に半人半馬の生物――ケンタウルスがいたからだ。全身、雨に濡れてはいたけれど、明るいブロンドの髪に、たくましい上半身、金茶色の胴をもつ、美しく若いケンタウルスだった。
蹄の音さえしなかった――いや、気づかなかったのかもしれない。彼は言葉を失ったカナに、跪いた。
「こんなところにいつまでも居てはいけない。エリオットの娘」
宝石のようにきらめく青の瞳は、憂いをたたえて、じっとカナのことを観察していた。
「どうしてぼくの名を?」
カナがかすれた声で聞いた。ケンタウルスは首を振った。
「私の名はフィレンツェだ。この森は危険だ。早く戻りなさい、ホグワーツへ――私に乗れるかい。その方が速いし、安全だから」
フィレンツェはカナを背中に乗るように促した。カナはおずおずと金色のたてがみの上に乗り上げた。
「あの、どうしてぼくを助けてくれるの」
フィレンツェがゆっくり立ち上がり、カナのことを振り返らず言った。
「われわれの、この世界の未来のためです」
「未来のため?」
フィレンツェは緩やかにスピードを上げた。カナが数時間かけて歩いた道を、難なく、飛ぶように駆けていく。
「あなたを守りたいのです。それに、あなたをこうして背中に乗せたのは、初めてではない」
「そうか――」カナはため息のように言った。「二年前、あなたがぼくを運んでくれたんだ」
「あの時は、ハリー・ポッターがあなたを見つけた」フィレンツェは嬉しくも悲しくもない調子で言った。「惑星があなたの存在を指し示している。でも、気をつけた方がいいでしょう。運命なんて、予言なんて、どんなふうにも捻じ曲がる。私たちにできるのは、最善を考え、選ぶことだけ」
フィレンツェの言っていることは難解で、カナにはよくわからなかった。
「私の仲間は天に逆らわないと誓った。もしも今夜あなたを見つけたのが私の仲間であれば、あなたが害をなさないと分かり次第、立ち去ったでしょう。彼らは人間に関わるのを嫌う」
「ケンタウルスは秘密主義だって、聞いたことがあるよ」
「私たちはこの森を守る者です。森の秘密を守るのは当然。しかし、いずれこの森が脅かされるのならば、私はそれに立ち向かう。必要ならば人間とも手を組む。そう誓ったのです」
カナは、雨に打たれた体のせいか、それ以外か――わずかに身震いした。
「怖い話ばかり、するんだね」
「われわれは星の導きに従うまで。思慮深い魔法使いや魔女は、予言すらうまく使うでしょう。盲信するのではなく」
緩やかにスピードを落とし、立ち止まると、フィレンツェはようやくカナのことを振り返った。いつのまにか森の入り口に辿り着いていた。すでに雨は小降りになっていた。
フィレンツェは前脚を折り曲げ、カナが降りやすいよう屈んでくれた。カナは背中から滑り降りた。
「フィレンツェ、ありがとう」
「危険なことは避けて。あなたの家族が悲しむ」
カナはどきりとして――フィレンツェの青い目が見る方向に振り向いた。ああ、後悔しても遅い。
リーマスが、静かに怒りを放ちながらそこに立っていた。
20240727